地震学で注目されている「牛」と津波の関係。

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 先日、友人の連れ合いが亡くなった。わたしより2歳上の彼は、治療が困難なガンだった。つい「あと2年で同い歳か」と思うと、手もとに残った取材のリソースや調査資料をそのままに、仕事ですごすのがもったいないと感じてしまった。そこで、徹夜など苦にならなかった約20年前とは異なり、調査・取材や執筆が体力的にややキツイくなってきたので、なか2日で書いていた拙記事を数日おきで書きつづけられればと思う。どこまで継続できるか不明だが、もう少し綴ってみたい。竹田助雄「落合新聞」の発行を停止したのは、なんと46歳の若さだったのに改めて気づいた。
 そうでした、「明日ありと思う心の徒桜(あだざくら)」を昨年の春に書いたばかりでした。
  
 わたしはまったく知らなかったのだが、地震学あるいは地震史学では「牛」と津波の関係が研究されているそうだ。それは日本史上、全国各地で起きた地震についての記録をていねいにたどっていくと、「牛」というキーワードが散見されるからだという。
 「牛」は、生きているモ~ッと鳴く「牛」の伝説もあれば、地名や河川にふられている「牛」がつく地名や河川名の場合もある。なぜ、学者たちが「牛」に注目したのかといえば、日本史上で繰り返し地震による津波が襲っている痕跡(地層)のある場所には、なぜか「牛」がつく地名が海岸近くに多いこと。また、近世以前の記録では突然「牛」(の群)に襲われ多くの死傷者をだしたというような、地域のフォークロアや物語が伝わっていることなどが指摘されている。
 確かに、津波が繰り返し襲ったとみられる地域には、牛津や牛潟、牛淵(渕)、牛着、牛転など地震の津波を意識して考えると、太平洋側や日本海側の海岸線には気になる地名が数多く点在していることに気づく。また、実際に「牛」に襲われたという説話も残っている。それらの「牛」は、近くの河川や海からやってきて人々を殺傷したり、住居や建物を破壊しては去っていく。たとえば東京地方では、浅草湊の浅草寺が「牛」に襲われた伝説は、地震学でも注目を集めている事例だ。戎光祥出版から刊行された伊藤一美『太田道灌と武蔵・相模』(2023年)から引用してみよう。
  
 建長三年(一二五一)、浅草寺の食堂に牛が暴れ入って僧侶たち五〇人ほどが大けがをしたという。「牛」は「津波」を象徴することが地震学の研究から知られているので、江戸湾地震による津波で浅草寺食堂が押し流されたことをいうのだろう。浅草寺は坂東札所十三番目として今に有名だが、すでに鎌倉時代には観音信仰の「霊仏」の御座す場でもあった。
  
 浅草寺は、現在は大川(隅田川)の中流域に存在するように見えるが、当時は江戸湾の河口も近い下流域だった。その食堂(じきどう)へ「牛」(件)が暴れ入って、食事をしていた僧50人のうち24人が障害を受け、また7人が即死したという事件を記録したものだ。計31人が死傷した「牛」は、『新編武蔵風土記稿』では隅田川から来襲したとされている。この「牛」事件が記録されているのは、『吾妻鑑』の第41巻で1251年(建長3)3月の条だ。原典より、該当箇所を引用してみよう。
  
 建長三年三月大六日丙寅。武藏国浅草寺(せんそうじ)に、牛の如き者忽然と出現し、寺于奔走す。時于寺僧五十口計り、食堂(じきどう)之間に集會也。件之恠異を見て、廿四人 立所(たちどころ)に病痾を受け、起居の進退不成。居風と云々。七人即座に死ぬと云々。
  
 伝説や説話で「牛(の如き者)」というと、古くは出雲神話と結びついた暴れ神の牛頭天王(スサノオ)や、おもに都で天変地異を引き起こす菅公(天神)由来の牛、あるいは同様に天変地異の際に出現する妖怪(化物)といわれる件(くだん)などが思い浮かぶが、「牛」=津波の襲来にちなんで建立されたなんらかの祈念場が、おもに近世に入って牛頭天王(スサノオ)を奉った社(やしろ)や、菅公(菅原道真)を奉った社=天神と習合してやしないだろうか。
 「牛」の地名が海辺はもちろん内陸部にも存在するのは、津波が河川をさかのぼって周辺の平野部にある集落や田畑を襲った可能性もありそうだ。川を遡上した津波が、海浜から離れた内陸にまで大きな被害をもたらすのは、東日本大震災や能登半島地震による津波の映像でも記憶に新しい。
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 また、天変地異の際に出現する「牛(の如く者)」は、そのままなんらかの災害を象徴しているともいえる。妖怪「件(くだん)」伝説と地震・津波との関連は、地震学でも研究分野があまり見あたらないので、もう少し精査が必要だろうが、「牛(の如き者)」の出現と災厄は、なぜか大地震(津波)のあった年に重ねて語られてきているのも注目すべき点だろう。
 上記の浅草寺の「牛」襲来事件は、江戸直下型の活断層地震のようで、江戸湾の海底が崩落したか、海底を走る活断層が大きくズレたかで生じた津波が、江戸地方の河川をいっせいにさかのぼっていったケースのように思える。もっとも近い例では、1855年(安政2)に大江戸を襲った安政大地震(安政江戸地震)で、江戸湾では津波(海底崩落と推定されている)が発生し、沿岸地帯はもちろん江戸湾に注ぐ主要河川を津波が遡上していったという伝承が残っている。鎌倉時代の浅草寺ケースも、これに近い状況ではなかっただろうか。
 興味深いことに、浅草寺の対岸にあたる向島には、スサノオが主柱の牛嶋社(牛御前社)が存在している。もっとも、同社が建立されたのは貞観年間(800年代半ば)といわれているので、浅草寺を襲った1251年(建長3)の「牛」とは直接関連はないが、貞観年間はたび重なる大地震で国内がパニックになった時代であり、富士山や阿蘇山、鳥海山などが次々に噴火した時期とも重なる。そのような時代に、「牛」=牛頭天王(スサノオ)が奉られている点にも深く留意したい。ちなみに、浅草寺は628年(推古天皇36)の創建なので、すでに向島の対岸には存在していた。
 牛嶋社は、現在は隅田公園(旧・水戸徳川家下屋敷=小梅邸)の北東角地に鎮座しているが、隅田川河畔や隅田公園よりも地形がやや高めで土手状になっている点も興味深い。その昔、隅田川を河川敷まで浸しながら、猛烈な勢いで遡上してくる黒い津波から逃れるため、人々は少しでも高い土地へ避難して生き延びた事蹟でもあったのではなかろうか。津波の原因や正体などまったくわからなかった当時、家々や障害物を次々に破壊しながら内陸へ押し寄せてくる津波は、確かにどこまでも突進してくる黒い猛牛の群に見えたかもしれない。
 そのような視点から、改めて「牛」の奉られている地点を眺めると、中世の旧・石神井川の源流域で奥東京湾の名残りの池沼とされる、不忍池に近接した高台には菅公の湯島天神の「牛」がおり、現・神田川の流れのベースとなった、旧・平川白鳥池の手前にある高台には、牛天神の「牛」がいる。いずれも、中世以前は江戸地方を流れる運輸の中心となった主要な河川だったことを考えると、江戸湾から川を遡上する津波の避難所としての役割を、それらの高台は災害の伝承とともに担っていたのではないか。
 もちろん、これらの社では牛頭天王(スサノオ)=牛、または菅公(天神)=牛とのつながりや物語が、社の由来として語られているのだが、面白いことに大きな牛の像が境内に鎮座している点も今日では共通している。これら川を遡上した津波は、旧・石神井川のケースでは不忍池で、旧・平川のケースでは大きな白鳥池で、勢いが急激に衰え消滅したのではないかと想定することができる。
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 ちょっと余談気味になるけれど、いまでは神田川河畔の高台にある牛天神だが、源頼朝の伝説に由来する「牛石」という自然石が置かれ、周囲には注連縄が張られている。頼朝が奥州戦に向かう途中、この高台で休息した際に牛に乗る菅公の夢をみたといういわれがあるが、江戸期の付会臭がプンプンする説話だ。牛に似た石をご神体とし、それを撫でるとご利益があるというものだが、この自然石が平川を遡上する津波=「牛」によって押し流されてきたので、その形状(牛石)から避難所となった高台に奉られている……と想像するのも面白い。
 もうひとつ、室町時代には相模湾にも「牛」の説話が伝わっている。こちらは、江戸湾直下型の活断層地震とは異なり、プレート型地震による大津波に由来するとみられる伝承だ。そこには、大規模な「牛」の群が登場する。1495年(明応4)から5年ほどの間、伊豆の伊勢宗瑞(北条早雲)と扇谷(おうぎがやつ)上杉方との間で、小田原城をめぐり何度か合戦が行われている。この小田原城は「古小田原城」で、江戸期の現・小田原城とはややズレた位置に建っていた。
 この明応年間の戦いで、大森氏が籠城する小田原城は落城し、伊勢氏(後北条氏)が占領することになるのだが、この戦闘には1,000頭の「火牛」が登場している。伊勢宗瑞は、牛の角に松明を結びつけ小田原城を急襲したという伝説が『相州兵乱記』に記録されている。「千頭の火牛」は、木曽義仲の倶利伽羅峠でも有名だが、明らかに伝説の類だろう。
 明応年間といえば、特に1498年(明応7)に相模湾から紀伊半島まで襲ったとみられる明応大地震(おそらく現在でいわれるプレート型の東海大地震だろう)がつとに有名だが、全国規模で繰り返し地震がつづいていた時代だった。明応年間の地震による大津波で、鎌倉の大仏殿が流されて露座になったという伝承も残っている。小田原城が津波で被災したのを見て、伊勢宗瑞はここぞとばかり攻撃して占領しているのではないか。『太田道灌と武蔵・相模』より、再び引用してみよう。
  
 古くは「日本書紀」「古事記」の素戔嗚尊伝承、「備前国風土記」の牛窓説話に「牛の怪」が語られている。また、中世後期の戦記物「相州兵乱記」には伊勢宗瑞の千頭の牛による小田原占領説話、さらに中国の歴史書「史記」(田単伝)にも、火牛・千余の牛による奇策によって自領が守られる話がある。特に「豆相記」には「牛、大嶋の絶頂を上る」時とされていることから、松明をつけた牛が大嶋の山の頂上を越えるくらいたくさんやってきた、とみることができるだろう。こうした牛によせた不思議な説話は、実は津波という体験をした前近代の人々が生活感覚の中で得た表現だろう。
  
 「大嶋の絶頂」とは、伊豆大島の三原山のことだ。三原山の標高は700mを越えるので、それほど巨大な津波は史的にありえず物語の誇張だろうが、相模湾の沖に見える大島の三原山が容易に丸ごとスッポリ隠れるほどの、それほど高いと感じられた大津波の来襲を想起させる表現だ。
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 そういえば、いまは千代田城の内濠に面した九段(件)という地域も、中世以前は旧・平川沿岸の低地から麹町台地にかけての地名だったことに気づく。現在は妖怪化されて語られることの多い件(くだん)だが、ここでも昔日には、旧・平川を遡上する津波の伝承が存在したものだろうか。

追記:面白いことに原日本語(アイヌ語に継承)でも、ウシ(ス)<Usis>は偶蹄目動物=牛科だと気づいた。北海道などで、大津波に関するとみられるウシ(Usis)の伝承や地名はないだろうか?

◆写真上:旧・平川の沿岸にある、小日向崖線つづきの崖地を上る牛天神の階段(きざはし)。
◆写真中上は、浅草寺の対岸にある向島のやや小高い位置に鎮座する牛嶋社の鳥居と拝殿。は、牛嶋社の境内に置かれた「牛」。は、1400年代の室町期に栄えた江戸の街とその周辺。(伊藤一美『太田道灌と武蔵・相模』掲載の地図を加工)
◆写真中下は、本郷台地の崖を上る湯島天神の階段(きざはし)。は、いまは菅公伝承が主体となった湯島天神の拝殿。は、同社の境内に設置された「牛」。
◆写真下は、小日向崖線上に位置する牛天神の拝殿。は、牛天神の境内に置かれた「牛」。は、うずくまる牛に似ているので“御神体”とされ奉じられている自然石「牛石」(撫で牛)。
おまけ
 1963年(昭和38)に制作された、村山知義による高松土人形の玩具『高松の牛のリ天神』。下は、香港国際映画祭でグランプリ受賞の『黒の牛』(監督・蔦哲一朗/2026年)の黒牛「ふさ子」さん。津波の「牛」ではなく、このような牛たちなら別に怖ろしくはなく害はないのだが。
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