津軽義孝邸の馬場と見晴坂沿いの土蔵。

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 ずいぶん以前になるが、1935年(昭和10)ごろに制作された国際聖母病院絵はがきをご紹介したことがある。青柳ヶ原を開発・整地し、竣工して間もない同病院の全景をモチーフにした絵はがきだった。その画面に、聖母坂を上り下りする自動車や人々にまじって、乗馬をする人物も描かれていた。事実、落合地域では乗馬を楽しむ人々が多かったのだろう。
 乗馬好きな鈴木三重吉近衛秀麿が連れだって、乗馬で遠出をしていたエピソードをご紹介していたが、落合地域は乗馬に最適な東京郊外だったせいか、馬が趣味の住民たちが多く住んでいたようだ。馬の彫刻ばかり制作して有名になった彫刻家・三井高義もそうだし、愛馬「乃木号」にまたがった学習院馬場の乃木希典戸山ヶ原近衛騎兵連隊へ騎馬のまま通勤していた大島久直の子息・大島久忠など、落合地域は適度な起伏もあるため、大正期から昭和初期にかけ街道筋を馬がゆきかう格好の乗馬コースでもあった。また、中には落合地域が近衛騎兵連隊の日常的な訓練エリアとされたせいで、その被害をうけた地元住民から近衛師団が猛抗議される、境界柵破壊事件なども「落合遊園地」の谷戸近くで発生している。
 この地域の乗馬好きな住民のひとりに、下落合3丁目1765番地(現・中落合1丁目)の翠ヶ丘に住んでいた津軽義孝がいた。ギル夫人邸のあと、同地に邸を建設して麻布区市兵衛町2丁目13番地から下落合へ転居してきている。彼の馬好きは広く知られており、戦前戦後を通じてさまざまな乗馬競技団体の役員や理事、競馬関連組織の代表などをつとめている。津軽義孝について、1939年(昭和14)に刊行された『華族大観』(華族大観刊行会)より、その一部を引用してみよう。
  
 徳川幕府の初に於て四萬七千石を領せしが後十萬石に加封せらる、明治維新の際藩主承昭勲功に依り賞典禄一萬石を給はり、明治十七年伯爵を授けらる、先代英麿は公爵近衛篤麿の弟にして、入りて承昭の嗣となり、夙に独逸に留学し法律学を修め、帰朝後学習院及早稲田、慶應法政各大学に教授し、後韓国宮内府書記官、李王職事務官を歴任し、又宮内省式武官に任ぜられ、退官後貴族院議員に選ばれたり。/当主…義孝は男爵徳川義恕の二男にして明治四十年十二月を以て生る、母は承昭の二女寛子なり、大正八年先代英麿の後を享け家督を相続し襲爵仰付けらる、平素生物学に興味を有し、且つ馬事研究に従事し現に日本競馬会に勤務す。
  
 津軽義孝は、下落合東部の近衛家とも、また西坂上の徳川家とも姻戚関係だったのがわかる。だからこそ、下落合の近所へ転居してきているのだろう。
 先日、ギル(Gill)邸に咲いていた黄色いモッコウバラの記事で、六花さんと津軽義孝をめぐるコメントのやり取りをしていて、中谷邸の裏に津軽邸の馬場があったことに気づいた。中谷邸のご当主(当時)も、確かギル邸のバラ園とともに、のちに転居してきた津軽邸の馬の話もされていたように記憶している。その際、津軽邸の厩舎がどこにあったのかまでは訊きそびれているが、おそらく和館や土蔵のある敷地北側の家令住宅群に近いほうではなかったろうか。
 津軽邸の南側に拡がる庭は、一面が芝庭だった様子が空中写真では見てとれる。また、撮影者は津軽義孝自身だろうか、1940年(昭和15)に庭先で家族を写した写真でも、母家の前に拡がる広い芝庭の様子がとらえられている。(冒頭写真) 人物の背後には、母家の洋館部と和館部がとらえられており、右端で画面の枠外に切れているのが2階建ての大規模な同家の土蔵だ。この蔵は、1937年(昭和12)に津軽邸で催された「青森県人会園遊会」の記念写真で、その全体像がとらえられている。この蔵の右手(東側)には、中ノ道(下の道=現・中井通り)へと下る見晴坂が、冒頭写真にとらえられた洋館部の左手(西側)の、少し離れた位置には六天坂が通っている。
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 ここで、津軽邸の馬場のテーマから少し外れるが、冒頭写真にとらえられた洋館部を観察すると、ギル夫人が住んでいた屋敷とは明らかに異なっているのが判然としている。南側に面した暖炉と煙突の位置は同じだが、ギル邸にあった南面の切妻が津軽邸に見あたらず、屋根のかたちや建物の東西幅が異なっているのがわかる。また、有岡一郎の『或る外人の家』では、屋根の上に尖塔状のフィニアルが描かれていたが、津軽邸には見あたらない。つまり、津軽邸はギル邸を解体してから改めて建設されているとみられ(洋館部の位置はほぼ同一なので、礎石など基礎部は利用しただろうか?)、庭のバラ園をつぶして広い芝庭をしつらえているのだろう。
 各時代の空中写真を観察すると、その広い芝庭の南側あたりに池らしい黒い影が見えているが、池のさらに南側にも、樹木が繁っていない広いスペースが拡がっていたのがわかる。この池の南側に拡がる空間が、津軽邸の馬場だったエリアだろうか。ちょうど、中谷邸の裏(東側)にあたる、屋敷林に囲まれた広場のようなスペースだ。
 乗馬をやったことのある方ならおわかりだと思うが、冒頭写真に写る芝庭のような場所で馬を走らせたら、蹄(ひずめ)と蹄鉄で地面がまたたく間に掘り返されてしまう。サラブの大型馬であれば、体重が500~600kgほどあるので、芝庭に地面を掘り返す土起こし機を走らせているようなものだ。せっかく育成した芝庭が、あっという間に台無しになってしまうだろう。馬場を見たことのある方なら、その地面がたいがい砂あるいは柔らかい土でできていることにお気づきだと思う。したがって、津軽家が乗馬を楽しんだのは、屋敷のすぐ前に拡がる芝庭ではない。すると、残る馬場として使用できそうなスペースは、南北に広い庭園の南側ということになる。
 さて、馬場とともにもうひとつ気になるのが、母家の右手(西側)に見えている大きくて頑丈そうな土蔵だ。この蔵の中には、尾形光琳による江戸中期の名作『紅白梅図』屏風(国宝)が収蔵されていた。1945年(昭和20)4月13日夜半の空襲の際、津軽邸にも焼夷弾が落ち蔵が炎上しそうになったが、おそらく津軽義孝が命じたのだろう、母家が焼けるのを尻目に蔵の防火へ家令を集中させている。そのせいか、母家をはじめ北側の家令住宅を含む建築群はすべて焼失したけれど、見晴坂沿いの土蔵のみがなんとか焼け残っているのが、戦後の1947年(昭和22)に撮影された空中写真からも見てとれる。同屏風と同じく、江戸初期の『関ヶ原合戦図』屏風(通称「津軽屏風」)や『寒山拾得図』などの名品類も、かろうじて焼失をまぬがれたのだろう。
 また、この蔵には鎌倉の五郎入道正宗による太刀(たち)、「城和泉守正宗」(通称「津軽正宗」)も保存されていた。城和泉守とは、武田信玄につかえた城景茂(じょうかげもち)のことで、彼が所有していたことからこの名称がつけらけている。鎌倉期の刀剣を代表するような正宗の作品で、騎馬戦などなくなった打ち刀全盛の江戸期に、幕府による長さ(刀剣の「長さ」は刃長のこと)の規制から2尺3寸(約70cm)へと摺りあげられ(短縮され)ているが、摺りあげたのが刀剣鑑定の本阿弥家の本阿弥光徳(こうとく)であり、茎(なかご)には金象嵌で「城和泉守所持/正宗磨上/本阿(光徳花押)」と入れられている。現存する正宗の太刀は稀少なので、焼け身にならずに済んだのはなによりだった。ちなみに焼け身とは、火災により刀剣が焼けると地肌が黒く荒れ刃文がすべて消えてしまうが、あえて再刃をほどこしても元の美しい状態には二度ともどらない。
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 馬のテーマにもどるが、日本で初めて本格的な競馬が行われたのは江戸末期で、開港した横浜の根岸競馬場においてだった。現在、根岸競馬記念公苑になっている森林公園の場所がそれで、わたしの世代だとユーミンの『海を見ていた午後』に登場する「♪山手のドルフィンは~静かなレストラン~」の、レストラン「ドルフィン」があるあたりの森というと通りがいいだろうか。その記念公苑が10周年を迎えた1987年(昭和62)、馬事文化財団の理事長だった津軽義孝は、同年発行の『根岸競馬記念公苑10年のあゆみ』(馬事文化財団)で、馬の減少を次のように嘆いている。
  
 この公苑は、わが国洋式競馬発祥の地であります旧根岸競馬場跡地の一角(敷地約24,800m2)に建設されたもので、さかのぼれば、慶応2年(1866)秋に、この根岸の高台に本格的な競馬場が建設され、その翌年から昭和17年(1942)までの75年間にわたり競馬がおこなわれていた想い出深いゆかりの地であります。/歴史的に人間と深い関り合いを持った馬も最盛期には150万頭を算したものが、戦後の機械文明の波におされ、現在では、10万頭に満たない状況であります。
  
 1990年(平成2)に毎日新聞社から出版された『日本の肖像』第2巻で、記者からインタビューを受けた津軽義孝は、「生まれて初めて馬に乗ったのが三歳くらいのころでした」と答えている。子どものころから厩舎で飼葉の世話などもしており、以来、馬が身近になったようだ。
 同インタビューで興味を引かれたのは、1986年(昭和61)4月に起きたチェルノブイリ原発事故を注視している箇所だ。同年の5月5日~10日にかけ、北半球の気流の影響でエジプト地域がホットスポット化していた。馬を生育する牧草地帯にも、雨とともに放射性物質(おもにセシウムだろうか)が降り注ぎ、「(原発事故で)カイロのアラブ馬がだめになっています。牧場の草に影響が出ているのです」と解説している。レベル7の「原子力緊急事態宣言」が発令されたまま解除されていない、福島第一原発事故の現状を見たら、はたして津軽義孝は東北の状況をどうとらえるだろうか。
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 戦前まで、津軽邸の馬場ではサラブかアラブが走りまわる蹄鉄音や、馬たちのいななきが聞こえていただろう。見晴坂が通う道筋では、それらの音がよく響いていたにちがいない。けれども、残念ながら津軽邸の馬に関する具体的なエピソードを、その周辺ではいまだ耳にしたことがない。

◆写真上:1940年(昭和15)撮影の、下落合3丁目1765番地に建つ津軽義孝邸南側の芝庭。
◆写真中上は、1937年(昭和12)に津軽邸で開かれた「青森県人会園遊会」の記念写真で、東側の見晴坂沿いに建つ2階建ての大きな土蔵が鮮明にとらえられている。は、1935年(昭和10)ごろに斜めフカンから撮影された津軽邸。麻布からの転居前で自邸を建築している途上なのか、あるいはギル邸時代のままなのか土蔵がいまだ見えない。は、1945年(昭和20)4月2日の空襲11日前に米軍のF13から撮影された津軽邸最後の姿。
◆写真中下は、1780年(安永9)に英国で開催された第1回ダービーの優勝馬を描くF.サートリアスの『ダイオメド』で、1987年(昭和62)出版の『根岸競馬記念公苑10年のあゆみ』(馬事文化財団)の表紙に採用されている。中上は、1947年(昭和22)に撮影された戦後の津軽邸跡で、母家から北側は全焼しているが東側の土蔵だけがポツンと焼け残っているのがわかる。中下は、宝永年間に制作された尾形光琳『紅白梅図』屏風。は、鎌倉期の刀匠・正宗による太刀の金象嵌「城和泉守所持/正宗磨上/本阿(光徳花押)」銘入り「津軽正宗」の茎(なかご)と刃文。
◆写真下は、若き日の津軽義孝()と1990年(平成2)に撮影された同人()。は、1865年(慶応元)に根岸競馬場で開かれた競馬「武士招待競走」を報じるロンドンニュースのイラスト。は、1872年(明治5)制作の永林信実『横浜名所之内/大日本横浜根岸万国人競馬興行之図』。
おまけ1
 86歳と長寿だった津軽義孝だが、1980年(昭和55)に碓氷元が『インタビュー健康法』(中央公論事業出版)の中で、健康法について彼に取材している。以下、津軽義孝の回答を引用してみよう。
「その点、偽りを持たぬ馬や犬を友にして暮らしてゆくのが最高ですね。どうです、馬のあの純粋の眼、馬の眼を見ていればとげとげしい心や、人を騙したり偽ったりするよこしまの心は起きません。馬の眼のような心を持ってやってゆけば、心も体も健康でいられますよ。やれ食事はどうだ、運動はどうだ、などと屁理屈をこねなくても、快活に元気にやってゆけます」。
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おまけ2
 いまだ目白通りの北側にあった学習院馬場で、大正末ごろに撮影された乗馬姿の鈴木三重吉。
鈴木三重吉(学習院馬場).jpg
コメント関連図版
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この記事へのコメント

  • pinkich

    papaさん いつも楽しみに拝見しております。お久しぶりです。尾形光琳による江戸中期の名作『紅白梅図』屏風(国宝)が津軽邸の土蔵に収蔵されていたのですね。中井附近にこの作品があったとは驚きです。尾形光琳はたしか一橋家?に居候していたので、何らかの縁で津軽藩に受け継がれたのでしょうか。今この作品は熱海の美術館に収蔵されていますがなかなか遠方で観に行けないですね。
    2026年03月14日 23:41
  • 落合道人

    pinkichさん、コメントをありがとうございます。
    津軽家には、光琳が津軽家の江戸藩邸に出入りして描いたという伝承もあるようですが、真偽のほどは不明ですね。わたしも、下落合に正宗の数少ない希少な太刀が保存されていたのにビックリです。津軽義孝が空襲時、住宅などどうでもいいから土蔵を延焼から守れと、家令たちに命じた意味がよくわかりました。屋敷は費用さえ都合できれば、何度でも建て替えられますが、蔵の中のものは燃えたら最後のものばかりでしたね。
    2026年03月15日 10:28
  • てんてん

    (。・ω・)ノ゙ Nice‼です♪
    2026年03月15日 20:47
  • 落合道人

    てんてんさん、コメントをありがとうございます。
    串カツは最近食べてませんが、間にはさむのが玉ネギ派と長ネギ派が
    いますが、うちは子どものころから玉ネギ派でした。
    2026年03月15日 20:55
  • pinkich

    ありがとうございます。尾形光琳と一橋家は無関係でした。失礼しました。姫路藩の酒井家が尾形光琳の作品を収集し、その縁で酒井家の次男坊酒井抱一が、尾形光琳の後世での再評価に尽力するというストーリーとゴチャゴチャになっておりました。津軽義孝が件の屏風を所有した経緯は、もともと弘前藩に伝来した屏風を引き継いだだけのようです。津軽義孝が徳川家出身だからという理由でもなさそうです。
    2026年03月16日 17:50
  • 落合道人

    pinkichさん、コメントをありがとうございます。
    わたしはどちらかというと、「津軽正宗」の伝来経緯が気になっています。江戸時代以前から、甲斐武田氏配下の城氏に伝えられてきたとのことですが、大名宗家が所有するような正宗作品を所持できたということは、城氏が上杉氏に追われる前の越後時代に入手していることになりますね。ということは、鎌倉後期から室町期にかけ、鎌倉の正宗作品の評判は関東ばかりでなく、すでに日本海側まで知れわたっていたことになります。その豪壮な美しさと斬れ味との両立で、人気が爆発するのは室町末から江戸期にかけてですが(明治以降もですが)、もう少し早い時期に多くの正宗ファンが各地にいたのかもしれません。
    2026年03月17日 10:21
  • pinkich

    ありがとうございます。日本刀は詳しくないですが、正宗は別格のようですね。日本刀は鎌倉時代のものが最高水準とされるのは、日本刀が実戦で果たす役割が大きく、強靭で切れ味のよいものが求められたからとのこと。時代を降ると、実戦で槍や鉄砲に比重が移り、実戦のない江戸期には日本刀は装飾的な位置付けになっていったようです。仏像も鎌倉時代の運慶や快慶が最高水準とされるのも、同じような単にニーズの問題と簡単に割り切れるのでしょうかね?確かに方丈記や徒然草の時代は救いを仏像に求める並々ならぬ想いが、当時と後世とでは、かなり違うように思います。
    2026年03月17日 18:39
  • 落合道人

    pinkichさん、コメントをありがとうございます。
    わたしも、鎌倉仏が好きですね。水晶による玉眼技法の完成と、デフォルメされながらも圧倒的なリアリズム、鉈彫りの進化にともなう彫法のダイナミズムと、鎌倉仏師が木彫のあらゆる仏教美術の頂点をきわめていると感じます。
    日本刀ですが、鎌倉期と江戸期とではそもそも素材からして異なります。室町後期までの古刀時代は、砂鉄からタタラで精錬された目白(鋼)ですが、室町末期以降の新刀時代は鉄鉱石を溶解した鋼、あるいは朝鮮や中国、ときにインドなどから輸入された鋼がメインになり、刀の重さや地鉄の輝きあるいは透明感がまったく異なります。いまだに、700年以上も前の正宗の技術に追いついていないといわれますが、唯一、それに近い技法を編み出したのが四谷正宗こと、幕末の四谷(新宿歴博の位置です)に工房をかまえていた源清磨でした。でも、やっぱり正宗も清磨も、現代の鍛刀技術は超えられていないといわれます。
    2026年03月17日 20:53
  • 六花

     ブログ拝見しました。
     以前コメントさせていただきました六花です。ご無沙汰しております。
    引き続き津軽邸について調べを進めていますが、ちょうど邸宅脇にあった「土蔵」に注目していたところでした。コンクリート造のため、この中に文化財が保管されていたのではないかと。そしたらドンピシャでこのブログに出会ったのでびっくりしました。
     この蔵の中に文化財が保管されていたことを裏づける根拠はありますでしょうか?造りからして、保管されていた蓋然性が高いとは思いますが。

     またもう一点。四姉妹が久子氏と手をつないで並んでいる写真(本ブログ1枚目写真)、「土蔵」が映っている集合写真(本ブログ2枚目写真)は、使用する場合、どなたに許可をとったらよいのでしょうか。
     2枚目の写真は初見ですが、1枚目のものはインターネット上でたまに見かけるもので、どのようにして使用しているのかが分かりません。
    もし何かご存知のことがありましたらご教示いただけますと幸いです。

     どうぞよろしくお願いいたします。
    2026年03月20日 22:17
  • 落合道人

    六花さん、コメントをありがとうございます。
    わたしも、津軽義孝邸の土蔵内に保管されていた文化財目録のようなものを探していたのですが、どうしても見つかりませんでした。したがって、戦前に出版された重要美術品目録の所有者名を調べましたところ、記事中の『紅白梅図』あるいは“津軽正宗”が、いずれも「津軽義孝(東京)」とされていることに気づきました。つまり、カッコ内は文化財の所在地を意味しており、所有者である東京の津軽邸(の土蔵)に保存されていると解釈したしだいです。なお、文中では慣例的に「土蔵」と書いていますが、時代的に考えますとコンクリートによる防火建築の蔵だったかもしれませんね。
    写真ですが、1枚目の家族写真はわたしもインターネットからひろいました。昔の華族写真ばかりを収集した、あるいはボットによって自動収集された(?)画像ページから、いつか記事に引用するかもしれないと保存しておいたものです。最近は動画にも引用されているようですね。2枚目の土蔵を含めた集合写真は、東京青森県人会が所蔵・公開しているものです。1991年に東京青森県人会が出版した、大久保順蔵『青森県学生寮九十年誌』から引用させていただきました。国会図書館のデジタルアーカイブでも一般公開されていますので、県人会に連絡されればすぐに許可を得られるのではないかと思います。
    2026年03月21日 11:46
  • 六花

    御回答いただきありがとうございました。六花です。
    やはり明確な根拠はないのですね。。。恐らく落合様がご指摘されるようなドラマがあったのだと推察されますが、それを裏づける根拠が出てくればとても面白いと思っています。
    正宗や紅白梅図、寒山拾得図は、戦前の文化財保護行政下における「旧国宝」です。重美からさらに格上げされたものです。別に重美も8件有していたことがその後の調べで分かりました。恐らくこれらをコンクリート造の蔵に納めていたのでしょう。
    ちなみに蔵がコンクリート造であったことは、私の同僚から東京火災保険特殊地図(落合様が過去に引用されていたもの?)に記載があることを教えていただきました。
    また写真について、特に2枚目の典拠をご教示いただきありがとうございます。綺麗に蔵が映っていたので、私も入手したいと思いました。1枚目についてですが、やはり背景に映っているのが下落合の津軽邸正面と考えて良いとのことですね。私もネット上に落ちているものを発見して、もしやと興奮したことを覚えています。津軽邸がある程度映った唯一の写真と思いますが、このほかに津軽邸が映っている写真をご存知ではないでしょうか?軽井沢の別荘のものはよく見かけるのですが、本邸の方はなかなかありません。
    引き続きよろしくお願いいたします。
    2026年03月23日 00:45
  • 落合道人

    六花さん、コメントをありがとうございます。
    1938年(昭和13)に作成された「火保図」を掲載しておきながら、建物の材質をうっかりスルーしていました。記事末に、「火保図」を拡大した津軽義孝邸を改めて掲載しました。蔵には「(コ)」とありますので、まちがいなく「耐火建造物(コンクリート)」だったことが判然としています。津軽邸の拡大図版の下には、「火保図」の凡例も添付しました。津軽邸の母屋は、「(ス)」と記載されており「木造スレート葺」だったと思われますが、家屋のかたちが太線で囲まれていますので、「防火建造物」の類と判断されていたのがわかります。母屋の半分にあたる洋館部の外壁が、セメントを素材とするモルタルづくりのようですので、そのように判定されたものでしょうか。
    下落合の津軽義孝邸の写真ですが、各年代の空中写真では見慣れているものの、地上から撮影した写真類はほとんど見たことがありません。したがって、記事冒頭の邸がとらえられた写真がめずらしかったため保存したしだいです。津軽家では、かなりの量を撮影してアルバムに収めていたのかもしれませんが、空襲で焼けてしまった可能性が高そうですね。また、華族が新邸を建設した際には、親戚や親しい友人たちへ転居の挨拶状とともに、新居を撮影した写真を送るケースが見られます。拙ブログでは、下落合へ邸を建設して転居してきた、相馬孟胤の『相馬家邸宅写真帖』(1915年)をご紹介していますが、津軽家の姻戚や近しい友人たちの手もとに、そのような写真あるいは写真帖が残っていないでしょうか?
    津軽邸の写真は、どこかで見つけたら改めて記事にしたいと思っています。
    2026年03月23日 10:46
  • 六花

    コメントありがとうございました。
    参考図版を掲載してくださり、よく分かります。津軽家が下落合に越してきてから「コンクリ蔵」が出来ていることを考えますと、やはり中には「旧国宝」・重要美術品を含めた、貴重な歴史資料が保管されていたのでしょうね。

    空中写真にあります、家令宅は確実なのでしょうか?実は紅白梅図の売買記録を発見しておりまして、金銭のやり取りを家令が家令宅で行ったとの記載があります。本邸が空襲被害を受けたため、と説明されているのですが、そうなると本邸に隣接していた家令宅は焼失していなかったことになります。

    また、本邸の建設会社についても調べを進めているのですが、なかなか決定的な記録を見付けられず。下落合以前の、市兵衛町の本邸は「清水組」が施工建設したことが分かっています。軽井沢別荘は「あめりか屋」ですね。

    「あめりか屋」について書かれた本を見ますと、「西洋館」と「日本館」をくっつけた邸宅を販売していたともあり、まさに下落合の津軽邸も当てはまるのではと考えていました。しかし、「あめりか屋」の全盛期は大正期頃までで、津軽本邸として建て替わった昭和10年頃とは時期がズレています。なかなか断定するに至りません。

    ご当主・津軽晋氏と対面して、直接お母様から聞いたお話などを伺いたいと夢想していますが、なかなか現実的ではありません。公にはなっていませんが、もしかすると写真帳・アルバムの類も持っている可能性があります。下落合の津軽邸に関して、最もお詳しいと思われる落合様が本邸が映った写真をあまり見たことがないということを伺えて収穫でした。私の方でも引き続き探してみたいと思っています。
    2026年03月23日 22:06
  • 落合道人

    六花さん、コメントをありがとうございます。
    津軽邸の敷地内に住んでいた家令の住宅は、空中写真で明らかなように空襲で全滅状態ですね。あるいは、近くに家令が家を借りて住んでいてその住宅が焼け残ったか、または売買記録が戦後のものだとしますと、まったく別の場所(津軽家の避難先)にある家令宅(たとえば家令の実家とか)だったものでしょうか。
    津軽邸の建設会社は、わたしも知りません。落合地域の建築は、有名なものであれば「箱根土地建築部」とか「あめりか屋」、「東京土地住宅」、「清水組」などの建築会社名か、設計者個々人の名前が多くの場合記録に残されていますが、津軽邸はこれまで聞いたことがありません。
    わたしも、津軽邸の写真を見つけたり建設会社が判明した場合は、こちらでご報告したいと思います。
    2026年03月23日 22:51
  • 六花

    コメントありがとうございます。
    お返事いただいていたにもかかわらず、私の方が返せずにおりました。失礼いたしました。

    売買記録は購入した側=古書店の方のものであり、「家令宅」というのもどこまで現実を反映しているのか定かではありません。ただし、紅白梅図の売買にはご当主は出てこなかった模様です。紅白梅図自体は、売買のときには「上野の博物館」に預けてあったとも書かれていますので、やはり金銭の授受だけ下落合ではない場所で行われたとも考えられますね。やはり断定には至らないです。

    また、建築会社について候補をお示しいただきありがとうございます。下落合の津軽家本邸も「商品住宅」の類かと思いますので、地道に調べていくしかないかもですね。このあたりの建築物について詳しい方が見れば、会社名も分かったりするのかもしれませんが。。。

    落合様のブログでいつも勉強させていただいております。更新を楽しみにしておりますので、引き続きよろしくお願いいたします。私の方でも調べを継続いたします。
    2026年03月26日 21:26

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