
多くの製造工場が地方か、SCMで海外へ移転してしまった今日では考えづらいが、下落合から上落合にかけての河川沿いには、さまざまな工場が帯状に建ち並んでいた。旧・神田上水(1966年より神田川)や妙正寺川の、清冽な流れを利用する小紋や友禅の染色工場、医薬品工場、製氷工場、化学工場、衛生品工場などが多くみられた。
戦後、1956年(昭和31)に旧・神田上水沿いの、工場街をとらえた写真が残されている。いまでは、ほとんど住宅街というかマンション街になってしまったエリアだが、工場エリアをとらえた写真はめずらしいので貴重だ。掲載されていたのは、新宿区にあるさまざまな街の賑わいをまとめた、『新宿経済年鑑/1956年版』(新宿経済会議所)だ。同年鑑には、1956年(昭和31)時点での目白通りの交通状況や、高田馬場駅前の商店街をとらえた写真も掲載されている。
神田川沿いの工場地帯については、『新宿区史』(1955年)や『落合町誌』(落合町誌刊行会/1932年)などに詳しい解説が掲載されているが、記述が長くて手軽に引用しにくいので、ここは1973年(昭和48)に三交社から出版された、芳賀善次郎『新宿の散歩道』から概略を引用してみよう。
▼
戸塚町からこのあたり(落合地域)までは、はじめは染物工場が多かった。江戸時代には神田が職人町で、近くの堀川の水を使っていたが、水がきたなくなり場所も狭くなったので、神田川や妙正寺川の川筋に移転し、手拭いやゆかたを染めていたのである。しかしこの川筋も水がきたなくて使えなくなると、染物工場はさらに多摩川筋へと移っていった。/今では衛生材料、石鹸、ゴム、酒類、機械など各種の工場がある。また目白の学習院下に製薬工場が多くできたのは、崖下に良質な水が豊富に出たことが原因の一つであった。(カッコ内引用者註)
▲
著者は、神田川や妙正寺川の汚濁がいちばんピークに達した1970年代に文章を書いているので、染物工場はみんな多摩川筋へ移っていったように書いているけれど、現在でも戸塚地域を含めると、きれいになった神田川筋では60軒ほどの工場(工房)が健在だ。
また、染物工場のあとに「ゴム」や「酒類」「衛生材料」などの製造業が移転してきたようにも読めるが、上落合の前田地区にあった東京護謨工場は大正期から、学習院昭和寮の下にあった大黒葡萄酒や石倉衛生品工場も、清水川の指田製綿工場も大正期からなので、いずれも染物工場が移転してくる以前または同時期に操業を開始している。また、落合地域では大規模工場が多かった、湧水や地下水を利用する重要な地場産業の製氷工場が抜けている。
さて、1956年(昭和31)にとらえられた工場風景(冒頭写真)だが、すぐにカメラマンがどこにいて、どの方角を撮影したのかがわかった。カメラマンが立っているのは、もうすぐ日立製作所の「目白ハウス」が建設される予定地で、日立目白クラブ(旧・学習院昭和寮)の南側の崖っぷちあたりだ。左手には大黒葡萄酒壜詰め工場の建屋が見えており、手前のアパートは日立目白クラブの崖下にあった大黒葡萄酒の社員寮だ。社員寮と左手に写る工場建屋との間には、電柱の連なりが見えているが、拡幅前の雑司ヶ谷道(新井薬師道)が通っている。この大黒葡萄酒社員寮は、独特な屋根のかたちをしているので、以前から戦後撮影の空中写真でもすぐに視認することができた。
戦後、1956年(昭和31)に旧・神田上水沿いの、工場街をとらえた写真が残されている。いまでは、ほとんど住宅街というかマンション街になってしまったエリアだが、工場エリアをとらえた写真はめずらしいので貴重だ。掲載されていたのは、新宿区にあるさまざまな街の賑わいをまとめた、『新宿経済年鑑/1956年版』(新宿経済会議所)だ。同年鑑には、1956年(昭和31)時点での目白通りの交通状況や、高田馬場駅前の商店街をとらえた写真も掲載されている。
神田川沿いの工場地帯については、『新宿区史』(1955年)や『落合町誌』(落合町誌刊行会/1932年)などに詳しい解説が掲載されているが、記述が長くて手軽に引用しにくいので、ここは1973年(昭和48)に三交社から出版された、芳賀善次郎『新宿の散歩道』から概略を引用してみよう。
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戸塚町からこのあたり(落合地域)までは、はじめは染物工場が多かった。江戸時代には神田が職人町で、近くの堀川の水を使っていたが、水がきたなくなり場所も狭くなったので、神田川や妙正寺川の川筋に移転し、手拭いやゆかたを染めていたのである。しかしこの川筋も水がきたなくて使えなくなると、染物工場はさらに多摩川筋へと移っていった。/今では衛生材料、石鹸、ゴム、酒類、機械など各種の工場がある。また目白の学習院下に製薬工場が多くできたのは、崖下に良質な水が豊富に出たことが原因の一つであった。(カッコ内引用者註)
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著者は、神田川や妙正寺川の汚濁がいちばんピークに達した1970年代に文章を書いているので、染物工場はみんな多摩川筋へ移っていったように書いているけれど、現在でも戸塚地域を含めると、きれいになった神田川筋では60軒ほどの工場(工房)が健在だ。
また、染物工場のあとに「ゴム」や「酒類」「衛生材料」などの製造業が移転してきたようにも読めるが、上落合の前田地区にあった東京護謨工場は大正期から、学習院昭和寮の下にあった大黒葡萄酒や石倉衛生品工場も、清水川の指田製綿工場も大正期からなので、いずれも染物工場が移転してくる以前または同時期に操業を開始している。また、落合地域では大規模工場が多かった、湧水や地下水を利用する重要な地場産業の製氷工場が抜けている。
さて、1956年(昭和31)にとらえられた工場風景(冒頭写真)だが、すぐにカメラマンがどこにいて、どの方角を撮影したのかがわかった。カメラマンが立っているのは、もうすぐ日立製作所の「目白ハウス」が建設される予定地で、日立目白クラブ(旧・学習院昭和寮)の南側の崖っぷちあたりだ。左手には大黒葡萄酒壜詰め工場の建屋が見えており、手前のアパートは日立目白クラブの崖下にあった大黒葡萄酒の社員寮だ。社員寮と左手に写る工場建屋との間には、電柱の連なりが見えているが、拡幅前の雑司ヶ谷道(新井薬師道)が通っている。この大黒葡萄酒社員寮は、独特な屋根のかたちをしているので、以前から戦後撮影の空中写真でもすぐに視認することができた。




冒頭写真の撮影場所を、すぐに特定できるもうひとつの大きなポイントは、中央の遠景に田島橋の南詰めに建つ、東京電力谷村線の目白変電所が見えているからだ。カメラマンは、目白変電所の建屋を意識しながら、周辺の工場地帯を撮影しているようにも見える。そして、大黒葡萄酒工場の右隣り(西隣り)が石倉商店(衛生品)工場、そのさらに右(西)側には道路をへだてて、森永乳業新宿工場と三宝製薬工場がつづいている。画面の右端に見えている金網は、日立目白クラブのテニスコートに設置された境界フェンスだ。
冒頭写真と同時に撮影されたとみられる、別角度の写真も掲載されている。カメラマンは、やや東寄りに撮影位置を変えており、大黒葡萄酒工場の建屋を中心に南南西を向いてシャッターを切っている。同工場敷地の南端には、4階建てのビル状の建屋と煙突が見えているが、その向こう側には西武新宿線が通っている。この建屋の東側面には、夜間に遠くからでも視認できるネオンサインが設置されているが、文字がボヤけていて判読できない。
西武線の向こう側にある煙突は、指田精製所(ガーゼ・繃帯・脱脂綿工場)の第1工場ないしは第2工場のものだろ。この指田精製所の南側までが下落合1丁目であり、旧・神田上水をはさんださらに南側は戸塚町3丁目(現・高田馬場3丁目)のエリアとなる。写真ではわかりにくいが、戸塚町エリアに商店の看板建築や斜めに並ぶ家屋が見えているが、高田馬場駅前へと抜ける栄通りだ。また、画面手前の右端には、冒頭写真と同様に大黒葡萄酒社員寮の南端がとらえられている。手前左下に見えている傾斜した屋根は、勝山鉄工所の一部だろう。
つづいて、下落合の目白通りをとらえた写真ということで掲載されていたのが、クルマがいきかう交差点を撮影したものだ。これも、ひと目ですぐにどこだかわかった。この写真が撮影されてから24年後、南長崎の学生アパートを出て、この交差点を毎日歩きながら、わたしは学校やアルバイト先へ通うことになる。目白通りと山手通りが交差する、いま風にいえば南長崎1丁目の交差点だ。通りの右手が下落合3丁目(現・中落合2丁目)で、カメラマンのいる位置も下落合3丁目だが現在は中落合3丁目、通りの左手が椎名町2丁目(現・目白5丁目)で、画面の左側を走るフォルクスワーゲン※のさらに左枠外が椎名町3丁目(現・南長崎1丁目)ということになる。
冒頭写真と同時に撮影されたとみられる、別角度の写真も掲載されている。カメラマンは、やや東寄りに撮影位置を変えており、大黒葡萄酒工場の建屋を中心に南南西を向いてシャッターを切っている。同工場敷地の南端には、4階建てのビル状の建屋と煙突が見えているが、その向こう側には西武新宿線が通っている。この建屋の東側面には、夜間に遠くからでも視認できるネオンサインが設置されているが、文字がボヤけていて判読できない。
西武線の向こう側にある煙突は、指田精製所(ガーゼ・繃帯・脱脂綿工場)の第1工場ないしは第2工場のものだろ。この指田精製所の南側までが下落合1丁目であり、旧・神田上水をはさんださらに南側は戸塚町3丁目(現・高田馬場3丁目)のエリアとなる。写真ではわかりにくいが、戸塚町エリアに商店の看板建築や斜めに並ぶ家屋が見えているが、高田馬場駅前へと抜ける栄通りだ。また、画面手前の右端には、冒頭写真と同様に大黒葡萄酒社員寮の南端がとらえられている。手前左下に見えている傾斜した屋根は、勝山鉄工所の一部だろう。
つづいて、下落合の目白通りをとらえた写真ということで掲載されていたのが、クルマがいきかう交差点を撮影したものだ。これも、ひと目ですぐにどこだかわかった。この写真が撮影されてから24年後、南長崎の学生アパートを出て、この交差点を毎日歩きながら、わたしは学校やアルバイト先へ通うことになる。目白通りと山手通りが交差する、いま風にいえば南長崎1丁目の交差点だ。通りの右手が下落合3丁目(現・中落合2丁目)で、カメラマンのいる位置も下落合3丁目だが現在は中落合3丁目、通りの左手が椎名町2丁目(現・目白5丁目)で、画面の左側を走るフォルクスワーゲン※のさらに左枠外が椎名町3丁目(現・南長崎1丁目)ということになる。
※読者の方より、写っているのはフォルクスワーゲンではなく、「ルノー4CV」ではないかとのご指摘をいただいた。当時、日野自動車が部品をフランスから輸入し日本で組み立てていた製品で、記事末に写真を掲載させていただいた。




画面を細かく観察すると、交差点の椎名町2丁目の角地には、「明治アイスクリーム」など看板類が見えているが、当時は菓子屋または食料品店だったものだろうか。わたしの学生時代はリサイクルショップであり、目白通りをはさみ右手(南側)の角地がタバコ屋と小川自動車、その向こうには婦人服店やオモチャ屋が並んでいたが、当時の角地は「小川自動車」「美濃屋」「ふくや」「関建設」「徳箪笥店」などの商店が開店していた。また、カメラマンの右手枠外にはトキワ荘のマンガ家たちで有名な、開店して8年目の喫茶店「EDEN」(2002年に閉店)が、またカメラマンの左手には開店4年前の喫茶「ヴィオレ」(現存)の街角があるはずだ。ただし、現在の山手通りは拡幅されているので、同じような距離感では交差点を撮影できない。
最後の1枚は、落合地域ではないが高田馬場駅の「高田馬場銀座商店街」を撮影した、諏訪町側の商店がとらえられためずらしい写真だ。西武新宿線のガード下から、東を向いて早稲田通りを撮影している。名称は、高田馬場「駅前」商店街でいいと思うのだが、なぜよその京橋地域にある地名「銀座」をつけるのだろうか、この疑問は以前の記事にも書いた憶えがある。道路の真ん中には、都電の高田馬場電停があり、電車を待つ人々が並んでいる。
通りの右手(南側)は諏訪町の商店街で、いちばん手前の店は面白いことに「アイス」のネオン看板のある食品店か菓子屋のようだ。1956年(昭和31)の当時、目白通りの看板といいアイスクリームがブームだったのだろうか。つづいて、薬屋や歯科医などの看板が並び、密な商店街を形成していた様子がうかがえる。早稲田通りの右手奥に見えている、樹木が繁る一画は戸塚第二小学校だ。すなわち、右手に写る諏訪町の商店街は1970年(昭和45)ごろまで存続したが、1971年(昭和46)には駅前広場を建設するため、すべてが解体撤去されている。
通りの反対側(北側)には、アーケードのある戸塚町3丁目から2丁目(ともに現・高田馬場2丁目)にかけての商店街が並んでいる。このアーケードが途切れるあたり、高田馬場電停の東端あたりから、北へと入り神高橋へ向かう道筋が隠れている。当時は高いビルやマンションがなく、空が広く抜けて見晴らしはいいが、都電の架線が上空に張りめぐらされていてちょっと煩わしい。戦後、都電の架線が広く東京の各地で密に張られたせいで、社(やしろ)の神輿や山車の高さが規制され、本来は5m以上もあった山車などが練り歩けなくなった街が少なからずあった。
最後の1枚は、落合地域ではないが高田馬場駅の「高田馬場銀座商店街」を撮影した、諏訪町側の商店がとらえられためずらしい写真だ。西武新宿線のガード下から、東を向いて早稲田通りを撮影している。名称は、高田馬場「駅前」商店街でいいと思うのだが、なぜよその京橋地域にある地名「銀座」をつけるのだろうか、この疑問は以前の記事にも書いた憶えがある。道路の真ん中には、都電の高田馬場電停があり、電車を待つ人々が並んでいる。
通りの右手(南側)は諏訪町の商店街で、いちばん手前の店は面白いことに「アイス」のネオン看板のある食品店か菓子屋のようだ。1956年(昭和31)の当時、目白通りの看板といいアイスクリームがブームだったのだろうか。つづいて、薬屋や歯科医などの看板が並び、密な商店街を形成していた様子がうかがえる。早稲田通りの右手奥に見えている、樹木が繁る一画は戸塚第二小学校だ。すなわち、右手に写る諏訪町の商店街は1970年(昭和45)ごろまで存続したが、1971年(昭和46)には駅前広場を建設するため、すべてが解体撤去されている。
通りの反対側(北側)には、アーケードのある戸塚町3丁目から2丁目(ともに現・高田馬場2丁目)にかけての商店街が並んでいる。このアーケードが途切れるあたり、高田馬場電停の東端あたりから、北へと入り神高橋へ向かう道筋が隠れている。当時は高いビルやマンションがなく、空が広く抜けて見晴らしはいいが、都電の架線が上空に張りめぐらされていてちょっと煩わしい。戦後、都電の架線が広く東京の各地で密に張られたせいで、社(やしろ)の神輿や山車の高さが規制され、本来は5m以上もあった山車などが練り歩けなくなった街が少なからずあった。





これらの写真から70年後の現在、下落合の工場たちは本社機能だけ残して、ほとんどすべてがよそへ移転していなくなり、目白通りと高田馬場駅前の商店街は高層化が進み、ほぼ全体がビル街となっている。当時の面影を残している個人商店も、その多くがビルの谷間になってしまいあまり目立たないが、そういう店には地元ならではの味わいがあるので利用するようにしている。
◆写真上:1956年(昭和31)に撮影された、下落合から戸塚町にかけての工場地帯。
◆写真中上:上は、1957年(昭和32)の空中写真にみる同工場地帯。中上は、1963年(昭和38)の空中写真にみる大黒葡萄酒社員寮で、日立製作所の目白ハウスが完成しているのが見える。中下は、2007年(平成19)撮影の日立目白ハウスで、右手のマンションは大黒葡萄酒の跡地に建つ高田馬場住宅。下は、位置を少し東に変えて撮影された同工場地帯。
◆写真中下:上は、1955年(昭和30)に改修が完了した直後の旧・神田上水山手線鉄橋。中上は、1963年(昭和38)撮影の空中写真にみる工場地帯。中下は、1956年(昭和31)に撮影された目白通りと山手通りの交差点。下は、「南長崎1丁目交差点」と名づけられた現状。
◆写真下:上は、1956年(昭和31)の空中写真にみる目白通りと山手通りの交差点。中上は、1963年(昭和38)の空中写真にみる同所。中中は、1956年(昭和31)に西武線のガード下から撮影された高田馬場銀座商店街。中下は、1957年(昭和32)の空中写真にみる同所。下は、同所の現状。
★おまけ
旧・神田上水沿いへ、東京市街地から多くの工場が進出してくる以前に撮影された同上水沿いの風景。上から下へ、大正期に撮影された『江戸名所図会』でも有名な一枚岩(ひとまたぎ)。田島橋の上流へ530mほどの、下落合駅に近接していた鉄道変電所跡あたりにあった。(AI着色) 次は、上落合の月見岡八幡社(旧位置)の東側で撮影された大正期の旧・神田上水で、同八幡社は画面の左手枠外。下は、昭和初期に旧・神田上水の駒塚橋から下流を撮影した風景。(AI着色+精細化)
◆写真中上:上は、1957年(昭和32)の空中写真にみる同工場地帯。中上は、1963年(昭和38)の空中写真にみる大黒葡萄酒社員寮で、日立製作所の目白ハウスが完成しているのが見える。中下は、2007年(平成19)撮影の日立目白ハウスで、右手のマンションは大黒葡萄酒の跡地に建つ高田馬場住宅。下は、位置を少し東に変えて撮影された同工場地帯。
◆写真中下:上は、1955年(昭和30)に改修が完了した直後の旧・神田上水山手線鉄橋。中上は、1963年(昭和38)撮影の空中写真にみる工場地帯。中下は、1956年(昭和31)に撮影された目白通りと山手通りの交差点。下は、「南長崎1丁目交差点」と名づけられた現状。
◆写真下:上は、1956年(昭和31)の空中写真にみる目白通りと山手通りの交差点。中上は、1963年(昭和38)の空中写真にみる同所。中中は、1956年(昭和31)に西武線のガード下から撮影された高田馬場銀座商店街。中下は、1957年(昭和32)の空中写真にみる同所。下は、同所の現状。
★おまけ
旧・神田上水沿いへ、東京市街地から多くの工場が進出してくる以前に撮影された同上水沿いの風景。上から下へ、大正期に撮影された『江戸名所図会』でも有名な一枚岩(ひとまたぎ)。田島橋の上流へ530mほどの、下落合駅に近接していた鉄道変電所跡あたりにあった。(AI着色) 次は、上落合の月見岡八幡社(旧位置)の東側で撮影された大正期の旧・神田上水で、同八幡社は画面の左手枠外。下は、昭和初期に旧・神田上水の駒塚橋から下流を撮影した風景。(AI着色+精細化)



★コメント関連





この記事へのコメント
sakura
「南長崎1丁目交差点」貴重な写真ありがとうございます!
ちょっと気になったのですが・・・
これもしかして逆方面から見た絵ではないでしょうか?秋元商店さん側から西方向を撮影。
左のアイスクリーム看板は平屋の頃のエデン、右側の大きな四角い建物は「目白映画」なのではと・・・
エデンは建設当初は平屋で昭和33年(1958年)前後で改装されて屋上にネオンの看板が完成という証言があります。
さらにその後に建替えられた?
そうだとすると写真が現存していない「目白映画」の地上からの唯一の写真ということになりそうですが・・・
落合道人
ご指摘の目白通り写真ですが、交差点の西側から東側を向いて撮影したと判断したのには、いくつかの理由がありました。ひとつは、太陽光線の射しぐあいです。撮影日はやや薄曇りの天候だったものか、クッキリとした陰影が形成されていませんが、デッサン的な見方をしますと、光線はカメラマンのやや右手(南側)の上方から射しているように思えます。左手に写る、屋上家のようなかたちをした三角切妻の斜め屋根を観察しますと、その傾向が強いように思われます。
もうひとつは、当時のこの交差点における“隅切り”のテーマです。これは、山手通りが拡幅されるはるか以前、わたしの学生時代にも同様だったように記憶していますが、喫茶店「エデン」側の角地(隅切り)はかなり小さく、また建物がいくつか建てこんでいた記憶があります。そして、北東側にあたる対角の隅切りは、サイズの大きめな看板が斜めに設置できるほどの規模だったことです。学生時代は、取り扱い商品を列挙したリサイクルショップの看板が、斜めに大きく掲げられていました。
記事中に掲載した、撮影年と同じ1956年の空中写真はやや不鮮明でしたが、翌年の1957年に撮影された空中写真は、前年よりもやや鮮明にとらえられています。また、交差点北東側の規模が大きな隅切りにあった看板が、比較的目立ってとらえられた、1961年の空中写真を見つけましたので記事末に掲載しました。併せてご参照ください。写真にとらえられたバスの行き先が、ぼやけすぎて読み取れないのがもどかしいのですが。
sakura
ご回答ありがとうございます!
なるほど、光線の差し具合は盲点です!
私が平屋の頃のエデンと思ったのは、看板の上からのぞく建物のケラバの方向が航空写真の秋元商店さんと違うのでそう感じました。
看板の造作と雰囲気は秋元商店さんですよね。
見えている交差点“隅切り”が広いのも目白映画?側ではないかと考えました。私の記憶では当時も今も何故か交差点の北西側は広かった記憶があります。バスの行き先がみえれば一発ですよね。
何れにせよ、身近な場所の古写真をあーではないか、こーではないかと推察するのはとても楽しいです。
改めてありがとうございます!
落合道人
わたしもあのあと気になって、いろいろ調べてみました。通常は、足と肉眼の調査を優先しているのであまり使いたくはないのですが、ちょっとAIエンジンを活用してみました。普段、画像の着色以外は、ほとんど利用していないAIですが、試しに画像を読みこませて情報を収集してみました。活用したエンジンはGeminiです。
そうしますと、写真にとらえられているボンネットバスは、昭和30年代に都営バスに採用されていた、いすゞ自動車の「BX91」で、目白通りを往来していたのは都バス21系統(現・白61系統)であることがわかりました。また、行き先ですが、AIでは3文字~4文字のバス停名と判断しました。都バス21系統は、始発・終着が新宿側では「新宿駅東口」、練馬側では便によっては「豊島園」「練馬駅」「練馬車庫」の3種類の行き先に分かれていました。肉眼で写真を拡大して観察しますと、行き先は4文字のようにも思えますので、この都バス21系統の行き先表示は「練馬車庫[21]」ではないかと推測できます。
わたしのデッサン力などタカが知れてますので、念のため太陽の位置と方角もAIに訊ねてみましたところ、太陽の位置は上部右寄りのやや後方、方角は右手が南に近いということでした。
てんてん
落合道人
わたしも今回は調べきれないので、Gemini先生の力を借りてしまいました。
sakura
しつこくてスミマセン!どうしても気になってしまい・・・これで最後にしますのでご容赦お願いします。
その後いくつか気付いた点です。
◆看板上の建物、物干し台のようなものが見えます。物干し台とすれば南向きに作る?
◆当時珍しいテレビアンテナのようなものが見える。VHFアンテナだとすれば支柱右側が間隔が広いので左方向に向いていると思われる。当時は紀尾井町に送信所があった。
◆1963年航空写真、横断歩道の線、秋元商店前は交差点ギリに引かれているが、エデン側は交差点から少し離れている。(少し年代が離れますが・・・)
◆もし西側を向いているとすれば、目白映画と考えていたものは現三井住友銀行ではないか?その前には、のぼりのようなものが立ってるように見えるが・・・
◆人が多く歩いており法被を着用しているように見える。お祭りの時期?
◆信号機のゼブラパターンにも注目しましたが、朝日、西日どちらにも対応しているので方角を推測するネタにはなりませんでした。
度々の投稿大変申し訳ありませんでした。
落合道人
たびたびの投稿、歓迎しますのでお気になさらず。w わたしは、今のレベルのAIを基本的に信用していませんので、疑念は持ちつづけています。
おっしゃるとおり、描かれた横断歩道のラインのテーマはわたしもちょっとひっかかりますね。鋭いご指摘です。法被を着用しているらしい人々が角地に集まっているのも、拡大してみて改めて気づいてる始末で、ご教示ありがとうございました。
昭和30年代の当時でいいますと、ここがタバコ屋さんや小川自動車(交差点の南東角)の前だとすれば、この場所には下落合氷川社の「元三睦会」が設置したお神酒所があり、この写真は1956年(昭和31)9月の第2週ごろに撮影された可能性が高いということにもなりそうです。(交差点を西から東を向いているという前提ですがw)
ちなみに、当時の下落合氷川社神輿(元三睦会大人神輿)の渡御順路は、この交差点をさらに西へ進み、旧・第一府営住宅内を抜けて山手通りへ出るというルートでした。(現在もそうかもしれませんが) その前に建てられたのぼりも、氷川社の祭礼に関するものの可能性がありそうです。(もちろん西→東が前提ですが) 今ののぼりから推測しますと、「奉下落合氷川神社例大祭」とでも染め抜かれていたものでしょうか。
その向こう側に見えている、おそらく当時は白い帆布で建物全体に養生がほどこされたビルは、関建設の本社社屋ではないかと考えていました。
NO14Ruggerman
問題となった写真を見てもらい単刀直入に「明治アイスクリーム」看板の建物が「秋元商店」なのか「エデン」の前身かを尋ねてみましたが分からないとの事でした。
ただ「エデン」のマスターは二又交番近隣の牛乳店に勤務後この地に「エデン」を創業した、という貴重な情報を入手できたことを報告します。
マダムはこちらが訊ねたわけではないですが7●歳と自己紹介され元々母親がオープンした、と教えてくださいました。
参考までに以前私が「ヴィオレ」を取材した記事をリンクします(当時店名にはあえて触れませんでしたが)
https://nmt0014.seesaa.net/article/2022-10-02.html
落合道人
先ごろ、椿山荘の雲海の中を歩いて、ビショ濡れになりました。雲海は、やはり上から眺めるものです。w 「ヴィオレ」は懐かしいですね。ときどき飯を作るのが面倒な学生時代、帰宅途中に「ヴィオレ」で済ませていたことがありました。ずいぶんあとあとまで、奥の席にインベーダーゲームが置かれていたのを憶えています。
わたしのほうも、ある方から情報をいただきまして、「明治アイスクリーム」と書かれた看板の店は、パンや菓子を売っていた「イセヤ」(伊勢屋?)ではないか……とのことです。その後、この角地はリサイクルショップ「クリエイション」に変わったのではというご指摘でした。さて、1956年に撮影された同交差点ですが、西からの眺めか東からの眺めなのか、わずか70年前の風景なのに悩ましいですね。
ものたがひ
落合道人
ものたがひさん、コメントをありがとうございます。
電柱の変圧器は、気がつかなかった盲点ですね。現在は、この交差点の東側は電線の地下埋設で通信ケーブル柱しかありませんが、西側は左手、つまり目白通りの南側に変圧器のついた電柱が並んでいます。ただ、通りの北側の電柱は撤去されていますので、1956年現在も通りの南側に変圧器の載った電柱のみが並んでいたかはわかりません。
記事末に、バブル経済で街の様子が大きく変わる以前、1975年現在の空中写真を別角度も含め2枚掲載しました。なにかお気づきの点があれば、お知らせください。
本題とはまったく関係ないのですが、わたしが子どものころJoan Shepherdが唄った「サマー・クリエイション」(1971年)という曲が、異常にヒットしたのを憶えています。確か、ラジオのリクエストランキングで1ヶ月以上にわたり、1位を独占していたように記憶しています。リサイクルショップの名称が「クリエイション」なのは、そのころ開店したものでしょうか。
落合道人
本文中に注釈を加えましたが、記事末にフランスのルノーから部品を仕入れ、日野自動車で組み立て生産をしていた「ルノー4CV」の写真を掲載しておきます。