
これも1876年(明治9)10月10日、薩長政府が発令した「官令達 乙部第百廿号」によって破壊された(耕作地化された)、東京府を中心とした関東地方の大型古墳のひとつだろうか。東久留米にある旧・落合村エリアを訪問するとき、事前に検証していた空中写真にとらえられた大きな鍵穴型のフォルムについて、きょうは及ばずながら記事にしてみたい。
空中写真にとらえられていたフォルムは、旧・落合村ではなくその北側に隣接した旧・門前村の黒目川(久留米川)河畔だ。ただし、当時の黒目川の流路や川幅(河川敷含む)は、1970年代の整流化工事のため現在のものとはかなり異なっている。おそらく鍵穴フォルムの北側が、流れの修正と川の拡幅で大きく削られ、祠(ほこら)もあったとされる稲荷塚は消滅した。
どうやら祠は、現在も行方不明のままのようだが、この稲荷塚とされた部分はフォルム北側のくびれに近い位置にあり、各地の古墳に共通する祭祀が行われていた造り出しに近い位置にあった。たとえば、下練馬で見つけた巨大なフォルムの、造り出しに近接した位置にも稲荷社が奉られていた。江戸期になると、古墳から出現する羨道や玄室などの地下空間を、キツネの棲み穴だと想像して、キツネが眷属の稲荷を奉る事例が多い。全国各地に点在する、稲荷山古墳や稲荷塚古墳の下部や墳丘上に建立された、稲荷の社や祠が好例だろう。
では、戦前戦後を通じて空中から独特なフォルムが確認できる、旧・門前村の概略や地勢について、以前も参照していた東久留米市教育委員会が刊行した『東久留米の古地図―明治時代地引絵図を中心として―』(2020年)の図録から引用してみよう。なお、解説文中の稲荷塚の場所については、本記事の別掲「門前村(字)稲荷塚」地引絵図に、赤丸の囲みで示した位置にあたる。
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川と平行に、東西に通る道が現在の幹線道路(東京道)。そこから南に入る道が今の東久留米駅北口に続く商店街となる。昔、稲荷塚(絵図右側中央薄墨色の所と推定)があったことから字名を稲荷塚という。大門大橋は絵図の時は木製で、一九二八年(昭和三年)に石造りとなった。(中略) 大門大橋の北側。現在の氷川台一・二丁目。北へ向かう中央の道は門前氷川神社付近から急坂で、その先は高台になる。昔、神社の入り口は南側にあった。道は途中で三叉路になり、角に享保一九年(一七三四年)の庚申塔がある。(市指定文化財) 昔ここに金山神社<ママ>があり、字名の由来となっているが、今は氷川神社境内に金山神社の碑が残る。(< >内引用者註)
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文中に「金山神社」という表現がでてくるが、社(やしろ)のことを「神社」と呼称しはじめたのは薩長政府による明治以降のことで、本来は「金山〇〇社」と呼ばれていただろう。
『東久留米の古地図』の門前村のページには、1953年(昭和28)に撮影された整流化工事の前の黒目川と大門大橋を写した写真が掲載されているが、その右手遠景にこんもりとした森がとらえられている。角度からして、この森が「稲荷塚」のあった黒目川南岸だろう。戦前戦後を通じた空中写真を見ても、稲荷塚をはじめ一帯は濃い森林地帯だったこととがうかがえる。
おそらく明治以降だろうか、その一部(おもに後円部)を崩して耕作地が造られ、農家が何軒か建てられている。稲荷塚から、さらに南側にあたる一帯だ。明治期に作成された門前村の「地引絵図」にも、境界線の様子からその痕跡がうかがえる。そして、明治以降から1940年代の戦前までこの状況はあまり変わらず、1941年(昭和16)に撮影された空中写真を参照しても、いまだ鍵穴型のフォルムを容易に識別することができる。なぜ開墾が進まなかったのかは、やはり稲荷塚とそこで伝承されてきた由来譚によるのではなかろうか。なお、東久留米地域では東京市街地とその周辺域で撮影された、陸軍航空隊による1936年(昭和11)の空中写真は残念ながら存在しないようだ。
空中写真にとらえられていたフォルムは、旧・落合村ではなくその北側に隣接した旧・門前村の黒目川(久留米川)河畔だ。ただし、当時の黒目川の流路や川幅(河川敷含む)は、1970年代の整流化工事のため現在のものとはかなり異なっている。おそらく鍵穴フォルムの北側が、流れの修正と川の拡幅で大きく削られ、祠(ほこら)もあったとされる稲荷塚は消滅した。
どうやら祠は、現在も行方不明のままのようだが、この稲荷塚とされた部分はフォルム北側のくびれに近い位置にあり、各地の古墳に共通する祭祀が行われていた造り出しに近い位置にあった。たとえば、下練馬で見つけた巨大なフォルムの、造り出しに近接した位置にも稲荷社が奉られていた。江戸期になると、古墳から出現する羨道や玄室などの地下空間を、キツネの棲み穴だと想像して、キツネが眷属の稲荷を奉る事例が多い。全国各地に点在する、稲荷山古墳や稲荷塚古墳の下部や墳丘上に建立された、稲荷の社や祠が好例だろう。
では、戦前戦後を通じて空中から独特なフォルムが確認できる、旧・門前村の概略や地勢について、以前も参照していた東久留米市教育委員会が刊行した『東久留米の古地図―明治時代地引絵図を中心として―』(2020年)の図録から引用してみよう。なお、解説文中の稲荷塚の場所については、本記事の別掲「門前村(字)稲荷塚」地引絵図に、赤丸の囲みで示した位置にあたる。
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川と平行に、東西に通る道が現在の幹線道路(東京道)。そこから南に入る道が今の東久留米駅北口に続く商店街となる。昔、稲荷塚(絵図右側中央薄墨色の所と推定)があったことから字名を稲荷塚という。大門大橋は絵図の時は木製で、一九二八年(昭和三年)に石造りとなった。(中略) 大門大橋の北側。現在の氷川台一・二丁目。北へ向かう中央の道は門前氷川神社付近から急坂で、その先は高台になる。昔、神社の入り口は南側にあった。道は途中で三叉路になり、角に享保一九年(一七三四年)の庚申塔がある。(市指定文化財) 昔ここに金山神社<ママ>があり、字名の由来となっているが、今は氷川神社境内に金山神社の碑が残る。(< >内引用者註)
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文中に「金山神社」という表現がでてくるが、社(やしろ)のことを「神社」と呼称しはじめたのは薩長政府による明治以降のことで、本来は「金山〇〇社」と呼ばれていただろう。
『東久留米の古地図』の門前村のページには、1953年(昭和28)に撮影された整流化工事の前の黒目川と大門大橋を写した写真が掲載されているが、その右手遠景にこんもりとした森がとらえられている。角度からして、この森が「稲荷塚」のあった黒目川南岸だろう。戦前戦後を通じた空中写真を見ても、稲荷塚をはじめ一帯は濃い森林地帯だったこととがうかがえる。
おそらく明治以降だろうか、その一部(おもに後円部)を崩して耕作地が造られ、農家が何軒か建てられている。稲荷塚から、さらに南側にあたる一帯だ。明治期に作成された門前村の「地引絵図」にも、境界線の様子からその痕跡がうかがえる。そして、明治以降から1940年代の戦前までこの状況はあまり変わらず、1941年(昭和16)に撮影された空中写真を参照しても、いまだ鍵穴型のフォルムを容易に識別することができる。なぜ開墾が進まなかったのかは、やはり稲荷塚とそこで伝承されてきた由来譚によるのではなかろうか。なお、東久留米地域では東京市街地とその周辺域で撮影された、陸軍航空隊による1936年(昭和11)の空中写真は残念ながら存在しないようだ。




稲荷塚は、黒目川の拡幅と整流化工事で全的に破壊されたとみられるが、黒目川に架かる稲荷橋にその名をとどめている。ただし、稲荷橋の位置は稲荷塚があった位置よりかなり上流であり、前方部の先端とみられるあたりに架橋されている。これは、稲荷塚そのものにちなんでいるというよりも、門前村の字名となっていた稲荷塚の名称を意識したものだろう。現地を歩いてみると、空中写真に見えるかたちの何ヶ所かで、昔日の地面のふくらみを薄っすらと確認できる。稲荷塚のあった地形は黒目川の北向き斜面にあたるが、川の拡幅で削りとられた南岸の地形を観察すると、斜面の一部に盛り土のような突起の残っているのが興味深い。
また、稲荷塚があったとみられる位置に接して墓地が設けられているのも、昔日に伝承されていた同塚にまつわるなんらかのフォークロアを感じさせる。同エリアは、西武池袋線の東久留米駅から230~300mほどの位置にあたるが、いまだ住宅が建てこまず畑地が多く残っている。鍵穴型の全長は、1941年(昭和16)や戦後の黒目川の整流化工事前に撮影された1968年(昭和43)の空中写真などから推定すると、およそ200~250mほどだろうか。
ちょっと横道にそれるけれど、以前、野方から江古田にかけての古墳について書いたとき、古代の古墳と中世の豊島氏vs太田道灌で生じた戦死者を埋めた塚墓を、ゴッチャにしているといわれたことがある。けれども、もう少し史的に深く考えてみてほしい。戦(いくさ)で何十人何百人の死骸を処理するとき、「あんたんとこの畑の横が空き地だから、そこへ埋めんべえ」とか、「隣り村の丘上がちょうど草原だから、そこへ埋(い)けちまおう」とかいって、大量の遺骸を埋めることなどありえない。村落(ミクロコスモス)に住む住民たち全員の合意が得られ、利害関係や所有関係などで異議や異論などが出にくい、土地や地点を選んで埋葬するのが自然だろう。
いつか記事に書いた、群馬県の梁瀬首塚古墳と梁瀬二子塚古墳がそうだったように、当時から大昔の墓域だと認識されていた場所、屍家(しんや・しいや)伝承が残る土地、昔から禁足地あるいは禁忌伝承がある場所、あるいは怪談やタタリ譚が語り継がれてきた人が寄りつかない土地などへ葬られている例は枚挙にいとまがない。したがって、中世の戦死者とみられる遺体が多く見つかったからといって、そこが中世のみの墓所だとは決して限らないのだ。さらに深く発掘をつづけると、古代の遺跡が出現することもめずらしくない。視点を変えれば、埋葬地として選ばれている土地自体は、そもそも「なんだったのか?」という問題意識に通じるテーマなのだ。以前、近代の事例で青山墓地や青山脳病院が建造されたエリアについても記事にしたことがある。江戸期から青山地域では寺町と墓域が形成され、そこから数多くの怪談・奇譚が生まれているのは偶然だろうか。
また、稲荷塚があったとみられる位置に接して墓地が設けられているのも、昔日に伝承されていた同塚にまつわるなんらかのフォークロアを感じさせる。同エリアは、西武池袋線の東久留米駅から230~300mほどの位置にあたるが、いまだ住宅が建てこまず畑地が多く残っている。鍵穴型の全長は、1941年(昭和16)や戦後の黒目川の整流化工事前に撮影された1968年(昭和43)の空中写真などから推定すると、およそ200~250mほどだろうか。
ちょっと横道にそれるけれど、以前、野方から江古田にかけての古墳について書いたとき、古代の古墳と中世の豊島氏vs太田道灌で生じた戦死者を埋めた塚墓を、ゴッチャにしているといわれたことがある。けれども、もう少し史的に深く考えてみてほしい。戦(いくさ)で何十人何百人の死骸を処理するとき、「あんたんとこの畑の横が空き地だから、そこへ埋めんべえ」とか、「隣り村の丘上がちょうど草原だから、そこへ埋(い)けちまおう」とかいって、大量の遺骸を埋めることなどありえない。村落(ミクロコスモス)に住む住民たち全員の合意が得られ、利害関係や所有関係などで異議や異論などが出にくい、土地や地点を選んで埋葬するのが自然だろう。
いつか記事に書いた、群馬県の梁瀬首塚古墳と梁瀬二子塚古墳がそうだったように、当時から大昔の墓域だと認識されていた場所、屍家(しんや・しいや)伝承が残る土地、昔から禁足地あるいは禁忌伝承がある場所、あるいは怪談やタタリ譚が語り継がれてきた人が寄りつかない土地などへ葬られている例は枚挙にいとまがない。したがって、中世の戦死者とみられる遺体が多く見つかったからといって、そこが中世のみの墓所だとは決して限らないのだ。さらに深く発掘をつづけると、古代の遺跡が出現することもめずらしくない。視点を変えれば、埋葬地として選ばれている土地自体は、そもそも「なんだったのか?」という問題意識に通じるテーマなのだ。以前、近代の事例で青山墓地や青山脳病院が建造されたエリアについても記事にしたことがある。江戸期から青山地域では寺町と墓域が形成され、そこから数多くの怪談・奇譚が生まれているのは偶然だろうか。




さて、黒目川沿いの大きな鍵穴型のフォルムだが、河岸段丘上に近接して築造された事例として、こちらでは関東大震災の直後に東京帝大の鳥居龍蔵が調査した隅田川沿いの待乳山古墳や、多摩川沿いの田園調布に連なる亀甲山古墳をはじめとする多摩川台古墳群、等々力渓谷の谷沢川沿いに築造された等々力古墳群などをご紹介してきたが、河川規模の大小を問わず、沿岸の崖線や段丘斜面の古墳はめずらしくない。流路が渓流のような小規模なものは、古墳のまわりに掘削される周壕(濠)などに見立てられているケースもありそうだ。
黒目川に沿った、稲荷塚を含む大きな鍵穴型の痕跡を観察しているときには気づかなかったが、この200~250mほどある巨大な痕跡の南側150mほどのところに、もうひとつの大きな鍵穴型のフォルムがあることに気づいた。1941年(昭和16)や戦後すぐの空中写真ではわからなかったが、宅地化が進む戦後に撮影された空中写真を参照していて、改めて気づいたかたちだ。しかも、後円部とみられる円形の中心に近い位置には稲荷社が奉られており、後円部のすぐ北側の位置にも門前稲荷社が鎮座している。そして、宅地化が進んだ現在でも、道路(以前は畑地の畦道だったろう)のかたちが、およそ鍵穴型のまま残っている。
また、後円部の中央を東久留米駅東口の駅前広場から直線でつづく、浄牧院通りの大道路が貫通しており、黒目川の北斜面へとつづく後円部にわずかなふくらみが残るだけで、現在では全体が平地化されている。だが、いまでも道路(畔)の形状がそのまま鍵穴状に残っているのは、下練馬の大規模な痕跡とまったく同様で、ここでもいまだに畑地が宅地化されずに多く残っている。さらに、この鍵穴フォルムのすぐ西側に位置する湧水源には門前弁天社が奉られており、その流路を活用し北側にあたる後円部の周壕(濠)に見立てられていたものだろうか。いずれにしても、黒目川沿いに見つけた古墳を想起させる大きなフォルムは、近くを流れる落合川や立野川の沿岸部でも、同様の痕跡があるのではないかという想像をふくらませる。この2地点に限らず、東久留米地域に伝わる関連のありそうなフォークロアや、古老たちが語る昔話などが残ってやしないだろうか。
黒目川に沿った、稲荷塚を含む大きな鍵穴型の痕跡を観察しているときには気づかなかったが、この200~250mほどある巨大な痕跡の南側150mほどのところに、もうひとつの大きな鍵穴型のフォルムがあることに気づいた。1941年(昭和16)や戦後すぐの空中写真ではわからなかったが、宅地化が進む戦後に撮影された空中写真を参照していて、改めて気づいたかたちだ。しかも、後円部とみられる円形の中心に近い位置には稲荷社が奉られており、後円部のすぐ北側の位置にも門前稲荷社が鎮座している。そして、宅地化が進んだ現在でも、道路(以前は畑地の畦道だったろう)のかたちが、およそ鍵穴型のまま残っている。
また、後円部の中央を東久留米駅東口の駅前広場から直線でつづく、浄牧院通りの大道路が貫通しており、黒目川の北斜面へとつづく後円部にわずかなふくらみが残るだけで、現在では全体が平地化されている。だが、いまでも道路(畔)の形状がそのまま鍵穴状に残っているのは、下練馬の大規模な痕跡とまったく同様で、ここでもいまだに畑地が宅地化されずに多く残っている。さらに、この鍵穴フォルムのすぐ西側に位置する湧水源には門前弁天社が奉られており、その流路を活用し北側にあたる後円部の周壕(濠)に見立てられていたものだろうか。いずれにしても、黒目川沿いに見つけた古墳を想起させる大きなフォルムは、近くを流れる落合川や立野川の沿岸部でも、同様の痕跡があるのではないかという想像をふくらませる。この2地点に限らず、東久留米地域に伝わる関連のありそうなフォークロアや、古老たちが語る昔話などが残ってやしないだろうか。




黒目川は、東久留米市内を抜けると埼玉県の新座市に入る。現在でも、開発などで多くの古墳が見つかる埼玉(さきたま)地方だが、黒目川が新河岸川やがては荒川へと合流するまでの間に、考古学的な発見があるだろうか。あまり意識してこなかったエリアだけれど、少し注意してみたい。
◆写真上:稲荷塚のあった北向き斜面の一部だが、現在は墓域や空き地となっている。
◆写真中上:上は、明治期に作成された門前村地引絵図の一部で、赤丸の囲みが稲荷塚のあった位置だとみられている。中上・中下・下は、上から順番に1941年(昭和16)、1947年(昭和22)、1968年(昭和43)の空中写真にみる稲荷塚と鍵穴フォルム。
◆写真中下:上は、1953年(昭和28)に大橋側から撮影された稲荷塚。中上は、1975年(昭和50)撮影の空中写真にみる黒目川の拡幅・整流化工事で消滅した稲荷塚とその周辺。中下・下は、わずかなふくらみが確認できる稲荷塚のあった鍵穴フォルムの現状。
◆写真下:上・中上は、1979年(昭和54)と2007年(平成19)撮影の空中写真にとらえられた、上記の鍵穴フォルムから150mほど南にあるやや小型の鍵穴フォルム。中下は、同フォルムの西側にある稲荷塚公園。下左は、稲荷塚公園の北側に隣接した湧水源の門前弁天社。下右は、東久留米市教育委員会刊行の『東久留米の古地図―明治時代地引絵図を中心として―』(2020年)。
★おまけ
稲荷橋の北詰から眺めた対岸の鍵穴フォルムの方向で、わずかながら地面の盛りあがりが確認できる(上)。そのやや上流から眺めた風景で、写っている橋は稲荷橋(下)。黒目川の拡幅・整流化工事で、稲荷塚を含む北側が削られているとみられ、北斜面には墳丘の跡がほぼ見られない。
◆写真中上:上は、明治期に作成された門前村地引絵図の一部で、赤丸の囲みが稲荷塚のあった位置だとみられている。中上・中下・下は、上から順番に1941年(昭和16)、1947年(昭和22)、1968年(昭和43)の空中写真にみる稲荷塚と鍵穴フォルム。
◆写真中下:上は、1953年(昭和28)に大橋側から撮影された稲荷塚。中上は、1975年(昭和50)撮影の空中写真にみる黒目川の拡幅・整流化工事で消滅した稲荷塚とその周辺。中下・下は、わずかなふくらみが確認できる稲荷塚のあった鍵穴フォルムの現状。
◆写真下:上・中上は、1979年(昭和54)と2007年(平成19)撮影の空中写真にとらえられた、上記の鍵穴フォルムから150mほど南にあるやや小型の鍵穴フォルム。中下は、同フォルムの西側にある稲荷塚公園。下左は、稲荷塚公園の北側に隣接した湧水源の門前弁天社。下右は、東久留米市教育委員会刊行の『東久留米の古地図―明治時代地引絵図を中心として―』(2020年)。
★おまけ
稲荷橋の北詰から眺めた対岸の鍵穴フォルムの方向で、わずかながら地面の盛りあがりが確認できる(上)。そのやや上流から眺めた風景で、写っている橋は稲荷橋(下)。黒目川の拡幅・整流化工事で、稲荷塚を含む北側が削られているとみられ、北斜面には墳丘の跡がほぼ見られない。
この記事へのコメント
てんてん
落合道人
きょうは暑かったですね。街を歩いていて、モワッとした湿気がまとわりついてきました。