
画家になるきっかけとは、いったいどのような経験だったのか? 1951年(昭和26)に発行された「婦人之友」6月号では、三雲祥之助がMCの役割で、その連れ合いである小川マリ子、三岸節子、そして佐伯米子の3者が座談会を開いている。
ちなみに、この当時の婦人之友社の所在地は、豊島区雑司ヶ谷6丁目1148番地のままであり、のちに同地域の住民たちにより最高裁まで争われることになる、行政による強引で一方的な地名変更の押しつけで、豊島区「西池袋2丁目」になる前の時代だ。
なぜ、「婦人之友」が女性の洋画家たちの座談会を開いているのかといえば、戦後に結成された女流画家協会の人気や反響も大きかったのだろう、戦前には不自由だった女性の生活(女修身)が敗戦で霧散し、自分の好きな仕事に取り組める環境が、少しずつ整いはじめていた時代の影響も大きいとみられる。したがって、画家をめざす女性が急増していた背景があったのだろう。同誌の座談会では、なにがきっかけで画家になったのか、どのような経緯で画家をめざすことになったのかという、3女性の出発点=動機が語られる内容となっている。
少し余談だけれど、いまの若い子たちには聞きなれない言葉だと思うが、わたしの親の世代までは「女流画家」や「女流作家」(ときに「閨秀作家」)などという言葉がそのまま残ってつかわれていた。では、「男流画家」や「男流作家」という表現があるかと思えば、そんな言葉は存在していない。換言すれば、画家や作家という職業は男性があたりまえの時代で、女性がそれらの職に就くのは異例だったのだ。いまや、作家や文筆家は女性のほうが圧倒的に多いのではないかと思われるが、戦前は女性が画家や作家をめざすことは、薩長政府による中国や朝鮮半島由来の儒教思想による教育から、「とんでもなく不良で非常識なこと」と思われていた時代だ。
まず、三岸節子は女学生時代から絵がうまかったこと、美術の教師からかわいがられ、図画はいつも100点ばかりで学校の代表に選ばれることが多かったと述懐している。当時は寄宿舎の生活で、室内があまりに殺風景だったため、展覧会へ出かけて風景画を1枚購入したことから、洋画に興味を抱いたのがはじまりだった。以下、1951年(昭和26)発行の「婦人之友」6月号に収録された、「季節の話題/女性と美術を語る」という座談会から引用してみよう。
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三岸――女学生のくせに随分生意気な話ですけれど、その絵は加藤某とかいう無名作家の絵で、緑一色で描いた、今から考えればセンチメンタルな甘い絵だつたと思います。ともかくそれを買つて部屋にかけて毎日眺めていました。その頃の私は、絵だけでなく、文学や詩が好きで、いわゆる文学少女でしたから、芸術に対する漠然としたあこがれを持つておりました。それに子供の時から、家にはさまざまの書画があり、骨董屋が始終出入りしているというような、代々ディレツタントの家だつたという環境のせいもありましよう。
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三岸節子の実家(愛知県一宮市・吉田家)は、医者になる姻戚が多く、親から女子医学専門学校への進学を強くいわれていた。だが、彼女は女学校を卒業間際に受験したものの、数学が苦手で落第してしまう。そこで、親には「何でもかんでも油絵をやりたい」といって、岡田三郎助に弟子入りするのと同時に、本郷菊坂町89番地の女子美術学校へ入学してしまった。以来、三岸節子にとっては、絵を描くこと=「やむにやまれぬパッション」となったと語っている。
一方、東京の尾張町(銀座)で育った佐伯米子は、絵を描くようになったきっかけは三岸節子に比べ「ほんとに平凡で、はずかしい」と発言しているが、彼女が育った牙彫師(がちょうし)がたくさん勤務する特殊な環境は、決してありふれた家庭生活ではなかったはずだ。むしろ、美術工芸にきわめて近しい環境だったろう。つづいて、座談会の佐伯米子の述懐から引用してみよう。
ちなみに、この当時の婦人之友社の所在地は、豊島区雑司ヶ谷6丁目1148番地のままであり、のちに同地域の住民たちにより最高裁まで争われることになる、行政による強引で一方的な地名変更の押しつけで、豊島区「西池袋2丁目」になる前の時代だ。
なぜ、「婦人之友」が女性の洋画家たちの座談会を開いているのかといえば、戦後に結成された女流画家協会の人気や反響も大きかったのだろう、戦前には不自由だった女性の生活(女修身)が敗戦で霧散し、自分の好きな仕事に取り組める環境が、少しずつ整いはじめていた時代の影響も大きいとみられる。したがって、画家をめざす女性が急増していた背景があったのだろう。同誌の座談会では、なにがきっかけで画家になったのか、どのような経緯で画家をめざすことになったのかという、3女性の出発点=動機が語られる内容となっている。
少し余談だけれど、いまの若い子たちには聞きなれない言葉だと思うが、わたしの親の世代までは「女流画家」や「女流作家」(ときに「閨秀作家」)などという言葉がそのまま残ってつかわれていた。では、「男流画家」や「男流作家」という表現があるかと思えば、そんな言葉は存在していない。換言すれば、画家や作家という職業は男性があたりまえの時代で、女性がそれらの職に就くのは異例だったのだ。いまや、作家や文筆家は女性のほうが圧倒的に多いのではないかと思われるが、戦前は女性が画家や作家をめざすことは、薩長政府による中国や朝鮮半島由来の儒教思想による教育から、「とんでもなく不良で非常識なこと」と思われていた時代だ。
まず、三岸節子は女学生時代から絵がうまかったこと、美術の教師からかわいがられ、図画はいつも100点ばかりで学校の代表に選ばれることが多かったと述懐している。当時は寄宿舎の生活で、室内があまりに殺風景だったため、展覧会へ出かけて風景画を1枚購入したことから、洋画に興味を抱いたのがはじまりだった。以下、1951年(昭和26)発行の「婦人之友」6月号に収録された、「季節の話題/女性と美術を語る」という座談会から引用してみよう。
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三岸――女学生のくせに随分生意気な話ですけれど、その絵は加藤某とかいう無名作家の絵で、緑一色で描いた、今から考えればセンチメンタルな甘い絵だつたと思います。ともかくそれを買つて部屋にかけて毎日眺めていました。その頃の私は、絵だけでなく、文学や詩が好きで、いわゆる文学少女でしたから、芸術に対する漠然としたあこがれを持つておりました。それに子供の時から、家にはさまざまの書画があり、骨董屋が始終出入りしているというような、代々ディレツタントの家だつたという環境のせいもありましよう。
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三岸節子の実家(愛知県一宮市・吉田家)は、医者になる姻戚が多く、親から女子医学専門学校への進学を強くいわれていた。だが、彼女は女学校を卒業間際に受験したものの、数学が苦手で落第してしまう。そこで、親には「何でもかんでも油絵をやりたい」といって、岡田三郎助に弟子入りするのと同時に、本郷菊坂町89番地の女子美術学校へ入学してしまった。以来、三岸節子にとっては、絵を描くこと=「やむにやまれぬパッション」となったと語っている。
一方、東京の尾張町(銀座)で育った佐伯米子は、絵を描くようになったきっかけは三岸節子に比べ「ほんとに平凡で、はずかしい」と発言しているが、彼女が育った牙彫師(がちょうし)がたくさん勤務する特殊な環境は、決してありふれた家庭生活ではなかったはずだ。むしろ、美術工芸にきわめて近しい環境だったろう。つづいて、座談会の佐伯米子の述懐から引用してみよう。



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佐伯――私の家は、象牙彫刻の美術貿易商でした。この頃の方は象牙細工などご存知ないかもしれませんけれど、名人のほつた真白い観音様だの娘だの、そういうものがあつて、それを見て暮したということが、私の心を美術の方へ向けさせ、絵をかくようになつたもとだつたと、いえばいえるでしよう。/やつぱり私も、絵は小学校の時からはり出しとか何とかいつて、いつもお点がよかつたし、手工なども上手で、代表になつて展覧会に出たりしました。そして絵を習いたいといつていたのみ(ママ:で)、母がつれて行つてくれたのは日本画の先生でした。それで私はすぐに絵具できれいな絵が描けるのだと思いましたら、先生の前にちよこんと坐らされて、竹だの真珠の玉だのの、つけたてばかりやらされて、つまらなくてがつかりしてしまいました。それから虎の門の東京女学館に入つて、今度は川合玉堂先生にお弟子入りしましたけれど、やつぱりお手本を描いて頂いて、一週間目にお清書して、先生にもつてまいりました。(カッコ内引用者註)
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佐伯米子の実家・池田家では、別に彼女を画家にしようとして日本画家の画塾に通わせたのではないだろう。(城)下町の子どもが身につける、基本的な教養のひとつとして、佐伯米子の場合は日本画だったにちがいない。これは、(城)下町の家庭では江戸期からつづく習慣で、学校(寺子屋時代含む)の勉強とは別に三味や琴、明治以降はピアノやヴァイオリンなどの楽器類、清元や常磐津、小唄、詩吟、謡曲、さらに和歌、俳句、川柳の修得、絵画や書の稽古など、学校教育とは別に、なにか一芸を基本的な教養として身につけるのがあたりまえだった。
そうでないと、なにかの会合や人前に出たとき、無芸な野暮では大恥をかくことになってしまい、あるいは話の拡がりで共通の話題が見つけにくく、趣味の基盤があるのとないのとではコミュニケーションや人脈の形成に大きく影響したからだろう。わたしの親父は、戦前に三味(細竿)と清元(いわゆる線道)へ通わされたが、45歳をすぎたあたりから、なぜか乃手趣味の謡いをはじめるようになった。息子であるわたしは、線道もついていなければことさら披露できる一芸もないので、(城)下町人としては落第で失格だろう。学校教育とは別に、必ず一芸を修得するのが戦前の江戸東京、特に町場では日常的であたりまえの世界だった。
その後、佐伯祐三と結婚してから、米子は洋画を描くようになったと話している。佐伯とともにフランスへ出かけたとき(第1次滞仏=1923~1926年)、ゴッホ(当時の一般的な呼称はゴーグ)がいたアルルの田舎の草原で、ボール紙のキャンバスに油彩で描いたのが最初だった。それが思いもよらずパリでサロン・ドートンヌに入選し、これが契機となって油絵を描くようになった。当時は日本画の手法が抜けておらず、その表現がめずらしくて入選したのだろうと米子は回想している。
佐伯――私の家は、象牙彫刻の美術貿易商でした。この頃の方は象牙細工などご存知ないかもしれませんけれど、名人のほつた真白い観音様だの娘だの、そういうものがあつて、それを見て暮したということが、私の心を美術の方へ向けさせ、絵をかくようになつたもとだつたと、いえばいえるでしよう。/やつぱり私も、絵は小学校の時からはり出しとか何とかいつて、いつもお点がよかつたし、手工なども上手で、代表になつて展覧会に出たりしました。そして絵を習いたいといつていたのみ(ママ:で)、母がつれて行つてくれたのは日本画の先生でした。それで私はすぐに絵具できれいな絵が描けるのだと思いましたら、先生の前にちよこんと坐らされて、竹だの真珠の玉だのの、つけたてばかりやらされて、つまらなくてがつかりしてしまいました。それから虎の門の東京女学館に入つて、今度は川合玉堂先生にお弟子入りしましたけれど、やつぱりお手本を描いて頂いて、一週間目にお清書して、先生にもつてまいりました。(カッコ内引用者註)
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佐伯米子の実家・池田家では、別に彼女を画家にしようとして日本画家の画塾に通わせたのではないだろう。(城)下町の子どもが身につける、基本的な教養のひとつとして、佐伯米子の場合は日本画だったにちがいない。これは、(城)下町の家庭では江戸期からつづく習慣で、学校(寺子屋時代含む)の勉強とは別に三味や琴、明治以降はピアノやヴァイオリンなどの楽器類、清元や常磐津、小唄、詩吟、謡曲、さらに和歌、俳句、川柳の修得、絵画や書の稽古など、学校教育とは別に、なにか一芸を基本的な教養として身につけるのがあたりまえだった。
そうでないと、なにかの会合や人前に出たとき、無芸な野暮では大恥をかくことになってしまい、あるいは話の拡がりで共通の話題が見つけにくく、趣味の基盤があるのとないのとではコミュニケーションや人脈の形成に大きく影響したからだろう。わたしの親父は、戦前に三味(細竿)と清元(いわゆる線道)へ通わされたが、45歳をすぎたあたりから、なぜか乃手趣味の謡いをはじめるようになった。息子であるわたしは、線道もついていなければことさら披露できる一芸もないので、(城)下町人としては落第で失格だろう。学校教育とは別に、必ず一芸を修得するのが戦前の江戸東京、特に町場では日常的であたりまえの世界だった。
その後、佐伯祐三と結婚してから、米子は洋画を描くようになったと話している。佐伯とともにフランスへ出かけたとき(第1次滞仏=1923~1926年)、ゴッホ(当時の一般的な呼称はゴーグ)がいたアルルの田舎の草原で、ボール紙のキャンバスに油彩で描いたのが最初だった。それが思いもよらずパリでサロン・ドートンヌに入選し、これが契機となって油絵を描くようになった。当時は日本画の手法が抜けておらず、その表現がめずらしくて入選したのだろうと米子は回想している。



さて、小川マリ子の場合は、どんなきっかけで絵をはじめたのだろうか。3人の中ではもっとも遅いスタートで、絵描きになるつもりなどなかったという。同書より、つづけて引用してみよう。
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小川――私は北海道の荒地そだちで全く美術などとは縁の遠い生活だつたのですけれど、たゞ自然の中に育ちましたから、自然に対するあこがれを、小さい時から、今も持ちつゞけているのだと思います。東京に来て東京女子大を卒業してからもぐずぐずして油絵をはじめたのは廿七位でした。その頃西荻窪に住んでおりましたが、その秋色のきれいなのに感動して、はじめて絵を描いてみたいなあと思い、誰にも教えられないのですけれど、自分でこつそり水彩画を描きました。とても恥かしがりやでしたから、描いても絶対に人にはみせないのです。そのうちに、何ということなしに油絵が描いてみたくなり、文房堂に絵具を買いに行つたのですが、自分が描くのだとは恥かしくていえない。子供用の油絵具を下さいといつて、買つたのですけれど、油壷をどこへ置くのかも分らないというようなわけでした。エカキになろうなどという考えは毛頭なく、たゞ始めは自然の中で勝手にたわむれているような気持だけでした。それでどこにも習いに行こうなどとは思いませんでした。(中略) こんなわけで私のかき出した動機は、むさし野の自然だつたように思います。
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小川マリ子は、その後、知りあいを通じて小島善太郎に油絵を習うことになる。小島善太郎が、南多摩郡加住村(現・八王子市舟木町)にアトリエをかまえていた時代だろう。
3人のなかで、やはり三岸節子の出発点が意志的で、確とした主体性に裏打ちされていると感じる。佐伯米子は、どちらかというと(城)下町の教養が出発点で、あとは連れ合い(夫)しだいだった様子が透けて見えるようだ。もし、夫が文学者だったら、彼女は時代の証言者的なエッセイストになったのではないか……と思えるような文章(おもに明治から大正期の銀座・東京風景など)を、あちらこちらに残している。小川マリ子は、絵を描きたいとひそかに思う女子がいれば、誰もがたどりそうな道筋で画家になっており、「婦人之友」の読者にはもっとも近しい存在といえるだろうか。「婦人之友」編集部では読者に向け、うまく“バランス”のよい人選をしているように思える。
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小川――私は北海道の荒地そだちで全く美術などとは縁の遠い生活だつたのですけれど、たゞ自然の中に育ちましたから、自然に対するあこがれを、小さい時から、今も持ちつゞけているのだと思います。東京に来て東京女子大を卒業してからもぐずぐずして油絵をはじめたのは廿七位でした。その頃西荻窪に住んでおりましたが、その秋色のきれいなのに感動して、はじめて絵を描いてみたいなあと思い、誰にも教えられないのですけれど、自分でこつそり水彩画を描きました。とても恥かしがりやでしたから、描いても絶対に人にはみせないのです。そのうちに、何ということなしに油絵が描いてみたくなり、文房堂に絵具を買いに行つたのですが、自分が描くのだとは恥かしくていえない。子供用の油絵具を下さいといつて、買つたのですけれど、油壷をどこへ置くのかも分らないというようなわけでした。エカキになろうなどという考えは毛頭なく、たゞ始めは自然の中で勝手にたわむれているような気持だけでした。それでどこにも習いに行こうなどとは思いませんでした。(中略) こんなわけで私のかき出した動機は、むさし野の自然だつたように思います。
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小川マリ子は、その後、知りあいを通じて小島善太郎に油絵を習うことになる。小島善太郎が、南多摩郡加住村(現・八王子市舟木町)にアトリエをかまえていた時代だろう。
3人のなかで、やはり三岸節子の出発点が意志的で、確とした主体性に裏打ちされていると感じる。佐伯米子は、どちらかというと(城)下町の教養が出発点で、あとは連れ合い(夫)しだいだった様子が透けて見えるようだ。もし、夫が文学者だったら、彼女は時代の証言者的なエッセイストになったのではないか……と思えるような文章(おもに明治から大正期の銀座・東京風景など)を、あちらこちらに残している。小川マリ子は、絵を描きたいとひそかに思う女子がいれば、誰もがたどりそうな道筋で画家になっており、「婦人之友」の読者にはもっとも近しい存在といえるだろうか。「婦人之友」編集部では読者に向け、うまく“バランス”のよい人選をしているように思える。



この座談会に、同じ女流画家協会の起ち上げからの会員で、三岸節子の親友でもある藤川栄子が参加していたとしたら、どのような展開になっていただろう。それを想像すると、ちょっとおもしろい情景が浮かんできそうだ。三岸節子が「絵の学校なんかで勉強してちゃダメになるわよ」とか、藤川栄子が「米子さん、あんた、“なんぼでもデッサン”よね」とか、ふたりの強い女性の遠慮会釈のない、いいたい放題の掛けあい対談になり、言葉では太刀打ちできそうもない佐伯米子と、奥手で恥ずかしがりやの小川マリ子は、ほとんど発言する機会がなかったのではないか。w
◆写真上:自由学園明日館の隣りにある、ライト風の窓が目立つ婦人之友社ビル。
◆写真中上:上は、1951年(昭和26)に発行された「婦人之友」6月号の表紙(左)と目次(右)。中は、座談会で司会をつとめた三雲祥之助(左)と佐伯米子(右)。下は、同じく座談会へ参加した小川マリ子。いまだ敗戦から間もないため、写真の印刷画質が非常に悪い。
◆写真中下:上は、1947年(昭和22)ごろ撮影の女流画家協会展の部屋割りを相談する会員たち。中は、同じころ展覧会前に同協会で行われた応募作品に対する審査会の様子。中央の長椅子に座っている森田元子と右隣りには佐伯米子、右端で作品を指し長椅子のアームに腰かけながら文句をいっていそうなのが藤川栄子。下は、フランスの野原で写生をする佐伯米子。
◆写真下:上は、1955年(昭和30)撮影の三雲祥之助と妻の小川マリ子。中は、1934年(昭和9)ごろに撮影されたとみられる大正期の女性画家としては先がけていた甲斐仁代(左)と藤川栄子(右)。下は、1915年(大正4)に撮影された本郷菊坂の女子美術学校における人体デッサンの実技授業。
★おまけ1
1950年代の、時代を彷彿とさせる記事や広告も掲載されている。おそらく表3の記事「商品の知識/粉ミルク」(左)と、表4の「森永ドライミルク」広告(右)はタイアップ企画だろう。わずか5年後、森永乳業の徳島工場で生産されたドライミルクに、工業用の第二燐酸ソーダに含まれた多量のヒ素が混入し、西日本を中心に1万3,000人の乳幼児が中毒症状を発症、うち130人以上が死亡している。いわゆる「森永ヒ素ミルク中毒事件」で、わたしの親たちは決して森永の乳製品を手にしなかったのを憶えている。現在でも、重症の被害者への補償やケアはつづいているようだ。
◆写真中上:上は、1951年(昭和26)に発行された「婦人之友」6月号の表紙(左)と目次(右)。中は、座談会で司会をつとめた三雲祥之助(左)と佐伯米子(右)。下は、同じく座談会へ参加した小川マリ子。いまだ敗戦から間もないため、写真の印刷画質が非常に悪い。
◆写真中下:上は、1947年(昭和22)ごろ撮影の女流画家協会展の部屋割りを相談する会員たち。中は、同じころ展覧会前に同協会で行われた応募作品に対する審査会の様子。中央の長椅子に座っている森田元子と右隣りには佐伯米子、右端で作品を指し長椅子のアームに腰かけながら文句をいっていそうなのが藤川栄子。下は、フランスの野原で写生をする佐伯米子。
◆写真下:上は、1955年(昭和30)撮影の三雲祥之助と妻の小川マリ子。中は、1934年(昭和9)ごろに撮影されたとみられる大正期の女性画家としては先がけていた甲斐仁代(左)と藤川栄子(右)。下は、1915年(大正4)に撮影された本郷菊坂の女子美術学校における人体デッサンの実技授業。
★おまけ1
1950年代の、時代を彷彿とさせる記事や広告も掲載されている。おそらく表3の記事「商品の知識/粉ミルク」(左)と、表4の「森永ドライミルク」広告(右)はタイアップ企画だろう。わずか5年後、森永乳業の徳島工場で生産されたドライミルクに、工業用の第二燐酸ソーダに含まれた多量のヒ素が混入し、西日本を中心に1万3,000人の乳幼児が中毒症状を発症、うち130人以上が死亡している。いわゆる「森永ヒ素ミルク中毒事件」で、わたしの親たちは決して森永の乳製品を手にしなかったのを憶えている。現在でも、重症の被害者への補償やケアはつづいているようだ。

★おまけ2
1950年代の画家の女性ふたりは、このように報道されていた。1959年(昭和34)の新聞記事から。

この記事へのコメント
てんてん
落合道人
年に1回の健康診断しか病院に行かないのですが、おそらく見つかってない
悪いところがありそうです。