中井英夫が住みたがった大江戸の認識。

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 下落合4丁目2123番地の「バラ園」に住んだ中井英夫は、敗戦直後の翌年1946年(昭和21)には西荻窪の次姉のアパートに身を寄せていた。そこでも、以前から書き継がれてきた日記をつけつづけ、敗戦直後のものは『黒鳥館戦後日記』として発表している。
 その中に、どうしても東京に住むなら……という前提で、当時の住みたい街をいくつかピックアップしている。以前にも、拙記事でご紹介していたけれど、敗戦から5ヶ月後、1946年(昭和21)1月24日付けの日記には、次のような記述が見えている。再度の引用となって恐縮だが、1983年(昭和58)に立風書房から出版された、中井英夫『黒鳥館戦後日記』から引用してみよう。
  
 どうで東京に住むとならば、築地か人形町か薬研堀か、もしくは本郷、上野、浅草、それでなければ直次郎を気取つて駒込あたりに侘びずまひ、本当の江戸に生きぬきたい。もとより己が生得の田舎気質は、何遍お江戸の水で洗はうとあくのぬけるしろものではない乍ら、こんな西荻あたりは場末の面白さも見られず、ほとほとに愛想もつき果てた。今度の戦争で焼けなかつたその事自体が荻窪以西の如何に片田舎であるかを示してゐる。(中略)/東京に住むことのうれしさ、誰がクソ、どうあつても此処だけは離れぬ、ここだけは己のふるさと。さういへば今朝の新聞には、戦災者の麦ふみの写真など出てゐたけれども、何とそれが神田の町中での事だといふに、ふるさともあまりの土くささに、わびしさをもよほさずにゐられない。
  
 父親の中井猛之進は岐阜の出身だが、中井英夫は滝野川区の田端町生まれなので、ふるさとは東京ということになる。だが、彼は故郷の街の名前をあえて挙げていない。おそらく、大江戸(おえど)由来の芝居(黙阿弥の世話物中心)に馴染んでいたものか、江戸東京でも江戸後期から明治にかけて人気があった地域の街をピックアップしているのがわかる。
 この文章につづけて、「焼けたことこそ江戸ッ児の誇りとは申せ、もう少し焼け方もあつたらうものを」と、空襲で焼けた街々を惜しんでいるところは、中井英夫がすでに江戸東京地方のアイデンティティをすっかり身につけていた(つもりになっていた)ことをうかがわせる表現だ。ちなみに、彼の故郷である田端町は、空襲でほとんど焼け野原になっていた。
 まず、「築地」から考えてみよう。築地あるいは大川(隅田川)の中に浮かぶ佃島や月島界隈は、激しい空襲からもかろうじて焦土にならなかったエリアだ。ところどころ、まだら状に焼夷弾が落ちたものか、部分的に焼けた街角が確認できるが、街全体が消滅してしまうほどの被害は受けていない。築地の北側、明石町や入船町、新川町、八丁堀など、そして北東側の霊岸島界隈は空襲の延焼に遭い、ほぼ全域で焼け野原が拡がるような風景だった。
 次に「人形町」もまた、日本橋地域の中で奇跡的に焼け残った街ということになる。西側の日本橋江戸橋へ近づくほど、コンクリートのビル(内部は丸焼けだったが)を除き、木造の家屋は空襲でほとんど焼失している。だが、おそらく風向きの加減からか、人形町一帯には火がまわらなかったらしく、戦前の古い街並みがそのまま“保存”されているような状態だった。つまり、中井英夫の「築地」や「人形町」は、戦前の東京の街中の香りがそのままつづいている地域ということになる。ただし、これらの街々も関東大震災で江戸期や明治期の風情を消すほどの大きな被害を受けているため、厳密にいえば大正期に建てられた建築が中心で、ところどころに江戸や明治建築(レンガかコンクリート造りで、焼け残ったか修復された建築)が残っているような風情だったろう。
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 だが、「薬研堀」の街々はまったく異なる。厳密にいえば、「薬研堀」という町名はかなり局所的になる。江戸後期から明治期にかけ、大川へ通う薬研堀は埋め立てられつづけたが、その埋め立てた堀の上にできた街を、一時的に明治初期ごろから薬研堀町と呼んだ時代があった。だが、中井英夫が書いた「薬研堀」はその街のことではない。江戸期から、通称名として「薬研堀」地域と呼ばれていたのは、大橋(両国橋)の西詰めに近い、日本橋米澤町や同矢ノ倉町、同村松町、同若松町、そして明治初期に形成された薬研堀町をすべて併せた一帯、つまり大江戸時代=江戸後期にはもっとも繁華な街だった現在の東日本橋地域のことだ。
 江戸前期には、医者や薬問屋などが多く住んでいたといわれているが、江戸後期になると神田川の河口をはさんだ柳橋を背負う、大江戸ではもっとも繁華な街を形成していた地域ということになる。現代の感覚でいうと、銀座か新宿の商店街に相当する街中ということになるだろうか。大橋(両国橋)の東西両詰め(日本橋側と本所側)=両国広小路では、しじゅう見世物の小屋がけ(いまでいう大規模なイベント)が行われ、ときには開催中に大江戸人口の約半数(70万~80万人)ほどを集めるほどの賑やかさだった。中井英夫が「薬研堀」を挙げたのは、そんな大江戸一の繁華だった街に、彼ならではの「郷愁」を感じていたものだろうか。
 次いで挙げている「本郷」だが、これは彼の母校である東京帝大がある街なので、学生時代の思い出と結びついたノスタルジア(郷愁)からだろう。戦後は、湯島から神田にかけては焼け野原だったが、本郷の北端や西片町にかけては延焼をまぬがれている。特に西片町には、江戸期から大正期にかけての古い住宅街がそのまま残されていただろう。
 つづいて、挙げているのが「上野」だ。中井英夫は「上野」と書いているが、これは厳密にいえば江戸期から街々が形成されてきた下谷のことだろう。江戸後期には、小旗本や御家人、千代田城に勤める茶坊主、幕府専属の専門職人など、幕臣を中心とした「御城」の関係者たちが多く住んでいた街だが、明治以降はさまざまな分野の専門職人の街に変貌している。また、あとで挙げている「直次郎」が活躍した地域でもあり、町名ともからみ芝居の舞台として数多く登場する地域だ。また、今日でいう上野は本郷の東隣りにあたる地域なので、中井英夫は学生時代の思い出のある街だったのかもしれない。ただし、同地域は銀座とともに、東京大空襲以前の早い時期から空襲にさらされており、戦後は焼け残った街角が島状に点在するような光景になっていた。
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 次に、「浅草」を挙げているが、これは明治以降に遊興地として拓けた街で、中井英夫も映画や寄席、演劇などを観に通っていたのではないかと思われる。この街も、学生時代のなんらかの思い出と結びついているのではないか。ただし、上野の東側に位置する大川沿いの浅草一帯は、激しい空襲によりほぼ全滅状態だった。1945年(昭和20)3月10日の東京大空襲で大きなダメージを受け、焼け残ったエリアは敗戦まで繰り返し爆撃されたのだろう、見わたす限りの焼け野原だった。浅草寺にも火が入り、本堂や五重塔など主要な伽藍を焼失している。
 最後に、「直次郎を気取つて駒込あたり」は、もちろん河竹黙阿弥『天衣紛上野初花』(くもにまごう・うえののはつはな)=通称「河内山」に登場する、上野寛永寺の高僧をかたる茶坊主の河内山宗俊と、御家人くずれの「直侍」(なおざむらい)こと直次郎の、ふたりの悪党が活躍する芝居の舞台だ。駒込は、御家人だった直次郎が役宅をかまえていた街で、「河内山」の第六幕に「/\根が駒込の片端で~二人扶持に俵取~」と七五調のセリフが登場する。
 こうして、敗戦直後に中井英夫が挙げている、東京の住みたい街々を見てくると、江戸後期または明治以降から戦前にかけて江戸一あるいは東京一といわれた人々が集まる繁華街、あるいは学生時代に頻繁に遊びに出かけ馴染んだと思われるノスタルジックな街々、さらには芝居(特に黙阿弥作品)を通じて親しんだとみられる場所などで暮らしたいと考えていたようだ。けれども、なぜか彼は市谷台町に住んだあと、1958年(昭和33)に下落合4丁目2123番地(現・中井2丁目23番地)に転居してきて、多種多様なバラを育てながら『虚無への供物』を執筆することになる。
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 中井英夫は、「どうで東京に住むとならば」と挙げた街々へ、戦後やや落ち着いてから出かけているはずだが、そこで見た焼け野原や戦争の傷跡が生々しい地域に幻滅したものだろうか、それらの街々には住んでいないようだ。むしろ、西荻窪と同様に戦争の被害をほとんど受けていない、戦前はアビラ村(芸術村)と呼ばれていた、下落合4丁目におよそ10年間も暮らしている。

◆写真上:戦後、寄宿していた西荻窪の次姉アパート前で撮られた中井英夫(左)。
◆写真中上は、1948年(昭和23)に米軍のF13により撮影された空中写真にみる築地界隈。中上は、1947年(昭和22)撮影の日本橋人形町界隈。中下は、1947年(昭和22)に撮影された東日本橋界隈。は、1948年(昭和23)撮影の本郷界隈。
◆写真中下は、1948年(昭和23)に撮影された空中写真にみる下谷(上野)界隈。中上は、1947年(昭和22)撮影の浅草界隈。中下は、1947年(昭和22)に撮影された駒込界隈。は、1947年(昭和22)撮影の中井英夫が生まれたふるさと町の田端界隈。
◆写真下は、戦後すぐのころに撮影された中井英夫。中上は、1947年(昭和22)に次姉のアパートに寄宿していたころの西荻窪界隈。中下は、1947年(昭和22)撮影の下落合4丁目(現・中井2丁目)界隈。は、世田谷区羽根木2丁目25番地の自邸縁側で撮影された中井英夫(右)と澁澤龍彦(左)。
おまけ
 1947年(昭和22)7月27日 晴、暑さ限りなし
 「向ひのアパートで子供を叱る声、かけつ放しのラヂオ、四卓ばかり朝からやつてゐる麻雀等々、こちらでは酒をのんでチンダラカノサマヨ、りんごの歌等々、(中略) この中で勉強なんか出来るもんか、清浄な人間になんかなれるものか。たゞじつと身をひそめて、書くべきものに耳をすますのみ」(『続・黒鳥館戦後日記』より)。下は、1947年(昭和22)に描かれた中井英夫『自画像』。
中井英夫「自画像」1947.jpg

この記事へのコメント

  • てんてん

    (。・ω・)ノ゙ Nice‼です♪
    2025年11月28日 21:58
  • 落合道人

    てんてんさん、コメントをありがとうございます。
    きょう、ネコを健診で獣医につれていくとき、「イヤだ!」とすごい
    張りのある声で鳴いてました。どこへ連れていかれるのか、予知でき
    るようですね。
    2025年11月28日 22:04

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