
織田作之助が1947年(昭和22)1月に死去し、未亡人となった織田昭子(旧姓・輪島昭子)が下落合4丁目2096番地(現・中井2丁目)の、林芙美子邸に寄宿していたのは1947年(昭和22)4月から、1948年(昭和23)10月までの1年半だった。太宰治が、織田の葬儀を終えた精進落としの席で、三鷹町下連雀113番地の自宅近くに住む、独立美術協会の桜井浜江アトリエへ彼女を連れていこうとするのを、林芙美子が横から強引に下落合へ連れてきたといわれる。
織田昭子が、太宰治に“勧誘”されているのを知ると、林芙美子は「昭子さん、そんなことしたら二人の作家を傷つけることになるから私の家へいらっしゃい」と、横から彼女に勧めたようだ。扇谷正造は、「それ林さんのヤキモチじゃないかな」(扇谷正造『あしたはあしたの風が吹く』1973年/産業能率短期大学出版部)と見抜いていたようだが、はたして織田昭子が林家に寄宿してからも、太宰治は就職口を紹介するという名目で、何度も下落合へ足を運んでいる。
輪島昭子は、第一東京市立高等女学校(現・深川高等学校)を卒業すると、演劇をめざし新協劇団に参加して舞台女優の道に入った。舞台で演技をつづけているうち、大映の目にとまり映画女優「築地燦子」としてデビューしている。井上演劇道場に通うかたわら、織田作之助と知りあって戦争末期の1944年(昭和19)に結婚し、わずか4年弱で結核に罹患していた夫と死別している。余談だが、井上演劇道場で彼女は松本克平の先輩俳優にあたる。
その葬儀の席から、太宰治はどうやら織田昭子のことが気になって気になってしかたがなかったようだ。織田作之助の遺族が、精進落としの席で織田昭子を妻として認めようとしなかったことに対し、「そんなこと言うなら昭子さんは俺が引き受ける」(渡辺淳一『華麗なる年輪』1986年/角川書店)と啖呵をきったらしい。このとき、織田家の親戚から嫌な言葉を投げられていた織田昭子は、太宰治がずっと背中をやわらかくたたいてくれていたのを憶えている。
林芙美子に引きとられてからは、太宰治は下落合にいる織田昭子をしばしば訪ねては、就職口のあっせんをして、生活の独立を強く執拗に勧めている。その様子を、前掲書の『あしたはあしたの風が吹く―扇谷正造対談集―』収録の、彼女へのインタビューから引用してみよう。
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太宰さんは、私が林さんのうちにいたときに、ある日「君は、働かなくちゃいけない、林芙美子の翼の下に隠れて、モヤシみたいにしてちゃいけない」ということをいいにいらしたの。そのときおっしゃった言葉が「今、街の女は、一足八百円のナイロンの靴下のために身を売ってるんだ。君は病人でもないし健康だし、若いし、なぜ出ていって働かないの、自分の人生があるじゃないかっていうの。こうやって天下の林芙美子に可愛がられて、これだけすてきなうちでヌクヌクと暮らしてるってのはね、ぼくは非常に不本意だ」って林さんの前でおっしゃるわけなんですよ。(中略) いわゆる自分でね、ごはんを食べるという、そういう生活をしなきゃダメだ。人間は、どういうふうにして生きなきゃならないかとか、あなたは、どうした方がいいとか……(後略)。
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織田昭子が、早くひとり暮らしになるのを待ちかねている、林芙美子が見透かして危惧していたように、下心が丸見えな太宰治の言動だった。彼は、実際に織田昭子を林邸から連れだしては、中央公論社の社長・嶋中雄作へ紹介して仕事を依頼するなどしている。このときは、いまだ「新潮」で『斜陽』の連載はスタートしておらず、山崎富江も登場していない時代だった。
織田昭子が、太宰治に“勧誘”されているのを知ると、林芙美子は「昭子さん、そんなことしたら二人の作家を傷つけることになるから私の家へいらっしゃい」と、横から彼女に勧めたようだ。扇谷正造は、「それ林さんのヤキモチじゃないかな」(扇谷正造『あしたはあしたの風が吹く』1973年/産業能率短期大学出版部)と見抜いていたようだが、はたして織田昭子が林家に寄宿してからも、太宰治は就職口を紹介するという名目で、何度も下落合へ足を運んでいる。
輪島昭子は、第一東京市立高等女学校(現・深川高等学校)を卒業すると、演劇をめざし新協劇団に参加して舞台女優の道に入った。舞台で演技をつづけているうち、大映の目にとまり映画女優「築地燦子」としてデビューしている。井上演劇道場に通うかたわら、織田作之助と知りあって戦争末期の1944年(昭和19)に結婚し、わずか4年弱で結核に罹患していた夫と死別している。余談だが、井上演劇道場で彼女は松本克平の先輩俳優にあたる。
その葬儀の席から、太宰治はどうやら織田昭子のことが気になって気になってしかたがなかったようだ。織田作之助の遺族が、精進落としの席で織田昭子を妻として認めようとしなかったことに対し、「そんなこと言うなら昭子さんは俺が引き受ける」(渡辺淳一『華麗なる年輪』1986年/角川書店)と啖呵をきったらしい。このとき、織田家の親戚から嫌な言葉を投げられていた織田昭子は、太宰治がずっと背中をやわらかくたたいてくれていたのを憶えている。
林芙美子に引きとられてからは、太宰治は下落合にいる織田昭子をしばしば訪ねては、就職口のあっせんをして、生活の独立を強く執拗に勧めている。その様子を、前掲書の『あしたはあしたの風が吹く―扇谷正造対談集―』収録の、彼女へのインタビューから引用してみよう。
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太宰さんは、私が林さんのうちにいたときに、ある日「君は、働かなくちゃいけない、林芙美子の翼の下に隠れて、モヤシみたいにしてちゃいけない」ということをいいにいらしたの。そのときおっしゃった言葉が「今、街の女は、一足八百円のナイロンの靴下のために身を売ってるんだ。君は病人でもないし健康だし、若いし、なぜ出ていって働かないの、自分の人生があるじゃないかっていうの。こうやって天下の林芙美子に可愛がられて、これだけすてきなうちでヌクヌクと暮らしてるってのはね、ぼくは非常に不本意だ」って林さんの前でおっしゃるわけなんですよ。(中略) いわゆる自分でね、ごはんを食べるという、そういう生活をしなきゃダメだ。人間は、どういうふうにして生きなきゃならないかとか、あなたは、どうした方がいいとか……(後略)。
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織田昭子が、早くひとり暮らしになるのを待ちかねている、林芙美子が見透かして危惧していたように、下心が丸見えな太宰治の言動だった。彼は、実際に織田昭子を林邸から連れだしては、中央公論社の社長・嶋中雄作へ紹介して仕事を依頼するなどしている。このときは、いまだ「新潮」で『斜陽』の連載はスタートしておらず、山崎富江も登場していない時代だった。



織田昭子が、織田作之助と暮らしていたのは“妻”というよりも、彼の生き方そのものにあこがれていたようだ。文才があって、カネはあるだけすぐにつかってしまい、なにものにもとらわれず世の中を自由奔放に生きていく生活に、若かった彼女は憧憬をおぼえたらしい。だから、「一日も早く私はこの人を卒業してしまいたい」(前掲書)と考えていた。つまり、夫を超える人間になりたいと思っていたようだ。だから、織田が彼女の気に食わないことをしても、才能があるから仕方がないと思っていたらしい。太宰治が織田家の親戚からいくらかばってくれたとしても、「いい女房ではないから、親戚にどう悪くいわれてもしかたがないんです」とも述懐している。
太宰治が、何度目かの林邸を訪問したのは、夜が明けたばかりの早朝だった。以下、そのときの様子を渡辺淳一『華麗なる年輪』に収録された織田昭子の証言から、少し長いが引用してみよう。
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徹夜明けの早朝に、真っ青な顔して林さんのとこへ来たわけ。彼、三鷹だから東中野まで来て下落合まで歩いてきて、「昭子さんのことについて林さんに相談があります」って言うの。林さんも徹夜明けで寝たばかりなんで、ご主人が出て応対してくれて、「いずれ芙美子とはからいますから」と言って、私に「せっかく太宰さんが来てくれたんだから東中野まで送って行きなさい」って言ってくれたのね。(中略)/それで太宰さんは軍隊靴はいてるのね。その重い靴を引きずって、トボトボトボトボ駅まで二人で歩いて行ったことがとても印象にあるわ。「これからどうするつもり?」なんてきかれても私は織田に死なれたばかりで、はっきり返事もできないままにね。このひとときは生涯忘れないだろう、と思いながらなるべくゆっくり歩いて駅に早く着かないように…。(中略)/ご自分でもかなり意識してて、左横顔の四十五度くらいの角度に自信があったのね。だからいつも斜に構えるわけ。織田のお通夜の晩もずっと私にその角度を向けっ放しでしたよ。(笑)/その長い指を巧妙に使って右側の顔を削るのね、太宰さんは…。振り返るときもちゃんと左のほうから。
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「ウワッ、まるで宝塚の舞台みたいじゃん!」と、このテの男子が大キライな女子には、ムシズが走るかもしれない証言だけれど、片頬を手で隠し盛んに格好のいいポーズをとりながら、「クッション・ボール」(織田昭子談)を彼女へ投げつづけていたようだ。確かに、薄幸そうないい女がいると、ついつい前後の見境なく同情が恋情に変わってしまう男は、世間に一定数はいると思う。
太宰治が、何度目かの林邸を訪問したのは、夜が明けたばかりの早朝だった。以下、そのときの様子を渡辺淳一『華麗なる年輪』に収録された織田昭子の証言から、少し長いが引用してみよう。
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徹夜明けの早朝に、真っ青な顔して林さんのとこへ来たわけ。彼、三鷹だから東中野まで来て下落合まで歩いてきて、「昭子さんのことについて林さんに相談があります」って言うの。林さんも徹夜明けで寝たばかりなんで、ご主人が出て応対してくれて、「いずれ芙美子とはからいますから」と言って、私に「せっかく太宰さんが来てくれたんだから東中野まで送って行きなさい」って言ってくれたのね。(中略)/それで太宰さんは軍隊靴はいてるのね。その重い靴を引きずって、トボトボトボトボ駅まで二人で歩いて行ったことがとても印象にあるわ。「これからどうするつもり?」なんてきかれても私は織田に死なれたばかりで、はっきり返事もできないままにね。このひとときは生涯忘れないだろう、と思いながらなるべくゆっくり歩いて駅に早く着かないように…。(中略)/ご自分でもかなり意識してて、左横顔の四十五度くらいの角度に自信があったのね。だからいつも斜に構えるわけ。織田のお通夜の晩もずっと私にその角度を向けっ放しでしたよ。(笑)/その長い指を巧妙に使って右側の顔を削るのね、太宰さんは…。振り返るときもちゃんと左のほうから。
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「ウワッ、まるで宝塚の舞台みたいじゃん!」と、このテの男子が大キライな女子には、ムシズが走るかもしれない証言だけれど、片頬を手で隠し盛んに格好のいいポーズをとりながら、「クッション・ボール」(織田昭子談)を彼女へ投げつづけていたようだ。確かに、薄幸そうないい女がいると、ついつい前後の見境なく同情が恋情に変わってしまう男は、世間に一定数はいると思う。



上の文中で、太宰治に応対した「ご主人」とは、画家の手塚緑敏のことだ。渡辺淳一も「林さんのご主人の、男の優しさですな」と発言しているように、彼についてのさまざまな証言を聞くたびに、よく気がつく性格のよい優しい男だったのだと感じる。ただ、連れ合い選びをまちがえただけだ。(爆!) いつだったか、三岸節子が林芙美子の本の装丁か挿画の相談に下落合の家を訪れたときも、手塚緑敏がボロクソにいわれるやり取りを聞いてそう感じたかもしれない。
女子やカメラには、向かって左横顔45度しか見せない太宰治のポーズは、織田作之助が生きていたときからそうだったらしい。織田家にやってくると、彼女には左横顔45度で接していたようだ。その様子を、扇谷正造『あしたはあしたの風が吹く』のインタビューから、再び引用してみよう。
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織田の生きているころに“歓楽極まりて哀情多し”という座談会を平野謙さんが司会して、太宰さんと、坂口さんと、織田とで話したんです。その帰りにうちへ、といっても、織田が喀血した宿屋へおみえになった。太宰さんはシャイな方ですからね。顔は左側しかお見せにならないんです。私がどっちへ座っても左側。(中略)/あとで文章を読んでわかったんです。写真を撮るときでも、この角度でなければいやだっていう。
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文中の「坂口さん」は、下落合の矢田津世子を追いかけていた坂口安吾のことだ。
織田昭子は結局、太宰の誘いには乗らずに彼が玉川上水で入水後、1948年(昭和23)10月に下落合を離れ、林芙美子の紹介で新宿駅東口の中村屋裏のハモニカ横丁にあった「ととやホテル」バーの雇われマダムになっている。そこで1年半ほど修業したあと、銀座のサロンの雇われマダムとなり、1954年(昭和29)には銀座のバー「アリババ」を経営するマダムにおさまった。
1951年(昭和26)年7月1日、林芙美子の葬儀に出席した織田昭子は、とある女性から「あき子さんは、林さんのアクセサリイだったのネ……悲しいでショ」(織田昭子『マダム』三笠書房/1956年)といわれ立腹している。彼女は、そのような女子ではなかったようだ。「アリババ」に通ってきていた三島由紀夫は、恰幅がよくなった織田昭子を見て「『若いころの昭子さんは腕時計だった』それから、ちょっと間をおいて『今は柱時計』(笑)」(『あしたはあしたの風が吹く』)と評している。
女子やカメラには、向かって左横顔45度しか見せない太宰治のポーズは、織田作之助が生きていたときからそうだったらしい。織田家にやってくると、彼女には左横顔45度で接していたようだ。その様子を、扇谷正造『あしたはあしたの風が吹く』のインタビューから、再び引用してみよう。
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織田の生きているころに“歓楽極まりて哀情多し”という座談会を平野謙さんが司会して、太宰さんと、坂口さんと、織田とで話したんです。その帰りにうちへ、といっても、織田が喀血した宿屋へおみえになった。太宰さんはシャイな方ですからね。顔は左側しかお見せにならないんです。私がどっちへ座っても左側。(中略)/あとで文章を読んでわかったんです。写真を撮るときでも、この角度でなければいやだっていう。
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文中の「坂口さん」は、下落合の矢田津世子を追いかけていた坂口安吾のことだ。
織田昭子は結局、太宰の誘いには乗らずに彼が玉川上水で入水後、1948年(昭和23)10月に下落合を離れ、林芙美子の紹介で新宿駅東口の中村屋裏のハモニカ横丁にあった「ととやホテル」バーの雇われマダムになっている。そこで1年半ほど修業したあと、銀座のサロンの雇われマダムとなり、1954年(昭和29)には銀座のバー「アリババ」を経営するマダムにおさまった。
1951年(昭和26)年7月1日、林芙美子の葬儀に出席した織田昭子は、とある女性から「あき子さんは、林さんのアクセサリイだったのネ……悲しいでショ」(織田昭子『マダム』三笠書房/1956年)といわれ立腹している。彼女は、そのような女子ではなかったようだ。「アリババ」に通ってきていた三島由紀夫は、恰幅がよくなった織田昭子を見て「『若いころの昭子さんは腕時計だった』それから、ちょっと間をおいて『今は柱時計』(笑)」(『あしたはあしたの風が吹く』)と評している。



織田昭子は、よく林邸を訪れる三岸節子とも顔なじみだった。林芙美子が絵を描き、女流アンデパンダン展へ出品していた関係からだ。のち、銀座にあった「アリババ」で、「男なんてゴミみたいなもんよ」といって飲んだくれていたらしい三岸節子だが、それはまた、別の物語……。
◆写真上:カウンター越しに微笑む、銀座「アリババ」のマダム・織田昭子(AI着色)。
◆写真中上:上は、得意の革ジャンを着てバーで飲む織田作之助。中は、大映の映画女優時代に撮影されたとみられる築地燦子(織田昭子/AI着色)。下は、織田作之助の葬儀から4か月後の1948年(昭和23)8月に下落合の林邸にて林芙美子と織田昭子(AI着色)。
◆写真中下:上は、1948年(昭和23)5月27日に林邸にて織田昭子(後列中央)。前列左から林芙美子、養子の泰、笠置シヅ子、加藤治子、後列左から大泉黒石の四女・大泉淵、織田、藤井田鶴子。中は、1971年(昭和46)出版の織田昭子『わたしの織田作之助―その愛と死―』(サンケイ新聞社/左)と織田作之助(右)。下は、1947年(昭和22)春に撮られた映画女優・関千恵子にお酌してもらう、女子には常に向かって左顔斜め45度を向ける太宰治(AI着色)。
◆写真下:上は、1956年(昭和31)に出版された織田昭子の小説『マダム』(三笠書房/左)と、「腕時計」から「柱時計」になった織田昭子(右)。中は、1957年(昭和32)に公開された『マダム』(監督・阿部豊/日活)。下は、『マダム』のワンシーンだがどことなく太宰治風の男も登場している。女子が右側に座っているなら、彼は左顔斜め45度を見せるためにうしろを向かなければならない。
◆写真中上:上は、得意の革ジャンを着てバーで飲む織田作之助。中は、大映の映画女優時代に撮影されたとみられる築地燦子(織田昭子/AI着色)。下は、織田作之助の葬儀から4か月後の1948年(昭和23)8月に下落合の林邸にて林芙美子と織田昭子(AI着色)。
◆写真中下:上は、1948年(昭和23)5月27日に林邸にて織田昭子(後列中央)。前列左から林芙美子、養子の泰、笠置シヅ子、加藤治子、後列左から大泉黒石の四女・大泉淵、織田、藤井田鶴子。中は、1971年(昭和46)出版の織田昭子『わたしの織田作之助―その愛と死―』(サンケイ新聞社/左)と織田作之助(右)。下は、1947年(昭和22)春に撮られた映画女優・関千恵子にお酌してもらう、女子には常に向かって左顔斜め45度を向ける太宰治(AI着色)。
◆写真下:上は、1956年(昭和31)に出版された織田昭子の小説『マダム』(三笠書房/左)と、「腕時計」から「柱時計」になった織田昭子(右)。中は、1957年(昭和32)に公開された『マダム』(監督・阿部豊/日活)。下は、『マダム』のワンシーンだがどことなく太宰治風の男も登場している。女子が右側に座っているなら、彼は左顔斜め45度を見せるためにうしろを向かなければならない。
この記事へのコメント
NO14Ruggerman
落合道人
なんとなく、雰囲気が似ているふたりですね。織田作之助が大阪出身のせいか、わたしは
キリッとしていない弛緩した佐伯祐三にもどこか似ているように感じます。w
てんてん
落合道人
先日、刺身用のイワシを蒲焼きにしてたべたのですが、目の覚めるような旨さでした。