薄っすらと記録に残る下落合の中井遺跡。

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 中井駅の北、一ノ坂矢田坂とにはさまれたバッケ(崖地)で、1943年(昭和18)ごろに発見された大規模な「中井遺跡」について、調査報告書がないかどうか探してみたが、やはり敗戦間近な時期なので発掘調査はまったく行われず道路建設が優先され、そのまま破壊されてしまったようだ。戦争が、いかに自国の遺跡や文化財を破壊していくかの見本のひとつだろう。
 なぜ、わたしが中井遺跡にこだわるのかといえば、大量のスラグ(鉄滓・金糞)が出土しているからであり、同時に判明しているかぎりでは、古墳時代後期とみられる土師器などが発見されているからだ。古墳時代の住居遺跡は、下落合にかぎらず上落合からも発掘されているが、目白崖線の当該崖地には古代のタタラ遺跡が眠っていたとみられる。ただし、詳しい発掘調査が行われなかったため、タタラ炉の破片か、あるいは野ダタラの痕跡の有無は不明のままだ。
 また、古代のタタラ遺跡が「中井遺跡」と名づけられたのは、江戸期の下落合村における地元の小名にちなんでいるわけだが、この「中井」という字名がふられた地形が意味するところも含めて、わたしは強いひっかかりをおぼえる。なぜなら、現代ではタタラ製鉄の本場とされる島根県には、「中井」と名づけられたタタラ遺跡が、松江市美保関町(大字)稲積にも確認できるからだ。そして、こちらの中井遺跡も山間にある谷間の斜面で発見されている。
 そもそも「中井」の小名が意味する地形は、丘陵の麓または斜面、あるいは山間に切れこんだ谷戸か谷間の奥まった斜面から、自然に湧きだす湧水井、あるいは伏水流のある場所へ農地開拓とともに灌漑用に掘られた井戸(湧水源)を指していたようだ。以前にも、太田南畝『高田雲雀』や昌平坂学問所地理局の『新編武蔵風土記稿』を引用して、北川(現・妙正寺川)と下落合(現・中落合/中井含む)の丘陵とにはさまれた、下落合村の小名「中井」をご紹介していた。たとえば、同じ江戸東京では旧・大森区馬込町1丁目(現・大田区南馬込4丁目)の「中井」あるいは「中井谷」も、やはり谷間の斜面の湧水源にふられた小名として知られている。
 古墳時代との関連でいえば、大分県豊後大野市朝地町にある丸山古墳(ここでもまた全国でおなじみの古墳地名「丸山」から名づけられた丸山古墳だ)の近くにある「中井迫」も、山間に切れこむ谷間の地形から湧きでる湧水井だったらしい様子が、1988年(昭和63)に大分合同新聞社から出版された、『あさじ地名考』掲載のイラストからもうかがえる。同地域では、湧水井からの清水を灌漑に利用し、斜面に棚田を拓いていた様子が見てとれる。
 また、中井=湧水井から湧きでるのは、なにも水だけではない。地下からの水圧に押されて、地中に含まれる山砂鉄が湧水源の周囲の地表へ徐々に堆積(土砂に比べ砂鉄は比重が大きい)し、古代のタタラ集団にとってはかっこうの神奈(鉄穴)流し場になるのは、日本各地に残るタタラ遺跡にも見える明確な痕跡だ。「中井」に限らず、目白崖線沿いにふられた金久保沢(金和久沢)の字名や、雑司ヶ谷村の字名・神田久保=神奈(かんな)久保(日本語地名の「たなら相通」による)、旧・金川(弦巻川)、旧・金川(カニ川)なども、中井と同様に清水ばかりでなく、湧水源から砂鉄が噴きでて堆積した流域があったからこそ、そのように名づけられたエリアだったと考えている。
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 さて、タタラの痕跡が色濃い中井遺跡について、戦時のため報告書は存在しないが、それ以前の大正期に、武相考古会(東京と神奈川を中心とする民間の考古学サークル)の会員たちが付近で集めた、鉄滓(スラグ)や土師器や須恵器などを伝聞として記録した文章が、早稲田大学考古学研究室の資料に残っている。以前の落合遺跡の記事でもご紹介しているが、同大学考古学研究室が1955年(昭和30)に刊行した、『落合-落合遺跡調査報告書-』より引用してみよう。
  
 現「中井駅」上に構架された改正道路<山手通り>が駅北方で落合台地を削つてつくられた時にも多量の遺物が出土した。これを中井遺跡と名付けることが至当と考えるが、ここからは鬼高期<古墳時代後期>に相当する土師器が出土し、削られた土壁に竪穴断面数個が認められた。<中略> 中井遺跡と仮称す地点については上記したところであるが、<武相考古会の>小松真一氏の大正13年の調査によれば、下落合小上の南向丘陵中腹の住宅地工事によつて、約1尺の黒土層の下にローム土に切り込まれた2つの竪穴の存在していたことを知る。<中略> これら竪穴のうちA号について、山内、甲野、八幡諸氏の助力によつて小松氏は発掘を試みられ残存部(全形の約1/3)を明らかにされている。それによると、出土遺物は土師器のほか須恵並びに鉄滓塊(長さ3.5寸~1.3寸)計14個を得られている。(< >内引用者註)
  
 上記の「黒土層」とされているのが、大量の木炭を焼いた灰層だとすれば、炉を築造してのタタラ製鉄ではなく、急斜面と自然風を利用したかなり大規模な野ダタラ跡も想定される。ちなみに、文中の小松真一という人物は、拙ブログの記事でも過去に登場している。
 上掲の出土物は、おそらく一ノ坂~蘭塔坂(二ノ坂)の中腹あたりに位置する住宅敷地のものだが、山手通りの工事の際には、多量の鉄滓(スラグ)が出土している。それを今度は実際に道路工事の現場で目撃したか、または住民に取材したかは不明だが、戦後「落合新聞」を発刊していた竹田助雄は、1982年(昭和57)に創樹社から出版された『御禁止山』で次のように記述している。
  
 西武新宿線中井駅近くに「中井遺跡」がある。ここの址跡は山手通りの開鑿でいまは痕跡はない。中井遺跡は大正十三年ら小松真一という考古学者が傾斜地の切取り工事中に古墳時代の住居跡を発見し調査していた。かまどの中からおびただしい木炭の粉や多量の金糞が出土したことから刀鍛冶がいたのではないかと推定されている。
  
 上記の「傾斜地の切取り工事」という表現から、矢田坂あたりから蘭塔坂(二ノ坂)にかけて見られる雛壇状の宅地開発現場から、遺物が出現していたことがわかる。
 ちょうど、佐伯祐三が蘭塔坂(二ノ坂)の開発現場を描いた『下落合風景』シリーズ「切割り」や、山手通り工事で消えてしまった矢田坂から一ノ坂界隈の斜面を描いたとみられる、一般には未公開の『下落合風景』の界隈だ。これらの作品が制作される、ほんの2年ほど前に出土していた様子がうかがえる。また、付近では月見岡八幡社の宮司・守谷源次郎と、彼が招聘した東京帝大の鳥居龍蔵による調査では、六天坂の西側で古墳時代末期とみられる横穴古墳群が見つかっており、六天坂から蘭塔坂(二ノ坂)一帯の谷戸は、古墳時代の規模の大きな遺跡だった可能性がある。
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 なお、竹田助雄は「刀鍛冶」と書いているが、今日では大鍛冶(タタラ製鉄集団)と小鍛冶(刀鍛冶)の仕事は早い時期から分離・分業化されていたのが知られており、中井遺跡の痕跡が同一の人々による仕事だったとは限らない。大鍛冶グループが一時的に滞在して、しばらく中井=湧水井周辺で砂鉄を集め目白(鋼)を製錬したあと、のちに古墳刀を鍛造する鍛冶村が形成されているのかもしれない。大鍛冶は、大量の木炭を得られる森林と砂鉄とを求めて常に各地の移動を繰り返しているのであり、炭にする樹木や砂鉄がタタラ場に少なくなれば仕事にならない。地付きで農工業を中心に暮らす定住者の遺跡とは、まったく別の存在だからだ。
 また、文中で「かまど」とされている観察が、研究の進んでいない大正期のものなので、ほんとうに生活の場の単なる竈(かまど)だったのか、それとも大鍛冶が構築して鉧(けら)を取りだす際に破壊された、鞴(ふいご)の羽口をともなう溶炉跡だったのかは、いまとなっては知るよしもない。もし、「かまど」とされたものが溶炉跡だとすれば、野ダタラではなく円形か角形かは不明のままだが、粘土によって構築された後世につながるタタラの溶炉跡だった可能性もある。最新の研究では、岩手県南部で古墳時代の後期に、半地下式あるいは大型長方形箱形の溶炉によるタタラ製鉄が行われていたことが、タタラ遺跡の発掘から判明している。
 ついでに、島根県の「中井遺跡」についてもご紹介しておこう。松江市美保関町(大字)稲積の遺跡については、1990年(平成2)に彩文社から出版された「知識6」収録の、恩田清「歴史の検証9-島根町の歴史」に、中井遺跡から出土した鉄滓を手にする著者の写真とともに紹介されている。
  
 これ<溶炉>を使用し木炭と砂鉄を交互に投入しながら三昼夜ぶっ通しで吹き続ける(千三百度くらいまで温度が上がる)ことによって砂鉄は溶けて下部に鉧といわれる玉鋼が、その上部に銑鉄(不純の鉄)が澱るのである。そこで砂の湯口を抜いてこれを炉外に流し出すのであるが鉧は流出させることはできないので炉を破砕し取り出すことになる。鉧はキラキラとと白銀のように輝く良質の和鋼で日本刀の原料となっていることは周知のことである。(< >内引用者註)
  
 筆者は、溶炉の下部に形成された鉧(けら)から日本刀を鍛造すると書いているが、鉧が2.5トンほど製錬できたとすると、その250分の1の100kgが、まるで白銀のように輝く「目白」(刀剣に用いられる鋼)と呼ばれる、良質な部位(鉧の中で地層のような筋“目”として白銀色に形成されている)であって、他の部分は刀剣には用いられず、工具や農具など道具類へ活用されることになる。
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 ちなみに、目白崖線の東に残る「目白」(室町末期より目白山と呼ばれた一帯)の地名は、良質な砂鉄を産出し優れた鋼を製錬できる斜面だったことから、太田道灌江戸城を築いた1400年代ごろに、そう名づけられたのではないかと考えている。ちなみに、江戸城の(城)下町は米穀や茶とともに、鉄(鋼)や銅など金属の集積地であり、関東一円の物流拠点になっていた様子がうかがえる。

◆写真上:丸型炉の湯口から流れだした銑鉄(不純鉄)で、冷えて固まるとスラグ(鉄滓・金糞)になる。鉧(けら)は炉の底部に形成され、最後に溶炉を破壊して取りだす。
◆写真中上は、1936年(昭和11)の空中写真にみる改正道路(山手通り)工事前の中井遺跡の位置。中上は、多量の鉄滓(スラグ)が発見されたあと1944年(昭和19)の空中写真にみる同遺跡。中下は、1945年(昭和20)4月2日に撮影された第1次山手空襲直前の同遺跡界隈。は、タタラ遺跡から多量に発見される不純鉄=スラグ(鉄滓・金糞)。
◆写真中下は、島根県で撮影された崖地の砂鉄採集。中上は、比重の大きい砂鉄を集める神奈(鉄穴)流しで、遺跡は棚田へ改造されたりする。中下は、角炉によるタタラ製鉄。は、日本刀剣美術保存協会主宰の「出雲タタラ」で製錬された2.5トンの鉧。
◆写真下は、1947年(昭和22)撮影の空中写真にみる中井遺跡。中上は、大分県豊後大野市朝地町の「中井迫」界隈を描いたイラスト。切れこんだ谷間に、棚田が形成されていたのがわかる。中下は、松江市美保関町稲積にある中井遺跡から出土する大きなスラグ(鉄滓・金糞)。は、わたしの手もとにある日本刀剣美術保存協会の「出雲タタラ」で精錬された刀剣用の目白(鋼)。
おまけ
 矢田津世子が歩いていた矢田坂(AI着色)の緑が濃かった谷戸、中井遺跡の東側にあたる崖地には、守谷源次郎と東京帝大の鳥居龍蔵によって確認された横穴古墳群が存在していた。下の写真は、大磯の楊谷寺谷戸横穴古墳群(古墳時代後期)だが、このような風情だったのかもしれない。
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