昭和初期の台所を映した『台所の改善』1932年。

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 昭和初期に、さまざまな家庭の台所(だいどこ)の風景をとらえた、1932年(昭和7)に文部省が監修し制作した『台所の改善』という映画がある。文化村らしいモダンなキッチンから、昔ながらの竈(かまど)に薪をくべてご飯を炊く台所(東京方言の女性言葉では「おだいどこ」)まで、当時の全国各地で見られた炊事の現場が記録されていて面白い。
 撮影された台所には、薩長政府が採用し教育過程に取り入れていた、中国や朝鮮半島の儒教(外国)思想=「修身(道徳)」が広まっていた時代なので(ちなみに江戸東京の城下町では根づかなかった)、「男子厨房に入らず」を奨励していたせいか男子はほとんど画面に登場していない。そもそも同映画自体が、薩長流れの文部省による教育映画なので、女子は家にいて子どもを産み育て男子の世話をするという、「女修身」そのものを表現しているともいえる。
 そのような「修身」に代々違和感を感じていた、この江戸東京地方の人々の事例としては、日本橋の小林信彦や深川の川田順造、正月になると女子は街中へ遊びにでるのがこの街の習いなのを知っていて、たまに威張っている父親のもとから娘を正月遊びに逃がしてくれた麻布育ちの向田邦子の母親、正月料理は男の仕事だった落合町葛ヶ谷(西落合)の郊外事例などなど、折々の記事で少しずつご紹介してきた。この地方へ、よその地方(というか外国そのもの)の社会思想を根づかせようとしても、古くからの社会観や地方・地域文化とからみあった生活観は、100年や200年ではおよそ変わらない。むしろ、史実に沿っていえば江戸後期の小旗本や御家人など、武家の世界でさえそうであったように、街中で主流の風俗や習慣、はては言語にいたるまでが彼らを徐々に侵食して飲みこみ、生活観や生活規範を染めあげていった。
 そんな地元の眼差しで『台所の改善』を観ると、いろいろ不自然に感じることも多い。だが、当時の台所事情やその構造、設備、備品類などが詳しくわかって興味深い。もっとも印象的なのは、農家だろうか暗い台所の壁を打(ぶ)ちこわしている場面だ。流し台の前の土壁をハンマーでたたいて大穴を開け、そこに横すべりする板窓(換気窓)を取りつけているシーンだ。明るい家庭は明るい台所から、明るい家庭は清潔で衛生的な台所から、明朗な家庭は整理整頓された台所から……というのが、この映画に通底するテーマ性のようだ。
 まず、文化村らしい住宅の台所で、なぜか日本髪をていねいに結った着物姿の女性が、子どもたちに与えるミルクを温めている。その背後には、電気レンジやガス炊飯器が見えていて、窓外には木立が見える郊外の文化住宅という設定のようだ。でも、このような洋風生活を送る家庭なら、とうに洋髪に洋服だろうと思うのだが、不自然な日本髪の女性がいかにも子役らしいこまっちゃくれた子どもたちにミルクを注ぐ。そのテーブルの上には、ガストースター(パン焼き機)が載っている。再び台所が映り、流しに目をやるとタイルと金属(ブリキかスズ?)を貼った製品のようで、流しの下には米櫃や調理器具を入れておく収納がついている。また、流し横には電気温水器の設置されているのが見える。電気レンジやガストースター、電気温水器はいずれも高価な製品だ。
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 次に、当時の一般家庭と思われる台所の情景が登場する。いかにも役者やモデルではなく、ふつうの主婦が台所に立って炊事をしている情景が記録されている。ガス炊飯器でご飯を炊き、ガスコンロでおかずを調理している。井戸水のポンプアップではなく、台所に水道は引かれているようだが、水にこだわりがあるのか、お茶を淹れるときは井戸から汲み置いた美味しい湧水を用いてるらしい。おそらく、郊外に近い立地の家庭なのだろう。流しは石材の花崗岩製のようだが、当時はブリキなどを貼った金属製のものよりも安価だったと思われる。いまでは価値が逆転し、花崗岩製のオシャレな流しのほうがステンレス製のものより高価だろう。
 当時の一般家庭には、高価な換気扇など手軽に設置できない時代だから、炊事設備から立ちのぼる煙抜きや換気には、煙突や臭突が不可欠だったろう。ちなみに、わたしが子供のころには、臭突はトイレの換気=臭い抜き用に設置している家庭がほとんどだった。また、水切りも今日のような製品が少なかったため、竹製のザルや金網カゴで代用するか、あるいは洗い終えた食器を置く流しの横へ、水気が下へ落ちる簀の子(すのこ)を敷いたり、流しへ水滴が流れるよう傾斜のある金属の天板がついた、台所用の収納棚などが普及していたようだ。
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 つづいて、明るく清潔な台所に加え、炊事場の整理整頓と炊事の効率化がうたわれている。調理器具や食器類が雑然と置かれた状態から、DIYで棚を作りつけたり食器棚を購入したりして、効率的で使いやすい台所にしようと提案している。調理器具や食器類を、整理整頓して衛生的に管理しようという趣旨には賛同するが、ここで個人の趣味にまで踏みこむ、食器の種類や揃え方まで国家が勧奨するのは大きなお世話だと感じる。和食が好きで、小鉢に楽しく美しく盛りつけたい多彩な料理を作ったとして、1枚の洋皿にみんな盛りつけてハイおしまいでは、いかにも個々人の食事の楽しみ方や趣向(ないしは嗜好)を無視した提案だろう。映画では、いろいろな形状の和食器を棄てて洋食器を揃えれば、洗い皿の数が減って効率化できるといいたいようだ。
 さらに、和食器を使って配膳した料理と、洋食器を使って配膳した料理の対比映像まで見せているけれど、焼き魚と煮物(サトイモなど野菜の煮っころがし?)を、洋食器の平皿へいっしょに並べて盛りつけてしまうのは、いくらなんでもありえないだろう。焼き魚を食べてるうちに、煮物の煮汁が魚のほうへ流れてきそうで、ちゃんと料理別に食器は分けるべきでしょ。そういう味わいの楽しみや、器(うつわ)も含めた料理の視覚的な楽しみを(すなわち個人の趣味嗜好を)台無しにする、平皿を中心とした洋食器一辺倒のお薦めと妙ちくりんな効率化は、まったく納得できない。洗う皿の数が4~5枚増えたって、楽しく美しく食卓を囲めれば別にいいじゃん……と思ってしまうのだ。
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 日本の台所と対比させるためか、欧米の台所も登場している。どこかの国の、大使館員の家庭を取材したもののようだが、整然としたキッチンで主婦が皿をふいて戸棚に収めるシーンが紹介されている。そこに、和食と洋食では主食はもちろん、料理自体や食文化が大きく異なるのだから、それにあわせて台所の設備や食器がちがうのは当然でしょ……というような大前提の視点は、いともたやすく捨象されてしまっている。これも、薩長政府以来の欧米かぶれの残滓がつづいていたものだろうか、まことに困った政府による欧米の文化や習慣の押しつけだ。
 そのほか、主食であるご飯を炊くための、昭和初期の竈(かまど)からガス炊飯器、電気炊飯器などが紹介されているのも面白い。当時は都市ガスが普及しつつある時代なので、台所の主力設備としてガスコンロも大きくクローズアップされている。映画に登場しているガスコンロは、わたしが子どものころまで見かけたタイプのもので、ガス栓をひねりマッチを擦って近づけ点火するものだ。ヘタをすると、ガスが出すぎてやや爆発気味の点火となり、指先が熱かった記憶がある。当時のガスストーブもマッチで火を点ける仕様で、生活にマッチは欠かせなかった。
 また、台所の創意工夫については、配達されたヱビスビールの木箱を工作して、食器収納棚をつくるという映像もあった。木箱の蓋を四角くくり抜き、その板を素材に、縦にした木箱の内側に棚をつくりつけて食器を収納するというものだ。くり抜いた蓋には目の細かな網を張り、虫が中へ入らないように工夫して扉にする。当時は、酒屋へヱビスビール(壜ビール)をダース注文すると、木箱ごと配達されていた。もちろん、木箱と空き壜は酒屋へ返すリターナブルの仕組みだったろうが、木箱を買うか譲り受けるかしてこしらえたものだろう。でも、まるで岡持ちのような外観で、合理主義者だった金山らく夫人には受けるかもしれないが、一般家庭ではいかがなものだろうか。
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 「台所改善講」という講(組合)があったのを、この映画で初めて知った。台所を大がかりに改善する資金を少しずつ積み立てたり、工務店がなく大工がいない農村などでは同講が組合化されて存在し、先述の台所の土壁に穴を開けて窓を設置するような大がかりな工事や、排水溝あるいは汚水槽を設置するなど、一家庭だけでは対応しきれない資金や工事を改善講中のメンバーが集まり、協力しあって作業を行うという仕組みだったようだ。映画の製作意図やテーマ性はさておいて、1932年(昭和7)当時の台所の様子や設備を知るには、きわめて貴重な映像資料といえるだろう。

◆写真上:洋風の住宅で、なぜか和装の主婦が子どもたちの食事を用意している。このシーンだけわざとらしい表情や動作がつづくので、演じているのは役者だろう。
◆写真中上:上は、農家の台所の土壁を打(ぶ)ちこわして窓を設置する様子。中は、文化住宅のシーンでわざとらしい子役の前にはガストースターが置かれ、台所の流しの左上には電気湯沸かし器が見える。下は、一般家庭の台所風景でガスを燃料にした調理器具が並ぶ。だが水にこだわりがあるのか、お茶を淹れるときは汲み置きの湧水のようだ。
◆写真中中:上は、花崗岩製とブリキなど金属板を貼った流し。中は、煙抜きのために設置された台所の煙突や臭突。下は、流しで洗った食器を置く水切り台。金属の水切りに下部が簀の子仕様のものや、流しに向けて傾斜のついた水切り台がめずらしい。映像を観察すると氷を入れて食物を保存しておく、初期型冷蔵庫を備えた流し台もあったことがわかる。
◆写真中下:上は、調理器具が雑然と置かれた台所と整理整頓された台所×2葉の比較。中は、いろいろな形状の和食器と単純な平皿のみの洋食器との比較。下は、和食器と洋食器を用いた配膳の比較だが、どう見ても和食器を用いたほうが調和がとれて料理が美味しそうに見える。
◆写真下:上は、欧米の台所×2葉で上段の映像の奥には当時は非常に高価だった電気冷蔵庫が見えている。中は、江戸期と変わらない昔ながらの竈(かまど)によるご飯炊き、ガス炊飯器(瓦斯竈)、そして電気炊飯器(電熱竈)。下は、ヱビスビールの空き木箱を利用した食器棚の工作例。
★おまけ
 林芙美子・手塚緑敏邸の台所にある、花崗岩の流し台と下にしつらえられた収納庫(米櫃)。
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この記事へのコメント

  • てんてん

    (。・ω・)ノ゙ Nice‼です♪
    2026年09月28日 21:53
  • 落合道人

    てんてんさん、コメントをありがとうございます。
    東京はきょうも雨ですが、どうやら秋の長雨最長記録になったようです。
    2026年09月29日 10:10
  • かしわぎ

    冠婚葬祭に使う高価な食器を集落(講)で共有する「共同膳椀」という仕組みをどこかの郷土資料館で見たことがありますが、台所改善講もその流れと関係あるかもしれないですね。
    2026年09月29日 19:11
  • りく

    こんばんは。
    下落合関連の情報を検索していて偶然こちらのサイトを見つけました。
    私は数年前より下落合に住んでおりまして、このあたりは昔どんな場所だったのかなと、記事を楽しく拝見しています。

    気になったのですが、なぜ下落合に着目されたのでしょうか。
    そのあたりの理由が書かれているかなと思いまして、プロフィール欄やカテゴリも拝見しましたがたぶん書かれてはない?のでしょうか。

    新宿区の範囲でもなく、目白や高田馬場でもなく、落合、しかもピンポイントで下落合を取り上げられ、これほどたくさんの記事を書かれていることに感銘を覚えるとともに、なぜこのエリアなのだろうともやはり疑問に感じています。

    もしそういった関連の記事を書かれていたらどの記事なのか、あるいは書かれていないけれども回答することに差し支えがないようでしたら理由を伺ってみたいです。

    ご検討よろしくお願いいたします!
    2026年09月29日 19:28
  • 落合道人

    かしわぎさん、コメントをありがとうございます。
    1995年(平成7)に新宿区教育委員会から出版された『落合の民具』には、講中で共用するハレの日の豪華な食器類などが紹介されていますね。近々、明治から大正初期ぐらいにかけての、落合地域の食生活や食器について、書いてみたいと考えています。
    2026年09月29日 20:53
  • 落合道人

    りくさん、コメントをありがとうございます。
    落合地域に惹かれたのは、高校時代に何気なく観ていたTVドラマからでした。1973~74年にかけての、下落合(ロケ地)が舞台のドラマだったのですが、緑が多く落ち着いた街並みに惹かれたのが最初のきっかけです。
    https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2007-11-09.html
    落合地域は新宿区の「僻地」のような片隅ですが、当時に比べ緑は減少しているものの、夏にはカブトムシやオニヤンマが飛びかい、アオダイショウやタヌキが棲息し、神田川にはアユがさかのぼる、とても新宿とは思えない環境が気に入っています。
    わたしの故郷は緑が少なく、東京オリンピック1964以降は騒がしくてイヤなので、気に入ったこちらに住むことにしました。なぜ下落合なのかですが、理由はたくさんあります。初期のころは、旧石器時代から各時代を通じて現代まで、絶えず人が住みつづけてきた地域であること。神田川と神田明神(うちは同社の氏子です)とが、“水脈”でストレートにつながっていること。
    そして、学生時代から気に入って買っていた、パンの神田精養軒の本社+店舗+パン工場が下落合(現・中落合/中井含む)にあったことなどでしょうか。神田精養軒は、幕末から築地の西洋館(精養軒)ホテルでパンを焼き、そのベーカリー部が独立して神田に設立した、日本で最古のパン屋でした。残念ながら、廃業してしまいましたが……。
    それ以降、この地域の歴史や暮らした人々の情報を知るにつれ、住むならここだと決めていました。そのほかの理由は、これまで記事にいろいろ書いてきましたので、お時間があるときにでもつれづれご笑覧いただければと思います。
    2026年09月29日 21:12

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