下落合を描いた画家たち・大久保作次郎。(3)

大久保作次郎「冬の日ざし」1929.jpg
 牧野虎雄は、長崎町荒井1721番地(現・目白4丁目)につづいて下落合604番地(現・下落合4丁目)に住んだが、長崎でも下落合でもアトリエの庭先をよく描いている。庭には、武蔵野の面影をやどした樹々や、自身がモチーフ用に植えた花卉が咲いていたからだが、下落合540番地の大久保作次郎もまた、よくアトリエ南側の広い庭園を描いている。
 特に滞欧からもどったあと、1929年(昭和4)に庭風景の作品が集中しているようだ。自身でも「出不精」「引籠り」と書いているように、大久保作次郎は牧野虎雄とは異なり、アトリエを出て周辺の風景をスケッチするという習慣がなく、たまに出かける国内外を問わない旅行で写生するのが中心だった。戦後の1955年(昭和30)に制作された『早春(目白駅)』は、付近を散歩の途中で描いたとみられる画面で、めずらしい作品だったろう。したがって、国内の風景画は旅先の名所・旧蹟が多く、アトリエの“外”に拡がる下落合の風景は描いていない。そのかわり、広い敷地に建つ自邸の“内”の風景、特に南の庭園に繁る屋敷林や池をたびたび描いている。
 1929年(昭和4)の1年間だけ見ても、自身の庭をモチーフにした作品は3点を数えることができる。すなわち、『冬の日ざし』と『林間の五月』、そして『六月の池』の3作品だ。また、敗戦直後の時期には旅行で遠出ができないせいか、やはり庭の雑木林や花壇、温室など自邸内外の人物(家族など)をまじえた作品が多くなる。それらは、大正期からの作品と表現的にはあまり変わっておらず、むしろ「外光派」の出発点に回帰しているようにさえ感じられる。
 大久保作次郎の仕事のなかで、唯一、表現の変革を試みたと思われるのは滞欧作品のあたり、すなわち大正末の数年間にセザンヌのような描写を試みただけであり、帰国後は東京美術学校の黎明期における「外光派」、つまり穏便で着実な(大過ない)「印象派」へと再び回帰しているように見える。1971年(昭和46)に出版された『大久保作次郎画集』(サンケイ新聞社)に収録の、河北倫明の解説文「大久保作次郎の芸術」では、彼の仕事について次のように書いている。
  
 自然の相貌や興趣を印象派式にたどりたどりして、追求するやり方では、どうしても一定のとろさが残り、直截的な胸のすく表現には至りにくいという事情が伏在することである。そこから一般的にいって近代型の直截な感覚表現への道が工夫されていくことになるのだが、大久保さんの場合は、さきにも着目したように、滞欧作「マルセイユの魚売り」あたりで、その方向への気配をうかがわせたにとどまり、ふたたび外光風の着実直摯な作風に戻っていった。つまり、二度と近代風への欲目をみせることがなかったので、以後人物画のほかに風景画などがふえたりはしたが、あくまで本来の外光的追求画法の中に道を求めて迷わなかった。
  
 特に人物画に関しては、大久保作次郎は物語のワンシーンを切りとったような、なにかつづきのシーンがあるのではないかと思わせるような画面が多い。そこが、従来の外光派=印象派とは異なる、私的なセンチメンタリズムを加味した彼ならではの表現なのだろう。
 さて、帰国後しばらくたつ1929年(昭和4)に集中して描かれた、“下落合の庭”3部作について観ていこう。まず、『冬の日ざし』とタイトルされる、大久保邸にあった池と屋敷林を描いたものだ。(冒頭写真) この池には、ときにスイレンが栽培されるなどして、彼の作品には繰り返し登場している。いかにも、印象派の画家らしいモチーフなのだが、昭和初期の大久保作次郎アトリエは広い敷地に鬱蒼とした屋敷林が繁る、まるで武蔵野の雑木林のような風情だった。
 1932年(昭和7)に美術工芸会から出版された『大久保作次郎画集』では、それぞれの作品に自身で解説を書いている。『冬の日ざし』(25号)に添えられた、彼のキャプションを引用してみよう。
  
 池畔の暗い木立に遠い冬の陽光が射して、もの静かな、ありのまゝの自然を感じるがまゝに描いたものである。/私はこのわが家の同じモチーフを、飽かずに幾枚も画にしてゐる。
  
大久保作次郎邸1936.jpg
大久保作次郎「林間の五月」1929.jpg
大久保作次郎「六月の池」1929.jpg
大久保作次郎「向日葵」1927.jpg
 「ありのまゝの自然」と書いているが、大久保作次郎邸の庭を1936年(昭和11)撮影の空中写真で上空から見ると、武蔵野の雑木林をそのまま保存したような状態に見える。庭にあった池が、自然の湧水によるものかどうかは不明だが、やや窪んだ地形に形成されているところをみると、地面を掘削しているうち地下水がせり上がって、清冽な池になったのかもしれない。
 この池を囲む雑木林を描いたのが、同じ1929年(昭和4)に制作された『林間の五月』(25号)だ。(上から3枚目の画面) 画集より、大久保自身によるキャプションを引用してみよう。
  
 五月のもつ緑色の変化に興味をもつて描いたのである。雑木の緑、雑草の緑、樹間には筍が生へ樹枝には鵯が囀つてゐる。(略) 明暗のもつ調子よりも、色彩の諧調を描こうとしたものである。
  
 初夏になっても山へ帰らないヒヨドリ(鵯)のつがいは、現在でも下落合のあちこちで見られ鳴き声もよく聞こえている。同画集に掲載された画面は、ほとんどがモノクロなので実際の色調は不明だが、さまざまな諧調のグリーンを用いて庭を描きあげているのだろう。
 翌月になると、大久保作次郎は再び庭池を描いている。スイレンが咲きはじめたからだが、この画面から土橋の架かる池が、かなり大きかったことがわかる。彼のキャプションを引用しよう。
  
 出不精の私は、一度旅に出ると、また帰り不精になつて、永滞在になるのであるが、兎角アトリエに引籠り勝ちで、風景も自宅の庭をよく描き、常に手近いものに愛着をもつて、題材を求めてゐる。/この作も睡蓮咲き初めた庭の池である。睡蓮は私の最も好む花の一つで、連年この池の花によつて幾枚かの作を繰りかへし描いてゐるが、描く度に私の感受性は新しい情緒に呼び起されて、真実を掴むことに力を傾けてゐるのである。
  
 『六月の池』(60号)と題された画面(上から4枚目の画面)は、いかにも印象派の表現を踏襲するような色彩の趣きなのだろう。人手で栽培されたスイレンを除けば、『六月の池』のような情景は当時、下落合の目白崖線に入りこんだあちこちの谷戸で見られたにちがいない。それらの湧水池は、郊外遊園地の庭園池になったり、収穫した野菜の土を落とす「洗い場」にされたり、ニシキゴイなどを養殖する「養魚場」になったり、アユを放って「釣り堀」にされたりしている。
 大久保作次郎の庭にはヒマワリが植えられていたらしく、1927年(昭和2)には真夏に採取したヒマワリをモチーフに静物画を描いている。近くに住んだ牧野虎雄も、庭にヒマワリを植えてモチーフにしていたが、大久保作次郎から種を分けてもらい育てていたのかもしれない。12号と小さめなサイズの『向日葵』(上から5枚目の画面)について、同画集のキャプションより引用してみよう。
大久保作次郎「花苑の戯れ」1948.jpg
大久保作次郎「お茶どき」1950.jpg
大久保作次郎「木蔭の憩い」1952.jpg
  
 盛夏の花壇に咲く向日葵は、多くの花に君臨するかの様に高く伸びて、蒼空に太陽の様に咲き出る。私は好んで必ずこの花を庭に咲かせ、庭に咲いたままを描く。/この作は庭に咲いた向日葵を切つて、スペヰンの古壺に挿したものである。
  
 次に、アトリエの庭を描いた戦後の3部作を見てみよう。戦前の3部作とは異なり、そこには家族と思われる人物たちが描きこまれている。それぞれの画題は、『花苑の戯れ』(1948年)に『お茶どき』(1950年)、『木蔭の憩い』(1952年)と、ほとんど同じような変わりばえのしない雰囲気の画面がつづく。(上から6枚目~8枚目の画面)
 戦後すぐのころの作品群なので、「出不精」で「引籠り」がちな大久保作次郎は、再び庭の情景に目を向けているのだろう。『花苑の戯れ』には、花壇に咲くヒマワリもとらえられている。各画面は、2年おきに描かれており5年間にわたる作品にもかかわらず、まるで映画のワンシーンの情景を切りとったような、あたかも時間がとまったかのような錯覚を起こさせる仕上りとなっている。戦後には、それまで以上に新たな洋画の潮流が日本の美術界へドッと押しよせてきたはずだが、大久保作次郎の「外光風の着実直摯な作風」はまったく変わらなかった。
 大久保アトリエのすぐ近くに、1919年(大正8)ごろ「百姓家」を借りて住み、下落合の路上で貧血を起こして倒れ行路病者になりそこなった同郷の小出楢重は、この変わりばえのしない大久保作次郎の作風について、皮肉をこめたエッセイを書いている。1936年(昭和11)に昭森社から出版された小出楢重『大切な雰囲気』収録の、「大久保作次郎君の印象」から引用してみよう。
  
 月日が経つた上に、西洋の寂寞と芸術で苦労したものか、最近はその顔に不思議な妖味を現はして来ました。殊に目の位置がだんだん上へ上へとせり上つて了つて、目の下何寸と云つて鯛なら値うちものとなりつゝあります。/君の性格は、母の云ふ如く殿様であり君子です。君子は危きに近よらずとか申しますが、危きに内心ひそかに近よりたがる君子で、危い処には何があるかもよく御存じの君子の様な気もします。とに角ものわかりのよい、親切丁寧、女性に対してものやさしきいゝ君子かも知れません。
  
 「危き処」とは、時代とともに進化する美術のフロント(最前線)のことであり、そこに近づいたことで官展から放逐され、批評家からははボロクソにこき下ろされ、表現や発表の機会を次々と奪われていったアヴァンギャルドな画家たちをよく知る、小出楢重ならではの最大限の皮肉なのだろう。なお、同エッセイは1930年(昭和5)に刊行された、「美術新論」4月号に掲載されたものだ。
大久保作次郎「温室の一隅」1954.jpg
大久保作次郎「早春(学習院の庭)」1948.jpg
大久保作次郎画集1932美術工芸会.jpg 大久保作次郎1971.jpg
 大久保作次郎は、1955年(昭和30)に学習院大学のキャンパスから山手線をはさみ、近衛町の丘を描いた『早春(目白駅)』を仕上げているが、その7年前、まったく同じ画題で『早春(学習院の庭)』を制作している。種子が飛ばされてきたのだろう、繁殖力の強いシュロ(棕櫚)の木があちこちに生える学習院の森だが、同作にも前面に大きくシュロが何本もあしらわれている。めずらしく近所を散策して見つけた風景のようだが、大久保作次郎はアトリエから「出不精」で「引籠り」だったわけではなく、下落合や目白に色濃い武蔵野の風情が残る雑木林から外界へは、あまり出たくない「君子」だったのではないか。戦争に敗けようと餓死者が10万人単位で出ようと、世界は「十年一日の如く」いつも同じで変わらないと信じていられるのも、また「君子」の特権だからだ。

◆写真上:自邸の広い庭を描いた、1929年(昭和4)制作の大久保作次郎『冬の日ざし』。
◆写真中上は、1936年(昭和11)の空中写真にみる下落合540番地の大久保作次郎アトリエ。中上は、1929年(昭和4)に制作された大久保作次郎『林間の五月』。中下は、同年に制作された同『六月の池』。は、1927年(昭和2)に制作された同『向日葵』。
◆写真中下は、1948年(昭和23)制作の大久保作次郎『花苑の戯れ』。は、1950年(昭和25)制作の同『お茶どき』。は、1952年(昭和27)制作の同『木蔭の憩い』。
◆写真下は、1954年(昭和29)制作の庭に建てられていた温室内を描いた大久保作次郎『温室の一隅』。は、『早春(目白駅)』に先立つこと7年前の1948年(昭和23)に制作された同『早春(学習院の庭)』。下左は、1932年(昭和7)に出版されたモノクロ画像が主体の『大久保作次郎画集』(美術工芸会)。下右は、1971年(昭和46)に撮影された晩年の大久保作次郎。
おまけ
 近年の学習院大学キャンパスの森にも、あちこちにシュロの木が目立って生えている。
学習院キャンパス1.JPG
学習院キャンパス2.JPG
学習院キャンパス3.JPG

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