1950~1978年に撮影された落合地域写真集。(上)

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 1978年(昭和53)に新宿区が出版した、『ガレキの中から、30年のいま……新宿区30年のあゆみ』(冒頭写真)という写真集がある。戦後すぐのころ、タイトルどおり焦土と化した新宿区のガレキ風景から、1978年(昭和53)現在の街の様子や風景写真を収めたものだ。
 新宿区は1947年(昭和22)3月15日に、旧・東京市街だった四谷区と牛込区、それに落合地域のある旧・豊多摩郡エリアだった淀橋区の3区をあわせて成立した。太平洋戦争がはじまる以前、四谷区・牛込区・淀橋区をあわせた戸数は、約6万3,300戸あったが、二度にわたる山手空襲による焼失で敗戦直後は3区内に約6,840戸しか残っていなかった。新宿区域の、実に89.2%が戦災で焦土化していたことになる。人口も、戦前は約40万人を数えたが、敗戦時には故郷への一家疎開学童疎開、そして空襲による死傷などで、3区内には合計約78,000人しか残らなかった。それでも落合地域に限ってみれば、焼け残っている街角が多いほうだろう。
 写真集に掲載されている1950年代の写真は、わたしが実景を見たことのない世界だが、同写真集が発売された1978年(昭和53)現在の写真は、いずれも見憶えのある風景が多い。その中から、今回は落合地域の写真を中心に、1950年代と1970年代、そして現在の風景を織りまぜながらご紹介してみたい。なお、戦災を受けた街並みをとらえた写真は、ほとんどが新宿駅周辺など繁華な地域のもので、落合地域の戦災写真は収録されていない。
 同写真集より、「暮らしを見つめて」に添えられた本文から少し引用してみよう。
  
 (敗戦)当時、失ったものは数多くありましたが、絶対的に失われなかったものもありました。それは“生きる”という人々の不屈の意志と努力です。人間はどんなに苦しい時でも、無意識のうちに本能的な行動--たとえば“食べる”--の方へ手を伸ばしているのです。いまの社会が以前より“豊か”になったのも、ひとりびとりの努力の結晶だと思います。/この30年、政治的にも経済的にも大きな変動がありました。人々は関心・無関心とさまざまな行動をとりました。そういう、いわゆる大局的な問題の一方で、私たちの足もと--暮らしの面でこの30年はどうだったのでしょう。暮らしが政治・経済と切り離せないのはもちろんですが、暮らしにはそれなりの問題もあるのです。そこに根をすえた住民運動も多発しています。ですから、暮らしの問題から社会をとらえ直していくのも、ひとつのやり方ではないでしょうか。(カッコ内引用者註)
  
 おっしゃるとおりで、たとえば補助73号線建設は人口や交通量の急減と、年々発生する莫大な管理維持費を税金でまかなうがゆえに、もはや不要だと訴訟沙汰にまでなった板橋住民に対し、「地域エゴ」だの「サヨク」だのというオバカな言質を臆面もなく繰り返す連中は、この地元・東京の、いや日本の20年先さえ考えていないのだろう。ましてや、街のコミュニティや景観を台無しにした過去にあまた生じた教訓など、まったく目に入らないにちがいない。
 さて、『ガレキの中から、30年のいま……』に収録された、落合地域の写真を順に見ていこう。まず、1951年(昭和26)に撮影された西武新宿線と中井駅をまたぐ、中井陸橋の架橋工事を上落合側から撮影した1枚だ。上落合から北を向いて下落合(現・中落合/中井含む)の丘を写しており、工事関係者たちが集まっている下には、西武線の中井駅があり妙正寺川が流れている。奥のこんもりとした森の手前、切り拓かれた道路の崖ぎわに建っている2階家が、矢田津世子のいた矢田邸だ。その西隣り(左手)、一ノ坂をはさみ空き地の次に建つ大きな切妻の日本家屋が、蘭塔坂(二ノ坂)の上に建つ岡不崩アトリエ、つづいて左並びに渡部邸に立田邸だろう。
 2枚目の写真は、完成した中井陸橋から1954年(昭和29)に撮影されたアビラ村の斜面だ。中央の上には、木立に囲まれた大日本獅子吼会本堂の大屋根(切妻)が見えており、その西隣り(左手)には金山平三アトリエの屋根がとらえられている。手前は、西武線・中井駅ホームの屋根で、写っている斜面の家々は、蘭塔坂(二ノ坂)と三ノ坂にはさまれた住宅街だ。これらの街並みは、戦災をほとんど受けておらず、戦前の眺めとさほど変わっていないだろう。
 3枚目の写真は、1978年(昭和53)ごろに同じく中井陸橋から撮影されたアビラ村だ。多くの住宅が建て替えられており、手前の中井駅には電車が停車中だ。2枚目の写真と同様に、蘭塔坂(二ノ坂)から三ノ坂あたりのアビラ村斜面を撮影しているが、金山アトリエがどこにあるのかわからないほど家々が建てこんでいる。(おそらく丘上の上部左寄りの木立のあたり) なお、いま同じ位置から写真を撮ろうと思っても、中井陸橋は両側が高い目隠しで覆われているので、周囲の風景がまったく見えなくなっている。山手通りに建設された、ビルやマンション用のブラインドなのだろう。
中井陸橋工事1951.jpg
アビラ村1954.jpg
アビラ村1978.jpg
アビラ村2025.jpg
 つづいて、中井陸橋の中井駅上から、下落合駅方向を眺めた写真だ。下り電車が中井駅ホームへ近づいているところを撮影したものだが、手前に中井駅の踏み切りがとらえられている。1954年(昭和29)ごろの撮影で、線路沿いに東京電力谷村線の高圧送電線鉄塔が、田島橋際の目白変電所までつづいている。左手が下落合の目白崖線だが、当時は屋敷林や雑木林など、緑が濃かった様子がよくわかる写真だ。左手の煙突は、銭湯「新高湯」(現・ゆ~ザ中井)のものだが、右手に見えている高い煙突は、このあたりに銭湯はなかったので、妙正寺川沿いで操業していた日本オーディオ工業あるいは青木電器の工場内にあった煙突だろう。
 次に、1978年(昭和53)に同じ場所を写した写真を見ると、高いビルやマンションが増え、見通しがほとんどきかなくなっている。左手の目白崖線が、手前の建物に隠れてほとんど見えない。線路からつづく正面に見えている高いビルは、建設から間もない染の里「二葉苑」の二葉ビルだろう。1970年代の後半あたりから、妙正寺川沿いにあった製造分野の工場は郊外へと移転し、煙突が見えなくなっている。東京電力谷村線の高圧線鉄塔はそのままだが、下に見えている線路は運行ダイヤへ新たに急行や準急が追加されているので、軌道が2本から中井駅通過用の3本となっている。先述のように、中井陸橋には目隠しフェンスが設置されているので、同じ場所から下落合駅方面が撮影できない。したがって、中井駅ホームの東端からの写真が下のカラー画像だ。
中井陸橋1954頃.jpg
中井陸橋1978.jpg
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 次に、中井陸橋から新井薬師駅方向を撮影した、1954年(昭和29)ごろの写真を見てみよう。下り電車が中井駅から出発したばかりで、上掲の1954年(昭和39)に写る電車と同一の車両かもしれない。当時の山手通りは、今日では考えづらいが交通量も少なく、反対側へわたるのはそれほど困難ではなかった。手前が中井駅ホームで、左手には黒く妙正寺川の流れがとらえられている。左端の岸辺に写る空地は、校舎が写っていないが落合第五小学校の建設敷地だ。戦前は落合第二小学校が建っていたが、1944年(昭和19)5月の炊爨室からの失火で校舎のほとんどを焼失し、つづく空襲で全焼して、戦後は上落合2丁目の現在地へ移転している。その跡地に建設された落合第五小学校だが、ちょうどこの写真が撮影された1954年(昭和29)に開校している。
 右手に写る斜面は、下落合の丘では標高がもっとも高い(標高37.5m)、昔の字名では大上と呼ばれた、中井御霊社目白学園のある丘だ。東京電力谷村線の鉄塔が西へとつづくが、奥の左右を横切る緑の帯は中野区上高田の崖線だ。左手に見えている煙突の、いちばん左端は銭湯「三の輪湯」の煙突。さらに、その向こうに見えている煙突群は3本とも、上高田のバッケが原の南端にあった東洋ファイバー工場のものだろう。
 ほぼ同位置から撮影された、1978年(昭和53)の写真を見ると、やはり高い建物が増えて遠くを見通せなくなっている。左手には、鉄筋コンクリートに建て替えられた落合第五小学校の校舎が見え、その先のひときわ高いビルは、1972年(昭和47)に竣工したマンション「中井プラムレヂデンス」だ。既述のように、いまは中井陸橋からの撮影は不可能なので、中井駅の上り線ホームからの写真がその下のカラー画像だ。中央には、いまも背の高い中井プラムレヂデンスの高層ビルが見えており、ホームの屋根ごしに樹木の繁っているのが妙正寺川をはさんだ落合第五小学校の敷地だ。
新井薬師方面1954.jpg
新井薬師方面1978.jpg
新井薬師方面2017.jpg
 つづいて、1954年(昭和29)に撮影された上落合2丁目の写真を見てみよう。この道はカメラマンの背後に、北へ右折すれば中井駅へと出られる上落合郵便局があり、正面には落合第二小学校のある、上落合2丁目21番地あたりの道路上から東を向いて撮影したものだ。道路の突きあたりには、落合第二小学校の裏門(西門)があり、その左隣り(北隣り)は関東大震災の際に大手町の大蔵省が全焼したため、帝国議会議事堂(現・国会議事堂)の設計が継続された吉武東里邸が建っていた。同邸のエントランスに敷かれていた大谷石は、戦後すぐに子息が通っていた落合第二小学校へ寄贈されたが、現在は旧・位置だった落合第五小学校の校庭に保存されている。
 1978年(昭和53)の写真には、落合第二小学校から下校する生徒たちが写っているが、庭木などを含め昔日の風情をよく残していたのが分かる。正面に見えている高いビルは、同小学校の北側に隣接して建てられた「落合マンション」で、現在は「ひまわりホーム新宿」や「ひまわり介護サービス新宿」が入る施設となっている。現在の写真を観察すると、道路右手の住宅は建て替えられているが、道筋の風情としてはそれほど大きくは変わっていない。現在でも、午後の下校時間になると落合第二小学校の西門から、子どもたちがゾロゾロとでてくるのだろう。
上落合2丁目1954.jpg
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 同写真集を眺めていると、1978年(昭和53)の写真には落合地域に限らず、新宿区全体の風景に強い既視感や懐かしさをおぼえるが、1954年(昭和29)の写真にはやはり実景を見ていないせいかなじみが薄い。次回は、下落合(現・中落合/中井含む)の東部で撮影された写真類を観察してみたい。
                                  <つづく>

この記事へのコメント

  • てんてん

    (。・ω・)ノ゙ Nice‼です♪
    2026年08月08日 20:30
  • 落合道人

    てんてんさん、コメントをありがとうございます。
    きょうは、ネコが4匹も集まっていて壮観です。仔ネコが大きくなるのは早いですよね。
    2026年08月08日 22:39

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