下落合にあった創立時の新興美術院。

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 旧態然として、表現に不自由な日本美術院に嫌気がさし、新しい日本画をめざす画家たちが集まって、1937年(昭和12)9月に結成された新興美術院の事務局が、創立当初は下落合にあった。下落合1554番地に建っていた、日本画家・小林三季(丈之進)のアトリエだ。
 下落合4丁目1554番地(現・中落合3丁目29番地)は、落合第三府営住宅の西側エリアで、目白通りから35mほど南へ入った住宅街の中だ。西へ約50mあまり進めば、隣りの西落合との境界があり、葛ヶ谷街道添いの渋沢農園分譲地も近い。10年以上の時代的なズレがあるが、小林三季アトリエの近く、南側の区画には佐伯祐三も立ち寄っていたとみられる、下落合1560番地で暮らしていた前田寛治のアトリエ跡もある。だが、新興美術院の事務局は小林三季アトリエから、ほどなく下谷区竹町95番地(現・台東区台東3丁目)へ移転している。
 なお、1937年(昭和12)前後という時期は、下落合にふられた番地が微調整で少しずつズレるか、変更されたタイミングにかぶっていると思われる。新興美術院の創立時、下落合4丁目1554番地だった小林三季アトリエは、翌1938年(昭和13)作成の「火保図」によれば、下落合4丁目1559番地になっており、1554番地は目白通り沿いの狭い区画にふられている。ところが、戦後になると1554番地は、再びアトリエを含む位置にまで拡大されているのが確認できる。
 新興美術院は、1941年(昭和16)に三鷹町へ研究所を新設している。所在地は、三鷹町牟礼井之頭公園池水門343番地の7で、通称「井之頭研究所」と呼ばれた。戦後になると、新興美術院研究所は目白に移転してくる。1954年(昭和29)に、同研究所は目白町3丁目3559番地(現・目白3丁目19番地)に新設され、通称「目白研究所」と呼ばれていたようだ。この研究所は、現在の豊島区立目白庭園のすぐ南側にあり、戦災で多くの住宅が焼失したエリアだ。
 少し余談だけれど、戦後の新興美術院には目白文化村の第一文化村にアトリエをかまえていた、日本画家・渡辺玉花も参画している。1956年(昭和56)の入選を皮きりに、1972年(昭和47)には文部大臣奨励賞、1988年(昭和63)には同院の理事長に就任している。
 新興美術院は、茨木衫風をはじめ保尊良朔、吉田澄舟、田中案山子、内田青薫、小林三季、小林巣居、鬼原素俊、芝垣興生、森山麥笑ら12名の日本画家たちが集まって創立した美術団体だった。従来の日本美術院の体質や、院展の選考などに不満をもつ画家たちが結集したようだが、すかさず日本美術院による切り崩し工作があったのだろう、12名のうち早くも2名が脱落して院展にもどっており、1938年(昭和13)に東京府美術館で開催された第1回新興展では、10名の画家たちによる14作品と、一般公募で入選した34点の作品が展示されている。
 新興美術院について、1987年(昭和62)に山口県立美術館から刊行された『日本画・昭和の熱き鼓動』収録の、菊屋古生「昭和初期 新日本画運動についての一試論」より引用してみよう。
  
 この団体の特徴となると、なかなかひとくちではとらえにくい。雑誌の図版や絵葉書などで見るかぎりにおいては、その画風は多岐に及んでいる。形態や構図に新感覚を発揮しながら、そのいっぽうで南画的趣向をもつ小林(巣居)、田中、茨木。王朝風俗の雰囲気をふくんだ歴史画を描く小林(三季)。温雅な花鳥画を得意とする吉田、内田。あるいは抒情性豊かな動物画の芝垣。現代風俗をもりこむ人物画の鬼原。さらに形態を立体主義的にとらえる森山、保尊など、多種多様な作風をこの新興展はとりこんでいたようである。戦後、この団体の理事長となる中島健蔵も、「同人諸子の画業が、外面的な類似によってつながってゐるどころかむしろ各々の独自性によってグループを意味づけてゐること」を、この団体の大きな特徴のひとつとしてあげている。
  
 中島健蔵の言葉にならえば、数多くの“お約束”が多く、「やってはいけない」表現やモチーフ選びのタブーだらけたった日本美術院=院展では、なにか新しい独創的で個性的な表現を試みようとすると、展覧会(院展)には決して入選できないという、保守的な姿勢に愛想をつかした日本画家たちが脱退し、現代的な表現をめざして新たに結成したのが新興美術院ということになる。
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 もっとも、日本美術院=院展自体も出発点は、それまでの日本画には見られない革新的な表現を産みだしていたはずであり、本来は昭和初期のような保守的かつ官僚的な美術団体ではなかったはずだという無念の思いも、新興美術院を結成した画家たちの間にはあったと思われる。彼らの眼には、旧態然とした日本画ばかりを生産する日本美術院は過去の日本画であり、1930年代にふさわしい作品には見えないという感覚も強かったのだろう。
 新興美術院の会員たちが、日本美術院の存在自体を否定していないのは、彼らが新興美術院を結成した際、岡倉天心横山大観たちが新たな表現に挑み苦闘した、茨城県五浦(いづら)の“聖地”を訪れていることからもうかがえる。彼らは、1930年代の日本美術院=院展にアンチを唱えているのであり、日本美術院の出発点や思想を否定しているわけではなかった。
 新興美術院のメンバー7人が、結成から約2年後の1939年(昭和14)9月に訪れた茨城県の五浦の様子について、小林三季が美術誌にエッセイを残している。1939年(昭和14)に刊行された「阿々土」10月号(阿々土社)に掲載の、小林三季『五浦行』から少し引用してみよう。
  
 海の水平線はその庭園よりみられ、其の日は暗紫色のトボリをたれ、波は近く岩を嚙み霧立のぼり、都熱を洗ふに充分の響を私達の神経に伝へてくれた。/或る意味に於て五浦は、私の憧れの地、一度はこゝへ来てみたいと思ふこと久しきものがあつたが院展の作家となつて十年、遂にその念願を果し得ず、院を去りて今日こゝに来たる、そこには云ひ知れぬ感情が私の胸にせまりくるのを覚えた。/翌日、岡倉天心先生の墓前にぬかづく私達七人の心情は粛として暫声なし、碧したゝる梢のゆらめき心にしみて何かしら浄められたような深い感銘を得た。/傍のあづまやの風致、あざやかに咲く八仙花タゴール弔霊の松風韻々と袖をうるほし、五浦の海は美しく望められた。道数十歩の間に横山先生の御別邸あり、余りの懐かしきにこのまゝ立ち去り兼ね…(以下略)
  
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 小林三季は埼玉県の羽生で生まれ育っているが、前出の菊屋古生が書いた「試論」にある「王朝風俗」の歴史画が得意だというよりも、古今東西の物語や民話、説話などを題材に発想を自由に拡げ、それを日本画の手法で表現していくのが得意だったようだ。
 彼は、かなりのロマンティストだったらしく、絵巻物のような「王朝風俗」ばかりでなく、まるで洋画を思わせる西洋の物語をテーマにした作品や、昔の生活における風俗、街角などを描いた記憶画なども得意としていた。たとえば、その作品には『サンタ・マリア雪の祝日』(1939年)や『なみ姫物語』(1940年)、『たけくらべ』(1941年)などがみられる。
 また、小林三季は羽生の三田ヶ谷村にある弥勒尋常高等小学校を卒業しているが、そのときに教えを受けていた同校の教師が小林秀三だった。文学好きの方ならピンとくるかもしれないが、小林秀三は田山花袋が彼の日記を参照しながら、小説『田舎教師』のモデルにした人物で、1909年(明治42)に同作を発表している。のちに、小林三季は田山花袋の『田舎教師』をテーマとして、小林秀三とすごした弥勒小学校時代の光景を、『田舎教師絵巻』(1960年)の“記憶画”として発表し、同年の秋に日本橋三越で展覧会を開催している。
 『田舎教師絵巻』に描かれた「弥勒小学校」には、小林三季のキャプションが添えられている。
  
 生徒等は皆な運動場に出て遊んだ。ぶらんこに乗るものもあれば、鬼事(おにごっこ)をするものもある。女生徒は男生徒とはおのずから別に組をつくつて、綾を取つたり、お手玉を弄んだりしている。運動場を縁取つて、白楊の緑葉が疎らに並んでいるが、その間からは広い青い野が見えた。
  
 『田舎教師絵巻』には、ほかに「みろくへの道」や「つつじヶ丘」、「中田の宿」、「成願寺の雪」、「羽生の雨」、「みろく野の幻想」、「美穂子の家」などの“記憶画”が描かれている。
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 ところが、しばらくすると羽生にある建福寺へ、『田舎教師絵巻』を奉納したいからつづきを描いてくれと、とある人物から依頼された。そこで、小林三季は続編『田舎教師絵巻』として仕上げ、「田作蔵」や「弥勒高等小学校」、「弥勒野の白昼夢」、「勘兵衛松」、「中田遊郭」、「東京音楽学校」、「父母」、「建福寺」など小説関連の情景を描いている。作品を散見すると、小説や物語の挿画家としても活躍できたのではないかと思うのだが、実際に挿画を描いたかどうかはさだかでない。

◆写真上:1939年(昭和14)に、下落合のアトリエ付近で撮影された小林三季。
◆写真中上は、1947年(昭和22)の空中写真にみる空襲をまぬがれた小林三季アトリエ。中上は、1960年(昭和35)作成の「東京都全住宅案内帳」にみる同アトリエ。中下は、1937年(昭和12)に発表された新興美術院結成の同人10名。は、1938年(昭和13)に東京府美術館で開催された第1回新興展と新興美術院メンバーたちの記念写真。
◆写真中下は、1939年(昭和14)に茨城県五浦の“聖地”を訪れた新興美術院の一行7人による旧・岡倉天心邸前での記念写真。中上は、1941年(昭和16)に井之頭公園池水門343番地に新設された新興美術院研究所。中下は、戦後の1954年(昭和29)に目白町3丁目3559番地へ再び開設された新興美術院研究所。は、下落合で撮影された晩年の小林三季。
◆写真下は、1939年(昭和14)に制作の小林三季『サンタ・マリア雪の祝日』。中上は、1940年(昭和15)に制作された同『なみ姫物語』。中下は、1941年(昭和16)に制作された同『たけくらべ』。は、1960年(昭和35)に制作された同『田舎教師絵巻』収録の「弥勒小学校」。
おまけ
 小林三季は、街角の“記憶画”もよく描いている。下の画面は、1938年(昭和13)に制作された『記憶にのこる神田大時計図』で、外神田にあった京屋本店の時計塔(明治風景)を描いたもの。
小林三季「記憶にのこる神田大時計図」1938.jpg

この記事へのコメント

  • てんてん

    (。・ω・)ノ゙ Nice‼です♪
    2025年12月13日 20:49
  • 落合道人

    てんてんさん、コメントをありがとうございます。
    無料カードで、いろいろな施設が利用できるの、いいですね。w
    2025年12月13日 22:06

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