大磯の小淘綾ノ浜に立つ黙阿弥と松本順。

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 わたしは親父の趣味のひとつだったせいか、歌舞伎座と国立劇場でずいぶん芝居(歌舞伎)を観ている。親父が、フグ毒に当たって死んだ8代目・坂東三津五郎と交流があったせいもあるのだろうが、もの心つくころから多くの芝居には連れていかれた。
 当時の舞台には梅幸や松緑、歌右衛門、勘三郎、羽左衛門、団十郎、仁左衛門、三津五郎と養子の玉三郎など、それこそ昭和の名優たちがキラ星のごとく現役で活躍しており、新派落語界と同様に、なにを観ても(聴いても)一流の芸が堪能できていた時代だった。もちろん、わたしは子どもだから、ろくすっぽ芝居の知識も教養もなく、漫然とそれらの舞台を眺めていただけで、明治座新橋演舞場の“大人の事情”ばかりがあらすじの新派にいたっては、午睡するのが決まりのようになっていた。けれども、芝居は舞台の色彩や仕掛けが面白いし、特に子どもでもわかるような筋や所作がある世話物は、眠くならずに観つづけることができた。
 数多く観た芝居の中で、もっとも多く観賞した演目はまちがいなく世話物、それも大江戸が舞台の河竹黙阿弥の作品だったろう。世話物は、子どもにもわかりやすいということで、あえて親は黙阿弥の作品を多めに選んで連れていってくれたのかもしれない。それに、黙阿弥の芝居にはあちこちに、現代までつながる江戸東京の匂いがプンプンしていた。
 中学生になってからは、親と連れだって舞台を観るということも徐々に少なくなり、高校時代には芝居ではなく、畑ちがいの文学座杉村春子の舞台(『女の一生』)を、いっしょに観にいったのが最後だったろうか。いまから思えば、親父とともに芝居に出かけ、戦前からつづくその膨大な知識や資料を受け継がなかったのが悔やまれてならない。
 拙ブログでは江戸東京の名所や、そこで起きたエピソードなどを記述する際、芝居や新派の舞台作品も同時にご紹介する記事を多く書いてきたが、これまでもっとも多く取りあげてきたのが河竹新七(黙阿弥)の作品だったろう。ちょっと振り返って、それらの記事を列挙してみると……。
 ◎音曲や楽器をめぐる東京怪談。=『加賀見山再岩藤』
 ◎桜餅めざして隅田川を芝居散歩。=『極附幡随長兵衛』『都鳥廓白波』
 ◎目黒鬼子母神の正岡と大塚山の墳丘。=『実録先代萩』
 ◎四谷見附のヒソヒソ話は聞こえるか?=『四千両小判梅葉』
 ◎大の芝居好きな刑部人と金山平三。=『青砥稿花紅彩画』『八幡祭小望月賑』
 ◎だらだら芝神明の熱い大喧嘩。=『神明恵和合取組』
 ◎「線道」をつけてもらえばよかった。=常磐津舞踊『戻橋』
 ◎蕎麦いらぬ「うなぎ」入谷の鬼子母神。=『天衣紛上野初花』
 ◎めぐみ深川情け有馬の水天宮。=『水天宮利生深川』
 ◎浜町河岸で激昂したお梅姐さん。=『月梅薫朧夜』
 ◎江戸の「広場」としての不忍池。=『黒手組曲輪達引』
 ◎怪しさ漂う大江戸のお茶の水・水道橋。=『吉様参由縁音信』
 ◎江戸東京で物語が最多の両国橋。=『舟打込橋間白浪』
 ◎新吉原の「お上がりなさいませ!」。=『籠釣瓶花街酔醒』
 ◎江戸幕府を鎌倉幕府へ仕立てなおし。=『船打込橋間白浪』『青砥稿花紅彩画』
 ◎隆慶橋は東詰めの「おきゃがれ」。=『黄門記童幼講釈』
 ◎キット、♪ぼくは悲しい受験生~。=『盲長屋梅加賀鳶』
 ◎約束の刻限に野を越え山越えて?=『四千両小判梅葉』
 ◎高橋お伝の弁護をしよう。=『綴合於伝仮名書』
 ◎日暮しに男女のいろは沈む谷中。=『日月星享和政談』
 ◎下落合と六本木を結ぶもの。=『四十七刻忠箭計』
 ◎娑婆と冥土の別れ道・深川ゑんま堂。=『梅雨小袖昔八丈』
 ◎ざまぁ見やがれ永代橋。=『梅雨小袖昔八丈』
 ◎永代橋の崩落からもうすぐ200年。=『八幡祭小望月賑』
 ◎こいつぁ春から縁起がいいわえ。=『三人吉三巴白浪』
 上掲の記事は、わたしがザッと思い返した河竹黙阿弥の芝居について触れたものだが、実際にはもっと数多くの記事で彼やその作品については書いている。たとえば、神田上水蛍狩りや茶番劇にからめた『花暦八笑人』などにも、若き時代の黙阿弥は登場していた。また、黙阿弥の作品以外に取りあげた芝居や新派の舞台にいたっては、おそらく上記の数倍になるだろう。
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 ちょっと余談だけれど、黙阿弥が作品につけた題目は、一部の時代物や舞踊などを除き、それぞれ独特な読み方をするものがほとんどだ。たとえば、「鼠小僧」の『鼠小紋東君新形』は「ねずみこもん・はるのしんがた」、「河内山」の『天衣紛上野初花』は「くもにまごう・うえののはつはな」、「め組の喧嘩」の『神明恵和合取組』は「かみのめぐみ・わごうのとりくみ」、「湯灌場吉三」の『吉様参由縁音信』は「きちさままいる・ゆかりのおとずれ」という具合だ。大江戸の武家はもちろん、漢字の連なる芝居のタイトルを庶民たちも容易に、あるいはなんとか読みこなせていたということだ。つまり、それだけ読み書き=識字率が高く教育が普及していたことになる。これは、同時代の海外の都市には見られない、この街ならではの大きな特徴だろう。
 河竹黙阿弥(本名:吉村芳三郎)は、1816年(文化13)に日本橋の式部小路で生まれている。実家は、湯屋(銭湯)の株を売買する越前屋という店(たな)だった。現在の日本橋2丁目7番地あたり、ちょうど高島屋と日本橋タワーにはさまれた道筋のことで、この路地は現存している。わたしの東日本橋にあった実家から、1,800mほど南西に位置する京橋との境も近い位置だ。
 さて、大江戸の街中で起きた事件や出来事、逸話などを芝居に仕立てる、幕末から明治にかけて活躍した狂言作者の代表のような河竹黙阿弥(2代目・河竹新七)だが、薩長政府は大江戸の(母国である日本の)歌舞伎についてまったく無知なことから、アタマが西洋かぶれした明治政府の役人たちは、狂言作者をヨーロッパ演劇の脚本家と同列の存在だという、救いようのない錯誤をしてしまった。ここから、明治期における黙阿弥の悲劇(苦難)がはじまる。
 狂言作者とは、もちろん作品を書く脚本家・原作者でもあるが、芝居の稽古を進行するディレクターであり、舞台全体の点検・指揮をするプロデューサーであり、役者・舞台装置・音曲などを密に連携させるディレクターであり、音曲や拍子木と幕の開閉のきっかけを指示する指揮者でもあった。要するに、創作者+舞台監督+進行ディレクターを兼ねた芝居全体をつかさどるカナメ、いま風にいえばエグゼクティブ・ディレクターのことだ。それを、日本の演劇に無知な薩長役人たちが、西洋演劇における脚本家と同じだと規定し、政府の思想宣伝のために台本や舞台へ口出しをするようになってから、自国の重要な伝統文化のひとつが滅びる寸前まで追いつめられていく。
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 まず、歌舞伎の舞台へ明治の風俗を無理やり当てはめた、まるで新派のような「散切(ざんぎり)物」を強制するようになる。しかも、洋装の役者たちが台詞まわりだけは歌舞伎の口調のままだから、世にも不思議で珍妙な芝居となった。それだけならまだしも、「皇国史観」「忠君愛国」のような思想を無理やり芝居(新時代物)の筋に盛りこみ、あるいは中国や朝鮮半島の儒教思想をそのまま持ちこんだ、サルマネ「修身」のような筋立てを押しつけるなど、薩長政府による江戸文化・芸能(ひいては日本文化)の破壊が急速に進行していく。芝居の観客も、政府の介入で限られた人々のみとされ、上流階級だけが観賞できる仕組みへと変えられていった。もちろん、江戸東京に数ある芝居連の市民たちは離れ、黙阿弥は引退を意識するようになる。
 結果からいえば、薩長政府がやっきになって強要した芝居は全滅し、黙阿弥が明治期でもかろうじて書けた「世話物」(おもに江戸期を舞台にした作品)のみが、現代でも歌舞伎座や国立劇場で上演されている。もし、日本文化に無知な薩長政府の役人が「散切物」など強制せず、黙阿弥が思いどおりの作品を書きつづけ、想像どおりの舞台を演出できていたとすれば、あとどれほどの傑作や名作が生まれていたかと思うと悔やんでも悔やみきれない。薩長政府の「国家神道」化による日本の膨大な「神殺し」に次ぐ、自国のかけがえのない「文化つぶし」の一環だ。それほど、河竹黙阿弥というクリエイターは、江戸から明治にかけての卓越した存在だった。
 ところで、黙阿弥は早稲田に大規模な蘭疇医院を開業した、日本初の西洋医・松本順(江戸期は松本良順)とも親しかったようだ。蘭疇医院が開業する際、旧・幕臣から芝居の役者、市民たちまでがこぞって早稲田へ押しかけたなかに、黙阿弥もいたのだろう。松本順は、江戸期から「将軍様でも役者でも病人は同じじゃねえか」と、黙阿弥にはおなじみの(城)下町言葉で周囲に公言してはばからず、幕末の喧騒のなかで徳川将軍から庶民にいたるまで診察した特異な西洋医なので、黙阿弥もことさら親しみをおぼえたのだろう。まるで、明治以降に「万民平等」を掲げた自由民権運動の活動家のような言葉だが、彼の周囲に咎めるものはもはやいなかった。
 黙阿弥は結局、狂言作者を引退できなかった1890年(明治23)の晩年(75歳)、薩長政府の検閲の眼が光るなか、「散切物」のかたちを踏襲しながらも、曾我十郎・五郎の対面の場を描いた清元の所作事、『名大磯湯場対面』(なにおおいそ・ゆばのたいめん)を書きあげている。この舞台は、松本順が推奨した日本初の大磯海水浴場と保養別荘地としての大磯を、せいいっぱい世の中に広報・宣伝するものとなっていた。そして、セリフにはなんと松本順当人も登場している。
  
 /\名に負うここは早稲田の殿様、松本様のお見立てゆえ、第一空気がいい上に、今度の主人は如才なく、取扱いが届くから、海水浴はどこよりも、濤龍館が繁昌だ。(『名大磯湯場対面』)
  
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 それ以前にも、黙阿弥は松本順から芝居のヒントをもらい、1887年(明治20)に市川團十郎が家康を演じる『関原神葵葉』(せきがはら・かみのあおいば)を書いている。晩年は、うしろ立てに松本順がついていたようで、少しは薩長政府の圧力が弱まっていたのかもしれない。別の見方をすれば、薩長政府による歌舞伎の破壊へ抵抗するために、松本順がひと役買っていたようにも見える。

◆写真上:地下鉄東西線・落合駅から、西へ350mほどの源通寺にある河竹黙阿弥の墓(右側)。源通寺は、1908年(明治41)に浅草から上高田へと移転してきた。
◆写真中上は、散歩でお参りできる墓所の源通寺。は、『夜討曾我狩場曙』(ようちそが・かりばのあけぼの)の舞台で曾我五郎が2代目・尾上松緑(左)と十郎が3代目・市川左団次(右)。下左は、1993年(平成5)出版の河竹登志夫『黙阿弥』(文藝春秋)。下右は、明治に入ってしばらくすると隠居したはずなのに芝居の台本依頼が途切れなかった河竹黙阿弥。
◆写真中下は、1881年(明治14)に周重が描く『夜討曾我狩場曙』。は、1890年(明治23)に3代・国貞が描く『名大磯湯場対面』。は、同年に国芳が描く『名大磯湯場対面』。同作は「散切物」なので国貞がリアルだが、国芳はあえて江戸の風俗で描いている。
◆写真下は、松本順の大磯別荘跡。は、1893年(明治26)制作の小国政『大磯海水浴場富士遠景図』。は、黙阿弥も歌舞伎役者たちもそろって眺めた大磯の小淘綾ノ浜(こゆるぎのはま)。
追記
 1926年(大正15)の夏に撮影された別荘地・大磯で、旧・東海道沿いにつづく街並み。(AI着色) 佐伯祐三・米子夫妻が滞在した別荘は、左手の街並みを少し左(北側)へ入った東海道線沿いの敷地にあった。街並みの背後には、湘南平(千畳敷山)へとつづく高麗山がうっすらと見えている。下の写真は、安田善次郎の別荘がある王城山の中腹並びに建てられた、湘南平へと向かう山道の右手にある大きな加山又造アトリエの門。周囲の丘陵一帯は、大小の古墳群だらけだ。
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おまけ
 最近、AIエンジンで古い写真の人物を動かしてみるのに凝っていて、いろいろ昔のアルバムを引っぱり出しては試している。下の動画は、明治生まれのうちの義祖母(ばあ)さんを、ややおきゃんな感じで動かしてみた。左側にチラリと写っているのは、おそらく連れ合いの母親だろう。

この記事へのコメント

  • てんてん

    (。・ω・)ノ゙ Nice‼です♪
    2025年12月28日 22:26
  • 落合道人

    てんてんさん、コメントをありがとうございます。
    暮れから正月にかけては、西日本が低温の予想だとか。くれぐれも
    ご自愛ください。
    2025年12月29日 10:06

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