1950~1978年に撮影された落合地域写真集。(下)

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 1978年(昭和53)に新宿区が出版した、写真集『ガレキの中から、30年のいま……新宿区30年のあゆみ』の、落合地域に関する画像をつづけて見ていこう。今回は、落合地域の東部をとらえた写真類だ。だが、落合地域の東部は山手線も近く、また再開発事業も頻繁に行われており、街の様相はかなり変わっているので、西部ほど昔の風景は残っていない。
 冒頭写真は、戦前から変わらない近衛町岡田邸の門前から、近衛篤麿邸の玄関先にあったふたつの馬車廻しのうち、大きなほうの植えこみの一部をとらえた1978年(昭和53)撮影の写真だが、すでに双子のケヤキ(二本エノキ)の片割れは南側20mほどの位置にに移植されている。学生時代の登下校時に、さんざん眺めた風景だが、懐かしいので大きくフューチャーしてみたしだい。
 敗戦から1978年(昭和53)までの写真に添えられた、タイトル「食べる」の本文から引用しよう。
  
 30年前は、統制・配給、そしてヤミ市・買い出しの時代でした。ガレキの中で、まず生きていくためには食べること。とにかく必死の時代でした。/いま、いちおうモノは豊かにあります。お金さえ出せば、なんでもモノは買える時代です。しかし、消費者の間では、食品添加物など、量ではなく質に対する不安や疑問が広がっています。“豊かさ”の中で、私たちはモノを一方的に与えられて消費するだけでした。しかし、あくまで私たちは生身の人間です。こうした立場から、不安なものに対しては要望を反映させたり、監視の目を光らせるといったことも出来るようになってきました。食べる側の論理が大きく前へ出て来たのです。
  
 新宿区のこの著者には、あくまでも住民(区民)側に立とうとする意志が感じられる。2025年の春から秋にかけ、近くのマンション建設に関するさまざまな課題で、新宿区の建築調整課の某課長とやり取りする機会があったが、まったく建設業者の代弁者・代理人のようで、住民の意向などまったく聞く耳をもっていないかのような、ひどくぞんざいな扱いや印象を受けた。新宿区の職員が区民側の地平に身を置くことなく、いったいどこの立脚点に身を置いてモノをいっているのか? この写真集が、新宿区より出版されてから約50年の歳月が流れたが、上記の文章を借りるとすれば、区職員の「質に対する不安や疑問が(この地域で)広がって」いるのだ。
 また、上掲の「食べる」の文中では、「いちおうモノは豊か」な時代になったとしているが、21世紀に入り“欠食児童”がでた時点で、いかなる弁明や説明を並べ立てようが、現・日本政府は問答無用で即座に「アウト」だ。敗戦直後の餓死者が続出した時代じゃあるまいし、明日をになう子どもたちに“欠食者”が出現するなど国家の恥さらしだと受けとめられない為政者のいる国に、明るい未来などないだろう。それとも、“欠食児童”も「民間」マターで自己責任の範疇・課題だとでも考えているのだろうか? そんな為政者がいるとすれば、同写真集の著者ではないが敗戦後のガレキの中から営々と飢えないように築きあげてきた、社会の仕組みづくりを全否定するに等しいだろう。
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 さて、まずは下落合(現・中落合/中井含む)の見晴坂の丘上から眺めたらしい、1954年(昭和29)ごろの下落合から上落合にかけての眺望写真を見ていこう。眼下の西武新宿線は、大きなカーブを描いて下落合駅方面へつづいており、戦災からようやく復興へのきざしが見えはじめた街並みが写っている。線路沿いの左手に建つ白いビル状の大きめな建築は、警視庁第4予備隊(のち自衛隊)の隊舎だろう。わたしの時代には、同所に学徒援護会の学生会館が建っていた。ここに戦車がやってきたのを、料亭「桃山」の社長からうかがったことがある。下落合駅は、この隊舎のすぐ向こう側だ。線路の右手には、上落合の街並みが拡がっているが、見えている手前の煙突は銭湯「落合湯」(のち「竜の湯」)の煙突で、その向こう側に重なるように見えている高い煙突は、東京護謨ないしは東洋印刷所の工場に建っていたものだろう。
 1978年(昭和53)に撮影された写真は、カメラマンのいる場所の特定が容易だ。左下に新落合橋が写っており、妙正寺川が西武線の鉄橋とクロスする、すぐ東側のマンションのベランダから東を向いて撮影している。このマンション「目白スターハイツ」には、macrobiotique(玄米正食)で有名な桜沢如一・里真夫妻が住んでいた。左手に見えているビルの向こう側には、学徒援護会や下落合駅があるが、遠景のひときわ高いビルは田島橋の北詰めにあった三越染物工場の跡地に建てられた、三越高田馬場マンション(のちプラウド高田馬場)だろう。カメラマンは、1954年(昭和29)の見晴坂あたりからの眺めを撮りたかったのだろうが、すでに住宅やマンションが建ち並んで眺望がきかなくなっていたため、新落合橋ぎわのマンションから撮影したとみられる。ちなみに、3枚目のカラー写真は現在の見晴坂上からの眺めだが、新宿駅周辺の高層ビル群しか見とおせない。
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 つづいては、1954年(昭和29)に撮影された、旧・神田上水(1966年より神田上水+江戸川=神田川)と妙正寺川が合流する地点の写真だ。いまだ両河川の落ち合う地域には草原などが見え、戦災の爪痕が残っている。米軍は、河川沿いの工場地帯や鉄道・幹線道路沿いの物流インフラを中心に、徹底的に爆撃を繰り返している。正面に見える、三角の合流敷地に建っている煙突は、佐藤染色の工場のものだ。その左手には、歩行者専用の私設橋である滝沢橋が架かっており、この橋の南詰めには橋を架けるのに出資した滝沢邸の敷地があるはずだ。
 1978年(昭和53)の写真では、佐藤染色工場はとうになくなり住宅地化しているのが見てとれる。左手に滝沢橋が見えているが、すでにクルマもわたれるよう改修工事がなされたあとだろう。下流の落合橋から撮影しており、左手に写るマンションの北壁は「ヴィップ落合」だ。現在の落合橋から、上流を撮影したのが3枚目のカラー写真だが、神田川の洪水防止対策の改修事業から妙正寺川はここで合流せず、暗渠化されて高戸橋の西側で神田川に合流している。
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 次は、1954年(昭和29)に山手線の鉄橋近くから、旧・神田上水の上流域を撮影したものだ。見えている橋は田島橋であり、右手には「STナフタリン」の商品名が建屋の切妻に見える、ST化学工業(現・エステー)の本社・工場がとらえられている。現在も、エステー本社はこの場所で健在だが、1957年(昭和32)制作の古瀬静夫『下落合風景』に描かれた、田島橋からエステー側へと下る坂道がよくとらえられている。ST化学工業の建屋背後に見えている小さな煙突は、三越染物工場(戦後は三越専属工場)のものだと思われるが、当時は着物や浴衣の需要が急減し、工場の設備を応用してクリーニング工場へと事業転換していたころだろう。
 1978年(昭和53)に撮影された写真は、架橋された清水川橋から上流を撮影している。エステー化学の本社ビルの背後には、すでに三越高田馬場マンションが建設され、田島橋の向こう側には富士女子短期大学(現・東京富士大学)の時計塔が見えている。田島橋から神高橋の一帯は、山手線のガード下で急に川幅が狭まるため氾濫のメッカだった地点だが、落合地域から妙正寺川を暗渠化し下流域で合流するように改修したため、ほぼ洪水の心配はなくなった。
 その次の写真は、1974年(昭和49)7月20日に撮影された氾濫する神田川をとらえたものだ。写っている橋は清水川橋で、すでに水位は橋上まで達して冠水し、あふれた水が北岸の駐車場へ、また手前の栄通り側まで浸水しようとしている瞬間だ。清水川橋の南詰めには、冠水防止の板のようなものが立てられているが、ほとんど効果がなかったのではないか。このときだろうか、神高橋近くにあるビルの地下室が水没したというニュースを憶えている。
 以下のカラー写真2葉は、神田川が氾濫した際に撮影された一帯と、清水川橋から上流を撮影した現在の様子だ。エステー本社ビルの手前に、新宿区が設置した防災スピーカーが見えている。なお、三越高田馬場マンションの跡地には、プラウド高田馬場が建設されていない時期の撮影だ。
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 最後は、写真集『ガレキの中から、30年のいま……新宿区30年のあゆみ』の「街づくり」に掲載されている、「都会のオアシス」というありがちなキャプションが添えられた公園写真だ。1978年(昭和53)に撮影されたとみられるこの公園は、下落合の御留山にある「おとめ山公園」だ。わたしにとってはリアルタイムの情景で、当時は弁天池のそばを通ると、子どもたちが集まって池の中でザリガニ採りや小魚採りをしていた。ちょうど、御留山の谷戸から流れる湧水が、弁天池へと合流する位置から北北東を向いてシャッターを切っている。
 四阿の手前に見えるのが、弁天の祠があった弁天島だが、当時は子どもたちが池の中へ入って“狩猟”をしても、あまりうるさいことはいわれなかったようだ。いまこんなことをすれば、管理人のおじさんが飛んできて、「危ないから早く上がりなさい!」と叱られてしまうだろう。写真集の解説文は防災の観点から、「公園や緑地、また再開発などでできた空地はオープンスペースとして役立つのです」。まさにそのとおりで、落合地域の緑地減少をいい加減に止められないだろうか。
                                    <了>
おまけ
 1959年(昭和34)に撮影された、高田馬場駅前の写真も掲載されている。西武新宿線のガード下から撮影したもので、都電が止まっている位置が高田馬場電停。右手に写っているのは、いまでは存在しない諏訪町の商店街だ。現在は、諏訪町側の商店や住宅がすべて撤去され、下の写真のように当時は切実な願いだった、「平和の女神」が設置される駅前広場となっている。
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この記事へのコメント

  • てんてん

    (。・ω・)ノ゙ Nice‼です♪
    2026年08月11日 18:56
  • 落合道人

    てんてんさん、コメントをありがとうございます。
    菌類の世界的な権威だった南方熊楠も、各地でさまざまな粘菌や茸を見つけてますね。
    2026年08月11日 20:23

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