大正期の大橋(両国橋)が見られる鉄砲洲。

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 わたしも知らなかったが、おそらく親父もウッカリ気がつかなかったのではないだろうか。明治末から昭和初期まで、関東大震災をはさみ大川(隅田川)に架かっていた鉄筋の大橋(両国橋)が、そのままの意匠で別の橋として残されていたことを。
 架橋されている場所は、八丁堀が越前堀と合流し大川(隅田川)へと通じる、鉄砲洲側と霊岸島側とを結ぶ位置だ。現代のいい方をすれば、八丁堀側の湊1丁目から亀島川をはさみ新川2丁目へと架かる、亀島川の出口に設置された亀島川水門の手前ということになる。名称は「南高橋」(みなみたかばし)だが、北側に架かる高橋(たかばし)は江戸期から存在したけれど、南高橋は関東大震災後の復興事業で架けられた橋のひとつだ。おそらく、災害時に霊岸島側から築地方面へと避難できる、防災橋のひとつとして架設されたものだろう。
 鉄筋の大橋(両国橋)、いわゆる「曲弦トラス3連桁橋」とよばれる橋梁は、1904年(明治37)5月に竣工し、1931年(昭和6)ごろまで大川(隅田川)に架かっていた。長さが164.5mで幅が24.5mあり、その上を東京市電やクルマが往来していた。親父が6歳ごろまで目にしていたはずなのだが、記憶に残らなかったのだろうか。もし記憶に残っていれば、移築先で新設された南高橋の存在を認識していたはずで、家族を連れて訪れていたはずなのだが、幼児のころの記憶が曖昧だったため、それほど先代の大橋には執着がなかったのかもしれない。
 南高橋は、長さ63.1mで幅が11.0mと小さく、旧・大橋(両国橋)の3分の1強ほどのサイズだ。旧・大橋の3連桁のうち、中央の桁のみの部材を活用して、1932年(昭和7)に亀島川(旧・越前堀)の最下流域へ架橋されている。ただし、上部の強度を補うためか、新たに細めなトラスがX型に設置されているようだ。旧・大橋と同様に、橋の入口上部に、橋名のプレートが横向きで取りつけられており、戦前なので右から左へ「橋高新」と彫られている。いまとなっては、明治期の架橋技術を伝える、貴重な土木遺産ということになるのだろう。
 旧・大橋(両国橋)に比べ路面幅が狭いため、同じ部材を使っているとしても多少の加工がほどこされているのだろうか。だが、旧・大橋はトラス内の車道とは別に、人が日本橋側~本所側間を往来する歩道が、橋梁の左右(南北)に広くはみ出して設置されていたため、幅24.5m(旧・大橋)-幅11.0m(南高橋)=13.5mで、これを2分の1にした6.75m(三間強)が、旧・大橋の歩道の幅なのかもしれない。ちなみに、南高橋の歩道はトラスの内側に設けられている。いずれにしても、南高橋の外観は旧・大橋そのままのように見える。橋の入口の端柱上に装飾された、まるで西洋の鐘楼か時計塔のようなオブジェも、旧・大橋と同一のようだ。
 さて、かねがね気になっていたのだけれど、旧・大橋(両国橋)は何色に塗られていたのだろうか。現在の南高橋は、明るい灰銀色に塗られている。昭和初期に、復興校舎として早々に建設された日本橋側にある千代田小学校(現・日本橋中学校)の、屋上から北北東を向いて撮影された復興記念の人着絵はがきが残されている。それを観察すると、大橋はグレーに着色されているように見えるが、やや離れているのでほんとうにグレーだったかどうかはわからない。また、モノクロ写真への人工着色なので、それが正確な色彩なのかも不明だ。
 今回、南高橋を訪れてみて、旧・大橋(両国橋)に塗られていたカラーは、明るい灰青色(薄めな空色に近い)だったのではないかと疑うようになった。なぜなら、現在の南高橋のトラスの一部に塗料の剝脱が何ヶ所かみられ、錆びた芯の鉄骨部分に塗られた赤茶色(おそらく錆止めだろう)と、その上に塗られたかなり古めな灰青色の塗料、そして移設されて南高橋になってから新たに塗られた灰銀色と3層の塗り色が確認できるからだ。
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 ただし、旧・大橋(両国橋)から1932年(昭和7)に移築される際、それまでの塗料がすべて落とされ、改めて灰青色に塗り直されていたが、戦災で表面の塗料が傷んだため、戦後は現在の灰銀色になった……と解釈することも可能だ。けれども、関東大震災からの復興事業の慌ただしい工事のなかで、そのようにていねいな移築作業が行われていたかどうかには疑問が残る。いずれにしても、古い時代の橋色は灰青色だったことが確認できた。
 さて、南高橋の東詰めには、越前福井藩は松平越前守の中屋敷(幕末)があり、そこに奉られていた徳船稲荷社が鎮座している。明治以降に、祭祀場所は何ヶ所か移動したようだが、戦後に再び同地へと帰還している。徳船稲荷の「徳」は、徳川家の船の舳(へさき)を切りとったものだったようだが、1945年(昭和20)の空襲で失われている。現在は、かたちばかりの小さな社が戦後新たに建立されているが、今回の目的はこの稲荷社ではない。
 南高橋から、南西へ直線距離で120mほどのところにある鉄砲洲稲荷社のほうだ。同社は、平安初期に建立されているが、1457年(長禄元)に太田道灌による江戸城の築城以降、海岸線の埋め立てが徐々に進み、現在の京橋付近で暮らしていた住民たちの産土神(うぶすながみ)として奉られていた。また、徳川幕府による海岸線の大規模な埋め立てが進捗すると、さらに場所を移してほぼ現在地へと遷座している。江戸期には、江戸へとどく生活物資(米・塩・酒・薪炭など)の多くが、江戸湾から大川(隅田川)をさかのぼり、鉄砲洲湊(河岸)に陸揚げされていたことから、航海の安全を祈願する海難除け稲荷としても知られるようになった。
 今回の散策の目的は、旧・大橋(両国橋)の移設である南高橋とともに、この鉄砲洲稲荷社の境内にある、周辺の富士講によって築造された「鉄砲洲富士」を見学することだった。拙サイトでは、落合地域に築造されていた「落合富士」をはじめ、東隣りの戸塚地域に築かれた「高田富士」、北西側の江古田地域に築かれた「江古田富士」、北側の長崎地域にある「長崎富士」、南側の新宿地域に築かれたの成子(鳴子)富士などをご紹介している。
 これらの富士塚は、すべて円墳または前方後円墳とみられる墳丘の頂上部に、講中のメンバーがわざわざ背負って運んだ、富士山の溶岩を積みあげて築造されている。落合富士=大塚浅間古墳、高田富士=富塚古墳、江古田富士(未調査だが地元に古墳伝承あり)、長崎富士(同)、成子富士=成子天神山古墳といった具合に、ベースには古墳の墳丘が利用されていた。
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 大江戸(おえど)の市街地や郊外に築かれた富士塚は、もともと正円状に地面から盛りあがった墳丘(前方後円墳の場合は後円部)を、そのまま活用して築かれているが、平地の場合はどうやって築いていたのかに興味があったのだ。そこで、もともとは海岸線で埋立地だった鉄砲洲には、どのような富士塚が築かれていたのか、以前から気になっていた。埋め立てられる前の、八丁堀に架かっていた稲荷橋跡を南へ進むと、すぐ右手(西側)に鉄砲洲稲荷の杜が見えてくる。富士塚は、同社の拝殿・本殿の右手、すなわち北側にひっそりと保存されていた。
 一見しておわかりのように、地表から溶岩のみが高く積みあげられているのがわかる。これは、鉄砲洲稲荷社が旧社地から現在地へ遷座してから、改めて築かれたものだということだが、江戸期からその仕様は変わっていないのではないか。なぜなら、内陸や郊外の富士塚が富士山の一合目、すなわち墳丘の下を一合目と決め、頂上の溶岩を積みあげた山頂に向けて登りはじめるのに対し、鉄砲洲富士はいきなり五合目からはじまっているからだ。江戸期には、この溶岩の下にいくらかの土盛りがあったとしても、きわめて低いものではなかったろうか。
 その様子は、1864年(元治元)に三代豊国・二代広重によって描かれた、連作「江戸自慢三十六興」のうち『鉄砲洲いなり富士詣』でもうかがうことができる。富士塚の全体は溶岩のかたまり、すなわち現状と同様の造りであり、基盤となる丘がまったく描かれていない。画面には、遠景として山頂をめざす母子が描かれているが、鉄砲洲富士はこれほど大きくはないので浮世絵師によるデフォルマシオン(誇張)表現だろう。高さが約5.4mで面積が約95m2と、江戸の市街地や郊外にある富士塚に比べ小規模なのも、土台となる塚=古墳が存在していなかった様子がうかがえる。
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 ところで、鉄砲洲や八丁堀界隈でランチを食べようと、いろいろな飲食店を探したのだが、あいにくビジネス街の日曜日で開いてる店が少ない。明石町方面へ歩いていくと、戦前の昔から開業している老舗の天ぷら屋や鮨屋、戦後のフレンチレストランなどがあるのだが、それらは店先にメニューを表示していない「時価」の店舗なので、怖くて入れなかった。そういえば、明石町や八丁堀界隈は一時期、築地市場の新鮮な食材を背景に高級料理店が多く軒を並べていた地域でもある。

◆写真上:八丁堀側の湊1丁目から眺めた、亀島川に架かる南高橋の西詰め。
◆写真中上は、1893年(明治26)に撮影されたトラス橋になる前の大橋(両国橋)。中上は、1904年(明治37)に竣工した大橋。中下は、横網町の復興記念館に保存されている昭和初期まで使用されていた「りやうこくはし」のプレート。は、復興校舎として完成した千代田小学校(現・日本橋中学校)の屋上から撮影された大橋。元祖すずらん通りに面して、ミツワ石鹸丸見屋本社ビルがないので1930年(昭和5)以前の撮影だと思われる。
◆写真中下は、南高橋として移築された大橋の3連桁トラスの中央部。中上は、新川2丁目(東詰め)方面へ向けて撮影した南高橋。中下は、剝脱した塗料の下には赤茶色の錆止めと現状の塗料との間に灰青色の塗料が確認できる。は、東詰めから撮影した南高橋。
◆写真下は、上流の高橋から撮影した南高橋の全景。背後に見える巨大な水門は、大川の出口に設置された亀島川水門で、背景は石川島の高層ビル群。中上は、亀島川(越前堀)よりも幅が広かった八丁堀(別名:桜川)跡の桜川公園。中下は、鉄砲洲稲荷社の境内に残る鉄砲洲富士。は、1864年(元治元)に制作された三代豊国・二代広重による『鉄砲洲いなり富士詣』(部分)。
おまけ
 上の写真は、こじんまりした鉄砲洲稲荷の鉄砲洲富士全景。下は、『落合ほたる』と同様のコラボレーションで三代豊国・二代広重が描く「江戸自慢三十六興」の『鉄砲洲いなり富士詣』。
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この記事へのコメント

  • てんてん

    (。・ω・)ノ゙ Nice‼です♪
    2025年12月07日 20:51
  • 落合道人

    てんてんさん、コメントをありがとうございます。
    「琉球」の訪問着は面白いですね。これを着て女性がどなたかを尋ねたら、
    柄の話題だけで小一時間はすぎてしまいそうです。w
    2025年12月07日 21:43

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