
下落合1丁目404番地(近衛町6号)にアトリエをかまえていた安井曾太郎は、弟子をとらないことで知られていた。そこへ、新潟師範学校を卒業したばかりで、二科の研究所に通いながら画家志望の小野末(すえ)という青年が、安井の知人を介して訪れてきた。当然すぐに断られたが、何度か絵を見てもらっているうちに師範学校を出ているということで、はま夫人が助け舟をだし子どもの家庭教師兼書生として、なんとか安井家に置いてもらえるようになった。近衛町に安井アトリエが竣工したばかりのころ、1934年(昭和9)のことだ。
それから7年間、安井家に寄宿することになる小野末だが、安井曾太郎は「良い絵ができたら見せるように」といったきり、自身の制作で手いっぱいだったようだ。たまに研究所で描いたデッサンを見せると、かなりやかましく批評された。ことに形と明暗の調子のつけ方に対し、「これは線になって見える。線ではなく、身体の一部として見えなければ」と厳しくいわれた。ただし、作品を見せた当初は「ああ、いいね」と、誰の作品についてもいっていたようで、これは相手を傷つけないためにまずはそういい、そのあとで悪いところを徹底的に指摘するという批判のしかただったらしい。つまり、「ああ、いいね」が出たらそれは悪い作品だということだった。
小野末は、安井曾太郎の規則正しい1日のスケジュールを記録している。朝は8時に起床し、朝食後9時にはアトリエに入って仕事、昼食後の1時から2時までは午睡、2時からアトリエにこもって7時に夕食、夜はアトリエに入らず挿画の仕事や手紙などアトリエ以外の仕事をこなしている。安井曾太郎は、この生活の一定したリズムを壊されるのを、来客や用事などで乱されるのをなによりも嫌った。小野末が、なぜ夜にアトリエで仕事をしないのかを訊いたところ、「夜の電灯の明りと昼の光線との違いが制作の調子を崩すから」と答えている。
安井曾太郎は、人に制作中の様子を見られるのが大キライだったせいか、アトリエにはめったに人を入れず、アトリエに他人が入るときは仕事の手を止めていた。また屋外写生では人があまり通らないところにイーゼルを立てていたという。1979年(昭和54)に日本経済新聞社から出版された画集『安井曾太郎』に収録の、小野末『安井先生の制作』からその証言を聞いてみよう。
▼
先生が写生に行かれた時、鉛筆でスケッチをするのでも、傍に人が居ると描かなかったそうだ。野外で描いたことがある人なら、誰でも経験することだと思うが、画架を立てたりすると必ず、どこからともなく人が寄ってくる。そうなると誰でもちょっと嫌な気がするものだが、慣れてくると、私などは、もう構わずに描いてしまうが、先生は、あのくらいの大家になられても、人が居ると、絵具箱を開けたり閉めたり、あるいは、横にちょっと歩いてみたりして、決して描こうとされなかった。(中略) 人が来ると、立ち去るまで中断したり、人が来ないような場所を探して制作されていたようだ。
▲
落合地域で画家がイーゼルを立てていると、たくさんのギャラリーが集まった様子を以前記事でご紹介していたが、こんなところにも安井曾太郎が近所の「下落合風景」をほとんど描かなかった原因があるのかもしれない。たまに描いた『落合風景』は、自邸の敷地西側から林泉園谷戸つづきの深い谷間の、しかも雪景色でありギャラリーなど誰ひとりいない環境だった。
それから7年間、安井家に寄宿することになる小野末だが、安井曾太郎は「良い絵ができたら見せるように」といったきり、自身の制作で手いっぱいだったようだ。たまに研究所で描いたデッサンを見せると、かなりやかましく批評された。ことに形と明暗の調子のつけ方に対し、「これは線になって見える。線ではなく、身体の一部として見えなければ」と厳しくいわれた。ただし、作品を見せた当初は「ああ、いいね」と、誰の作品についてもいっていたようで、これは相手を傷つけないためにまずはそういい、そのあとで悪いところを徹底的に指摘するという批判のしかただったらしい。つまり、「ああ、いいね」が出たらそれは悪い作品だということだった。
小野末は、安井曾太郎の規則正しい1日のスケジュールを記録している。朝は8時に起床し、朝食後9時にはアトリエに入って仕事、昼食後の1時から2時までは午睡、2時からアトリエにこもって7時に夕食、夜はアトリエに入らず挿画の仕事や手紙などアトリエ以外の仕事をこなしている。安井曾太郎は、この生活の一定したリズムを壊されるのを、来客や用事などで乱されるのをなによりも嫌った。小野末が、なぜ夜にアトリエで仕事をしないのかを訊いたところ、「夜の電灯の明りと昼の光線との違いが制作の調子を崩すから」と答えている。
安井曾太郎は、人に制作中の様子を見られるのが大キライだったせいか、アトリエにはめったに人を入れず、アトリエに他人が入るときは仕事の手を止めていた。また屋外写生では人があまり通らないところにイーゼルを立てていたという。1979年(昭和54)に日本経済新聞社から出版された画集『安井曾太郎』に収録の、小野末『安井先生の制作』からその証言を聞いてみよう。
▼
先生が写生に行かれた時、鉛筆でスケッチをするのでも、傍に人が居ると描かなかったそうだ。野外で描いたことがある人なら、誰でも経験することだと思うが、画架を立てたりすると必ず、どこからともなく人が寄ってくる。そうなると誰でもちょっと嫌な気がするものだが、慣れてくると、私などは、もう構わずに描いてしまうが、先生は、あのくらいの大家になられても、人が居ると、絵具箱を開けたり閉めたり、あるいは、横にちょっと歩いてみたりして、決して描こうとされなかった。(中略) 人が来ると、立ち去るまで中断したり、人が来ないような場所を探して制作されていたようだ。
▲
落合地域で画家がイーゼルを立てていると、たくさんのギャラリーが集まった様子を以前記事でご紹介していたが、こんなところにも安井曾太郎が近所の「下落合風景」をほとんど描かなかった原因があるのかもしれない。たまに描いた『落合風景』は、自邸の敷地西側から林泉園谷戸つづきの深い谷間の、しかも雪景色でありギャラリーなど誰ひとりいない環境だった。



安井家で7年間をすごしたあと、小野末は1941年(昭和16)にすぐ近所に家を借りて自身のアトリエにしている。近衛町の北側、安井アトリエから直線距離で150mほどの下落合1丁目435番地で暮らすようになった。舟橋了助・舟橋聖一邸や、近衛新邸に隣接した、南西側のエリアだ。1938年(昭和13)より、創立者のひとりとして安井曾太郎が属していた一水会へ参加し、1943年(昭和18)には一水会賞を受賞、戦後の1946年(昭和21)には一水会会員に推挙されている。安井曾太郎の死後、安井賞展評議員をつとめるが1959年(昭和34)に国際具象派協会を創立、1972年(昭和47)に一水会を退会している。この間、ヨーロッパ各国をはじめ東南アジアやエジプト、ギリシャ、米国、メキシコ、スイスなどを訪れては、各地で作品を仕上げている。
さて、ちょうど安井家から独立する直前、1940年(昭和15)に制作したのが小野末『落合風景』だ。(冒頭写真) 『落合風景』が、安井アトリエから「卒業」する実質の「卒制」だったのかもしれない。小野末が、安井家に寄宿していたころの作品なので、それほど遠出ができず近衛町も近い、下落合東部の風景を描いた画面だと思われる。中央には、それほど幅が広くない、二間前後の少し曲がりくねった道路が奥へとつづいている。その道路を照らして、光線はほぼ真上にあるようで、夏に近い季節の光景だろうか。左手は高い崖地になっており、崖上の樹木と右側の垣根に沿った樹々とで、画家がイーゼルを立てている位置は日陰になっている。
左手の高い崖は、少し先へいくと崩落防止の杭が打たれた低めな崖地になっており、日当たりがいいことから上が住宅敷地になっていそうなのがうかがえる。また、左手の地形に比べて右手の地面がやや下がっており、下落合の南へと下る斜面の道筋を描いている可能性が高い。その低めな位置には、大きな洋風とみられる建築物が見えている。この建物には、なにやら離れて付属する物置や焼却施設、あるいは受変電設備のような小さな建物がいくつか描かれており、かなり規模の大きな建築であることを想像させる。また、道路の正面には、空がほとんど隠れるほどの背の高い樹々が密生して繁る、深い森が描かれているようだ。
1940年(昭和15)の時点で、わたしはこの風景に一致する下落合の場所はたったひとつしか知らない。右手に描かれた、少し低い敷地に建つ大きな建築は、1939年(昭和14)12月に竣工したばかりの、落合第四尋常小学校の新校舎だ。それまでの校舎では、入学してくる生徒が収容しきれなくなったため、急遽、北側に大きな校舎を新たに建設している。
さて、ちょうど安井家から独立する直前、1940年(昭和15)に制作したのが小野末『落合風景』だ。(冒頭写真) 『落合風景』が、安井アトリエから「卒業」する実質の「卒制」だったのかもしれない。小野末が、安井家に寄宿していたころの作品なので、それほど遠出ができず近衛町も近い、下落合東部の風景を描いた画面だと思われる。中央には、それほど幅が広くない、二間前後の少し曲がりくねった道路が奥へとつづいている。その道路を照らして、光線はほぼ真上にあるようで、夏に近い季節の光景だろうか。左手は高い崖地になっており、崖上の樹木と右側の垣根に沿った樹々とで、画家がイーゼルを立てている位置は日陰になっている。
左手の高い崖は、少し先へいくと崩落防止の杭が打たれた低めな崖地になっており、日当たりがいいことから上が住宅敷地になっていそうなのがうかがえる。また、左手の地形に比べて右手の地面がやや下がっており、下落合の南へと下る斜面の道筋を描いている可能性が高い。その低めな位置には、大きな洋風とみられる建築物が見えている。この建物には、なにやら離れて付属する物置や焼却施設、あるいは受変電設備のような小さな建物がいくつか描かれており、かなり規模の大きな建築であることを想像させる。また、道路の正面には、空がほとんど隠れるほどの背の高い樹々が密生して繁る、深い森が描かれているようだ。
1940年(昭和15)の時点で、わたしはこの風景に一致する下落合の場所はたったひとつしか知らない。右手に描かれた、少し低い敷地に建つ大きな建築は、1939年(昭和14)12月に竣工したばかりの、落合第四尋常小学校の新校舎だ。それまでの校舎では、入学してくる生徒が収容しきれなくなったため、急遽、北側に大きな校舎を新たに建設している。




また、道路の左手に描かれている崖地は、いまは道路の拡幅とともにコンクリートの擁壁で覆われており、その上には落合中学校が建っている。左手の崖地の上は、1940年(昭和15)の時点ではともに住宅敷地として開発され、特に奥の低い崖地の上には家々が建設されていたが、戦後になると落合中学校を建設するために新宿区が買収している。そして、正面に見えているのは旧・相馬孟胤邸の御留山(当時は第一徴兵保険=東邦生命による1940年からスタートした住宅開発地)であり、奥へつづく道と丁字路でぶつかるのが相馬坂だ。
小野末は、近衛町の安井アトリエのある袋小路を出ると北へ向かい、近衛町から相馬邸前へとつづく三間道路を左折すると西へ向かった。途中、まだ福岡の香椎中学校へと移設されていない黒門(相馬邸正門)を左手に見て、突きあたりを左折するとほどなく相馬坂の右手に落合第四尋常小学校が見えてきただろう。完成したばかりの大きな校舎は、太陽の強い光をあびて輝いていたかもしれない。その新校舎の手前の道を西へ右折すると、すぐに描画ポイントの場所へとたどり着く。安井アトリエから歩いて、およそ5~6分ほどの距離しか離れていない。
小野末は、長く安井アトリエで暮らしていたせいで、安井曾太郎の制作の様子や生活の詳細を貴重な記録として書き残している。家庭教師の仕事のほかに、筆洗いなど画道具の手入れや準備も手伝っていた。手製のキャンバスづくりは、一度だけ張らせてもらったが釘の打ち方が等間隔ではないということで、すぐにお役御免となった。筆洗いはつづけたらしいが、安井曾太郎は筆が傷まないよう石鹸で洗うのを常としていた。小野末『安井先生の制作』から、つづけて引用してみよう。
▼
先生が使っておられた筆は、丸筆がほとんどで、柔らかい貂毛が主だった。貂毛は、私もほしいと思ったが非常に高価なものだった。他に豚毛も使っておられた。その筆に付いた絵具を洗い落とすのが筆先洗いの仕事だった。先生は、洗わずに放っておくことは、一日たりともなかったので、毎日必ずしなければならなかった。筆を傷めないということで、テレピン油ではなく、石鹸で洗っていた。洗うのは、先生や家族の入浴が済んでから、私の番のときにしていた。時には、来客などで、先生の入浴が遅くなることがあり、私が入るのが一時頃になってしまうことがあった。
▲
小野末は、近衛町の安井アトリエのある袋小路を出ると北へ向かい、近衛町から相馬邸前へとつづく三間道路を左折すると西へ向かった。途中、まだ福岡の香椎中学校へと移設されていない黒門(相馬邸正門)を左手に見て、突きあたりを左折するとほどなく相馬坂の右手に落合第四尋常小学校が見えてきただろう。完成したばかりの大きな校舎は、太陽の強い光をあびて輝いていたかもしれない。その新校舎の手前の道を西へ右折すると、すぐに描画ポイントの場所へとたどり着く。安井アトリエから歩いて、およそ5~6分ほどの距離しか離れていない。
小野末は、長く安井アトリエで暮らしていたせいで、安井曾太郎の制作の様子や生活の詳細を貴重な記録として書き残している。家庭教師の仕事のほかに、筆洗いなど画道具の手入れや準備も手伝っていた。手製のキャンバスづくりは、一度だけ張らせてもらったが釘の打ち方が等間隔ではないということで、すぐにお役御免となった。筆洗いはつづけたらしいが、安井曾太郎は筆が傷まないよう石鹸で洗うのを常としていた。小野末『安井先生の制作』から、つづけて引用してみよう。
▼
先生が使っておられた筆は、丸筆がほとんどで、柔らかい貂毛が主だった。貂毛は、私もほしいと思ったが非常に高価なものだった。他に豚毛も使っておられた。その筆に付いた絵具を洗い落とすのが筆先洗いの仕事だった。先生は、洗わずに放っておくことは、一日たりともなかったので、毎日必ずしなければならなかった。筆を傷めないということで、テレピン油ではなく、石鹸で洗っていた。洗うのは、先生や家族の入浴が済んでから、私の番のときにしていた。時には、来客などで、先生の入浴が遅くなることがあり、私が入るのが一時頃になってしまうことがあった。
▲




冬になると、安井アトリエの石炭ストープに火を点け、あらかじめ暖めておくという仕事も加わった。そこでは、見ることを拒絶するように裏返しにされたキャンバスをそっとのぞいて、安井曾太郎が日々加えていく絵筆の様子を垣間見ることができた。小野末は、その様子を克明に日記につけておくことで、自身のタブロー制作の参考にしていた。しばらくすると、はま夫人から「先生が裏返しにしている絵は、見てはいけませんよ」と注意されている。制作中の盗み見は、とうにバレていたのだ。だが、少したつとなにもいわれなくなり、事実上の「黙認」になっていたらしい。
◆写真上:安井アトリエで暮らしていた、1940年(昭和15)制作の小野末『落合風景』。
◆写真中上:上は、谷間の向かいに住宅が見えるので戦後に撮影されたとみられる安井曾太郎アトリエ。中は、1938年(昭和13)作成の「火保図」にみる近衛町の北側にあった下落合1丁目435番地の小野末アトリエ界隈。下左は、小野末のポートレート。下右は、1979年(昭和54)に新潟県美術博物館で開かれた「今日的な具象・県人作家三人展」図録。
◆写真中下:上は、『落合風景』が描かれたあたりの現状で左手の擁壁上が落合中学校敷地。中上は、1947年(昭和22)の空中写真にみる描画ポイント。中下は、1939年(昭和14)12月の竣工時に旧校舎側から撮影された落合第四尋常小学校の新校舎。下は、1939年(昭和14)の1/10,000地形図にみる安井曾太郎アトリエから描画ポイントまでの小野末の写生コース。
◆写真下:上は、1948年(昭和23)に制作された小野末『華街展望』。中上は、1960年(昭和35)に制作された同『荒地』。中下は、1964年(昭和39)制作の同『隠岐の朝暾(ちょうとん)』。下は、1973年(昭和48)制作の同『幼い闘牛』。小野末は闘牛が好きだったものか、牛の絵を多く描いている。
◆写真中上:上は、谷間の向かいに住宅が見えるので戦後に撮影されたとみられる安井曾太郎アトリエ。中は、1938年(昭和13)作成の「火保図」にみる近衛町の北側にあった下落合1丁目435番地の小野末アトリエ界隈。下左は、小野末のポートレート。下右は、1979年(昭和54)に新潟県美術博物館で開かれた「今日的な具象・県人作家三人展」図録。
◆写真中下:上は、『落合風景』が描かれたあたりの現状で左手の擁壁上が落合中学校敷地。中上は、1947年(昭和22)の空中写真にみる描画ポイント。中下は、1939年(昭和14)12月の竣工時に旧校舎側から撮影された落合第四尋常小学校の新校舎。下は、1939年(昭和14)の1/10,000地形図にみる安井曾太郎アトリエから描画ポイントまでの小野末の写生コース。
◆写真下:上は、1948年(昭和23)に制作された小野末『華街展望』。中上は、1960年(昭和35)に制作された同『荒地』。中下は、1964年(昭和39)制作の同『隠岐の朝暾(ちょうとん)』。下は、1973年(昭和48)制作の同『幼い闘牛』。小野末は闘牛が好きだったものか、牛の絵を多く描いている。
★おまけ
このところ、紀文のミカン船からミカンづいているが、山で自然に採れた紀州ミカンにつづいて、下落合の庭で採れたミカンが売っていたので購入してみた。いまは静岡・伊豆ミカンが市場に多く出まわる時期だが、もちろん下落合にミカン農家があるわけではなく、昔から庭に植えられていたものをそのまま収穫したものだ。これぞ、ほんとうの意味での地産地消。下落合産のミカンは、以前に食べた山のなかの自然環境で育った紀州ミカンと同様、甘さ一辺倒ではなく甘さにくるまれた適度な酸味が美味しく、ミカン本来の香りがそのまま残るわたし好みの風味だった。

この記事へのコメント
てんてん
落合道人
わたしの帽子はキャップだけで、中折れは残念ながら持ってません。