下落合を描いた画家たち・江藤純平。(2)

江藤純平「落合風景」1923.jpg
 昨年の暮れから、悩ましい画面をにらみつづけている。東京美術学校で佐伯祐三の同級生だった、江藤純平が描く『落合風景』だ。(冒頭写真) 下落合のどこを描いたのか、描かれた地形と宅地造成の様子、そして住宅のモチーフや彼の人間関係からピンときてすぐにわかったが、この作品が描かれたとされている年代と1年半ほど合わないのだ。
 同作は1923年(大正12)に描かれたとされているが、どう考えても少し年代が早すぎる。描かれた風景から、翌1924年(大正13)の暮れあたり、あるいは1925年(大正14)の初春にかけてといわれれば、ストンと腑に落ちる下落合に見られた南斜面の光景だ。1923年(大正12)という年紀は、キャンバスの裏にでも記載されていたものだろうか?
 結論からいえば、1923年(大正12)の時点に下落合(現・中落合/中井含む)の西部で、東京土地住宅三宅勘一画家たちによる、アビラ村(芸術村)の開発はスタートしたばかりであり、画面右手に見えるひな壇状の大谷石による擁壁が構築されていたかどうかは不明だ。金山平三関東大震災後、らく夫人の貯金をつかい同年初めごろに入手した(不動産取得税に関する同年2月6日の金山ハガキが現存)、下落合2080番地のアトリエ建設予定地(150坪)の石垣が崩れていないかを確認しているので、少なくとも1923年(大正13)9月の時点では、大谷石の擁壁はあったとみられる。だが、もちろん金山平三アトリエはいまだ存在しない。
 ただし、画面の左手枠外には、1922年(大正11)に建設された島津源吉邸の大きな洋館和館を併せた屋敷がすでに建っていたはずで、その敷地内である庭先の植木などが手入れされていた様子が見てとれる。このアビラ村の南斜面について、金山平三本人やらく夫人に取材した書籍がある。1975年(昭和50)に日動出版から刊行された、飛松實『金山平三』から引用してみよう。
  
 このアヴィラ村だが、高い丘は南面して日当りがよく、下は全く樹海を見るようで環境が至極よろしかった。左様なわけで、おのずから芸術家憧憬の地となり、分譲の話が伝えられると先を争って買い求めた。ここにアトリエを建てたものに、先生(金山平三)や永地秀太、彫刻の新海竹太郎らがあり、土地を求めたのみの人に満谷(国四郎)、南(薫造)、三宅克己らがあった。/アヴィラ村に通う今日の二の坂は、その頃乱塔坂(ママ:蘭塔坂)と呼ばれ、蛇行する坂の両側に高低参差たる無数の墓石が乱立していて、夜は梟がほっほほっほと哀調の声を奏でていた。/一方丘の上は一面の麦畑で、空気も澄み、遠く西空には富士の秀嶺が雲上手に取り得る如く聳えて見えた。西武電車は未だ通らず、一々徒歩で省線東中野駅まで歩かねばならなかったが、それだけ静寂清澄な好住宅地であった。(カッコ内引用者註)
  
 金山平三は、1923年(大正12)の初めごろアトリエ用地を購入していたが、その両隣りの敷地は上記にも登場している満谷国四郎南薫造が購入しており、隣人同士になるはずだった。また、新海竹太郎と息子の新海覚雄永地秀太はその後もアトリエに住みつづけているが、落合地域やその周辺の風景画を多く描いた三宅克己が、下落合へ転居してくることはついぞなかった。
江藤純平描画ポイント1935頃.jpg
金山アトリエ1947.jpg
金山平三アトリエ1948.jpg
金山平三アトリエ201211.JPG
 さて、冒頭の『落合風景』を制作した江藤純平だが、東京美術学校を卒業すると同級生だった石川吉次郎、佐々木慶太郎、深沢省三、藤彦衛、山田新一佐伯祐三らとともに画会「薔薇門社」を結成し、神田文房堂で展覧会を開いている。佐伯祐三は、1921年(大正10)に下落合661番地へアトリエを建設したあと、関東大震災の直後からフランスに向けて旅立った。一方、江藤純平は1924年(大正13)、下落合1599番地に建設が進んでいた落合第三府営住宅の24号邸が竣工するとともに、同年か少しあとに下落合へ転居してきている。換言すれば、江藤純平が『落合風景』を描いたのが、規定されているとおり1923年(大正12)だとすれば、彼は下落合にアトリエをかまえない時期に、わざわざ同地へやってきて同作を描いていることになってしまう。
 つまり、金山平三アトリエの竣工時期ともからめ、江藤純平の『落合風景』はもう少し時期があとではないかと推定してしまうゆえんだ。江藤純平は、落合第三府営住宅24号に1927年(昭和2)まで住んだあと、同じく下落合584番地の二瓶等アトリエへと転居している。中国に滞在中の二瓶等が不在のため、茅ヶ崎の萬鉄五郎が借りる予定になっていたが、萬が急死したせいで江藤純平が借りたと思われる。彼はここに4年間住んだあと、1931年(昭和6)から武蔵野町吉祥寺野田南1835番地の1へと転居している。ちなみに、江藤純平が転居後の空いた二瓶等のアトリエは、1932年(昭和7)ごろより手島貢が借りてアトリエにしていた。
 改めて、江藤純平の『落合風景』を細かく観察してみよう。2012年(平成24)以前の下落合風景をある程度ご存じの方なら、制作年の課題はとりあえず別にしても、画面を観たとたんに「たぶんあそこだ」と、すぐに見当をつけられたのではないだろうか。太陽の光は画家の左手背後あたりから射しており、その方角が南またはそれに近い方角だとすると、ここに見えている斜面は目白崖線がつづく下落合の南斜面ということになる。そして、手前には谷間が見えており、画家がイーゼルを立てている位置もまた、手前の丘の北向き斜面であることがわかる。
 下落合の南斜面を眺めると、ひな壇状の擁壁が見えており宅地造成は終わっているようだが、建てられている住宅はかなり少ない。大正後期ともなれば、このような風景は下落合東部にはすでに見られず、この情景は必然的に下落合の中部または西部だろうと想定できる。そしてなによりも、画面中央からやや右上に描かれている赤い屋根の西洋館の存在だ。大正期の建築で主棟が東西を向き、二重の切妻をもつ赤い屋根の西洋館は、戦前の空中写真、また下落合西部は空襲をまぬがれている住宅街が多いので、戦後の空中写真を参照すると、丘上のこのような位置にはたった1軒しか見つけることができない。アビラ村にいち早く建設された、金山平三アトリエだ。
第1回第一美術展1929.jpg
第一美術協会展1932.jpg
棒猿座1930金山アトリエ.jpg
江藤純平描画ポイント1936.jpg
 手前の谷底には、当時は蛇行する小川のような妙正寺川が流れており、その両岸には水田が拡がっていた。ただし、樹木が落葉しているようなので、冬に近い季節に描かれているとみられ、田に水は引かれてなかったろう。手前に見えている藁葺きの小屋は、近くの農民の農具小屋だろうか。金山アトリエの左手、丘上まで樹木の繁っているのが三ノ坂であり、そのさらに左手に見えるひな壇状に整地された敷地が、島津源吉邸の広い庭先となる。アビラ村を開発していた東京土地住宅が、1925年(大正14)に経営破綻を起こしたあと、その計画を受け継ぐように島津家がこの斜面を利用して「阿比良村」計画を推進しており、その分譲地割図が現存している。
 金山アトリエの右手には、蘭塔坂(二ノ坂)が通っており、坂の西側には住宅が建ちはじめている様子が見てとれる。また、金山アトリエの北東側には、1931年(昭和6)になると小石川区水道端から大日本獅子吼会が移転してきて、本堂の大屋根が建てられることになるが、同寺の建設予定地は雑木林が拡がっているだけだ。そして、画家がイーゼルを立てている手前の北向き斜面は、もちろん上落合の崖地(バッケ)上だ。金山アトリエや三ノ坂の見え方から、最勝寺墓地の西側、美仲橋の道筋にあたる丘の急斜面から、北北東の方角を向いて制作している。
 画面の中にポイントとして描かれている、金山アトリエについて前掲書より引用してみよう。
  
 建坪延べ五十余坪のアトリエ付二階建で、総額一万四千円を費して大正十三年九月着工、翌十四年春竣工、四月に引き移ることが出来た。一万といえば当時としては大金であるが、平三はそれを彼の絵の深い理解者である四人の篤志家によって調達することが出来た。
  
 この文章にあるとおり、金山平三アトリエは1925年(大正14)の3月末ごろに竣工している。あるいは、描かれているのが庭木も塀もまだ設置されていない建設工事中としても、冬枯れからして前年1924年(大正13)の暮れぐらいだろうか。だとすれば、江藤純平が下落合の落合府営住宅へ転居してきた時期と、そのまま一致することになる。
 帝展の画家である江藤純平は、大先輩の金山平三とは親しく、金山アトリエで毎年開催される各種パーティには必ず出席していた。したがって、彼が金山平三のいる蘭塔坂(二ノ坂)上の金山アトリエを描いたとしても、なんら不自然さを感じない。また、彼は同じく帝展画家の先輩で、下落合734番地に住んだ片多徳郎とも親しく、1929年(昭和4)には第一美術協会を結成している。江藤純平は、彼と同級生の画家たちよりも、むしろ美校の先輩画家たちと親しくしていたようだ。
金山アトリエ1963.jpg
金山平三アトリエ2.JPG
江藤純平1984.jpg 金山平三晩年_color.jpg
落合風景改題.jpg
 江藤純平と、彼が下落合に住んだ時期の人間関係などを考慮すると、『落合風景』に描かれた赤い屋根の西洋館は、当時の付近に展開していた風景や地形ともども、金山平三アトリエ以外に考えづらい。1923年(大正12)とされる同作だが、1年半~2年ほどあとの作品ではないか。画家が立って遠望しているのは、美仲橋をわたり南の丘を上った上落合800番地界隈の急斜面だと思われる。

◆写真上:1923年(大正12)の制作とされる、江藤純平『落合風景』だが疑問が残る。
◆写真中上は、1935年(昭和10)ごろ撮影の空中写真にみる描画ポイント。中上は、戦後1947年(昭和22)撮影の描画ポイント。中下は、1948年(昭和23)撮影の金山アトリエとその周辺。は、2012年(平成24)11月に撮影した解体寸前の金山アトリエ。
◆写真中下は、1929年(昭和4)に撮影された第1回第一美術展の記念写真で江藤純平とともに和服姿の片多徳郎が写る。中上は、1932年(昭和7)に撮影された第一美術協会展会場の江藤純平。中下は、1930年(昭和5)に金山平三アトリエで開かれた第5回「棒猿(ボーザール)座」パーティ記念写真の江藤純平。金山平三大久保作次郎柚木久太など画家たちに混じり、大佛次郎水谷八重子花柳章太郎、岸輝子らの顔が見える。は、1936年(昭和11)に撮影された空中写真にみる下落合西部のアビラ村(芸術村)の金山アトリエと描画ポイント。
◆写真下は、金山平三が死去する前年の1963年(昭和38)に撮影された金山アトリエ。中上は、北東側から眺めた金山アトリエ。中下は、1984年(昭和59)に撮影された晩年の江藤純平()と、モチーフとなる風景を探す金山平三(AI着色/)。は、『落合風景』にとらえられたもの。

この記事へのコメント

  • てんてん

    (。・ω・)ノ゙ Nice‼です♪
    2026年05月01日 22:27
  • とん

    突然のコメント失礼致します。
    『海洲正太郎』の名を検索していましたところ、こちらのブログを見つけました。
    私は海洲正太郎の甥の娘にあたる者です。
    我家(落合エリア)には海洲正太郎が残した絵画がたくさんあります。こちらは処分してしまって良いものと、悩んでおります。どこか観て下さる古書店等ご存知でしたらご教示頂けないでしょうか?
    取っておいても意味のない絵画であれば、近く処分を考えております。
    2026年05月02日 13:10
  • 落合道人

    てんてんさん、コメントをありがとうございます。
    掃除機の「ルンバ」がちょっとオバカなので、写真に撮られているような、
    強力な掃除機が欲しいと思っているこのごろです。
    2026年05月02日 15:56
  • 落合道人

    とんさん、コメントをありがとうございます。
    わたしの知っている限りですと、10年以上も前から、どちらかのご遺族が処分
    したと思われます、海洲正太郎作品を扱っている古書店として、神保町にある
    以下の店があります。
    〒101-0051 東京都千代田区神田神保町1-54 神田水平館ビル2F
          水平書館 TEL: 03-5577-6399
    ここ以外は、残念ながら存じ上げません。
    2026年05月02日 16:01

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