大泉黒石が饒舌に語る「目白の向こう」。

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 いつだったか、拙ブログで笙野頼子の『下落合の向こう』(文藝春秋/1994年)について記事にしたことがある。きょうは、大泉黒石が描く「目白の向こう」あるいは「目白の奥」について書いてみたい。黒石がいう「目白」とは目白駅のことで、「向こう」や「奥」は駅の外側という意味あいを含んでいる。彼は「目白の向こう」へ転居する直前、高田町雑司ヶ谷442番地に住んでいたため、その西にある目白駅のさらに向こうという意味で、そう表現したのだろう。
 大泉黒石が、関東大震災後の1924年(大正13)に雑司ヶ谷から「目白の奥」へと転居した当時、地名としての「目白」は彼が住んでいた雑司ヶ谷から南東の方角だったはずだ。したがって「目白(駅)の向こう」とは、高田町雑司ヶ谷旭出(ほぼ現・目白3~4丁目)か長崎村(1926年より長崎町)、落合町のいずれかの地域にあたる。その詳細が記されているのは、1926年(大正15)に文録社から出版された大泉黒石『人間廃業』だ。大泉黒石は、笙野頼子の象徴的あるいは幻想的な「向こう」ではなく、きわめて具象的な風景を記録している。黒石と家族が雑司ヶ谷から転居した先は、長崎村五郎窪4213番地で茶畑のなかに建っていた「震災長屋」だった。
 震災長屋とは、関東大震災で被災した東京市街地に住んでいた住民が、大挙して東京郊外へ避難してきたため、特に山手線の西側沿いが慢性的な住宅不足に陥り、郊外の地主たちが畑地などに大急ぎで建てた臨時的な長屋建築のことだ。いま風にいえば、有料の避難住宅といったところだろうか。1924年(大正13)というと、東京市街はいまだ焼け跡だらけであり、あちこちが工事中で復興事業にようやく取りかかりはじめたばかりのころだ。黒石は、周囲を茶畑(狭山茶)に囲まれた「目白の奥なる震災長屋の一つ」を、「茶中館」と名づけている。
 黒石は当時、映画や出版などの仕事で収入はそこそこあったとみられるが、震災後、あえて家賃節約のために安い長屋へ引っ越したのだろう。長屋の環境を、『人間廃業』から引用してみよう。
  
 見つけた家は、以前の古巣に近い目白の奥の武蔵ヶ原の一角だ。(中略) 暫く見ぬまに、スッカリ(森が)切りまくられた上に、べた一(いち)めん立ち列んでいる家の雛型みたいな小っぽけな屋体骨(ママ)の天井を、肩で担ぐような具合いに、ズラリと端座った先駆者がいるんだから早いもんだ。(中略) おまけに何処もそろって表札を出していないから妙だが、こんな函の中に蟄居するくらいの身分だから、表札に書いてお目にかけるような尋常の名まえもないんだろう。また斯んな風に丸くなって端座って居れば、主人の顔なんざ、そとから丸見えに見えるから、表札には及ばないのかも知れないと思いながら、月二十円で、取り敢ず中の一軒を借りることにした。(カッコ内引用者註)
  
 「一国の文士」が、20円の長屋住まいとはみっともないと誰かがいったようだが、これはふだんから口グセのように「一国の文士」という言葉を聞かされていた、美代夫人の皮肉なのだろう。後述するが、すっかり東京方言の(城)下町言葉が板についた夫人の啖呵が面白い。
 新居は長屋形式なので、屋根つづきでもあるが庭つづきでもある。物干しの竹竿にかけている、よその亭主の褌(ふんどし)と別の奥さんの腰巻がからみあったり、息子のシャツとよその娘の襦袢(じゅばん)が仲よく「ダンス」を踊ってたりするような庭先だった。また、「お宅の縁側に日があたっているから」と、大泉宅の縁側や庭先によその家の布団が干されたりした。困るのは、その布団が不潔だったものかシラミが大泉家に移り、一家の衛生を悩ませることになった。ところが、長屋の住民たちは「痒いのも汚いのも」およそ平気で、特に気にしている様子はなかった。
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 この五郎窪の長屋近くに、もう1軒の「大泉さん」が住んでいた。こちらの「大泉さん」はおカネ持ちで、大屋敷をかまえていたらしく、日本橋兜町で株売買の仕事をしている“顔役”だという話だった。花崗岩の立派な門柱で、母家はその奥深くにあり、ときどき門からでた自家用車が「俺ンチの前」をスピードを落とさず走りぬけていった。
 大正期にクルマを所有しているほどだから、大ガネ持ちの「大泉さん」だったのだろう。クルマが長屋の前を通るたびに、大泉家は土ぼこりと排気ガスに悩まされ、「コン畜生」と腹を立てている。東京市街地へ向かう「大泉さん」のクルマが走る先は、満足に整備されていなかった西部の目白通りではなく、ダット乗合自動車以前に旭組乗合自動車が走りはじめ、簡易舗装がなされていたとみられる長崎バス通り(大和田通り)のほうではなかったか。
 ちなみに、このおカネ持ちの「大泉さん」の大屋敷を、1925年(大正14)4月11日に作成された「出前地図(西部版)」(下落合及長崎一部案内図)で探してみたけれど、残念ながら同地図は長崎村五郎窪4173番地の西端で途切れており、4213番地は記載されていなかった。
 おカネ持ち「大泉さん」の屋敷を、大泉黒石の家だと思って訪ねる出版人や映画人が多かったらしく、屋敷の者から「クロイシなんて大泉は知らないよ!」と、かなりの権幕で怒られ門から摘みだされる事態が多発していた。郵便の誤配も多く、ある日、黒石の家に「大泉さん」あての封筒がまちがって配達されたので、ふだんからムカつく「大泉さん」だったからか、腹立ちまぎれについ開封してしまった。すると、中身は「帝国旅館舞踏夜会」の案内状と招待券だった。帝国ホテルの舞踏夜会で、大泉黒石は日ごろの「大泉さん」への鬱憤を晴らそうと出かけていく。そこで映画女優と出会い、「おや、先生じゃございませんか?」と声をかけられ、ていねいに礼をいわれてしまう。そもそも、この映画女優とは知りあいでなかった黒石は、誰かが自分の名前を騙って映評を書き、この女優の演技を褒めそやしているらしいことを知った。
 こうして、帝国ホテルにおける舞踏夜会のひょんなキッカケから、誰かが自分の名前を勝手につかい、詐欺まがいの原稿を書いていることがわかった。その犯人はすぐに判明するのだけれど、その過程で自分の名前が映画の出演者にまで勝手につかわれていたことも知る。役柄は鞍馬の烏天狗で、天狗面を終始つけたままの出演だから誰が演じているのかわからず、映画の話題づくりのためキャストに「大泉黒石」と断りもなく入れられていた。
 怒り心頭に発した黒石は、さっそく目白通りを東へ歩き雑司ヶ谷の鬼子母神前から王子電気軌道に乗ると、滝野川にある「日本芸術映画撮影所」へ抗議に出かけた。そして、ただちに烏天狗のキャストから自分の名前を削除するよう監督に申し入れると、さっさと自宅に引きあげている。ところが、撮影所から出演料を支払うという伝言が、追いかけて自宅にとどいた。一連の経緯を聞いた美代夫人は、これまた怒り心頭に発して大泉黒石に噛みついている。美代夫人は、連れ合いが徐々に「金持ちでなくなって」くると、「踏み台か座布団ぐらい」にしか扱わなくなっていたらしい。
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 一国の文士というのが一番情けないのさ。ほんとうですよ。一国だか万国だか知りませんが、あなたみたいな文士なんか、世間の方で人間の数に入れちゃいますまい。その証拠には、それ、わたしの眼玉を御覧なさい。天狗に名前を貸すと、幾らかしら、謝金が貰えると聞いて、こんなにおどろいているじゃありませんか? わたしが、会社の重役か局長さんの奥様であったら、こんなに驚くでしょうか? というんですよ。そうでしょう? それほど文士の奥さんに貧乏させる世間に対して、名誉の外聞のとありもしない見栄をはる義理が、何処にござんすか? そんなことはみんな会社の重役か、局長さんのなさることさ。馬鹿らしい。この節の案山子と、あなたの名前なんか、雀の脅かしにもなりませんやね。それでも欲しいと仰有るかたが、おいでなさるんだから案山子が雀を生捕ったよりゃ、剛勢奇特と思って、ドシドシ貸して上げなくちゃならないのに、坊っちゃんや若旦那じゃあるまいし、苦労も貧乏も、来世の分まで腹一ぱいして来たくせに、それしきのことに煮え切らないようでは心細い話さ。いいから承知しましたと活発に仰有いよ。
  
 美代夫人は、長崎の旧家・造り酒屋の娘で大泉黒石とは幼馴染みだが、彼の三高時代に京都で再会し、東京へ転居後の一高時代に「おい、来たよ」と彼を追いかけてきて結婚している。だから、彼の人間性や性格は知りぬいているはずだった。
 それにしても、夫に対する啖呵が小気味よい。どこで馴染んだのか、東京方言の(城)下町言葉に「ざんす」など、“お上さま”口調をまじえながら、夫に面と向かって自身の想いをシャキシャキと叩きつけている。まるで、新派の科白を聞いているようだ。結局、黒石も芝居がかったか「仕方がない。承知すらァ」としぶしぶ同意し、最後には「俺の負け」を認めている。
 『人間廃業』には、面白いエピソードも記録されている。黒石は「武蔵野線」と書いているが、もちろん当時の武蔵野鉄道(現・西武池袋線)のことだ。これほどの「事故」(事件?)であれば、およそ新聞ダネにもなっているのではないか。『人間廃業』から、つづけて引用してみよう。
  
 武蔵野線の村で祭りがあったから見に行ったことがある。汽車(ママ)が練馬を出かかるとビールを一ダースほどブラ下げた百姓が、大分遠方から手を振り乍(なが)ら、待った待ったをやると、汽車が止った。すると乗合の若い衆どもが、この調子で何時も汽車がおくれるのだ。あんまりダラシがなさすぎると憤慨して、ワッショワッショと左右に汽車をゆすると田甫の中へひっくり返った。満員だから一人も怪我はなかったが、一緒にころげ落ちた俺は、もう二度と再びこんな汽車には乗らないと思った。(カッコ内引用者註)
  
 武蔵野鉄道が、いまだ貨物用の軽便鉄道の面影を残していたころの「事故」だろう。ビールを手に「汽車」を停めて乗りこもうとしていたのは、祭りへ参加しようとする練馬の農民たちだった。彼らが、停車場でないところで勝手に「汽車」を停めて乗りこみ、いつも時刻を遅らせることに憤慨していた車内の「若い衆」は、当時は小さかった車両をゆすって脱線・横転させ、彼らを乗せまいとひと泡吹かせたことになる。軽便鉄道あがりの武蔵野鉄道は、当時、客車も小型で「満員」といっても乗客の数は知れていたものか、ケガ人が出るほどの事故にならなかったようだ。
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 大泉黒石は、長崎村五郎窪4213番地(現・南長崎4丁目)の家から、1926年(大正15)に同村大和田2028番地(現・南長崎1丁目)へ移るが、そこにはきわめて短期間しか住まず、同年9月には下落合744番地(現・下落合4丁目)へとやってくる。この住所は、下落合735番地のすぐ隣りの敷地であり、上落合186番地のアトリエを含む住宅をリニューアル中だった、村山知義・村山籌子夫妻が一時的にアトリエをかまえていた区画に隣接した位置だ。大泉黒石の転居は、時期的にも村山夫妻の下落合への転居とピッタリ重なるので、ひょっとすると隣人同士だった可能性もありそうだ。

◆写真上:長崎村五郎窪4213番地の、震災長屋があったあたりの現状。(以下の古写真はAI着色)
◆写真中上は、1923年(大正12)9月に高田町(現・目白/雑司ヶ谷地域)から関東大震災で起きた東京市街地の大火災を望む。は、昭和初期に撮影された大和田通り(長崎バス通り)。は、1931年(昭和6)撮影の大和田通りに開店していた小西酒店。
◆写真中下は、昭和初期に撮影された長崎町の千川通りを走る自家用車とみられるクルマ。は、1931年(昭和6)撮影の大正期から営業をつづける映画館「洛西館」(のち目白松竹館)。は、1931年(昭和6)に撮影された大和田通りで営業していた米店。
◆写真下は、旭組乗合自動車のあとを継ぐように1926年(大正15)に営業を開始した長崎町のダット乗合自動車営業所。は、武蔵野鉄道が軽便鉄道時代に撮影された貨車を牽引する小型の蒸気機関車。は、武蔵野鉄道の電化が進むなか1924年(大正13)に撮影された電車。

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