
1953年(昭和28)に撮影された、とてもめずらしい写真を見つけた。同年の六天坂が通う下落合の南斜面をとらえたものだが、カメラマンは下落合3丁目1689番地で営業していた銭湯「新高湯」(現・ゆ~ザ中井)の煙突に登り、北北東を向いて撮影しているとみられる。
この写真を撮ったカメラマンが、意図的に煙突へ登って六天坂方面を撮影したのか、新高湯の関係者がなにかの用事で煙突に登った際、ついでに撮影したのかは不明だが、上落合で火の見櫓に登って上落合521番地の公楽キネマ方面を撮影した、守谷源次郎のケース以来のめずらしい画面だ。銭湯の煙突はともかく、落合地域に建っていた火の見櫓から撮影した戦前戦後の写真は、ほかにもかなりあったのではないかと考えている。
銭湯「新高湯」は大正時代から営業しており、経営者は時期ごとに変遷しているのかもしれないが、1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」では「草津温泉」のネームで収録されている。以前、東京郊外に「伊香保温泉」(根津)や「有馬温泉」(向島)、「志保ノ湯温泉」(根津)、「草津温泉」(駒込)など有名な温泉地の名称をつけ、養生や保養目的の「郊外温泉」として営業していた銭湯たちをご紹介したことがあった。ただし、目黒雅叙園は実際に温泉水を運んできて沸かしていたようなので、文字どおり郊外温泉と名のっても不自然ではないかもしれない。
同記事では、駒込で営業していた「草津温泉」をご紹介したが、下落合(現・中落合/中井含む)の「草津温泉」も同様のコンセプトで開業したのだろう。だが、大正の中期以降になると東京郊外だった地域にも住宅街が押しよせ、特に関東大震災以降は住宅が稠密な東京15区エリアから、郊外地域への転居が急増し、保養を目的とする“東京郊外の温泉”というコンセプトも崩れて、時代とともに街中で営業する一般の銭湯へと衣替えしていったものと思われる。
大正期に営業していた「草津温泉」の煙突を、キャンバスに取り入れて描いた画家がいる。連作『下落合風景』を制作していた佐伯祐三だ。鉄道連隊による西武線の線路敷設がすでに終わり、中井駅の設置が決まった開業直前、開発の真っ最中だった駅北側の情景を描いた『下落合風景』と『目白の風景』の2作だ。大谷石が集積された、住宅地や商店街が予定されている造成地の遠景には、中ノ道(下の道:現・中井通り)沿いの白煙が立ちのぼる「草津温泉」の煙突がとらえられている。歩いている人物が、インバネスないしはトンビを着ていることから、1926年(大正15)の暮れごろか翌年の冬にかけて描かれたものだろう。
佐伯祐三が2作を描いた中井駅が存在しない当時、下落合の西部から鉄道を利用する場合の最寄駅は東中野駅だった。画面に描かれている、道路を歩く人物たちが鉄道駅へ向かっているとすれば、画面右手を流れる妙正寺川に架かる寺斉橋を渡り、上落合を縦断して南へ直線距離で950m弱のところにある、東中野駅(旧・柏木駅の位置)をめざしていたはずだ。
この写真を撮ったカメラマンが、意図的に煙突へ登って六天坂方面を撮影したのか、新高湯の関係者がなにかの用事で煙突に登った際、ついでに撮影したのかは不明だが、上落合で火の見櫓に登って上落合521番地の公楽キネマ方面を撮影した、守谷源次郎のケース以来のめずらしい画面だ。銭湯の煙突はともかく、落合地域に建っていた火の見櫓から撮影した戦前戦後の写真は、ほかにもかなりあったのではないかと考えている。
銭湯「新高湯」は大正時代から営業しており、経営者は時期ごとに変遷しているのかもしれないが、1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」では「草津温泉」のネームで収録されている。以前、東京郊外に「伊香保温泉」(根津)や「有馬温泉」(向島)、「志保ノ湯温泉」(根津)、「草津温泉」(駒込)など有名な温泉地の名称をつけ、養生や保養目的の「郊外温泉」として営業していた銭湯たちをご紹介したことがあった。ただし、目黒雅叙園は実際に温泉水を運んできて沸かしていたようなので、文字どおり郊外温泉と名のっても不自然ではないかもしれない。
同記事では、駒込で営業していた「草津温泉」をご紹介したが、下落合(現・中落合/中井含む)の「草津温泉」も同様のコンセプトで開業したのだろう。だが、大正の中期以降になると東京郊外だった地域にも住宅街が押しよせ、特に関東大震災以降は住宅が稠密な東京15区エリアから、郊外地域への転居が急増し、保養を目的とする“東京郊外の温泉”というコンセプトも崩れて、時代とともに街中で営業する一般の銭湯へと衣替えしていったものと思われる。
大正期に営業していた「草津温泉」の煙突を、キャンバスに取り入れて描いた画家がいる。連作『下落合風景』を制作していた佐伯祐三だ。鉄道連隊による西武線の線路敷設がすでに終わり、中井駅の設置が決まった開業直前、開発の真っ最中だった駅北側の情景を描いた『下落合風景』と『目白の風景』の2作だ。大谷石が集積された、住宅地や商店街が予定されている造成地の遠景には、中ノ道(下の道:現・中井通り)沿いの白煙が立ちのぼる「草津温泉」の煙突がとらえられている。歩いている人物が、インバネスないしはトンビを着ていることから、1926年(大正15)の暮れごろか翌年の冬にかけて描かれたものだろう。
佐伯祐三が2作を描いた中井駅が存在しない当時、下落合の西部から鉄道を利用する場合の最寄駅は東中野駅だった。画面に描かれている、道路を歩く人物たちが鉄道駅へ向かっているとすれば、画面右手を流れる妙正寺川に架かる寺斉橋を渡り、上落合を縦断して南へ直線距離で950m弱のところにある、東中野駅(旧・柏木駅の位置)をめざしていたはずだ。




さて、冒頭写真にとらえられた風景について具体的に見てみよう。六天坂の坂上には、日傘をさした女性とみられる人物がとらえられている。したがって、季節は1953年(昭和28)の夏か、それに近い季節だとみられる。六天坂は、坂の下部がやや東へ屈曲しており、写真の坂下にはいまだ畑地が残っているのがめずらしい。六天坂の由来については、たとえば1971年(昭和46)に新人物往来社から出版された、石川悌二『東京の坂道-生きている江戸の坂道-』より引用してみよう。
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六天坂(ろくてんざか)
上落合と中落合の境通りから、妙正寺川北岸中落合一丁目六と一二の間を北上する小坂で、坂上は環状六号線道路へ出る。このあたりも二た昔ほど前までは雑木山で、坂上に一本杉の古木があり、樹下に第六天の小祠が建っていたのが坂の名になったという。土人の伝えによると、その第六天の仏像は行人僧が坂側に住みついて祀ったというが、その後の所在は明らかでない。
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この著者は、現地をまったく歩かずに書いているのだろう。「土人」は江戸時代の用語で、地元住民(その土地の人)という意味だ。六天坂は、当時の地名でいえば「上落合と中落合の境通り」(通りの南北とも旧・下落合)=現・中井通りから北上する坂道だ。また、「小坂」ではなく傾斜がかなりきつい、丘上へと長めにつづくたいそうな坂道だ。いわずもがなだが、六天坂は宅地造成とともに大正前期に敷設された新しい坂道であって、江戸期の「坂上に一本杉の古木」は「丘上に……」が正しい記述だろう。そして、「所在は明らかでない」はずの第六天は、現地を歩いてさえいれば坂の下部西側で、すぐに小祠を発見できていたはずだ。
1953年(昭和28)の写真にもどろう。坂上に写っている、三角の切妻が見えている西洋館は、もちろん現存する中谷邸だ。その右手(東側)の並びには、空襲で蔵を残して大きな母家が全焼してしまい、1946年(昭和21)の財産税法の施行で広大な敷地から、一般の住宅サイズになってしまった津軽義孝邸(元・伯爵)が見えている。以下、1960年(昭和35)に住宅協会が、戦後初めて網羅的に作成した「東京都全住宅案内帳」をもとに、家々の特定を試みてみる。(別掲写真)
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六天坂(ろくてんざか)
上落合と中落合の境通りから、妙正寺川北岸中落合一丁目六と一二の間を北上する小坂で、坂上は環状六号線道路へ出る。このあたりも二た昔ほど前までは雑木山で、坂上に一本杉の古木があり、樹下に第六天の小祠が建っていたのが坂の名になったという。土人の伝えによると、その第六天の仏像は行人僧が坂側に住みついて祀ったというが、その後の所在は明らかでない。
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この著者は、現地をまったく歩かずに書いているのだろう。「土人」は江戸時代の用語で、地元住民(その土地の人)という意味だ。六天坂は、当時の地名でいえば「上落合と中落合の境通り」(通りの南北とも旧・下落合)=現・中井通りから北上する坂道だ。また、「小坂」ではなく傾斜がかなりきつい、丘上へと長めにつづくたいそうな坂道だ。いわずもがなだが、六天坂は宅地造成とともに大正前期に敷設された新しい坂道であって、江戸期の「坂上に一本杉の古木」は「丘上に……」が正しい記述だろう。そして、「所在は明らかでない」はずの第六天は、現地を歩いてさえいれば坂の下部西側で、すぐに小祠を発見できていたはずだ。
1953年(昭和28)の写真にもどろう。坂上に写っている、三角の切妻が見えている西洋館は、もちろん現存する中谷邸だ。その右手(東側)の並びには、空襲で蔵を残して大きな母家が全焼してしまい、1946年(昭和21)の財産税法の施行で広大な敷地から、一般の住宅サイズになってしまった津軽義孝邸(元・伯爵)が見えている。以下、1960年(昭和35)に住宅協会が、戦後初めて網羅的に作成した「東京都全住宅案内帳」をもとに、家々の特定を試みてみる。(別掲写真)




写真には大正期、ひな壇状に造成された敷地に建つ住宅群がよくとらえられている。住宅を囲む濃い屋敷林や生け垣が残り、この丘から西坂が通う丘上あたりまでが、通称「翠ヶ丘」と呼ばれていた風情がよくわかる眺めだ。ただし、六天坂が通う丘の南斜面は空襲でかなり罹災しており、戦後に住民の入れ替わりが多かったと思われるので、写真撮影から7年の間に変わってしまった邸もあるかもしれない。特に、写真にとらえられた畑地や空き地とみられるスペースは、1960年(昭和35)になるとすべて住宅が建ち並んでおり、また古い住宅が建て替えられ形状も変わっている可能性もあるため、どこまで正確な特定ができているのかは不明だ。
「全住宅案内帳」を見ると、いまだ外国人の邸宅も目立っている。GHQに接収された大きめな屋敷を、そのまま米軍関係者が借りていたか、改めて購入したものだろうか。六天坂沿いには見られないが、ひとつ東側の見晴坂沿いには、戦後、アマリリスジャムで成功をおさめる相馬正胤邸の南側(下落合3丁目1799番地界隈)に、F.A.ジョルダン邸とディバティ邸が、相馬邸の斜向かい(北西側)にはミッチェル・タクラン邸というネームが採取されている。
冒頭の写真は、中ノ道(現・中井通り)への出口の少し上、ちょうど第六天の小祠のあるカーブの少し下で切れてしまっているが、坂下の商店街まで撮影していたら、より貴重でかけがえのない記録写真となっていただろう。六天坂の出口、通りの北側には1960年(昭和35)当時の記録にしたがえば、坂下から西へ「木村電機商会」や「大正堂」(文房具店)、「呉服柏屋」、「洋服下平」、「クリーニング丸善」などが営業しており、現在も営業をつづける店舗も多い。
また、手前煙突のある銭湯「新高湯」(現・ゆ~ザ中井)の西並びには、「さかえ屋」(業種不明)や「八百松」、「八百屋大山」、「佐藤電気商会」、「オリオン靴店」、「白雪」※(飲み屋だろうか)、「喫茶店かど」、「タバコ遠藤」などが軒を並べて営業していた。通り沿いには同業種の店舗も多いが、それでも十分に営業をつづけられる繁華な商店街が、1970年代ごろまでつづいていた。
「全住宅案内帳」を見ると、いまだ外国人の邸宅も目立っている。GHQに接収された大きめな屋敷を、そのまま米軍関係者が借りていたか、改めて購入したものだろうか。六天坂沿いには見られないが、ひとつ東側の見晴坂沿いには、戦後、アマリリスジャムで成功をおさめる相馬正胤邸の南側(下落合3丁目1799番地界隈)に、F.A.ジョルダン邸とディバティ邸が、相馬邸の斜向かい(北西側)にはミッチェル・タクラン邸というネームが採取されている。
冒頭の写真は、中ノ道(現・中井通り)への出口の少し上、ちょうど第六天の小祠のあるカーブの少し下で切れてしまっているが、坂下の商店街まで撮影していたら、より貴重でかけがえのない記録写真となっていただろう。六天坂の出口、通りの北側には1960年(昭和35)当時の記録にしたがえば、坂下から西へ「木村電機商会」や「大正堂」(文房具店)、「呉服柏屋」、「洋服下平」、「クリーニング丸善」などが営業しており、現在も営業をつづける店舗も多い。
また、手前煙突のある銭湯「新高湯」(現・ゆ~ザ中井)の西並びには、「さかえ屋」(業種不明)や「八百松」、「八百屋大山」、「佐藤電気商会」、「オリオン靴店」、「白雪」※(飲み屋だろうか)、「喫茶店かど」、「タバコ遠藤」などが軒を並べて営業していた。通り沿いには同業種の店舗も多いが、それでも十分に営業をつづけられる繁華な商店街が、1970年代ごろまでつづいていた。
※NO14Ruggermanさんより、コメントで「白雪」がいまも寿司店であるのを教えていただきました。常連には、下落合2丁目1146番地(現・中落合1丁目)に住んだ赤塚不二夫がいたようです。


もうひとつ残念なのは、坂の左手(西側)の谷間がとらえられていない点だ。この谷間の崖地には、大正末から昭和初期にかけ月見岡八幡社の宮司・守谷源次郎が、東京帝大の教授・鳥居龍蔵を招聘し、古墳時代末期とみられる横穴古墳群を発見した地点でもあるからだ。六天坂と振り子坂にはさまれた、開発前の緑深い谷間の風景は、いまだ空中写真以外では見たことがない。
◆写真上:1953年(昭和28)の夏ごろに、銭湯「新高湯」の煙突から撮影された六天坂。
◆写真中上:上は、1975年(昭和50)の空中写真にみる新高湯と煙突。中上・中下は、1926年(大正15)の冬に描かれたとみられる佐伯祐三の『下落合風景』と『目白の風景』。下は、1960年(昭和35)作成の「全住宅案内帳」を参考にした六天坂沿いの邸宅群。
◆写真中下:上から下へ、1945年(昭和20)4月2日の空襲直前に米軍偵察機F13から撮影された空中写真にみる六天坂、戦後の1957年(昭和32)の空中写真にみる六天坂、1963年(昭和38)に撮影された六天坂、そして1975年(昭和50)に撮影された六天坂。
◆写真下:上は、六天坂の下部にある第六天小祠(左手)の下から撮影した六天坂の入口あたり。中上・中下は、傾斜のきつい六天坂の現状。下は、六天坂の中腹から新宿方面を遠望した風景。
★おまけ
1927年(昭和2)6月17日から30日まで、上野の日本美術協会の展示会場を借りて開かれた1930年協会の第2回展には、手前の六天坂と、建設から3年ほどが経過した中谷邸を描いたとみられる、佐伯祐三の見たことのない作品画面が展示されているように見える。遠景なので細かいところまでは不明だが、画面を再現すると以下のような風景になるだろうか。
◆写真中上:上は、1975年(昭和50)の空中写真にみる新高湯と煙突。中上・中下は、1926年(大正15)の冬に描かれたとみられる佐伯祐三の『下落合風景』と『目白の風景』。下は、1960年(昭和35)作成の「全住宅案内帳」を参考にした六天坂沿いの邸宅群。
◆写真中下:上から下へ、1945年(昭和20)4月2日の空襲直前に米軍偵察機F13から撮影された空中写真にみる六天坂、戦後の1957年(昭和32)の空中写真にみる六天坂、1963年(昭和38)に撮影された六天坂、そして1975年(昭和50)に撮影された六天坂。
◆写真下:上は、六天坂の下部にある第六天小祠(左手)の下から撮影した六天坂の入口あたり。中上・中下は、傾斜のきつい六天坂の現状。下は、六天坂の中腹から新宿方面を遠望した風景。
★おまけ
1927年(昭和2)6月17日から30日まで、上野の日本美術協会の展示会場を借りて開かれた1930年協会の第2回展には、手前の六天坂と、建設から3年ほどが経過した中谷邸を描いたとみられる、佐伯祐三の見たことのない作品画面が展示されているように見える。遠景なので細かいところまでは不明だが、画面を再現すると以下のような風景になるだろうか。


この記事へのコメント
てんてん
落合道人
こちらは突然の強風とにわか雨が多く、サクラの季節には無惨ですね。
NO14Ruggerman
というのもつい先ごろ知人が「六天坂」界隈に転居したことも
あったからです。
「中谷邸」が現存されていることも確認しました。
かなり以前に「津軽邸」の記事に触れたことがあり、自分の中では
場所が今一歩不明確でしたが位置関係が把握できスッキリしました。
「新高湯」西並びの「白雪」は現存する「白雪鮨」の事だと思います。
赤塚不二夫マンガにもしばしば登場した・・
落合道人
津軽邸については、調べている方がごていねいなコメントを寄せられており、
軽井沢の別荘などそちらの内容も興味深いお話がうかがえました。
「白雪」は寿司屋だったのですね。赤塚不二夫の本まで、まだ手がまわって
おらず、辛口の酒をだす飲み屋かな?……などと妄想してました。さっそく、
文中に注釈を入れさせていただきます。ありがとうございました。