大泉黒石宅の周囲をウロつく騎乗の憲兵隊。

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 大泉黒石の転居先の住所が、もうひとつ判明した。1926年(大正15)に長崎町大和田2028番地(現・南長崎1丁目)から、下落合744番地(現・下落合4丁目)へ転居してきたあと、再び山手線の内側へともどり、1932年(昭和7)の時点で記録にみえる、また書籍などでも昭和初期の住所として頻出する高田町鶉山1501番地(現・目白2丁目)、ちょうど目白警察署の裏あたりへもどっているのではないかと考えてきた。
 ところが、1928年(昭和3)現在で高田町雑司ヶ谷679番地にいたことが、1928年(昭和3)に時事通信社から刊行された『時事年鑑 昭和四年版』を見るとわかる。つまり、1926年(大正15)9月に下落合744番地へ転居してきた大泉一家は、ほんの2年ほど暮らしただけで、以前から住んでいた高田町へ再びもどっていることになる。雑司ヶ谷679番地は、法明寺威光稲荷のすぐ北側で、本立寺との間に位置する現在の南池袋2丁目19番地あたりだ。当時は、雑司ヶ谷の市街地から北へと伸びる、田畑をつぶした新興住宅地だったろう。ほとんど数年に一度、短いところでは6ヶ月で転居するという、大泉黒石は聞きしにまさる引っ越し魔だ。
 1921年(大正10)に東京帝大近くの本郷から、高田町雑司ヶ谷442番地に転居して以来、関東大震災をはさみ長崎村五郎窪→長崎町大和田→落合町下落合、そして再び高田町雑司ヶ谷679番地と、6~7年ぶりに雑司ヶ谷地域にもどっていることになる。大泉黒石が、雑司ヶ谷地域に親近感をおぼえるのは、彼が親しみをこめて「雨ノ雀(あまのじゃく)さん」と呼んだ秋田雨雀をはじめ、友人知人が多く住んでいたせいもあるのだろう。
 大泉黒石は、雑司ヶ谷鬼子母神(きしもじん)の境内のすぐ北側にあたる、雑司ヶ谷22番地に住んでいた秋田雨雀についてこんな表現で書き残している。1972年(昭和47)に桃源社から出版された、大泉黒石『人間廃業』(初出は文禄社の同書で1926年)から引用してみよう。
  
 雑司ヶ谷の雨の雀(あまのじゃく)さんみたいに、田舎娘の足袋地にする縞目の荒い(ママ:粗い)コールテンの袋をかぶった大正詩人の風態を見ると、日本だから構わんようなものの、毛唐の巡査に言わせたら、本署まで来いだろうと思ったことがある。(カッコ内引用者註)
  
 黒石が雑司ヶ谷にもどったころ、秋田雨雀は日本社会主義同盟に加わる社会主義者、エスペランティスト、国際文化研究所の所長、小説家、詩人、劇作家、童話作家など、さまざまな顔をもつ雑司ヶ谷地域の文化をになう中心的な位置にいただろう。ついでに、街の“顔役”的な存在として、地元・雑司ヶ谷町会の副会長もつとめている。ときの政府に異議・反対を唱える社会運動家が、町会の幹部をつとめるなど、戦後はともかく戦前は異例だった。
 それだけ、秋田雨雀は町民からいち目置かれる、あるいは町民を惹きつける魅力のある人物だったとみられる。そういえば以前、秋田雨雀邸から数軒ほど離れた南西隣りの雑司ヶ谷24番地に住み、大正末に『大日本帝国御皇統体系図』(三才社)を出版した江副弘忠をご紹介していた。江副はガチガチの「皇国史観」の持ち主にもかかわらず、親しく秋田雨雀邸へ頻繁に出入りし、1929年(昭和4)に出版した『高田の今昔』(三才社)には序文まで書いてもらっている。
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 さて、少し時代はさかのぼるけれど、黒石が雑司ヶ谷442番地に住んでいたころ、東京地方を中心にマグニチュード7.9の関東大震災が襲った。雑司ヶ谷地域はほとんど被害がなく死者も記録されておらず、住宅の屋根瓦が落ちる程度で済んだようなので、大泉宅もおそらく無事だったのだろう。1923年(大正12)9月1日、震災直後の雑司ヶ谷の様子を1978年(昭和53)に青蛙房から「シリーズ大正っ子」の1冊として出版された、森岩雄『大正・雑司ヶ谷』より引用してみよう。
  
 坂を登ると、町並はだいぶ静かになり、大塚近辺は何事もなかったような感じであった。私は歩きながら、これは喰べものに困ることになりはしないかと直感し、見つけた団子屋に入って持てるだけ団子を仕入れて、護国寺を経て、やっとの思いで雑司ヶ谷の家にたどりついた。この辺は全く平静で、わが家も二階の瓦が二、三枚落ちた程度で何事もなく、やれやれという思いで、皆で団子を喰べた。/ところが夜になると、様子はまるで変わってしまった。雑司ヶ谷から見る東京の空は赤く燃えて四方は炎につつまれていた。これは大変なことになったと思った (後略)
  
 ここでもまた、雑司ヶ谷から東京市街地を眺めたとき、あえて「東京の空」と書いている点が興味深い。裏返せば、大正当時の意識では北豊島郡高田町雑司ヶ谷は「東京の空」ではないということになる。高田町より西側の、落合地域中野地域に住んでいた人たちは、およそ新宿駅東口の伊勢丹デパートあるいは四谷大木戸跡から先を「東京」と意識していたらしいことが記録されているが、雑司ヶ谷ではどこから先を「東京」と呼んでいたのだろうか?
 大震災から数日後、秋田雨雀邸の周囲を、騎乗の憲兵たちがウロついていたのが記録されている。震災直後から、陸軍の憲兵隊による共産主義者や社会主義者、アナキスト、労働運動家たちに対する検束や暴力、恫喝、抑圧がはじまっていた。6歳の橘宗一を含む、大杉栄や伊藤野枝を虐殺した憲兵隊による「大杉事件」や「亀戸事件」が発生したのも同時期のことだ。昭和に入って思想弾圧の中心となる特高は、いまだ存在していない。
 雑司ヶ谷鬼子母神の裏、雨雀邸の周囲をウロついていた憲兵は、なぜか雑司ヶ谷442番地の大泉黒石宅の周辺も騎乗で徘徊しては、「社会主義者」の大泉宅はどこかを探して聞きこみしている。大泉黒石が「社会主義者」だったとは、大正の当時もいまも初耳だが、このひと言で憲兵隊では彼の著作などロクに調べても読んでもおらず、政府の意向に反するような言葉を記した人物は、すべて大雑把に「社会主義者」か「無政府主義者」と規定していたらしいことがわかる。戦前の、資本主義の政治思想基盤である自由主義や民主主義を口にしただけで、「アカ」と呼ばれた状況にとてもよく似ている。このような連中の姿に、大日本帝国をわずか77(ひちじゅうひち)年で滅亡に追いこんだ、「亡国」論者の原型が透けて見えるようだ。
 震災直後に見られた大泉宅の様子を、桃源社版(1972年)の『人間廃業』から引用してみよう。
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 かくて僕のために只一ツあるものは、(震災時に)日本政府がくれる消化不良の玄米と、一と口で恐れ入る鯨の缶詰のまえに兜をぬがざるを得ざるの止むなきに到った空腹にすぎないまでた。贅沢だと云うなら一ツ如何です? とは云うものの、とは云うもののだ。よござんすか? あの痛快な露西亜革命のみぎり、国外へ逃げそこなった僕の同業者のレオニド・アンドレエフやアルツィンバシェフなどが、一切のパンをつくるために憂身をやつして麦粉を探し廻った実際から見れば、楽も大楽だ。そのアンドレエフみたいに兵隊から附狙われる心配もない。もっとも、あの奇怪なるアナアキスト夫婦が殺されようとするとき、「この村に、こう云う社会主義者が居る筈だが、家はどこか?」と尋ねて村の駐在所へやって来た騎兵大尉どもがあることはあった。騎兵大尉どもは、この一篇を読んで大いに悟れ! 折角その素敵にいい頭で判断して、本人の僕には一言のことわりもなく社会主義者にしたのだろう。(カッコ内引用者註)
  
 文中の登場するレオニド・アンドレーエフとミハイル・アルツィバーシェフは、1905年のロシア第一次革命時代に執筆していた作家たちだ。
 「よござんすか?」と、噛んで含めるように「素敵にいい頭」(大べらぼー)の憲兵たちへ、ちゃんと日本語を読解しているのかと「騎兵大尉ども」へいい聞かせる、大泉黒石の文章は同作のなかでは白眉の調子で痛烈だ。だが、意外なことに憲兵隊を引きあげさせたのは、雑司ヶ谷にある高田警察署の駐在所にいた「Kという」巡査だった。黒石はその経緯を、彼を心配してやってきた毎夕新聞の記者から聞いて知った。駐在所の警官は、「大泉さんは、この際そんな活躍するような文学者ではありません」と憲兵隊に告げて引きとらせていた。そして、あとで心配になったのか、K巡査は大泉宅に寄って「例の騎兵だか憲兵だか此の四五日、お宅のまわりを角袖でブラついているようです」と、こちらも黒石に注意をうながす報告を入れている。昭和に入り、特高が創設されてからの警察とは、ずいぶん印象が異なるのがわかる大正期のエピソードだ。
 『人間廃業』の中で、大泉黒石は震災直後の流言も記録している。それらは、東京市や府内に伝わった流言ではなく、東京近県で流れたウワサ話だ。ひとつは、震災で火事に追われ東京を脱出した学生が、筑波山麓まで逃げてふり返ったところ、「東京全市が水底に沈み去」ったというものだ。水面には、浅草の十二階(凌雲閣)の先がちょっとだけ見えていたというのだが、この学生は方向音痴だったものか霞ヶ浦を水没した東京と見誤ったらしい。
 また、長野県では東京が大地震で壊滅したと聞き、山に登って東の方角を見わたすと、東京は海嘯(つなみ)に襲われて白い波が渦巻いていたというものだ。白い波まで見えたということなので、望遠鏡か双眼鏡を手に山へ登ったとみられるが、おそらく相模湾か東京湾をのぞいて錯覚し、先の学生と同様に水底に沈んでしまったと誤認したのだろう。大泉黒石は、これらの流言に対し「顛倒性も烈しく、ピントも、あまりに狂い過ぎる」と、そのバカバカしさを嘆じている。
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 大震災の混乱のなか、さまざまな人間模様をクールに観察しつづけた大泉黒石は、3年後の1926年(大正15)に出版された同書『人間廃業』でこんなことをいっている。「日本人が幾ら不逞思想の洋服を着て、危険哲学の靴をはいて、舶来の問題に熱中しようと、一と肌脱げば、先祖代々の魂があらわれて、鼻の穴から吹き颪す神風に、思想の提灯も哲学の炬火も、消えてなくなるにきまっているんだから世話はない」。20年後の国家破産と「亡国」を、まるで見透かすような黒石の預言だ。

◆写真上:下落合744番地から転居した、雑司ヶ谷679番地(現・南池袋2丁目)界隈の現状。
◆写真中上は、1926年(大正15)に作成された「高田町北部住宅明細図」に収録の高田町雑司ヶ谷679番地界隈。は、雑司ヶ谷679番地の北側に位置する本立寺の門前。は、雑司ヶ谷679番地の南側にあたる法明寺の本堂。
◆写真中下は、1926年(大正15)作成の「高田町住宅明細図」に記載された雑司ヶ谷442番地界隈。は、雑司ヶ谷442番地界隈の現状(道路左手)で、正面の緑地は雑司ヶ谷公園こども広場。下左は、1972年(昭和47)に出版された大泉黒石『人間廃業』(桃源社)。下右は、1978年(昭和53)に出版された森岩雄『大正・雑司ヶ谷』(青蛙房)。
◆写真下は、1923年9月1日に雑司ヶ谷から撮られた関東大震災による東京市街地の大火災積雲(AI着色)。は、学生時代に撮影された大泉黒石(同)。 は、小平霊園に眠る大泉黒石の墓碑
おまけ
 都バスの停留所「鬼子母神前」で、とてもおかしな表記を見つけた。鬼子母神は、江戸東京の地元の方なら「きしもじん」と発音するのは自明のことだが、なぜか都バスや都営地下鉄の交通機関に限り、どこの発音だか知らないが訛って「きしぼじん」と呼称し、またそのように不可解なルビがふられている。ローマ字表記も、「Kishibojin」と、地域性が不明なルビになっている。ところが、ローマ字に併記されているハングル文字は、ちゃんと正しく「키시모진(きしもじん)」とふられており、「기시보진(きしぼじん)」などというおかしな名称にはなっていない。「きしぼじん」などという神は、この世に存在しない。東京メトロ豊島区の資料類のルビなどは、すべて正しく「きしもじん」となっているが、東京都の表記だけハングル文字が正しく、日本語の発音およびルビやローマ字の表記が誤っていることになる。これって、すごく恥ずかしいことじゃないか?
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この記事へのコメント

  • てんてん

    (。・ω・)ノ゙ Nice‼です♪
    2025年12月10日 21:58
  • 落合道人

    てんてんさん、コメントをありがとうございます。
    うちのネコも、最近は陽が昇って温まるまで「出動」しません。
    2025年12月10日 22:26

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