官舎「落合住宅」から眺めた下落合風景。

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 新宿区のおとめ山公園が2013年(平成25)に大きく拡張された際、おとめ山通り(御留坂)をはさみ公園の北側に建っていた、大小6棟の公務員宿舎(落合住宅)がいっせいに解体された。これらの集合住宅群は戦後、東邦生命(旧・第一徴兵保険)から大蔵省(現・財務省)が買収した国有地に建設されており、各省庁の官僚と家族たちが暮らしていた。
 そこに住んだ国家公務員とその家族たちは、生涯にわたって住むわけではなく、地方への転勤や異動もあったとみられることから、長めな居住でも十数年の単位だったのだろう。彼らには、一時滞在的な集合住宅で永住地ではなかったけれど、下落合ではどのような景色が見えていたのだろうか。きょうの記事は、一時的な住まいだった官僚が目にした下落合(おもに東部)は、どのような街に映っていたのかをご紹介してみたい。
 当時の運輸省(現・国土交通省)につとめていた豊田実という人物が、1985年(昭和60)に書いたエッセイから、当時の様子をかいま見てみよう。ちなみに、著者は1985年(昭和60)の時点で、下落合での暮らしは9年目を迎えていることから、1976年(昭和51)ごろに「落合住宅」へ引っ越してきたことになる。わたしが高校時代に、TVドラマに映る緑が多い下落合の風景に惹かれて、近辺を歩きはじめていた2年後ぐらいの時期だった。
 エッセイのタイトルも、そのものずばり『下落合風景』となっている。執筆の当時、著者は運輸省の運輸政策局政策課長のポストに就いていた。なお、この方は1990年代に入って運輸省事務次官をへたあと、2001年(平成13)に62歳で急死している。TVや雑誌など、マスコミにも登場しているようなので、ご記憶の方もおられるのではないだろうか。
 1980年代は、1970年代に比べれば森林や屋敷林に繁っていた樹木の緑が、大幅に減退していたとはいえ、いまだ新宿区の他の街々よりは地域全体が圧倒的に青々としていた時代だった。その様子を、1985年(昭和60)に交通公論社から出版された、村上富士登・編『運輸官僚らくがき帖』収録の、豊田実のエッセイ『下落合風景』から順次引用してみよう。
  
 山手線に乗って高田馬場駅から目白駅に向かい、神田川を渡ると、すぐ左側の車窓に樹木におおわれた台地が現れる。この台地一帯が下落合である。落合という地名は、二つの川が落ち合うところから起こっている。(中略) この台地は大昔から住み心地が良かったのか、縄文時代より前の住居跡が見つかったりする。高台なので天気の良い日には丹沢や秩父の連山を一望することが出来る。もっとも最近は、新宿方面に高層ビルが次々とそびえ視界を遮ぎり始めている。雪化粧をした富士山を眺めながら古代の人々は、いったい何に思いをめぐらしていたのだろうか。
  
 エッセイの冒頭から、どうやら下落合での暮らしがかなり気に入っていた様子がうかがえる。娘を通わせていたのは落合第四小学校で、「♪みのを借らんと、言う人に、花をささげて文の道~」と校歌を紹介し、江戸城を築いた太田道灌の事蹟にも触れている。ただし、あえて神奈川県にも同じ伝説があると書き添えている。神奈川県の「山吹の里」は、現在の横浜市の金沢地域、つまり鎌倉のすぐ東側に伝承されてきた。豊田実は、神奈川県の出身だ。
 このあと、落合住宅が建つ「御留山」はもともと将軍の鷹狩り場であり、江戸名所図会の紹介とともに旧・神田上水の一帯がホタルの名所だった、江戸後期の様子が記述されている。つづけて、新宿区の落合ホタル復活事業についても書いているので、再び引用してみよう。
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 区役所の方でも何とか蛍を復活させようと、おとめ山の清流に目をつけた。公園の一画に小屋をつくり、蛍を幼虫から生育することに取り組み、数年がかりで遂に成功した。毎年、夏になると数日間ではあるが、公園で蛍の鑑賞会が催される。だんだん世間に知られるようになって、今ではかなりの人が遠方から楽しみに出掛けて来るようで、期間中は大変な人出になる。都内のホテルが田舎から成虫をもってきて放すのとは違い、その光には一段と趣きがある。近くにある古刹・瑠璃山薬王院の牡丹と並んで下落合の風物詩になったようだ。この「おとめ山公園」の清流には、かつて「清水蟹」と呼ばれるカニが生息していたという。残念ながら今では見られなくなってしまったが、こんこんと湧き出る清水、数えきれない種類の樹木や四季折々の草花、群れ遊ぶ鳥たち。
  
 いまも基本的に変わらない情景だが、登場しているホタルを放つ「ホテル」とは、同じ目白崖線沿いで落合地域の東側にある椿山荘を意識してのことだろう。ただし、1980年代と現在とでは、大きく異なる点がある。文中に書かれている「清水蟹」(サワガニ)が、いまでは湧水流に復活しているし、オニヤンマやクロスジギンヤンマ、カブトムシ、クワガタなど大型昆虫も飛びまわり、夜になれば樹々のこずえではフクロウが鳴いている。
 1980年代の半ばでは、1960~70年代の高度経済成長期にもたらされた空気・土壌汚染や、河川汚濁の影響がまだ色濃く残っていたとみられるが、21世紀に入ってからの東京各地の環境は劇的に変化した。大川(隅田川)多摩川日本橋川をサケが遡上し、神田川にはアユなど数多くの川魚が生息しており、東京湾では江戸期からおなじみの浅草海苔の養殖事業がリスタートしているのを聞いたら、著者は目をまるくして驚くだろうか。
 次いで、明治期からの近衛邸や大正初期の相馬邸など華族屋敷について触れたあと、大正期から数多くの住宅が建ち並ぶようになったと紹介し、「新興住宅地とは違った落ち着き」がある街だと書いている。朝のラジオ体操には、お年寄りの姿が多く見られるのも、新しい街とは異なる特徴だとして挙げている。このラジオ体操は、夏休みに落合第四小学校の校庭で行われていた催しに、彼自身も参加したものだろうか。豊田実は、下落合2丁目21番地の4に建っていた、「落合住宅RA-14」に住んでいたので、落合第四小学校へは歩いて数分だったろう。上記の住所は、現在は拡張されたおとめやま公園の「みんなの原っぱ」にあたる区画だ。
 つづいて、下落合のお年寄りたちが開いていた教室が紹介されている。わたしも、1970年代から街の随所で目にしていたが、下落合には習いごとの教室がことのほか多かった。絵画教室やピアノ教室、生花教室、絵画教室、書道教室、着物教室、裁縫教室、茶道教室、陶芸教室、謡曲教室、詩吟教室、算盤教室など、街を歩けば個人邸の前に掲げられた、手作りの小さな看板が目についた。わたしが聖母坂に住んでいたときは、お隣りに三味の音色も江戸東京らしく小唄教室まであった。著者は、娘をピアノや習字の教室に通わせていたようだ。つづけて、引用してみよう。
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 子供がピアノの稽古や習字の手習いでお世話になった先生方は、片や七十七歳、片や八十五歳という高齢であった。たまたま幼稚園児の娘をピアノの先生宅に連れて行くように頼まれた。日頃から厳しい先生だと吹き込まれているので恐る恐るドアを開けると、開口一番「お父さんも聞いていきなさい」と先手を打たれてしまった。坂本龍一を鍛えたということが自慢の一つで、この日もヨーロッパで活躍している教え子からの手紙を紹介しながら厳しい練習が続いた。習字の先生も厳しさは同様であったようだ。(中略) この先生方のように現役で活躍されている高齢者は近所にまだまだ大勢いる。高齢化社会花開くである。
  
 1980年代には、いまだ上記のように習いごと教室が数多く見られたが、21世紀に入ってからは街中で個人教授の看板を見ることが少なくなった。
 家の近所での習いごとが下火になり、なにかを習うなら専門学校に付属する教室へ……というのが増えたせいだろうか。また、楽器の習いごと教室が個人宅で減ったのは、明らかに大手楽器メーカーによるチェーン教室化の影響だろう。習いごとに企業がからむと、標準的(マニュアル的)な教授が中心になり、教師ごとの個性や教え方の特徴が消えていく。
 上記の、「坂本龍一を鍛えた」先生のいるピアノ教室が下落合のどこにあったのかは不明だが、習字教室の家にはブルドーザーがやってきて壊してしまった経緯を記録している。
  
 習字の先生のお宅は戦前からある木造家屋で、生け垣に囲まれた緑の庭には先生の思い出が浸みわたっているようだった。そのお宅が突然、それこそあっと言う間にブルトーザ(ママ)で取り払われてしまった。一体どうしたのだろうと心配していると「病院に勤務していた息子さんが定年退官して開業するため医院を建てるらしい」というニュースが入ってきた。かねがねお年寄の一人ぐらしを気に掛けていたのでその話に安堵した。
  
 これは、1980年代も現在も変わらない、街の姿を少しずつ変えていく建て替えの情景だ。
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 豊田実は、『下落合風景』を書いてからしばらくすると、異動で海上保安庁次長に就任している。それにともない、住まいも品川区の官舎「上大崎住宅」(現在の日刊競馬新聞社界隈)へと転居している。大崎駅のすぐ東側だが、下落合に比べて緑が少なくガッカリしたのではなかろうか。

◆写真上:おとめ山公園の北側、下落合2丁目21番地に建っていた「落合住宅」。2008年(平成20)の撮影で、手前に並ぶ石は保存された相馬孟胤邸七星礎石
◆写真中上は、1975年(昭和50)に撮影された空中写真にみる落合住宅6棟。中上中下は、2007年(平成19)から2008年(平成20)にかけて撮影した同住宅。
◆写真中下は、2010年(平成22)の解体寸前に撮影した落合住宅と七星礎石は、保存されていた相馬邸の庭石。は、落合住宅が建っていた跡の「みんなの原っぱ」雪景。
◆写真下は、1979年(昭和54)に撮影された下落合東部。は、2019年(平成31)撮影の同地域。樹木の緑が、大幅に減退している様子が見てとれる。は、1985年(昭和60)に出版された村上富士登・編『運輸官僚らくがき帖』(交通公論社/)と、『下落合風景』の著者・豊田実()。
おまけ
 御留山のオニヤンマとカブトムシ。カブトムシクワガタなどの虫たちは網戸にくることが多く、何度かこちらでもご紹介している。なお、クロスジギンヤンマは写真を撮り損ねている。
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この記事へのコメント

  • てんてん

    (。・ω・)ノ゙ Nice‼です♪
    2025年12月22日 22:12
  • 落合道人

    てんてんさん、コメントをありがとうございます。
    革ジャンの手入れは、ひと夏を越すとガビにも要注意ですね。
    2025年12月22日 22:34
  • pinkich

    papaさん いつも楽しみに拝見しております。「坂本さんは自叙伝『音楽は自由にする』などで、徳山寿子先生のレッスンは厳しくて嫌だったと語りつつも、その教育が自身の音楽的な血肉になっていることを認めています。」とAIさまが答えてくれました。坂本龍一は、幼少期は中野に住んでいたので、下落合のピアノ教室に通っていた可能性はありますね。
    2026年01月07日 21:35
  • pinkich

    papaさん 徳山寿子先生のご主人は、徳山璉(たまき)という声楽家で下落合に住まわれていたようです。後は、当時の住所録があれば、ピアノ教室の場所は見当がらつくのではないでしょうか。徳山寿子先生は、坂本龍一の作曲の才能を早くから見抜いていたようですね。
    2026年01月07日 21:53
  • pinkich

    papaさん 「わたしよりも短い滞在時間のレコードを持っている人物が下落合にいた。下落合1丁目504番地(現・下落合3丁目)に住んだ、ビクター専属のバリトン歌手・徳山璉(たまき)だ。」とは、papaさんの記事です。一周まわってたどりつきました。徳山寿子先生のご子息もピアニストだそうです。
    2026年01月07日 22:01
  • 落合道人

    pinkichさん、コメントをありがとうございます。
    豊田実氏の文章では、ピアノ教師の名前が書かれていなかったのですが、徳山邸なら
    豊田家の官舎から直線距離で300mほどしか離れておらず、お嬢さんも通いやすかった
    のでしょうね。
    落合住宅から北への道をたどり、林泉園の谷戸へ下りてすぐに上り、中村彝アトリエ
    (鈴木誠アトリエ)の横を北へ歩けば、5分以内にたどり着けそうです。
    情報をありがとうございました。
    2026年01月07日 22:14

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