下落合を描いた画家たち・鈴木良三。(2)

鈴木良三「風景」1936.jpg
 1936年(昭和11)の当時、江古田(えごた)に住んでいた鈴木良三の作品に『風景』という画面がある。(冒頭写真) 一見して、江古田と西落合の境界にある、野方配水塔を描いているのがわかる。配水塔の凸部(階段室)の向きからして、手前の畑地は西落合エリアのものだ。ヤフオクに出品されていたのを、pinkichさんよりご教示いただいた。
 当時は高層の建物がなく、また西落合から江古田にかけては田畑も多かったため、中野区江古田931番地の鈴木良三アトリエからは、荒玉水道の野方配水塔がよく見えていただろう。江古田931番地は、ちょうど中野療養所(江古田療養所/現・江古田の森公園)の北側、現代でいえば大江戸線・新江古田駅の西、豊多摩東小学校のやや西側にあたる敷地だ。
 野方配水塔は1929年(昭和4)に竣工しているが、荒玉水道が落合地域一帯へ通水したのは、前年の1928年(昭和3)からだった。しかし、落合地域では水道の普及率が低く、目白崖線の関東ローム下の礫層から湧きでる清冽で美味な泉水や井戸水が、その後も長く使われつづけている。現在でも、当時からの井戸は落合地域の各所で見られる。
 鈴木良三は、おそらく武蔵野鉄道を利用していない。アトリエから見える野方配水塔をめざして、徒歩で写生地に向かっているのだろう。江古田931番地のアトリエから野方配水塔まで、直線距離で1,500mほどしか離れていない。画家は、野方配水塔をグルリと廻りこむようにして歩き、階段室の見え方からして西落合1丁目190番地(現・西落合3丁目)あたりに、イーゼルを立てて描いているのだろう。およそ平安期ごろから「妙見山」と呼ばれた丘陵の、ちょうど北側斜面下の麓あたりだ。画面を観察すると、地形が左手(南側)に向かって盛りあがっているのが確認できる。この傾斜が、画家の描画地点からいって妙見山の北斜面の一部だとみられる。
 ただし、描かれた風景にはおかしな点もある。1936年(昭和11)に制作された作品にしては、画面に西落合の住宅が少なすぎるのだ。野方配水塔の階段室がこの角度で見える前面に、これほど畑地が広く開けて見通しがきき、配水塔までの間に住宅が見えない風景は、1936年(昭和11)の時点ではありえないからだ。それは、同年に撮影された西落合の空中写真からも明らかなことだ。また、昭和初期から進む耕地整理の過程で、西落合には広めな三間道路が碁盤の目のような敷かれていたはずだが、そのような様子も画面の風情からは感じられない。キャンバスの裏には、「昭和十一年/鈴木良三」の貼り紙があるようなのだが……。
 1936年(昭和11)という画面の不自然さについて、考えられることは3つほどあるだろうか。ひとつは、制作年が誤認されているケースだ。この画面が、大正末から昭和初期にかけての葛ヶ谷風景(1932年までは落合町葛ヶ谷で同年10月より淀橋区西落合)だとしたら、まだ納得できるかもしれない。けれども、野方配水塔の竣工は1929年(昭和4)だ。また、鈴木良三は1928年(昭和3)5月から1931年(昭和6)12月まで、フランスを中心にヨーロッパに滞在しており日本にはいない。帰国後、江古田にアトリエをかまえるのだが、たとえば制作年が誤りで帰国の翌年、1932年(昭和7)に描かれた作品だとしても、住宅の数が少なすぎるように感じる。
 ふたつめの可能性としては、鈴木良三の“構成”画面ではないかということだ。すなわち、手前にパラパラと見えているはずの住宅群はすべてカットし、野方配水塔の階段室まで見通せる空間を、葛ヶ谷時代からつづく畑地として描いている。すなわち、遠景に見えるアパートや牧舎のような建築(配水塔の東側に通う道路沿いの建物だろう)のみを、選択して描いているのではないかという可能性だ。このようなコラージュ作品が、鈴木良三が制作した同時期の風景画にも存在しているかいないかは不明だが、当時としてはそれほどめずらしくない制作手法だったろう。
鈴木良三「風景」拡大.jpg
野方配水塔.JPG
野方配水塔階段室.JPG
野方配水塔1936.jpg
 3つめの可能性は、そもそも描かれている配水塔が野方配水塔ではなく、同塔とは“双子”の存在である板橋区の大谷口配水塔ではないかという疑念だ。けれども、これは1936年(昭和11)に撮影された大谷口配水塔の空中写真を参照すると、すぐにもありえないことがわかる。大谷口配水塔の階段室がある側の一帯は、すでに住宅が密集して建設されており、このような風景は野方配水塔の周辺以上に想定しにくいからだ。また、鈴木良三のアトリエが江古田にあり、その同じ町内の東端にある配水塔をモチーフにして描いたと考えるほうが自然だろう。
 強いて挙げるなら、もうひとつの可能性は、同作が1936年(昭和11)の西落合に拡がる実景をよく知らずに描いた、誰かの贋作ではないかという疑義だ。だが、画面のタッチやマチエールは鈴木良三が描いたといえば不自然ではないし、キャンバスを張った木枠もそれなりの年代を経ていて、1936年(昭和11)制作の雰囲気に合致している。さらに、それ以前の課題として、かなりの手間ヒマかけて贋作するほど、鈴木良三の作品が市場で高額に取引されているかという疑問も頭をもたげる。わたしの感触としては、ふたつめの可能性、すなわち野方配水塔を遠景に、手前のなにもない畑地は画家による実景から外れた“構成”のように思われる。
 さて、1935年(昭和10)前後になると、野方町江古田151番地に建つロマネスク調の野方配水塔を、モチーフにする画家が急増している。約34mもある同塔は、画家たちが多く住んでいた落合地域からもよく見えたためで、早い作品は竣工直後から制作されはじめている。たとえば、1929年(昭和4)に宮本恒平が描いた『落合風景』がもっとも早い画面だろうか。樹間から眺めた風景の遠景に、完成したばかりの白く輝く野方配水塔がとらえられている。おそらく、自性院境内の西側崖地あたりから、配水塔が見える西北西を向いて描いたものだろう。
妙見山北斜面.JPG
宮本恒平「落合風景」1929.jpg
平塚運一「野方配水塔」1932.jpg
平塚運一「落合点描」1935.jpg
 1932年(昭和7)には、近くに住む平塚運一『野方配水塔』という作品で、同塔をモチーフに写生をしている。前面に広い畑地を入れ、茅葺き農家と新築とみられる郊外住宅が入り混じった、耕地整理が進む当時の西落合の様子がよくとらえられた画面だ。やはり、階段室が正面近くに見える東側(西落合側)から描いており、鈴木良三『風景』の描画位置にかなり近い視点であることがわかる。また、平塚運一は1935年(昭和10)にも、木版画の『落合点描』で野方配水塔をモチーフにしている。こちらは、かなり塔に近づいてからの描写だ。
 昭和10年代と思われるが、松本竣介『野方配水塔』を描いている。のちに、尾形亀之助の詩集『美しい街』(夏葉社/2017年)の挿画に使われているスケッチだが、同じ落合地域の住民とはいえ時代がズレているので、両者に交流はなかったとみられるのは以前の記事にも書いたとおりだ。松本竣介は、同塔の階段室が正面に見える、東側の葛ヶ谷街道(現・新青梅街道)あたりから西北西を向いて描いていると思われる。この画面でも、やはり手前に茅葺き農家と近代住宅が入り混じった、当時の西落合の随所で見られた風情がとらえられている。
 戦後も、野方配水塔は画家たちの格好のモチーフになった。たとえば、1964年(昭和39)5月に描かれた三上知治『吉田博アトリエ』は、国際聖母病院の屋上から西を向いてスケッチしているが、手前に第三文化村に建っていた吉田博アトリエを入れ、はるか彼方に野方配水塔がポツンと描かれているのがわかる。このように、落合地域の少し高い建物や高台に上れば、野方配水塔はどこからでも遠望できた様子がうかがえる。同スケッチは、1964年(昭和39)5月20日に発行された、竹田助雄『落合新聞』のために描かれたものだ。
 同じく1964年(昭和39)9月にも、西落合にアトリエをかまえていた大内田茂士が、『給水塔』というタイトルのスケッチを残している。野方配水塔を、すぐ近くの樹間(おそらく現・みずのとう公園)付近からとらえたもので、スケッチブックを片手に近所へ写生に出たものだろう。この素描作品もまた、1964年(昭和39)9月10日に発行された『落合新聞』の挿画用に描かれている。
松本竣介「野方配水塔」不詳.jpg
三上知治「吉田博アトリエ」19640520.jpg
大内田茂士「給水塔」19640910.jpg
鈴木良三「滞欧作品展」193203日本橋三越.jpg
 昭和初期、西落合に接した野方配水塔を描いたのは、上記でご紹介した画家たちばかりではないだろう。同塔の完成から2年後、下落合に国際聖母病院が竣工するが、高い建物がなかった当時、これらふたつの目立つ構造物は周辺の画家たちにとって格好のモチーフだったにちがいない。

◆写真上:1936年(昭和11)制作の、野方配水塔をモチーフにした鈴木良三『風景』。
◆写真中上は、『風景』の部分拡大。中上中下は、東側から見た野方配水塔(現・野方給水所)と階段室。は、1936年(昭和11)の空中写真にみる描画ポイント。
◆写真中下は、西落合にある「妙見山」の北側斜面に見られる下り坂。中上は、1929年(昭和4)に制作された宮本恒平『落合風景』。中下は、1932年(昭和7)制作の平塚運一『野方配水塔』。は、1935年(昭和10)に制作された同じく平塚運一の木版画『落合点描』。
◆写真下は、制作年が不詳の松本竣介『野方配水塔』。中上は、1964年(昭和39)制作の三上知治『吉田博アトリエ』。中下は、同年制作の大内田茂士『給水塔』。2点とも、『落合新聞』の挿画スケッチ。は、1932年(昭和7)3月に日本橋三越で開かれた「滞欧作品展」と鈴木良三。
おまけ1
 より鮮明な1947年(昭和22)の空中写真にみる、鈴木良三『風景』の描画ポイント界隈。下の画面は、佐伯祐三が『肥後橋風景』(1926年)に描く唯一の中之島にあった配水塔。もし、野方配水塔が佐伯祐三の生存中に竣工していたとしても、「下落合風景」シリーズにみられる強いテーマ性から見て、白亜のロマネスク建築物は決してモチーフには選ばれなかっただろう。
野方配水塔1947.jpg
佐伯祐三「肥後橋風景」1926.jpg
おまけ2
 貴重な写真を忘れていた。1935年(昭和10)ごろ撮影の空中写真だ。ちょうど井上哲学堂の西、片山地域あたりの上空から東を向いて撮影されたもので、真下に野方配水塔がとらえられている。
野方配水塔1935年頃.jpg

この記事へのコメント

  • てんてん

    (。・ω・)ノ゙ Nice‼です♪
    2025年12月04日 19:57
  • 落合道人

    てんてんさん、コメントをありがとうございます。
    きょうは昼に蕎麦屋で天丼と蕎麦を食べたせいか、夜になってもお腹が空かず、
    軽く済ませてしまいました。
    2025年12月04日 20:37
  • pinkich

    papaさん いつも楽しみに拝見しております。描画ポイントの考察ありがとうございました。野方配水塔は独特の形状なので、配水塔をモチーフにした油彩画がもう少しありそうなものですが、周りが田んぼだったせいか、なかなかないですね。落合地域がのどかな田園風景であった頃の貴重な記録ですね。
    2025年12月28日 14:04
  • 落合道人

    pinkichさん、こちらにもコメントをありがとうございます。
    記事に「牧舎」としてリンク先に登場している、西落合にあった斎藤牧場もそうですが、西落合のすぐ北側にあった籾山牧場も含め、牧場の牛たちの間から眺めた野方配水塔というような作品があると面白いですね。
    牛のデッサンを残している、松下春雄アトリエ(のち柳瀬正夢アトリエ)の隣りで制作していた鬼頭鍋三郎あたりが、春陽会展用にそのような画面を残していないかどうか、ずいぶん前から探しているのですが……。
    2025年12月28日 16:07

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