
目白駅の構内から、ポスターや看板など広告類がいっさい消えたことがあった。1962年(昭和37)3月にスタートした「花いっぱい運動」の流れから、目白駅のホームや駅周辺に多彩な花々が植えられ、ほぼ同時に「目白駅美化同好会」が発足している。
目白駅美化同好会の大もとになる母体は、目白・下落合地域に住んでいた人々により、1946年(昭和21)11月に結成された目白文化協会だろう。同協会の会長も、また目白駅美化同好会の会長も目白町4丁目41番地(現・目白3丁目)に住む徳川義親だった。目白駅は、1964年(昭和39)に開催された東京オリンピックにあわせ、大規模な改装工事を行っているが、当時の駅長・松谷正博は目白駅美化同好会からの要請をうけ、改装工事を契機に駅の構内から広告類をいっさい排除している。今日の株式会社化したJR東日本では考えられないことだが、当時は運輸省の外郭公共団体だった日本国有鉄道(国鉄)だからできたことだろう。
駅改築と東京五輪の年に書かれた、目白駅美化同好会の声明には以下のように書かれている。
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目白駅は私たちの玄関口です。またお互いのなつかしいこころの故郷でもあります。(中略) みんなでここに花壇をつくり、壁には美術作品をかざって、朝夕の私たちはもちろんのこと、ここを訪れる方々にも、美しい雰囲気と、憩いのひとときをわかちあいたいものと話がもち上がりました。(中略) お互いの暮らしの中にも、しあわせの種子をまくために、格別のご支援とご協力をお願い申し上げます。/昭和三十九年四月
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この動きは、下落合で「落合新聞」を刊行していた竹田助雄も以前から注目しており、1963年(昭和38)7月12日に発行された同紙のコラム欄「翠ヶ丘」でも、駅舎とともに大改装を終えたばかりの、幅の広い新跨線橋の写真とともに紹介されている。同日の落合新聞より引用してみよう。
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「目白駅美化同好会」を結成し、美化運動が盛り上っている。(中略) 目白界隈の婦人会、町会ことごとくが音頭とり。新しく延長されたホームには花壇を設け、通路には画廊をつくる、ところどころに花立も備える。目白駅は明治十八年三月二十六日開業で山手線でも最も古い方、むかしから文化駅としての名が通ってきた。松谷正博駅長さんは「ポスターを貼れば収入にはなるが、それよりも文化駅にふさわしい雰囲気を作りたい」と大変うれしそう。また同好会でも「ここを訪れる一人でも多くの方が同志になりお互の暮しの中に美しい種子をまこう」と訴えている。花は目白町三丁目大和種苗の石田一平さん、画は下落合二丁目西原比呂志画伯がそれぞれ世話役。
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このあと、目白駅美化同好会の運動は実をむすび、目白駅や国鉄側の協力で同好会側が提案していた計画がほぼそのまま実現している。1963年(昭和38)の夏には延長されたホームに、レンガで造られた花壇が設置され、同年10月11日からは新築の跨線橋に絵画5点がさっそく展示されている。最初の目白駅画廊展に出品された絵画は、根岸情治『黒い壷の幻影』、吉田遠志『くらげ』、西原比呂志『浜』、西原比呂志『浅間山』、吉田ふじを『花』の5点で目白文化協会のメンバー画家が中心のようだ。目白駅画廊の作品架け替えは、当初1ヶ月のサイクルを予定していた。
だが、1ヶ月ごとに全作品を架け替えるとなると画家の制作負荷も、また目白駅や同好会の仕事の手間もかかるので、当面は上記5点の展示のままとし、画家から展示協力の申し出があった時点で、追加展示あるいは架け替えを行なうことにしたようだ。目白駅画廊のオープンから1ヶ月、1963年(昭和38)11月からは上記5点に加え、長谷川路可(るか)『女の顔』が加わっている。
目白駅美化同好会の大もとになる母体は、目白・下落合地域に住んでいた人々により、1946年(昭和21)11月に結成された目白文化協会だろう。同協会の会長も、また目白駅美化同好会の会長も目白町4丁目41番地(現・目白3丁目)に住む徳川義親だった。目白駅は、1964年(昭和39)に開催された東京オリンピックにあわせ、大規模な改装工事を行っているが、当時の駅長・松谷正博は目白駅美化同好会からの要請をうけ、改装工事を契機に駅の構内から広告類をいっさい排除している。今日の株式会社化したJR東日本では考えられないことだが、当時は運輸省の外郭公共団体だった日本国有鉄道(国鉄)だからできたことだろう。
駅改築と東京五輪の年に書かれた、目白駅美化同好会の声明には以下のように書かれている。
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目白駅は私たちの玄関口です。またお互いのなつかしいこころの故郷でもあります。(中略) みんなでここに花壇をつくり、壁には美術作品をかざって、朝夕の私たちはもちろんのこと、ここを訪れる方々にも、美しい雰囲気と、憩いのひとときをわかちあいたいものと話がもち上がりました。(中略) お互いの暮らしの中にも、しあわせの種子をまくために、格別のご支援とご協力をお願い申し上げます。/昭和三十九年四月
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この動きは、下落合で「落合新聞」を刊行していた竹田助雄も以前から注目しており、1963年(昭和38)7月12日に発行された同紙のコラム欄「翠ヶ丘」でも、駅舎とともに大改装を終えたばかりの、幅の広い新跨線橋の写真とともに紹介されている。同日の落合新聞より引用してみよう。
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「目白駅美化同好会」を結成し、美化運動が盛り上っている。(中略) 目白界隈の婦人会、町会ことごとくが音頭とり。新しく延長されたホームには花壇を設け、通路には画廊をつくる、ところどころに花立も備える。目白駅は明治十八年三月二十六日開業で山手線でも最も古い方、むかしから文化駅としての名が通ってきた。松谷正博駅長さんは「ポスターを貼れば収入にはなるが、それよりも文化駅にふさわしい雰囲気を作りたい」と大変うれしそう。また同好会でも「ここを訪れる一人でも多くの方が同志になりお互の暮しの中に美しい種子をまこう」と訴えている。花は目白町三丁目大和種苗の石田一平さん、画は下落合二丁目西原比呂志画伯がそれぞれ世話役。
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このあと、目白駅美化同好会の運動は実をむすび、目白駅や国鉄側の協力で同好会側が提案していた計画がほぼそのまま実現している。1963年(昭和38)の夏には延長されたホームに、レンガで造られた花壇が設置され、同年10月11日からは新築の跨線橋に絵画5点がさっそく展示されている。最初の目白駅画廊展に出品された絵画は、根岸情治『黒い壷の幻影』、吉田遠志『くらげ』、西原比呂志『浜』、西原比呂志『浅間山』、吉田ふじを『花』の5点で目白文化協会のメンバー画家が中心のようだ。目白駅画廊の作品架け替えは、当初1ヶ月のサイクルを予定していた。
だが、1ヶ月ごとに全作品を架け替えるとなると画家の制作負荷も、また目白駅や同好会の仕事の手間もかかるので、当面は上記5点の展示のままとし、画家から展示協力の申し出があった時点で、追加展示あるいは架け替えを行なうことにしたようだ。目白駅画廊のオープンから1ヶ月、1963年(昭和38)11月からは上記5点に加え、長谷川路可(るか)『女の顔』が加わっている。




さらに、翌1964年(昭和39)2月3日からは3点が追加され、展示作品は全部で9点となった。新たに追加された作品は、大久保作次郎『谷間』、長谷川路可『半島』、足立真一郎『槍ケ岳』の3点だった。ところが、不特定多数の人々がいき交う駅には、善男善女ばかりでなくドロボーもやってくる。しかも、乗客がいなくなり駅員も当直室へ引きあげてしまった深夜、当時のセキュリティが甘く無防備に近かった目白駅は、ドロボーの格好の標的となったのだろう。当時の様子を、1972年(昭和47)に鉄道図書刊行会から出版された、高取武『花の改札掛』より引用してみよう。
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こうして新設通路に、目白在住の有名画家の美術作品が画廊として生まれた。立ち停まり、一枚一枚眺める人々の顔が、日々増えてきた矢先、思いがけないことが起きた。画廊に展示中の一枚が盗難にかかったのである。二ヵ月一回交換の作品は、この事件以来目白付近の大学・美術学校生徒の作品中心で、時おり有名大家のものが混じって展示されている。このほか小学校のものは一ヵ月交換である。/改札口からホーム階段まで、画廊のある駅は全国でもめずらしい。今でも駅長が交代のたびに、広告業者が「もう駅長が代ったのだから方針を変えて下さいよ」といってくるそうだ。有料広告何でもという国鉄方針の中で、一服の清涼剤であろう。
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1970年代に入ってからの、目白駅画廊の様子を伝えている。1964年(昭和39)の画廊がスタートした時点では、プロの画家以外の作品は展示されていなかったが、この事件をきっかけに盗まれそうもない近隣の学生や生徒の作品を、順次展示するようになった。
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こうして新設通路に、目白在住の有名画家の美術作品が画廊として生まれた。立ち停まり、一枚一枚眺める人々の顔が、日々増えてきた矢先、思いがけないことが起きた。画廊に展示中の一枚が盗難にかかったのである。二ヵ月一回交換の作品は、この事件以来目白付近の大学・美術学校生徒の作品中心で、時おり有名大家のものが混じって展示されている。このほか小学校のものは一ヵ月交換である。/改札口からホーム階段まで、画廊のある駅は全国でもめずらしい。今でも駅長が交代のたびに、広告業者が「もう駅長が代ったのだから方針を変えて下さいよ」といってくるそうだ。有料広告何でもという国鉄方針の中で、一服の清涼剤であろう。
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1970年代に入ってからの、目白駅画廊の様子を伝えている。1964年(昭和39)の画廊がスタートした時点では、プロの画家以外の作品は展示されていなかったが、この事件をきっかけに盗まれそうもない近隣の学生や生徒の作品を、順次展示するようになった。
盗難事件が発生したのは、目白駅画廊がスタートしてからわずか半年後の1964年(昭和39)4月29日だった。この時点で、展示作品は上記9点から8点になっている。なお、展示から外された1点が、どの作品かは不明だ。盗まれたのは西原比呂志の『浜』(油彩8号)で、警察の捜査によれば同日の深夜から、始発前の翌早朝にかけてということだった。落合新聞の1964年(昭和39)6月23日号によると、西原比呂志が取材に応じ「空白のままでは不調和だし、駅長も心配しているだろうから」と、『浜』が架けられていたあとに、新作の『夏の高原』を目白駅に持ちこんでいる。したがって、同年6月の段階で展示作品は再び8点にもどっていたようだ。



盗難当時の様子を、1964年(昭和39)5月20日発刊の落合新聞より引用してみよう。
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目白駅渡線橋の絵画一転盗まる/西原比呂志画伯の「浜」
目白駅を美化するため人々の善意によって展示されている油絵八点の中、四月二十九日夜西原比呂志画伯の油絵「浜」八号大一点が盗まれた。終電から初電までの深夜と推定されている。
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その後、発見されたという報道はないので、現在でも行方不明のままなのだろう。
西原比呂志の『浜』は、どのような作品だったのだろうか。目白駅画廊に展示当初、竹田助雄がモノクロ写真で撮影した画像が残っている。落合新聞に掲載された写真は、かなり印刷精度が粗いためボンヤリとしかわからないが、大きな岬の見える浜辺の人物たちが描かれているように見える。左手の上部に輪のついた塔状のものは、海水浴シーズンになると上部に傘を張って日除けにし、監視員が双眼鏡で海面を見つめる水難監視タワーだろうか。
このあと1964年(昭和39)7月からは、ねぎしじょうじ(根岸情治)『林檎は悲し』と長谷川路可の『夕なぎ』の2点が追加展示されているが、代わりに引きあげられた作品があったのかどうかは不明だ。翌1965年(昭和40)3月、目白駅は開設80周年を迎えているが、目白駅美化同好会による記念植樹や記念パーティなどの計画が進んでいる。
けれども、目白駅画廊についての報道はなくなり、どのような作品が展示されていたのかは、先の『林檎は悲し』と『夕なぎ』の追加展示以来わからないままだ。このころから、駅の跨線橋には盗まれそうもない、近接した学校の学生や生徒たちの作品が増えていったものだろう。ただし、1972年(昭和47)に目白駅の改札から高取武が撮影した写真には、立派な額縁にセットされたプロの画家の作品とみられる絵画が、改札口も近い跨線橋への入口左手に2点ほど架けられているのが見える。また、1974年(昭和49)3月12日の朝日新聞には、「地元在住の画家や子どもたちの作品で大はやりの国電目白駅」という記事が、また翌1975年(昭和50)1月18日の日本経済新聞には、「ギャラリー目白駅/跨線橋の壁に大家から小学生の作品飾る」という記事が見えている。
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目白駅渡線橋の絵画一転盗まる/西原比呂志画伯の「浜」
目白駅を美化するため人々の善意によって展示されている油絵八点の中、四月二十九日夜西原比呂志画伯の油絵「浜」八号大一点が盗まれた。終電から初電までの深夜と推定されている。
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その後、発見されたという報道はないので、現在でも行方不明のままなのだろう。
西原比呂志の『浜』は、どのような作品だったのだろうか。目白駅画廊に展示当初、竹田助雄がモノクロ写真で撮影した画像が残っている。落合新聞に掲載された写真は、かなり印刷精度が粗いためボンヤリとしかわからないが、大きな岬の見える浜辺の人物たちが描かれているように見える。左手の上部に輪のついた塔状のものは、海水浴シーズンになると上部に傘を張って日除けにし、監視員が双眼鏡で海面を見つめる水難監視タワーだろうか。
このあと1964年(昭和39)7月からは、ねぎしじょうじ(根岸情治)『林檎は悲し』と長谷川路可の『夕なぎ』の2点が追加展示されているが、代わりに引きあげられた作品があったのかどうかは不明だ。翌1965年(昭和40)3月、目白駅は開設80周年を迎えているが、目白駅美化同好会による記念植樹や記念パーティなどの計画が進んでいる。
けれども、目白駅画廊についての報道はなくなり、どのような作品が展示されていたのかは、先の『林檎は悲し』と『夕なぎ』の追加展示以来わからないままだ。このころから、駅の跨線橋には盗まれそうもない、近接した学校の学生や生徒たちの作品が増えていったものだろう。ただし、1972年(昭和47)に目白駅の改札から高取武が撮影した写真には、立派な額縁にセットされたプロの画家の作品とみられる絵画が、改札口も近い跨線橋への入口左手に2点ほど架けられているのが見える。また、1974年(昭和49)3月12日の朝日新聞には、「地元在住の画家や子どもたちの作品で大はやりの国電目白駅」という記事が、また翌1975年(昭和50)1月18日の日本経済新聞には、「ギャラリー目白駅/跨線橋の壁に大家から小学生の作品飾る」という記事が見えている。




なお、1965年(昭和40)の目白駅の開設80周年事業では、東京オリンピックで使用された、競技場の旗竿が贈られたため掲揚台を建てる計画と、駅舎やその周辺を撮影した古写真を収集して掲載する、80周年記念アルバムづくりが計画されていた。この記念アルバムづくりが実現していたとすれば、ぜひ拝見してみたいものだが、かつてそのような写真集は一度も見たことがない。
◆写真上:1972年(昭和47)撮影の目白駅画廊で、プロ画家とみられる作品が2点見えている。
◆写真中上:上は、1963年(昭和38)7月に竹田助雄が撮影した幅が広い新設の跨線橋。中上は、同年7月12日の目白駅美化同好会の結成と目白駅画廊の設置計画などを伝える落合新聞。中下は、目白駅の延長プラットホームに設置されたレンガ造りの花壇に水をやる川村学園の女生徒たち。下は、1970年代に撮影された目白駅前の様子。
◆写真中下:上は、1960年代末か1970年代初めごろに撮影された目白駅前の様子。中上は、1970年代に撮影された目白駅のプラットホーム。中下は、1979年(昭和54)に撮影された目白駅舎。下は、1979年(昭和54)に撮影された目白駅前を歩く人々。
◆写真下:上は、1970年代に撮影された目白駅前。中上は、1981年(昭和56)撮影の目白駅前にあった歩道橋をわたる川村学園の生徒たち。中下は、同年に撮影された目白駅前。下は、行方不明となった同作の画像を載せて情報を呼びかける1964年(昭和39)6月23日発行の落合新聞。
★おまけ
南長崎のアパートに下宿していた学生時代、このタイル張りの富士銀行が見えてくると目白駅が近いと感じられた。でも山手線には乗らず、登下校は経費節減のため歩いたことのほうが多い。
◆写真中上:上は、1963年(昭和38)7月に竹田助雄が撮影した幅が広い新設の跨線橋。中上は、同年7月12日の目白駅美化同好会の結成と目白駅画廊の設置計画などを伝える落合新聞。中下は、目白駅の延長プラットホームに設置されたレンガ造りの花壇に水をやる川村学園の女生徒たち。下は、1970年代に撮影された目白駅前の様子。
◆写真中下:上は、1960年代末か1970年代初めごろに撮影された目白駅前の様子。中上は、1970年代に撮影された目白駅のプラットホーム。中下は、1979年(昭和54)に撮影された目白駅舎。下は、1979年(昭和54)に撮影された目白駅前を歩く人々。
◆写真下:上は、1970年代に撮影された目白駅前。中上は、1981年(昭和56)撮影の目白駅前にあった歩道橋をわたる川村学園の生徒たち。中下は、同年に撮影された目白駅前。下は、行方不明となった同作の画像を載せて情報を呼びかける1964年(昭和39)6月23日発行の落合新聞。
★おまけ
南長崎のアパートに下宿していた学生時代、このタイル張りの富士銀行が見えてくると目白駅が近いと感じられた。でも山手線には乗らず、登下校は経費節減のため歩いたことのほうが多い。

この記事へのコメント
てんてん
落合道人
花粉の季節は、わたしも加湿器が欠かせませんでした。