上落合に住んでいた松浦総三の仕事。

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 社会評論家であり、本来の意味でのジャーナリストだった松浦総三は、上落合1丁目25番地に住んでいた。1960年(昭和35)作成の「東京都全住宅案内帳」を参照すると、すでに松浦邸が採取されているので、敗戦後まもなく上落合に自邸を建設して住んでいるのだろう。大規模な地名・番地の変更が行われた、1960年代後半までは上落合1丁目461番地だった敷地だ。
 松浦総三というと、まず真っ先に思い浮かぶのは戦時中の東京大空襲ならびに山手大空襲を、生涯にわたって早乙女勝元らとともに調査・記録しつづけた仕事だろうか。また、戦後の米軍による謀略事件の事実究明を含め、連合軍占領下の日本から押収した資料類の公開や米軍資料、特に空襲記録の開示、あるいは戦前・戦中を通じて言論弾圧の特高資料類の公開・閲覧、戦後のGHQによる思想弾圧記録の開示などを、米国の公文書館や国防総省など関連組織に要求しつづけ、その公開や開示を実現した人物として知られている。
 その一部の資料については、拙サイトでも東京大空襲の関連資料をはじめ、戦前・戦中を通じての検挙・起訴記録である「特高月報」、あるいは敗戦間近な時期に記録されていた検挙記録である「思想旬報」などをご紹介している。中でも、戦時中に特高がありもしない事件をデッチあげた事例については、生涯にわたってこだわりつづけ、特に雑誌や出版社をねらい撃ちにした戦争末期の「横浜事件」についての記述は多い。1977年(昭和52)に鳩の森書房から出版された松浦総三『太平洋戦争末期の市民生活』から、「あのときのわたし」座談会より松浦の発言を引用してみよう。
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 横浜事件というのは、神奈川県警が東京周辺の文化人、学者、革新官僚、官僚など、ジャーナリストをかたっぱしから捕えて横浜の警察に留置したから横浜事件といいます。その中心は、満鉄の調査部の嘱託であった細川嘉六が「世界史の動向と日本」という論文を「改造」に載せた。当時は校正刷りのときに内務省とか、情報局の検閲課に出す。検閲課でオーケーということになって出版できるようになる。検閲は通った。それで「世界史の動向と日本」は出たわけです。ところが発行後二ヵ月もたった九月になって陸軍の報道部の矢荻華雄中佐が、これは共産主義の論文だと、読売新聞に書きました。すぐ発禁になり、細川さんが逮捕された。細川さんの友だちは昭和塾の人が捕えられた。昭和塾というのは近衛(文麿)さんのブレーンの研究団体ですね。それから細川さんの交友関係で満鉄調査部の連中が捕まる。その後総合雑誌「改造」「中央公論」の編集者たちが捕る。それがエスカレートして五十何人が捕って、拷問で二人は死んで、あとの二人は戦争が終わって解放されてから死んだ。都合四人が拷問で殺された。(カッコ内引用者註)
  
 現在、横浜事件の全貌が明らかになったところでは、拷問による死者が4人、解放後に1名が死亡、重軽傷者30名以上となっている。逮捕者は60名以上で、取り調べ対象者は100名近いともいわれている。また、同時期には大阪商大事件が起きており、50名近い逮捕者を出している。両事件とも、出版界や学術分野をねらい撃ちにした典型的な弾圧事件だ。
 細川嘉六の『世界史の動向と日本』という論文は、1942年(昭和17)現在の日本軍が占領した地域の状況を踏まえ、現地住民に高い教育をほどこして「日本の良さ」を学ばせ、欧米の「愚民支配」から民族を独立させなければならない……というような主旨だった。いってみれば、「大東亜共栄圏」思想の焼きなおしにすぎないのだが、それを特高は「共産主義」思想だと決めつけ出版社を中心に逮捕者60名以上、死者5名を出す大きな治安維持法「違反」事件になった。ちなみに、戦後は松浦総三との共著や対談など、ともに活動することが多くなる中央公論社の編集員だった青地晨も、横浜事件で1944年(昭和19)に逮捕され投獄されている。
 「大東亜共栄圏」的な思想が「共産主義」思想に通じるなら、同様の主旨で太平洋戦争をはじめた政治家や軍人たちを、軒並み治安維持法違反で逮捕しなければ論理的に整合性がとれないだろう。なお、このデッチあげ弾圧事件は、陸軍の東條英機を中心とする一派が、文中にも登場している日米英との開戦に動揺し、和平工作に動きそうな近衛文麿を牽制しようとする陰謀だったとする説もあるようだが、そのような具体的な証言がないので事実かどうかはさだかでない。
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 わたしは学生時代、大学のシンポジウムに呼ばれた松浦総三の講演……というか、参加学生が50名ほどだったのでほとんど教室の講義かゼミのような雰囲気でお話を聞いたことがある。その情報量と知識たるや圧倒的で、特に戦前・戦後を通じて国内における思想・宗教の統制・弾圧や、空襲被害の伝承にかけては、改めて第一人者的な存在であることを認識させられた。それらに関する著作も多く、書籍化されていない評論や記録類も含めると膨大な量になるだろう。
 国立国会図書館の蔵書には、松浦総三の著作や共著、編著、書籍化されず雑誌に掲載されたままの文章、あるいは彼に関連した論文や引用した書籍類が、実に5,000冊以上も収蔵されているのを見ても、その生涯にわたる旺盛な執筆活動の軌跡がうかがえる。面白いことに、その国立国会図書館のあり方についても、松浦総三は真正面から注文をつけている。「国立国会図書館を考える会」の事務局長になり、1979年(昭和54)に白石書店から出版された松浦総三・編著『国立国会図書館の課題』から、同図書館の職員組合が起草した「よびかけ」より引用してみよう。
  
 国立国会図書館は『真理がわれらを自由にするという確信に立って、憲法の誓約する日本の民主化と世界平和に寄与することを使命として』設立されました(中略) ところが最近その理念も次第に色褪せつつあります。その最大の原因は、草創期の館長、副館長なきあと、後任館長の選任にあたった両院議院運営委員会が衆・参両院事務総長経験者を交互に館長に就任させるという慣習をつくったことにあります。国立国会図書館法によると、館の任務として納本制度を基礎に内外の図書館資料を網羅的に収集し、国権の最高機関である国会に奉仕するとともに、司法・行政および国民にも広く奉仕することがうたわれています。(中略) 館長の任期四年という慣行のために、国会や国民の要望に応え、数十年先を見通した大構想をもち、地道な館運営をするということが殆ど不可能になっています。職員の声はおろか、図書館界の声をも真剣に聞こうとせず、官僚的、独善的な業務運営が日常化し、国立国会図書館はこれでよいのかという声が世論になっています。
  
 要するに、国会図書館の館長のイスが、官僚の天下り先ポストのひとつとして“利用”され、図書館事業に無知な人間が責任者となるため、図書館運営の将来的なビジョン(思想)や、一貫した業務姿勢が存在しなくなったということを嘆く職員たちの文章だ。
 これはそのとおりで、海外では一度図書館の責任者(図書館運営に精通したプロのポジション)に就いたならば、そのビジョンや事業的なコンセプトが実現するまで、30~40年は変わらないのが通例だ。それによって、図書館の機能進化や時代あるいは社会の変化に沿った、一貫した仕組みづくりをしていく。同書でも、欧米の議会図書館の館長・副館長が、30~40年周期で決定される事例をあげて指摘している。ところが、国会図書館では4年ごとに官僚天下りの人物が館長に就任し、しかも図書館に関してはまったくの素人だった。この悪弊は実に2007年(平成19)までつづき、以降、大学の学者が就任するようになったが、一時の腰かけ的な4年任期は現在も変わっていない。
昭和特高弾圧史1太平出版社1975全8巻.jpg ドキュメント太平洋戦争1975汐文社・全5巻.jpg
松浦総三の仕事3ジャーナリストとマスコミ全3巻1985大月書店.jpg 現代ジャーナリズム事件誌1977白川書院.jpg
週刊誌を斬る1980幸洋出版.jpg 清水幾太郎と大宅壮一1978世界政治経済研究所.jpg
 松浦総三は上落合で、晩年にいたるまで一貫して執筆や記録をやめなかった人物だ。また、黒柳徹子や山田洋次、西田敏行らとともに、日中友好協会が主宰する「平和のための戦争展」の呼びかけ人になるなど社会活動にも熱心だった。そこまで彼を衝き動かし反戦や平和、言論弾圧にこだわりつづけたのは、自身が学生時代に合法的な書籍をもとに友人たちと読書会を開いていたところ、1941年(昭和16)に特高から摘発され、徹底的な取り調べを受けたのが契機となったとみられる。横浜事件と同様に、当時の特高による典型的なデッチあげ「事件」だった。
 当時の様子を、前出の松浦総三『太平洋戦争末期の市民生活』(座談会)から引用してみよう。
  
 特高は「その読書会は共産党再建のための秘密読書会だろう」というのです。私は、むろん否定しました。そんなたいそれた(ママ)ことは全然身に覚えはなかったからです。/ところが、特高は、それを認めないと、「一年でも二年でも、家に帰さないぞ」といいました。そして「共産党再建のための読書会をやりました」という文書を警察の書記が書いて「これに署名して母印を押せ」というのです。拒否すると「お前なんか天皇に反対するヤツは殺してもよいことになっている」といっておどかすのです。/一九四一年春に、このとおりですから、戦争が旗色がわるくなると、もっとヒドくなりました。「敗けているらしい」といえば、アカということで逮捕されました。/昭和十九年の十月の東京新聞は、月産三千機の飛行機をつくれ、という社説を書いて、その三千機というのが軍の機密を漏えいしたということで、新聞は発禁になった。/もっとヒドいのは、新名又夫という毎日新聞の記者は、竹槍では勝てぬ、飛行機をつくれ、と書いてその新聞は発禁です。おまけに新名記者は四十歳なのに兵隊として徴兵され、危うく外地へ送られるところでした。
  
 部課の“業績”を上げるため、あるいは大卒のエリートが気にくわないため(横浜事件ではそう陳述した元・特高もいたとか)、もはや滅茶苦茶な“ナンクセ”をつけて、「事件」をデッチあげていった様子がうかがえる。ほとんど正気の沙汰とは思えない、弾圧組織の人間たちは解離性障害に近い精神状態だったのではと思えるほど、戦争末期には追いつめられ錯乱していったように映る。
太平洋戦争末期の市民生活1977鳩の森書房.jpg 天皇裕仁と東京大空襲1994大月書店.jpg
国立国会図書館の課題1979白石書店.jpg 戦時下の言論統制1975白川書院.jpg
松浦総三.jpg 青地晨.jpg
 松浦総三は、敗戦直後から改造社へ入社し、1955年(昭和30)に同社が解散すると同時にフリーの評論家やジャーナリストとしての活動に入っている。「東京空襲を記録する会」代表をはじめ、さまざまな組織・団体の代表や事務局長をつとめてきた。いま、世の中がもっとも必要としているのは、戦前・戦中を通じた「亡国」思想を真っ向から批判する、このような人物たちの存在だろう。

◆写真上:上落合1丁目25番地にあった、松浦総三邸跡の現状(道路右手)。
◆写真中上は、1960年(昭和35)作成の「東京都全住宅案内帳」にみる松浦総三邸。は、1975年(昭和50)の空中写真にみる上落合の松浦邸。
◆写真中下上左は、1975年(昭和55)出版の『昭和特高弾圧史』全8巻(太平出版社)。上右は、同年に並行して出版された『ドキュメント太平洋戦争』全5巻(汐文社)。中左は、1985年(昭和60)出版の『松浦総三の仕事』全3巻(大月書店)。中右は、1977年(昭和52)出版の『現代ジャーナリズム事件誌』(白川書院)。下左は、1980年(昭和55)出版の『週刊誌を斬る』(幸洋出版)。下右は、1978年(昭和53)出版の『清水幾太郎と大宅壮一』(世界政治経済研究所)。
◆写真下上左は、1977年(昭和52)に出版された『太平洋戦争末期の市民生活』(鳩の森書房)。上右は、1994年(平成6)出版の『天皇裕仁と東京大空襲』(大月書店)。中左は、1979年(昭和54)出版の『国立国会図書館の課題』(白石書店)。中右は、1975年(昭和50)出版の『戦時下の言論統制』(白川書院)。下左は、松浦総三のプロフィール。下右は、松浦とのコラボ仕事が多かった青地晨。

この記事へのコメント

  • てんてん

    (。・ω・)ノ゙ Nice‼です♪
    2025年12月16日 19:57
  • 落合道人

    てんてんさん、コメントをありがとうございます。
    やはり身体が温まるせいか、うちも冬は鍋料理が多くなります。
    2025年12月16日 20:31
  • pinkich

    papaさん いつも楽しみに拝見しております。対中強行姿勢、責任ある積極財政などが評価されて、現政権は国民から支持されているようです。危険きわまりない状況ですが、マスコミも批判的なら意見を取り上げません。いざという時は、同盟国のアメリカが守ってくれると本気で信じているのでしょうか。さきの大戦から、何を学ぶのか?戦争に突入する状況と今の状況が似通っているように思います。
    2025年12月28日 08:25
  • 落合道人

    Pinkichさん、コメントをありがとうございます。
    いままでの外交努力を「なかったこと」にして、むやみに隣りの大国と対立するのは、愚かで浅薄としかいいようのない愚策ですね。これで1978年の中越戦争時に、いうことをきかず反省しないベトナムに対し、中国が用いた「懲罰」という名目の戦争動機を与えてしまったことになります。国際的な非難など無視して、中国は30万とも50万ともいわれる兵力で隣国ベトナムを侵略し、両国の死者10万人前後という学生時代の記憶を思い出しました。
    いまの米大統領は、政治家ではなく単なるビジネスマンなので、米国の損になること(中国との対立)には、いっさい加担しないのが見えないのでしょうか。軍事大国である米国の目前に浮かぶ、島国のキューバと同様の立場に置かれているこの国の現状が、戦前の「亡国」思想かぶれの為政者たちには理解できていないようですね。
    2025年12月28日 10:20

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