
戦前、高等女学校で行われていた美術授業では、美育振興会による『女子実用図画』という教科書が使われていた。教科書なので、一般の図書館などには収蔵されていないが、教育関連の資料室や古書店ではときどき見かける赤い表紙の美術教本シリーズだ。
教科書のタイトルに「女子」と付いていることから、『男子実用図画』もあるのかと思うと、男子の場合は『中学実用図画』というように、特に「男子」とは付加せず学校段階(教育過程)の名称を付けて編集されていたようだ。今日ではありえないが、戦前・戦中の美術授業では女子と男子の教育内容が大きく異なっていた。もちろん、素描(デッサン)からはじまり「人物画」や「風景画」、「静物画」などの絵画の基本的実習を含むのは共通しているが、描く対象=モチーフ選びも異なれば、グラフィックデザインやパターンデザインでは男女で大きく異なっている。
おしなべて、男子は科学的・技術的な図画を多く取り入れ、将来的な夢を描きやすい、また将来に就くであろう職業を想起させるような内容だったのに対し、女子の美術教育は家庭に入って主婦業にいそしむ、「良妻賢母」をイメージさせるコンテンツが多かった。中国や朝鮮半島の儒教思想を踏襲した、薩長政府由来の教部省(のち文部省)による「女修身」が、わずか80年ほど前までそのまま活きていたが、美術面においても家庭内を「豊か」にし「明るく」する、生活的で実用的なグラフィックやパターンなど裁縫・服飾のデザインが重視されている。
いつの時代の教科書にも、それを教えるにあたっての教科書にそのまま沿った、教師用の授業参考書=“虎の巻”とでもいうべき本が用意されている。『女子実用図画』の教科書にも、同じ美育振興会が編集し1934年(昭和9)に出版された、『女子実用図画教授備考』(晩成処)という“虎の巻”が用意されていた。それだけなら、取り立ててめずらしいことではないのだけれど、この“虎の巻”には、落合地域やその周辺域にアトリエをかまえていた画家たちが、それぞれ図画の課題やテーマ別に、具体的な教授内容を執筆しているのがめずらしい。
たとえば、下落合(現・中落合/中井含む)西部にあたるアビラ村(芸術村)にあった金山平三アトリエ(アビラ村24号)の、西隣り(下落合2080番地)にアトリエをかまえるはずだった南薫三をはじめ、下落合804番地に夏目利政に依頼してアトリエを建てて住んでいた鶴田吾郎、目白通りの北側の下落合540番地にアトリエをかまえていた大久保作次郎、上落合425番地に住んだ日本画家の小泉勝爾など、当時の文展・帝展画家を中心に同書は執筆されている。
そのほか、拙ブログにはときどき登場する画家として、山本鼎や伊原宇三郎、清水良雄、中澤弘光、結城素明、山村耕花、杉浦非水、小柴錦侍、白川一郎など「教授」陣の名前がみえるが、帝国美術院(帝展)以外の美術団体に所属していた画家たちのネームがないのは、芸術といえども国家(文部省)が管理・採用する国定教科書だからだろう。
これら教授陣のなかから、きょうは下落合に住んでいた洋画家の鶴田吾郎と大久保作次郎のふたりの教授法を取りあげてみたい。鶴田吾郎は、下落合623番地にアトリエを建てた曾宮一念とともに、1921年(大正10)から3年弱の間、画塾「どんたくの会」(第1次)を開いて近所の住民や学生たちに教えていたし、大久保作次郎もまたアトリエで画塾を開き、近所だった牧野虎雄らも巻きこみながら、大勢の生徒たちに教えていた。
まず、鶴田吾郎は教科書『女子実用図画』に、富士登山口の吉田で飼われていた登山用馬を描いて掲載している。図画のテーマは「獣類画」だが、ウマやウシ、ヒツジ、イヌなど学校の近くで都合よく見つかるとは限らないから、家から連れてきたウサギやネコでもいいとしている。でも、ウサギやネコの場合は写生している間、ジッと動かずに黙って静止しているわけもないので、「針金製の籠にでも入れてモデルにするがよい」と注釈を入れている。それでもダメな場合は、いっそのこと「止むを得ず剥製標本にしてもよい」と書いているが、学校に都合よく動物の標本もない場合は、自分(鶴田吾郎)が制作した富士登山用の『馬』の画面を手本画にしてもよいとしている。
教科書のタイトルに「女子」と付いていることから、『男子実用図画』もあるのかと思うと、男子の場合は『中学実用図画』というように、特に「男子」とは付加せず学校段階(教育過程)の名称を付けて編集されていたようだ。今日ではありえないが、戦前・戦中の美術授業では女子と男子の教育内容が大きく異なっていた。もちろん、素描(デッサン)からはじまり「人物画」や「風景画」、「静物画」などの絵画の基本的実習を含むのは共通しているが、描く対象=モチーフ選びも異なれば、グラフィックデザインやパターンデザインでは男女で大きく異なっている。
おしなべて、男子は科学的・技術的な図画を多く取り入れ、将来的な夢を描きやすい、また将来に就くであろう職業を想起させるような内容だったのに対し、女子の美術教育は家庭に入って主婦業にいそしむ、「良妻賢母」をイメージさせるコンテンツが多かった。中国や朝鮮半島の儒教思想を踏襲した、薩長政府由来の教部省(のち文部省)による「女修身」が、わずか80年ほど前までそのまま活きていたが、美術面においても家庭内を「豊か」にし「明るく」する、生活的で実用的なグラフィックやパターンなど裁縫・服飾のデザインが重視されている。
いつの時代の教科書にも、それを教えるにあたっての教科書にそのまま沿った、教師用の授業参考書=“虎の巻”とでもいうべき本が用意されている。『女子実用図画』の教科書にも、同じ美育振興会が編集し1934年(昭和9)に出版された、『女子実用図画教授備考』(晩成処)という“虎の巻”が用意されていた。それだけなら、取り立ててめずらしいことではないのだけれど、この“虎の巻”には、落合地域やその周辺域にアトリエをかまえていた画家たちが、それぞれ図画の課題やテーマ別に、具体的な教授内容を執筆しているのがめずらしい。
たとえば、下落合(現・中落合/中井含む)西部にあたるアビラ村(芸術村)にあった金山平三アトリエ(アビラ村24号)の、西隣り(下落合2080番地)にアトリエをかまえるはずだった南薫三をはじめ、下落合804番地に夏目利政に依頼してアトリエを建てて住んでいた鶴田吾郎、目白通りの北側の下落合540番地にアトリエをかまえていた大久保作次郎、上落合425番地に住んだ日本画家の小泉勝爾など、当時の文展・帝展画家を中心に同書は執筆されている。
そのほか、拙ブログにはときどき登場する画家として、山本鼎や伊原宇三郎、清水良雄、中澤弘光、結城素明、山村耕花、杉浦非水、小柴錦侍、白川一郎など「教授」陣の名前がみえるが、帝国美術院(帝展)以外の美術団体に所属していた画家たちのネームがないのは、芸術といえども国家(文部省)が管理・採用する国定教科書だからだろう。
これら教授陣のなかから、きょうは下落合に住んでいた洋画家の鶴田吾郎と大久保作次郎のふたりの教授法を取りあげてみたい。鶴田吾郎は、下落合623番地にアトリエを建てた曾宮一念とともに、1921年(大正10)から3年弱の間、画塾「どんたくの会」(第1次)を開いて近所の住民や学生たちに教えていたし、大久保作次郎もまたアトリエで画塾を開き、近所だった牧野虎雄らも巻きこみながら、大勢の生徒たちに教えていた。
まず、鶴田吾郎は教科書『女子実用図画』に、富士登山口の吉田で飼われていた登山用馬を描いて掲載している。図画のテーマは「獣類画」だが、ウマやウシ、ヒツジ、イヌなど学校の近くで都合よく見つかるとは限らないから、家から連れてきたウサギやネコでもいいとしている。でも、ウサギやネコの場合は写生している間、ジッと動かずに黙って静止しているわけもないので、「針金製の籠にでも入れてモデルにするがよい」と注釈を入れている。それでもダメな場合は、いっそのこと「止むを得ず剥製標本にしてもよい」と書いているが、学校に都合よく動物の標本もない場合は、自分(鶴田吾郎)が制作した富士登山用の『馬』の画面を手本画にしてもよいとしている。



「獣類を鉛筆にて正確に描く練習を行はしめる」という、鶴田吾郎が引き受けた教授テーマには、写生に際しての注意点として、教師向けに次に挙げる5つの課題を記述している。
▼
一、手本に就きその構図・表現を十分説明してこれが画趣を知らしむると共に、之れが鑑賞を行ひ、然る後臨画又は写生にとりかゝらしむべきである。/二、獣類の如きものは其の形の正不正は何人にも容易に看取出来るものであるから、各部の比例大さに就いては十分留意せしめなければならぬ。/三、常に大体を重んじて部分に捉はれず、要点を掴んで左程でもない部分は省略するやう心掛けしむべきである。/四、出来るだけ写実を重んじて、絵の面白さといふが如きものを求めしめないがよい。/五、背景や地面の如き部分は成る可く手を省いて、只馬を立体的に実在感を出す程度に止めしむるがよい。
▲
さすが官展の画家らしく、あくまでもモチーフの写実を重視し、「絵の面白さといふが如きものを求めしめないがよい」などと書いているが、1935年(昭和10)前後の当時でさえ、他の美術集団の画家たちから見れば、自由に描ける「絵の面白さ」を子どもたちに教えないで、いったい美術のなんの魅力を授業で教えるんだよ?……と、批判を浴びそうな「注意点」だ。
一方、大久保作次郎は、『女子実用図画教授備考』には二度登場しており、「本と本立」および「人形」の写生を担当している。ともに静物であり、生徒たちがデッサン力や色彩感覚を身につけるための授業用に書かれたものだろう。このうち、「本と本立との形の変化を知らしめ、鉛筆彩色画の練習を行はしめる」の教授法を見てみよう。
用意するのは本立てと書籍なのだが、大久保作次郎の指定する本がやたら細かくて具体的だ。本は、サイズの小さいものから大きいものへ順番に立てかけ、最後に本を1冊寄りかからせるとしている。これら本立てに並べる本は、手前から黄色い背表紙の『立志伝』、次は赤い背表紙の『和英新辞典』、3冊目は緑色の背表紙の『万葉集』とし、最後の斜めに寄りかからせる本は青色の本(おそらく辞書か何か)と規定している。このモチーフを、4Bのやわらかい鉛筆で正確に形や陰影をなぞり、鉛筆の線を消さないていどに水彩で淡い彩色をほどこすとしている。
また、描く絵のめざす方向性として、「全体に落ち着いた変化のある構図で、その表現はリアリスチツクで、しつかりとして派手で元気相な感じを与へる」ような作品が望ましいとしている。全体に落ち着いた構図や画面でありながら、派手で元気そうな感じを与える表現というのは、なかなか難しい教育要領だけれど、現場の美術教師たちも少なからず悩んだのではないだろうか。
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一、手本に就きその構図・表現を十分説明してこれが画趣を知らしむると共に、之れが鑑賞を行ひ、然る後臨画又は写生にとりかゝらしむべきである。/二、獣類の如きものは其の形の正不正は何人にも容易に看取出来るものであるから、各部の比例大さに就いては十分留意せしめなければならぬ。/三、常に大体を重んじて部分に捉はれず、要点を掴んで左程でもない部分は省略するやう心掛けしむべきである。/四、出来るだけ写実を重んじて、絵の面白さといふが如きものを求めしめないがよい。/五、背景や地面の如き部分は成る可く手を省いて、只馬を立体的に実在感を出す程度に止めしむるがよい。
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さすが官展の画家らしく、あくまでもモチーフの写実を重視し、「絵の面白さといふが如きものを求めしめないがよい」などと書いているが、1935年(昭和10)前後の当時でさえ、他の美術集団の画家たちから見れば、自由に描ける「絵の面白さ」を子どもたちに教えないで、いったい美術のなんの魅力を授業で教えるんだよ?……と、批判を浴びそうな「注意点」だ。
一方、大久保作次郎は、『女子実用図画教授備考』には二度登場しており、「本と本立」および「人形」の写生を担当している。ともに静物であり、生徒たちがデッサン力や色彩感覚を身につけるための授業用に書かれたものだろう。このうち、「本と本立との形の変化を知らしめ、鉛筆彩色画の練習を行はしめる」の教授法を見てみよう。
用意するのは本立てと書籍なのだが、大久保作次郎の指定する本がやたら細かくて具体的だ。本は、サイズの小さいものから大きいものへ順番に立てかけ、最後に本を1冊寄りかからせるとしている。これら本立てに並べる本は、手前から黄色い背表紙の『立志伝』、次は赤い背表紙の『和英新辞典』、3冊目は緑色の背表紙の『万葉集』とし、最後の斜めに寄りかからせる本は青色の本(おそらく辞書か何か)と規定している。このモチーフを、4Bのやわらかい鉛筆で正確に形や陰影をなぞり、鉛筆の線を消さないていどに水彩で淡い彩色をほどこすとしている。
また、描く絵のめざす方向性として、「全体に落ち着いた変化のある構図で、その表現はリアリスチツクで、しつかりとして派手で元気相な感じを与へる」ような作品が望ましいとしている。全体に落ち着いた構図や画面でありながら、派手で元気そうな感じを与える表現というのは、なかなか難しい教育要領だけれど、現場の美術教師たちも少なからず悩んだのではないだろうか。



さて、実際の写生に関する留意点としては、先の本立てに並べたかなり具体的なモチーフ類の指示は、とりあえずどこかに棚あげされ、生徒が持参した適当な本を2冊を重ねて写生する、本立てが存在しない構図になっている。以下、『女子実用図画教授備考』から引用してみよう。
▼
一、生徒各自に書籍を持参せしめてモデルとせしめる。/二、本は二冊位を適当に重ねて主体とし、若しそれだけで単調ならば鉛筆、ペン軸、洋紙切(洋バサミのこと)の類を配せしむるもよい。/三、本は紙面に大きく図取り、その形の透視を誤らないやうにせはめなければならぬ。殊に背文字或は表紙面にある模様文字の類は透視の関係を兎角失念して描き易いものである。/四、鉛筆にて十分正確丁寧に写生せしめ、彩色は単にその気持を現はすに止まる程度に施さしむるがよい。/五、机面及びバツクは強て描かしめず、図画に勝れた特殊の生徒或は早く描き上げた者などに簡単に色を使用せしめてもよい。(カッコ内引用者註)
▲
文中に、「透視」というワードがいくつか出てくるが、これは美術における「透視図法」の意味で、立体物を平面に写す際の、視覚的な「遠近感」(パースペクティブ)を正確にということだ。なお、大久保作次郎が最初に細かく規定し例示したモチーフ「本と本立」は、「相当の技術と可成りの時間とを要する」ので、それを手本として描いてもよいとしている。
大久保作次郎はデッサンに加え、同書では「人形」をモチーフにした水彩画も担当している。「女児が愛玩する人形を描かしめて、人形の顔面、頭髪、手足、着物などの水彩画による描写練習を行はしめる」としているが、女学校とはいえ校内には人形など置いてないのが通常なので、女生徒たちに自宅から持ってくるよう指導している。
その場合、日本人形と西洋人形のどちらでもよいとしているが、複雑な細工や作りの人形、あるいは凝った衣装を着た人形を持参した場合を考慮してか、「余り細かい部分に拘泥して全体の色調を誤らないやうに」と注意書きを添えている。だが、なかには人形などキライな女生徒もいたと思われるので、その場合はクラスメイトが持参した人形を仲よくいっしょに描いたものだろう。
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一、生徒各自に書籍を持参せしめてモデルとせしめる。/二、本は二冊位を適当に重ねて主体とし、若しそれだけで単調ならば鉛筆、ペン軸、洋紙切(洋バサミのこと)の類を配せしむるもよい。/三、本は紙面に大きく図取り、その形の透視を誤らないやうにせはめなければならぬ。殊に背文字或は表紙面にある模様文字の類は透視の関係を兎角失念して描き易いものである。/四、鉛筆にて十分正確丁寧に写生せしめ、彩色は単にその気持を現はすに止まる程度に施さしむるがよい。/五、机面及びバツクは強て描かしめず、図画に勝れた特殊の生徒或は早く描き上げた者などに簡単に色を使用せしめてもよい。(カッコ内引用者註)
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文中に、「透視」というワードがいくつか出てくるが、これは美術における「透視図法」の意味で、立体物を平面に写す際の、視覚的な「遠近感」(パースペクティブ)を正確にということだ。なお、大久保作次郎が最初に細かく規定し例示したモチーフ「本と本立」は、「相当の技術と可成りの時間とを要する」ので、それを手本として描いてもよいとしている。
大久保作次郎はデッサンに加え、同書では「人形」をモチーフにした水彩画も担当している。「女児が愛玩する人形を描かしめて、人形の顔面、頭髪、手足、着物などの水彩画による描写練習を行はしめる」としているが、女学校とはいえ校内には人形など置いてないのが通常なので、女生徒たちに自宅から持ってくるよう指導している。
その場合、日本人形と西洋人形のどちらでもよいとしているが、複雑な細工や作りの人形、あるいは凝った衣装を着た人形を持参した場合を考慮してか、「余り細かい部分に拘泥して全体の色調を誤らないやうに」と注意書きを添えている。だが、なかには人形などキライな女生徒もいたと思われるので、その場合はクラスメイトが持参した人形を仲よくいっしょに描いたものだろう。



けれども、女学校の生徒たちが人形で遊んでいた時期は、おそらく10年ほど前のことなので、自宅から持参する人形はかなりボロボロでくたびれていただろう。中には女子たちの念がこもりすぎて、夜になると廊下を走りまわるとか、目が動いて首の角度が変わるとか、見るからに気味の悪い、いわく付きの人形を持ってきてしまった場合を考慮してか、それをいかにも写実的に描いてしまうとあとで怪異が起こりそうなので、注釈に「生徒の嗜好技術の如何によつては甚しい陰影を施さない」と、人形の状況によってはリアルに描かず簡易で平面的に描いてもよいとしている。w
◆写真上:1935年(昭和10)出版の『女子実用図画』(美育振興会)で、学年ごとに用いる教科書が異なっていたのか第1巻から第4巻までの分冊構成となっている。
◆写真中上:上は、『女子実用図画』第3巻の表紙(左)と、同じく1935年(昭和10)に刊行された男子用の教科書『中学実用図画』(美育振興会/右)。中は、『女子実用図画』第3巻の中扉。下は、同教科書に掲載されている伊原宇三郎の『静物』作品例。
◆写真中下:上は、1928年(昭和3)撮影の鶴田吾郎(左)と、1932年(昭和7)撮影の大久保作次郎(右)。中・下は、鶴田吾郎による獣類写生の「牛」と「兎」の作画例。
◆写真下:上・中は、大久保作次郎による「本と本立」作画例。下は、同じく「人形」作画例。

◆写真中上:上は、『女子実用図画』第3巻の表紙(左)と、同じく1935年(昭和10)に刊行された男子用の教科書『中学実用図画』(美育振興会/右)。中は、『女子実用図画』第3巻の中扉。下は、同教科書に掲載されている伊原宇三郎の『静物』作品例。
◆写真中下:上は、1928年(昭和3)撮影の鶴田吾郎(左)と、1932年(昭和7)撮影の大久保作次郎(右)。中・下は、鶴田吾郎による獣類写生の「牛」と「兎」の作画例。
◆写真下:上・中は、大久保作次郎による「本と本立」作画例。下は、同じく「人形」作画例。


この記事へのコメント
栗山正雄
ふるたによしひさ
落合道人
1926年(大正15)の春、「第1回聖徳太子奉賛会美術展」が東京府美術館の開館記念展として開かれていますが、有岡一郎の『或る外人の家』は、同展に展示された作品です。同展で展示の作品は、日本橋の(有)巧藝社が記念絵はがきとして印刷し販売していました。当該の記事の画像は、同絵はがきからスキャニングして掲載したものです。ご自宅にある、お祖父様から伝わった作品は、有岡の『或る外人の家』そのものである可能性が高そうですね。
落合道人
ssブログ時代から、すっかりご無沙汰しております。
落合道人
記事末に、功藝社が製作した「第1回聖徳太子奉賛会美術展」の有岡一郎
『或る外人の家』記念絵はがきの画像を掲載しました。ご参照ください。
栗山正雄
落合道人
有岡一郎は、帝展画家としてのネームバリューが当時は高かったのかもしれませんが、彼について詳しい画商は残念ながら存じません。この地元でも、有岡一郎の名前を出しても「誰?」という反応がほとんどですので、知り合いにも欲しいという方は思い当たりません。
新宿区の落合地域や、豊島区のアトリエ村にいた画家の作品を積極的に蒐集している公共施設に、新宿歴史博物館や板橋区立美術館などがありますが、現在は寄贈が主で自治体による買い取りはほぼ行われていないのではないかと思います。
栗山正雄
落合道人
拙ブログには、落合地域に住んでいた画家や作家のご子息や孫・曾孫さんなど、ご子孫の方々からコメントを寄せられることも少なくないのですが、残念ながら有岡一郎・好子夫妻の肉親や姻戚の方からのご連絡は、かつて一度もなかったように思います。
同じ帝展画家で下落合では同時期に暮し、西坂の徳川邸などでいっしょに写生していたとみられます、松下春雄のお嬢様夫妻がご存命でしたら、なにかご存じだったのかもしれませんが、残念ながら先年亡くなられてしまいました。ひょっとすると、有岡一郎作品を収蔵している東京国立近代美術館には、ご子孫のどなたかの情報が残されているかもしれません。
てんてん
落合道人
見た目はそれほどよくないですが、カサゴはうまい魚ですね。
栗山正雄
落合道人
目白女子短期大学(目白学園)の広報室から、1990年(平成2)に出版された小冊子に『学園近傍めぐり』というのがありますが、ひょっとすると奥様が大学で教鞭をとられていたときに刊行されたのかもしれませんね。同書に取り上げられた画家は、佐伯祐三と松本竣介のふたりだけですが、学園の「近傍」には数多くの画家たち(一時滞在を含めますと、落合地域全体で千人超だと思います)が住んでおり、有岡一郎もそのひとりでした。
また、同短大の研究チームが中心となってまとめた、論文「目白文化村に関する総合的研究」(1988~1989年)も、奥様が教壇に立たれていたころの研究成果でしょうか。同研究は、1991年(平成3)に『目白文化村』(日本経済評論社)としてまとめられており、わたしもこれらの資料はときどき参照しています。