目白の山村聰と二二六事件の林少尉は隣り同士。

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 ずいぶん以前に、下山事件から4年半後の1954年(昭和29)に公開された『黒い潮』(監督:山村聰/日活)や、ヘラブナ釣りの太公望としてご紹介していた山村聰だが、彼が目白駅のごく近くに住んでいたと知って驚いた。その隣家は、二二六事件の蹶起将校で麻布一連隊の機関銃隊に所属し、将校連では最年少の21歳で処刑された林八郎少尉の実家だ。
 なぜ、拙ブログに下落合を舞台にしたTVドラマ『さよなら・今日は』(NTV/1973~74年)をはじめ、山村聰関連の記事が何度も登場するのかといえば、わたしがこの知的で孤独を好み、少々ヘソ曲がりで偏屈な俳優が好きだからだろう。原体験は、おそらく小学生のときに初めて観るのを許されたTVドラマ『ただいま11人』(TBS/1964~67年)の後半シリーズに、そもそもベースがあるのではないかと思う。ただし、いまから考えると、そのひとつ前に放映していた向田邦子が脚本を書き、森繁久彌が主演していた『七人の孫』を観られなかったのは残念だ。もっとも、小学生の低学年では、観ていたとしても記憶に残らなかっただろうが。
 下落合を舞台にした先のドラマでは、共演した山村聰と森繁久彌の脚本にはないアドリブ海軍芝居が傑作だった。1970年(昭和45)に米国映画『トラ・トラ・トラ!』(20世紀フォックス)で、山本五十六役を演じた山村と、向田邦子も脚本を書いていたドラマ『だいこんの花』(NET/1970~77年)で、巡洋艦「日高」(重巡か軽巡かは不明)の退役艦長役だった森繁との、真珠湾攻撃をめぐる空母と戦艦の漫才のようなやり取りは、高校生だったわたしにも爆笑シーンだった。もちろん、おかしなことをいうボケ役は森繁久彌で、突っこみ役が山村聰だった。
 山村聰の本名は古賀寛定といい、下落合のすぐ北側の目白駅まで徒歩3分(直線距離で230m)、豊島区目白町3丁目3570番地(現・目白3丁目)に住んでいた。ここから一高、あるいは東京帝大へ通っていたのだろう。父親は漢学者だったというが、詳しいことは資料にも書かれていないし、本人も書籍やインタビューなどで家族のことはほとんど語ってはいない。山手線の線路に近かった目白町3丁目の同エリアは、1945年(昭和20)4月13日夜半の第1次山手空襲で全焼しているので、戦後すぐに麻布富士見町へ転居したのかもしれない。
 現在の街並みでいうと、目白駅前から山手線の線路沿いを池袋方面へ歩き、MKジム手前の道を西へ左折して最初の十字路の北西角、現在のマンション「ベルクールグラン」とその西隣りの半分ぐらいまでの敷地が、1945年(昭和20)4月までの古賀邸跡だ。
 この事実を知ったのは、1938年(昭和13)に東京府立第四中学校(=府立四中/現・都立戸山高等学校)を卒業した宮島貞弘という人が、1988年(昭和63)に出版された『府立四中・都立戸山高百年史』(百周年記念事業実行委員会)へ、戦前の自宅周辺に住んでいた人々について寄稿していたからだ。同書に収録された、宮島貞弘『目白駅付近の四中生』から引用してみよう。
  
 私は四中生の頃、目白駅近くの目白三丁目(ママ:目白町3丁目)に住んでいた。現在の目白駅は他の国鉄駅と違い昔のおもかげがまだ残っている。/私の家の前に住む古賀氏は漢学者とかで、長兄は東大生、次男は慶應の医学生で、次男とは街角でよく話をした。長兄がその後性格俳優となった山村聰である。その隣の林家は固く門を閉ざして近所の人とは余り交際がなかった。この林家の長男、次男が共に四中の先輩で、次男の八郎氏は陸軍に入り、二・二六事件の叛乱将校となった。処刑の日の夕刻ひつぎがひっそりともどって来た。法律の禁ずる所とかで葬儀は一切行われなかったが、何とも言えない妙な気分であった。(カッコ内引用者註)
  
 この文章から、宮島貞弘という人が住んでいたのは古賀邸の二間道路をはさんで南側、目白町3丁目3553番地の家だったことがわかる。ちょうど彼が府立四中を卒業した年、1938年(昭和13)に作成された「火保図」を参照すると文章に書かれたとおり、宮島邸の向かいの目白町3丁目3570番には古賀邸が、その西隣りの同番地には林邸を見いだすことができる。
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 山村聰は、一高時代から東京湾でのハゼ釣りが趣味だったというから、戦後の本格的な釣りへの傾倒は目白時代から芽生えていたのだろう。独特な性格から友人が少なく、孤独を好む古賀寛定(山村聰)にはピッタリな趣味だったのではないか。戦後、数少ない友人の森雅之山田典吾夏川静江三國連太郎らとともに「現代ぷろだくしょん」を設立し、原作が小林多喜二の『蟹工船』(1953年)は戦後最初の代表作となった。余談だけれど、1982年(昭和57)ごろだったか、当時は新宿御苑の近くにあった現代ぷろだくしょんにお邪魔し、山田典吾・火砂子夫妻にお会いしたことがあった。どういうめぐりあわせか、現在の同社は中井駅近くの上落合にある。
 有島生馬の息子だった、森雅之の“殿様釣り”は以前にご紹介していたが、山村聰の釣りにまつわる相模湾でのエピソードは多い。夏の稲村ヶ崎で釣りをし、陽光を浴びすぎて日射病(当時は「熱中症」とはいわない)になってしまった逸話も残っている。1980年(昭和55)に河出書房新社から出版された『自然読本・魚』収録の、山村聰『思い出の釣り-稲村ヶ崎の夏-』から引用しよう。
  
 突然。凄まじい発熱である。顔から肩、腕、股、ふくらはぎ、足の甲など、夏の直射に曝された部分が無惨に腫れ上り、搏動性の疼きが、とめどなく全身をつらぬいた。どう姿勢をかえてみても、我慢のしようがなく、痛みは募るばかりである。夜中に医者の来診を乞い、全身、繃帯で簀巻にされたが、猛烈な全身の火傷であった。火によるものと全く同じである。赤黒く腫れ上り、方々崩れて血膿を出した。/真黒に肌を焼くのは、毎年のことである。湯がしみて風呂へ入れないぐらいは、いつものことであったが、日焼けがここまで行き届くとは信じがたいことであった。オリーヴ油の効果であったにちがいない。何のことはない、油をくれながら、天日の下で、体をステーキしてしまったのである。翌日の仕事は、それこそ、地獄の責苦であった。
  
 当時はサンオイルなど発売されておらず、オリーヴオイルで代用していたのがわかる。これはわたしも何度か憶えがあって、子供のころ時間を忘れて6~7時間も海やプールで遊び、帰宅してから痛くて湯船につかれないのはもちろん、夕食を食べたあと嘔吐して高熱をだしたことは一度や二度ではない。でも、不思議なことに身体が徐々に順応してくるのか、同じことをしても平気になっていった憶えもある。わたしが遊んでいたのは、稲村ヶ崎から16~17kmほど西の海岸線だ。
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 さて、これまで二二六事件については岡田首相が避難してきた下落合3丁目1146番地の佐々木久二邸や、上落合1丁目512番に実家のあった竹嶌継夫中尉、同じく下落合1丁目299番地に実家(本籍地)があった田中彌大尉などをご紹介してきた。ここにもうひとり、ごく近くの目白町3丁目3570番地には、林八郎少尉の自宅があった。蹶起した現役の青年将校15名のうち、3名の自宅や実家、あるいは元・実家(本籍地)のある地域へ、岡田啓介は避難してきたことになる。もちろん当時、そんなことは知るよしもなかっただろう。
 青年将校たちの中では最年少だった林八郎は、二二六事件の当時は21歳だった。前年の1935年(昭和10)に、陸軍士官学校を卒業(第47期)したばかりで、事件当時は第一師団歩兵第一連隊の機関銃隊に勤務していた。父親は、上海事変で戦死した林大八少将だ。また、兄は一高生時代に「青年共産同盟」に関係して、一高を退学処分になっていた。そして、林八郎は兄から財閥や軍閥が跋扈し、戦争を起こすことで肥えふとり国民の貧富の差がますます開きつつある、大日本帝国の本質的な矛盾をさんざん聞かされて育ったとみられる。
 北一輝の思想は常に更新されており、大正中期に書かれた『日本改造法案大綱』はもはや古く、二二六事件が起きた当時の思想は、彼なりに理想社会をめざす社会科学的な方法論として、マルクス主義を意識したものになっていたと思われる。ただし北一輝の場合は、いつ起きるかわからない民衆(プロレタリアート)による蜂起の夢想ではなく、あらかじめ武装した軍隊をフロントにすえた蹶起(クーデタ)を想定する、より現実的で具体的な方法論だったとみられる。
 二二六事件で林八郎少尉は、同じ麻布一連隊機関銃隊の栗原安秀中尉とともに首相官邸を襲撃している。蹶起が失敗したあと、のちに林少尉は獄中でいくつかのメモを綴っている。その中には、陸軍の皇道派とみられた責任のがれの将軍たちに対し、「腰抜けなり。とても自ら進んで難局に立たんとする者などなし。(中略) 中央部に蟠居する幕僚は自家中心権力至上主義の権化なり」と批判した。また、日本の将来については、「結末は吾人等を踏台に躁繭(そうけん)して幕僚ファッショ時代を現出するなるべし」と、日本型ファシズム=軍国主義化を正確に予見している。
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 山村聰が、目白(学生時代)の思い出を書いた文章をわたしは知らないが、もしあるとすれば映画作品についてのインタビュー時にでも、記者の質問に答えて話しているのかもしれない。1973年(昭和48)秋からスタートした下落合が舞台の『さよなら・今日は』の台本を受けとった山村聰は、「なんだ、住んでた家のすぐ近くの話じゃないか」と、遠くを見る目を細めただろうか。ひょっとすると、馬ばかり彫って有名な近所の彫刻家・三井高義のことも、知っていたのかもしれない。

◆写真上:1953年(昭和28)に公開された、製作・山田典吾で監督・山村聰の『蟹工船』。
◆写真中上は、1938年(昭和13)作成の「火保図」にみる古賀邸や林邸とその周辺。中上は、古賀邸跡の現状(道路右手)。中下は、TBSドラマ『ただいま11人』(1964~67年)の広報スチール。は、1954年(昭和29)制作の『黒い潮』(監督・山村聰/日活)。
◆写真中下は、1954年(昭和29)制作の『山の音』(監督・成瀬巳喜男/東宝)で共演は原節子中上は、1967年(昭和42)に制作された『日本のいちばん長い日』(監督・岡本喜八/東宝)で米内光政役の山村聰と共演の三船敏郎。中下は、1970年(昭和45)制作の米国映画『トラ・トラ・トラ!』(日本側監督・舛田利雄&深作欣二/20世紀フォックス)では山本五十六の役で共演は芥川比呂志は、茨城県の水郷地域でひとりヘラブナ釣りをしていた山村聰。
◆写真下は、1951年(昭和26)に映画制作会社「現代ぷろだくしょん」を設立した仲間の山田典吾()と森雅之()。は、1978年(昭和53)放映のTOYOTAクラウンのCMで共演は吉永小百合は、二二六事件でともに首相官邸を襲撃した林八郎少尉()と栗原安秀中尉()。

この記事へのコメント

  • てんてん

    吉永小百合さん、綺麗ですね♪
    2026年04月04日 22:08
  • 落合道人

    てんてんさん、コメントをありがとうございます。
    同感です! こちらは、雨と強風でサクラはあらかた散ってしまいました。
    2026年04月04日 22:27

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