女流画家協会の前哨だった婦人洋画家協会。

有岡好子「パンのある静物」1927第8回帝展.jpg
 大正の半ばごろから、下落合800番地に住んでいた有岡一郎は、結婚して子どもができたのが契機となったのか下落合1110番地へ転居している。結婚の相手は、足利市の出身で女子美術学校を卒業して間もない好子夫人、すなわち同じ洋画家の有岡好子だった。
 夏目利政がプロデュースしたとみられる、下落合800番地界隈“アトリエ村”から転居した先は、現在の道筋でいえば聖母坂下の交差点、当時は西坂の下で子爵・川村景敏邸が建つ敷地の一画、下落合1110番地だった。おそらく、川村家の敷地内に建てられた貸家に夫婦で住んでいたのだろう。1932年(昭和7)に出版された『落合町誌』(落合町誌刊行会)には、有岡一郎のみが「洋画家」と簡単に紹介されているだけで、好子夫人の記載はない。
 有岡好子は、本郷菊坂の女子美術学校を卒業すると1918 年(大正7)から結成されていた、女性の画家たちが集う朱葉会に所属していたが、結婚後、女子美を卒業した仲間たちと婦人洋画家協会を起ちあげ、帝展へと出品しはじめている。有岡一郎は、松下春雄とほぼ同時期に岡田三郎助へ師事していたので、好子夫人とは岡田が主宰する女子洋画研究所か、あるいは女子美術学校の関係から知りあったのではないかと思われる。有岡好子は、1927年(昭和2)10月の第8回帝展に出品し、『パンのある静物』が入選している。(冒頭写真)
 有岡好子が参加する、1925年(大正14)4月7日に結成された婦人洋画家協会だが、有岡をはじめ深沢紅子、梶本恒子、多田君子、甲斐仁代、海老沢すゑ、荒川勝子、竹村千代子、吉田節子(三岸節子)ら9人の発案から結成されている。帝展および二科とそれぞれ発表場所は異なるが、女子美卒業という共通項で集まっていた。
 この中で梶本恒子は下落合1385番地に、甲斐仁代もまた中出三也とともに下落合1385番地に住んでいたので、おそらく落合第二府営住宅近くの同じ区画に家を借りていたのだろう。また、有岡好子が暮らしていた下落合の“アトリエ村”には、海老沢すゑ(郡司すゑ)が下落合811番地にアトリエをかまえている。そして、婦人洋画家協会の事務局は一時期、薬王院の西側にあたる海老沢邸に置かれていた。下落合1110番地の有岡邸は、直線距離でわずか230mほどしか離れていない。余談だが、1年後に佐伯祐三が描いた連作『下落合風景』の1作『墓のある風景』の、右手に描かれた住宅の区画がまさに下落合811番地にあたる。
 婦人洋画家協会の会員たちが、1926年(大正15)11月6日に下落合1110番地の有岡好子邸に集まって、翌1927年(昭和2)の春に予定されている展覧会の打ち合わせをした。また、そのときの参加者は縁側にそろって記念撮影をしている。下落合1110番地のアトリエは、どうやら縁側付きのよくある日本家屋だったようだ。有岡好子には子供があり、当時は板橋に住んでいた深沢紅子も子連れで参加している。その様子を、1926年(大正15)刊行の「美術新論」12月号から引用してみよう。
  
 婦人洋画家協会の会員諸氏が十一月六日、目白の有岡よし子宅に集つて、来春五月頃展らん会を開かうといふ相談をまとめ、あとは茶話になつたところを請うてゑん側に出て頂いてパチリ。(中略) 夜おそくすいた電車に乗ることゝ、板チヨコをしやぶる事がお好きの深沢紅子さん。膝なるはそのお子さん。次、銀ぶらと支那料理とトランプを好まるゝ有岡よし子さん。銀ぶらとは(中略)、東京銀座通りをぶらぶら歩く事の由。膝なるはそのお子さん。次、玩具をいぢる事とくさまくら旅に出る事がお好きの梶本恒子さん。次、煙草スパスパ、長唄テンツンの杉本まつのさん。次、写真の位置でも左傾せられてゐる如く、ウヰスキー日本酒支那酒など、凡て酒芸にたんのうにて、他に猫と人形とを好まるゝ甲斐仁代さん。此の五氏の外に会員は、郡司(もと海老沢)すゑ子、岡村崇子、小島(もと多田)君子、張吟秋などの諸氏である。
  
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 すぐ近くの薬王院の西隣りに住んでいた海老沢すゑ(郡司すゑ)は、用事があったのか欠席している。また、同じころ戸塚町上戸塚397番地(現・高田馬場3丁目)のアトリエに、夫の三岸好太郎と住んでいた三岸節子(婦人洋画家協会へは当初、旧姓・吉田節子で参加していたようだ)は、所用があったのか有岡邸の集まりには参加していない。上戸塚の三岸アトリエから下落合の有岡アトリエまで、直線距離でわずか300m余しか離れていない。このころ、三岸節子甲斐仁代が親しかったのは、婦人洋画家協会でいっしょだったからだろう。
 これを、三岸節子の視点から書いた文章を参照してみよう。1970年(昭和45)に鹿島研究所出版会から刊行された、『近代日本女性史』の第6巻に収録の「三岸節子」から引用してみる。ただし、同書では婦人洋画家協会を、一貫して「婦人洋画協会」と誤記している。
  
 大正十四年といえば、長女陽子の生まれた年であり、春陽会に初入選した年であるが、この年に節子は、甲斐仁代、有岡好子、竹村千代子、荒川勝子、多田君子、海老沢すゑ、深沢紅子、梶本恒子といった女子美術学校出身者と、婦人洋画協会(ママ:婦人洋画家協会)を結成、秋に旗上げ展を行なうことを決めて、同年十月二十五日より二十九日まで銀座松坂屋で第一回展を開いた。/まだ当時は女流洋画家が世間にみとめられていなかったから、節子らは何としても女流洋画家というものを認識してほしかったに違いない。このころのその気持ちは昭和二十一年、女流画家協会をつくった前哨線(ママ:前哨戦)ともいえる。
  
 確かに戦後、薩長政府が教育に導入した中国や朝鮮半島由来の「女修身」に縛られず、女性が自由になった1946年(昭和21)11月、画家たちの脳裏をよぎったのは、1925年(大正14)に結成された婦人洋画家協会の活動だったかもしれない。なお、文中に「長女陽子」とあるのは、拙ブログでも取材させていただいた三岸陽子(向坂陽子)様のことだ。
 当時の美術界を眺めると、たとえば1927年(昭和2)に帝展の洋画部では渡辺百合や井上よし、原子はな、染谷勝子、白根喜美子、高木繁子、岡村嵩子、梶本恒子、有岡好子、渡辺千代子、安井悦子、森田元子の12人、日本画部では生田花朝女、山口八九子、島成園、柿内青葉、浅見松江、榊原縫子、宮内英子、望月春江、喜多村愛子、伊藤すゞ子、印牧高子、高木喜代子の12人、美術工芸部では山脇敏子、桐谷天香の2名の計26人が入選している。
 上記の洋画家の中で、下落合の在住者は先述した有岡好子や梶本恒子のほか、下落合540番地の大久保作次郎邸に寄宿して、師から洋画を学んでいた渡辺百合(子)がいる。
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 さらに、同時に開催されていた二科展や院展の入選者16名も含めると、この1年間だけで42人の女性美術家たちが注目されていたのがわかる。二科の石井柏亭は、1927年(昭和2)をふり返って「たしかに、この二三年来、女性の台頭には注意すべきものがある」(「女性」1927年12月号/プラトン社)と発言し、帝展の川合玉堂は「左様、女性の手法にはまだ動きはあるが、年々新顔が、かうあらはれて来ることは、男としても相当に考へべきことだらう。必ずしも男性が優秀で、女性が劣れりといふ訳ではないが……」(前掲誌)とコメントを寄せている。
 上記1927年(昭和2)の帝展入選者に、梶本恒子とともに有岡好子のネームが見えているが、それが冒頭に掲げたモノクロの『パンのある静物』(残念ながらカラー写真は発見できなかった)とタイトルされた画面だ。同作について、同時代に結成された1930年協会の画家たちはどのように見ていたのだろうか。帝展の前田寛治と、二科の里見勝蔵のコメントが、1927年(昭和2)に刊行された「美術新論」11月号に『パンのある静物』評が掲載されている。同誌より引用してみよう。
  
 <前田寛治> ガツシリしたものだ。二科系の女流の作は精緻さとつゝましやかさがあり、帝展の女流の作は大胆さとダラシナサがある。/<里見勝蔵> 女流作家や帝展作家の程度に止まつてはいけない。厳格な写実と素朴さを忘れるな。
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 ことのほか、女性には甘いフェミニストのはずの前田寛治だったが、『パンのある静物』には両画家ともあまり感覚的には響かなかったようだ。
 有岡好子は、1930年(昭和5)前後に下落合1110番地から荏原郡矢口町道塚98番地(のち蒲田区道塚)へ転居している。この転居は、おそらく青柳ヶ原への国際聖母病院の建設と同時に、聖母坂が新たに敷設され、川村景敏(のち川村景明)邸の敷地東部が、すなわち有岡邸の建っていた敷地が聖母坂の落合橋へと抜ける道筋にひっかかり、削られているせいではないだろうか。
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 有岡好子は、帝展や婦人洋画家協会へ出品するタブローのほか、雑誌の装丁や挿画も手がけている。中でも、大日本花道協会が発行していた「花卉藝術」は、1934年(昭和9)3月の創刊号から毎号同誌にイラストを描きつづけている。おそらく、本人も花道(華道)を習っていたのではないか。

◆写真上:1927年(昭和2)10月の第8回帝展で入選した有岡好子『パンのある静物』。
◆写真中上は、婦人洋画家協会の結成を告知する1925年(大正14)の「芸天」4月号(芸天社)。は、1926年(大正15)10月に開催された婦人洋画家協会展。画面が暗くてわかりにくいが中央右寄りに深沢紅子が、その左ひとりおいて甲斐仁代が写る。
◆写真中下は、1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」にみる下落合1110番地の川村景敏邸界隈。は、1926年(大正15)11月6日に有岡好子邸で開かれた婦人洋画家協会の会合記念写真。右から左へ、深沢紅子と子ども、有岡好子と子ども、梶本恒子、杉本まつの、そして甲斐仁代の面々。甲斐仁代と梶本恒子は、おそらく下落合1385番地の両アトリエから連れだって有岡邸を訪問している。周囲の様子から、有岡アトリエは和館だったようだ。
◆写真下は、1927年(昭和2)に各種展覧会へ入選した女性画家たち。上段から染谷勝子(右)と秋野伊豆子(左)、中段は関紫蘭、下段は太田嘉女野(右)と宮内英子(左)。は、有岡好子が毎号挿画やデザインを手がけていた1934年(昭和9)に刊行された「花卉藝術」3月号(大日本花道協会)。

この記事へのコメント

  • てんてん

    (。・ω・)ノ゙ Nice‼です♪
    2026年04月22日 22:11
  • 落合道人

    てんてんさん、コメントをありがとうございます。
    最近は湿度が低いせいか、歩いてても気持ちがいいですね。
    ドーナッツには、わたしも目がありません。
    2026年04月22日 22:42

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