Weblogスタートから22年めを迎えて。

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 この20年ほどの間でICTの進化により、ほんの数秒で地球の裏側にある街をモニターで“散策”することもできれば、ほんの数分前に起きた出来事を、たちどころに知ることができるようになった。この世界、いや地球全体に対する認識は、年を追うごとに狭くなっているような感覚をおぼえる。大量の情報が交叉し、欲しいと思う情報は瞬時に手に入れられる。
 わたしたちの視界は、従来とは比較にならないほど広大な拡がりを手に入れ、いままで見えなかったものまでが容易に見えるようになった――と意識し感じることが多いのだが、はたしてほんとうにそうだろうか? 手近な例でいえば、いままでは地下鉄・東西線で竹橋まで出かけなければ見られなかった国会図書館の古い資料や、同・日比谷線の広尾駅を降りて訪ねなければならなかった東京中央図書館の貴重な資料が、自宅に居ながらにして閲覧することができる。資料類もそれが稀少本でない限り、ネットで予約すれば最寄りの図書館へとどく。昔日の映像作品も、従来は上映機会を見逃さずに劇場か映画イベントへ足を運ばなければならなかったものが、映画アーカイブによる公開でたやすく自宅で鑑賞できるようになった。
 発掘された2万年前の旧石器が見たければ、時間をおかず発掘時のレポートや論文とともに画像を目にすることができるし、100年前に帝国議会で演説した政治家の速記原稿はたちどころに入手でき、自分が住んでいる区の天気予報は1時間単位で知ることができるし、気に入った飲食店の料理はデリバリーで手軽に自宅で味わうことができ、鉄道や航空機、芝居、コンサート、映画などあらゆるチケットは、その気になれば数分で予約することができる。わざわざ旅行へでるのが面倒ならば、国内はおろか世界じゅうの観光地をVRツアーでたどることだって可能だ。その気にさえなれば、わたしたちはICT(最近では量子コンピューティング+AIが主題)の力で、それこそ近未来にはなんでもできてしまうような万能感にとらわれがちだ。
 でも、ほんとうのところはどうなのだろうか? 自分が依って立つ地面、自身の位置や足もとはちゃんと見えているのだろうか。大量の情報に流され、端末にとどく自分にとってまったく必要のないデータに振りまわされ、膨大な時間を浪費しているのではないか。従来、手がけていた定型のデスクワークが、プロセスマイニングで効率化されRPA(S/Wロボット)で省力化されて、はたして生じた余暇をそのぶんに見あう「創造的な仕事」に振り向けているのだろうか? 実は、かえって不要な情報の氾濫やデータ漬けに右往左往し、かつてM.エンデが「灰色の男たち」(『MOMO』)と呼んだ、あつかましい時間ドロボーたちに知らず支配されてやしないだろうか。
 なんとなく上すべりで、底が浅い情報にふだんから接していると、だんだん自分自身の立脚点が危うく感じられるようになってくる気配を感じる。それは、いまにはじまったことではなく、ずいぶん以前から、そう21世紀に入ってから、拙ブログ(2004年)をはじめたころから感じていた、環境の激変にともなう不安感や危機感だったような気がする。当時は、いまのようにネットスピードも速くなく、大量データの輻輳処理もしごく初歩的で遅延があたりまえのように発生し、スマホのような便利なデバイスは存在しなかったけれど、かつてないほど便利で快適な時代を迎えているという期待感や高揚感と同時に、底知れない危うさや、どこにも安住地がないようなフワフワと浮わついた違和感のようなものを抱いたのも事実だ。
 この違和感は、おそらくわたしのアタマがどこまでいっても文系であり、ほんとうは根っからの「アナログ人間」が本質だからなのだろう。そのせいか、自身か感じる不安感あるいはフワフワした違和感や浮遊感(?)が強まれば強まるほど、自分の依って立つ足もとが気になりはじめるようだ。それは、いま自分が住み生活しているこの地域のことであり、いまや神田川の水脈でしかつながらなくなった故郷であり、祖先たちが歩んできたこの土地=城下町について、いったいどれほどのことを知っているのか?……という、やや脅迫めいた焦りの自問につながっていったらしい。
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円太郎バス1929.jpg
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 たとえば、自分が住んでいる地域のことを、どれだけ知悉しているのだろうか。なぜ、いつまでも空き地のままの土地があるのか、なぜ田圃などありそうもない崖地沿いに稲荷社がいくつも建立されているのか、なぜこの道は曲りくねったまま整然としていないのか、この道路はさして危険そうにも見えないのになぜ反射鏡だらけなのか、なぜこの区画だけ電柱の系統名がちがうのか、なぜビルや住宅の裏に幅1mほどの空き地がつづいているのか、しばらく雨も降っていないのに、どうしてマンホールの下から激しい水音が聞こえてくるのか……。
 別に、自分が住んで生活している地域ばかりではない。わたしの街(東京)のあちこちにも、少し気にとめて観察すると不思議に感じる場所や道筋、建物、地名、地形、境界、伝承・伝説などがゴロゴロ眠っているのに気づかされる。何気なくすごしている街角に、いつも通りすぎる道端に、勤め先や仕事ででかけたビルの傍らに、それらの物語は身をひそめながらソッと横たわっている。その物語とは、わずか100年前のものもあれば、1万年も昔の出来事かもしれない。それら日常に眠る物語は、決して自ら主張しないし発見されようなどとも思ってはおらず、いつまでも眠っているだけだ。こちらが働きかけでもしなければ、決して顔をのぞかせることはない。
 でも、ひとたび隠れていた物語を見いだし、その経緯をたどっていくと、それまで何気なく見ていた街や道端、川筋、建物などが、以前とはガラリとちがった姿や風景に見えてくることがままある。いつだったか、拙サイトの記事を読まれることで、「街角の風景が、いつもとちがって見える」と感じられるようになったとすれば、その記事は僭越ながら「大成功」にちがいないと書いた。この思いは、長い時間が経過したいまも変わっていない。ふだんから日常的に目にしていた風景が、まったく異なる様相や色あいを帯びながら次々と描き替えられていく。
 わたし自身、そんな経験を落合地域の随所で、または江戸東京地方の各地で、これまで数えきれないほど重ねてきており、それが自身の依って立つ“足もと”を見つめ、改めて確認し、「この地ならでは」の魅力の再発見を促しつつ、地域・地方に根ざす「その地ならでは」のアイデンティティを形成するために必須となりそうな、立脚点の“基盤”形成につながるのではないかと考えている。
白木屋百貨店イメージガール1929.jpg
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 そう、それは農作物を青果店で手に入れ、ただの食べ物として消費するだけで、土とは遠く離れてしまった生活に不安をおぼえ、どこか違和感を感じた人々が生きていた時代と同じように、モニターに映る情報や画像、映像を見るだけで、なんとなく自身が生活する地平が、社会が、世界が分かったような気になっているとすれば、スーパーでパッケージ化された農作物のことを実はなにも知らないのと同様に、自身が生きている地域や街について、実はなにも知らないのではないかと不安をおぼえるのは、人間としてしごく自然な成りいきのように思えてくる。
 なにも知らない人間が、土壌や環境に大きく左右される農作物(成果物)を育てられないのと同様に、自身が生活する地域や街の基盤(そこに営々と築かれた人々の生活や文化)について知らなければ、当然ながらアイデンティティは育まれないし郷土愛も生まれない。その地域、その街ならではの連綿とつづく生活史や社会史を知らなければ、自分がいまどのような場所や位置、あるいはコミュニティに生きているのかも知りえない。これは、わたしも何度か失敗を重ねているが、ときに街中でトンチンカンな発言をして、失笑をかうこともまれではない。
 街の環境が、生活に便利でありさえすればいいという人がいるとすれば、その街に対し「愛着」はおぼえるかもしれないが、より深い「愛情」は生まれないように思う。その「愛情」とは、街のイヤな面もまた美点も、街で過去に起きた嫌悪すべき出来事もまた讃嘆すべき出来事も、「なかったこと」と顔をそむけることなく丸ごと吞みこんでこそ、そこにこそ初めておぼえる感情ではなかろうか。それには、街が見せた過去の姿をていねいにたどって知らなければ、心に抱きようのない感覚・感情のように思える。そして、その感性的な認識基盤の有無が、自身とその土地(街)とを結ぶ“自己同一性”や“自分らしさ”の形成には、不可欠な役割をはたしているように思えるのだ。
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 わたしにも、「愛着」のある街はそれこそいくつも存在するけれど、心から「愛情」を抱ける街は片手足らずしか存在しない。その理由を考えてみると、先祖が代々住んでいたというばかりでなく、遠い昔からそこで暮らしていた人々が築いてきた生活や文化、そこで起きた出来事が、おぼろげながら把握できている(像を結んでいる)こと、その痕跡や足跡が現代につながる街中にそこはか見つけられること、時代ごとの情景が不完全ながらアタマに想い描くことができること……などだろうか。そして、それらは深く知れば知るほど、より鮮やかで輪郭の確かな像を結ぶことにつながる。けれども、「愛着」のある街はそこまで深く、細かく観察や調べがゆきとどいておらず、いつまでも「わたしの街」ではなく、「よその街」を脱しきれずにいる――そんな気がするのだ。

◆写真上:1933年(昭和8)撮影の西武線鉄橋が架かる、妙正寺川と旧・神田上水の合流点。
◆写真中上中上は、1929年(昭和4)に撮影された日本橋と、日本橋三越前を通行する円太郎バス中下は、1893年(明治26)に柳橋から撮影された大川(隅田川)に架かる江戸期のままの大橋(両国橋)は、1929年(昭和4)に撮影された歌舞伎座
◆写真中下は、1929年(昭和4)の夏に鎌倉の海岸で撮影された日本橋白木屋(のち東急百貨店)のイメージガールたち。中上は、1929年(昭和4)撮影の日本大通りの神奈川県庁(本庁舎)と横浜地方裁判所(手前)。中下は、1930年代撮影の横浜山手本通り沿いの住宅街で右手に写る西洋館群や教会は現存している。は、1937年(昭和12)に高麗山から千畳敷山(湘南平)を背景にカラー撮影された大磯から平塚にかけてのユーホー道路(湘南道路=国道134号線)。
◆写真下は、1974年(昭和49)に撮影された汚染がピークの神田川中上は、1975年(昭和50)に撮影された高戸橋の付近を通過する都電・荒川線中下は、1980年代に南側のビルから撮影された日立目白クラブ(旧・学習院昭和寮)。は、1979年(昭和54)撮影の四ノ坂を下りる目白学園の女生徒たち。これら写真が撮られた時代の落合風景は、わたしがリアルタイムで目にしていた情景だ。

この記事へのコメント

  • てんてん

    (# ̄  ̄)σ・・・Nice‼です♪
    2025年11月25日 20:03
  • 落合道人

    てんてんさん、コメント
    トンカツと柿の葉鮨の夕食、わたしも食べたくてnice!です!w
    2025年11月25日 21:00
  • pinkich

    papaさん いつも楽しみに拝見しております。たしかに、世の中便利になったけれども、情報過多で逆に時間が奪われているような感覚がありますね。電車の中では皆スマホに見入っておりますし、カフェでも、カップルが話しもせずにお互いのスマホばかり見ている様は異様です。しまいには、人間の仕事までAIに奪われていく。時間を奪われ、仕事まで奪われ、世の中どうなっていくのでしょうか?
    2025年11月27日 20:30
  • 落合道人

    pinkichさん、コメントをありがとうございます。
    実は、きょうもとある方と「時間ドロボー」について話してきたばかり、
    だったりします。自分にとって、ほんとうに必要な情報は何か?……を認識
    するためには、やはり「自分とはなにか(何者か)?」について、常に考え
    検証してないと、分かりづらいのではないかと思います。
    でも、わたし自身のことを考えてみますと、「自分が何者か」が決して
    分かっているわけではなく、いつも問いつづけて探しつづけているよう
    な状態ですね。拙ブログを始めたのも、それを見つけるため、あるいは
    確認しようとするための行為だったようにも思います。
    ただ、それが見つけられたか、確認できたかというとはなはだ心もとなく、
    相変わらず「探しつづけてる」感が強いのですが、少なくとも自分にとって
    不要と思われる情報あるいは行為の見分けは、歳とともについてきたよう
    な気もしますね。この感覚、ちょっと表現するのが難しいのですが……。
    2025年11月27日 21:17

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