あまり紹介しなかった目白駅関連の事故・事件。

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 拙サイトでは、これまで高田馬場駅と目白駅間で起きた、列車を見送る近隣住民(指田製綿工場の家族や工員たちが多かった)へ、品川方面からやってきた蒸気機関車が牽引する貨物列車が突っこんだ大惨事をはじめ、大正末から昭和初期にかけて起きた山手線がらみの事故事件をご紹介してきた。中には、目黒駅近くの踏み切りで運搬中の陸軍火薬20箱に、山手線が衝突して大爆発を起こした前代未聞の事故も取りあげている。
 今回は、山手線でも下落合のすぐ東側にある、目白駅とその近辺で起きた事故・事件について取りあげてみたい。東京朝日新聞の報道記事を中心に、できるだけ年代順にたどって見ていこう。まず、関東大震災の翌年、1924年(大正13)7月10日に、山手線は「の」の字運転をスタートしている。これは、それ以前の1919年(大正8)から行われていた運転方式が関東大震災で中断し、同年7月になってようやく再開のめどが立ったためだ。「の」の字運転とは、中央線を走る電車が新宿駅を経由して東京駅まで到着すると、同駅から外回りの山手線に入り、もう一度新宿駅を経由して池袋駅から田端駅、そして上野駅まで走行する運行方式だった。
 1924年(大正13)7月11日の東京朝日新聞の記事から、当日の様子を引用してみよう。
  
 「の」の字運転/初日の醜態 準備不足と機械の故障で/故障頻出の省線
 省線電車は十日から運転系統を変更して所謂「の」の字運転を始める事となつたが初日は準備不完全の為め故障頻出して出動(ママ:勤?)の人々は大分迷惑した、先ず午前五時試運転に出動した電車は五反田と目白駅の新しいプラツトホームを出る際工事の不注意で突き出た電柱の為め窓硝子を粉砕し三十分停車した (カッコ内引用者註)
  
 7月10日の朝は、山手線と中央線にとって災厄日だったようだ。上記2駅の事故につづき、同日午前7時21分には、代々木駅で発車まもない電車が制動機の発熱で停止、新宿駅では同じころ電車が故障で動かなくなり停止、午前7時30分には水道橋駅でやはり電車が故障して運転できず停止するなど、この日の早朝だけで五反田駅、目白駅、代々木駅、新宿駅、水道橋駅で事故が多発し、そのたびに山手線や中央線のダイヤが全面的に麻痺し大きな影響がでている。目白駅と五反田駅の、線路へ突きでた電柱に衝突するという事故は、詳細が書かれていないので不明だが、「工事の不注意」以前に誰かが気づきそうな初歩的ミスだろうに。
 1925年(大正14)5月3日には、面白い記事が載っている。山手線の他駅では左側通行が原則なのに、なぜ目白駅は「右側通行」と大きく看板に書かれているのか意味不明という苦情が寄せられ、それに対し目白駅が回答を寄せている。同日の東京朝日新聞から、その回答を引用してみよう。
  
 【目白駅答】当駅では札買場が入口に向かつて右側にあるので乗降客の便利を計つて右側通行としたのです、もし左側通行にすると入れ違ひの衝突が起つて却て混雑が生ずるのです、目黒駅もまた同じ理由で右側通行です
  
 「札買場」は切符売り場のことだが、現在の目白駅は切符の自動販売機やカードチャージャーなどは左側に設置されているものの、やはり改札は右側通行になっている。もちろん、改札の電子マネー決済があたりまえとなったので、切符販売機やカードチャージャーの利用者が激減しているからだろうが、大学や学園が同駅の東側(改札をでて右手)に多いため、大勢の学生たちによる降車時の便宜をはかるために、右側通行のままなのかもしれない。
 大正末から昭和初期にかけ、目白駅では人身事故も多い。このころになると、目白駅の周辺は住宅が稠密となり、通勤時間帯はラッシュとなっていた。満員電車に乗りきれず、身体をはさまれたまま発車して振り落とされる事故も発生している。すなわち、東京郊外と市街地の曖昧化、少し前の記事で取りあげた小田内通敏のような視点でいえば、都市化の進捗とともに東京市街地の課題とあまり変わらない事故や事件が郊外でも起き、新聞紙上で報道されるようになる。
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 目白駅でも、1926年(大正15)4月10日には高名な外交官の養父が、満員電車に乗れず振り落とされる事故で落命していた。翌4月11日の東京朝日新聞では、大々的に報道されている。
  
 省電に振落されて鮭延公使の養父惨死
 目白駅から満員電車に乗らんと 片足をかけた途端に発車して 痛しい花時の犠牲
 十日午前六時四十五分府下長崎村荒井一八七七に住むチりー国駐在特命全権公使鮭延信道氏の養父良治氏(七七)は目白駅より品川行省線電車に乗らうと後部から二台目の車に片足をかけた瞬間電車は発車し、中より数名の乗客が良治氏を誘ひいれようとしたが何しろ出勤時間と花時の混雑に加へて同電車は六分余の遅延をしてゐるためほとんど乗客はすし詰の状態なので、良治氏はつい、車内にいり切れずあつといふ間ま<ママ:も>なく線路上に顛落し、強<したた>か頭部を打つた上肋骨二本を折つたが気丈なる同氏は現場からはひだしたところへ駅員が駆付け直<ただち>に駅長室へ担ぎ込んだが間もなく落命した、(< >内引用者註)
  
 鮭延(さけのべ)邸があった「長崎村荒井一八七七番地」は、現在の目白4丁目5番地のあたりで、目白の森公園の道路をはさんだ東向かいの一画だ。
 また、乗客だけでなく鉄道の保守点検要員、当時の用語でいえば線路工夫も事故に巻きこまれている。今日のように厳格なセキュリティシステムが存在せず、自身の目視による安全確認のみだった当時の線路管理は、ときに不注意や錯覚による事故が起きやすかった。また、目白駅は貨物駅を併設していたため物流拠点となり、荷運び用の倉入れ倉出しトラックが頻繁に往来しており、目白貨物駅の周辺ではトラックの無謀運転による交通事故も多発していた。
 まず、1928年(昭和3)3月10日の東京朝日新聞より、線路工夫の事故記事を引用してみよう。
  
 線路工夫の奇禍/九日午後二時頃省線目白駅構内線路で作業中の工夫高田町鶉山一五〇三武藤喜一(四四)は池袋方面より疾走して来た荷物<かもつ=貨物>電車を避けてモウ大丈夫と安心したところその後から乗客電車が進行して来たのにはね飛ばされ後頭部に重傷を負ひ付近の病院に入院手当を加へたが生命危篤 (< >内引用者註)
  
 この事故は山手貨物線で起きたのではなく、山手線上を走っていた“貨物電車”にはねられたものだ。「鶉山1503番地」の武藤という人は、現・目白2丁目にある目白警察署の裏側に住んでいた。また、1929年(昭和4)11月23日の同紙には、トラックによる目白駅前の事故が報道されている。
  
 目白駅前で轢殺/二十二日午前七時四十分府下練馬町大門六八四浅利屋高木惣之助(三四)が府下高田町雑司ヶ谷目白駅側を行商中 府下戸塚五六七運送業竹内宮四郎方運転手清水常治(二三)のトラツクに轢き倒され即死した、高田署で取調中
  
 「高田町雑司ヶ谷目白駅側」とは聞きなれない表現だが、目白駅の西側で、かつて江戸期より雑司ヶ谷村の飛び地だった目白通りの北側、1932年(昭和7)までは「雑司ヶ谷旭出」(ほぼ現・目白3~4丁目)という地名だった、目白駅に直近の通り上で起きた交通事故だろう。
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 1937年(昭和12)3月11日には、目白駅構内で作業をしていた測量員が、山手線を避けたとたんに山手貨物線の列車にはねられる事故が発生している。同日の新聞記事より引用してみよう。
  
 構内で人夫轢死/十日午前九時四十分頃省線山手線目白駅構内で測量中の世田谷区若林町一九六宮口甚作方人夫矢板清君(二六)が電車を避けようと貨物線路内に踏込んだ刹那 稲沢発蒲田行貨物列車に跳ね飛ばされ即死
  
 このような悲惨な事故ばかりでなく、目白駅の関連記事にはちょっと面白い報道も見える。目白駅発のダット乗合自動車(のち東京環状乗合自動車)の料金があまりに高すぎると、料金値下げ期成同盟が結成されている。1929年(昭和4)11月17日の東京朝日新聞より、引用してみよう。
  
 乗合自動車の直下(ママ:値下)運動/直下(ママ:値下)ばやりの風潮に乗じた運動の一つ、目白駅椎名町間のダツト乗合自動車は全距離約一マイル六区間片道十二銭均一の料金をとつてゐるが町民有志はこの料金を不当とし五割引を要求し期成同盟本部を設けて対抗してゐる、理由は他の郊外乗合の料金が一マイル平均六銭であるのにダツト自動車はせま苦しい車体を運転してボリすぎるといふのであるが会社は二十日を期して回答することになつてゐる (カッコ内引用者註)
  
 ダット乗合自動車が、同年11月20日にどのような回答をしたのか続報がないので不明だが、値下げ要求にはおそらく応じなかったのではないだろうか。郊外乗合自動車とひと口にいっても、土地の起伏などで燃料コストが異なるため、単純に比較できないからだ。ただし、ダット乗合自動車の乗車賃が高めだというのは、どこか別の資料でも見たことがある。
 最後は、無灯火の自転車で目白駅前を疾走していた強盗犯を、駅前交番の巡査が追跡して捕まえた事件だ。1931年(昭和6)8月27日刊の、東京朝日新聞の記事から引用してみよう。
  
 待合襲つた強盗捕はる 昨夜目白駅前で/二十六日夜省電目白駅の交番前を無燈で疾走する自転車の男を同交番の板垣巡査が追跡取押へると、去る廿三日西巣鴨町池袋待合高麗家上岡徳太郎方へ押いり五円を強奪した強盗犯人である事を自白した
  
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 この強盗犯は、目白駅前にある交番に気づかなかったのだろうか。人通りの少ない夜間、無灯火の自転車で交番前を疾走したりしたら、すぐに怪しまれて追跡されることぐらい予想できたと思うのだが、強盗犯は交番の赤色灯を目にするなり、うしろめたさから見境なく焦ってしまったようだ。もちろん、巡査は走って追いかけたのではなく、疾走する自転車を交番に備えつけの自転車で追跡したとみられるが、昭和初期になると街中には自転車が急速に普及している様子がわかる。

◆写真上:1921年(大正10)の『大東京鳥観図』に描かれた、日本鉄道のあと鉄道院による2代目・地上駅とみられる目白駅で、駅から離れた北側を斜めに横切る道路が清戸道(ほぼ目白通り)。山手線の西側には住宅街が描かれているが、当時は近衛篤麿邸相馬孟胤邸など広大な屋敷が占めており、稠密に家々は建てこんでいないのでイメージ描法だろう。
◆写真中上は、1937年(昭和12)撮影の目白通りで目白駅は奥の右手。中上は、戦後に山手線ホームから撮影された目白貨物駅。中下は、1924年(大正13)7月11日と1926年(大正15)4月11日の事故の模様を伝える東京朝日新聞記事。
◆写真中下中上は、1925年(大正14)5月3日と1928年(昭和3)3月10日の目白駅記事を掲載する東京朝日新聞。中下は、1929年(昭和4)11月23日()と1937年(昭和12)3月11日()の事故記事。は、1941年(昭和16)に撮影された目白駅。
◆写真下は、1929年(昭和4)11月17日に報道された目白駅発ダット乗合自動車の運賃値下げ期成同盟の記事。中上は、目白駅の交番前を疾走するマヌケな強盗犯記事。中下は、1970年(昭和45)前後に撮影された目白駅前の横断歩道。は、1979年(昭和54)に撮影された目白駅。この2葉のモノクロ写真は、わたしにとって高校時代からの見憶えがある懐かしい光景だ。

この記事へのコメント

  • てんてん

    (# ̄  ̄)σ・・・Nice‼です♪
    2025年10月26日 20:26
  • 落合道人

    てんてんさん、コメントをありがとうございます。
    わたしもモンブランには目がないので、つい買ってしまいそうです。
    2025年10月26日 21:26
  • Fuji

     いつも興味深い記事をありがとうございます。
     いろいろな事故、事件があったのですね。整わない時代、新聞には載らない小さな事故も沢山あったことと思います。
     1927年の目白通りの写真、手前に写っている建物は小澤材木店(知人の祖父母)あたりでしょうか。材木店はもう少し落合寄りでしたか。
     1970年の写真、ちょうど中高時代。目白商店街で買い物しました。トラッド目白は当時目白市場で、まだコマースはなかったかと。その隣には本屋さんがありました。
     昔の写真は認知症予防に良いと言われますが、いろいろ思い出しました。どうもありがとうございます。
    2025年10月27日 11:39
  • 落合道人

    Fujiさん、コメントをありがとうございます。
    拙記事でご紹介している事故や事件は、おっしやるとおりほんの一部だと思います。
    1933年(昭和8)に作成された豊島区の「便益明細地図」によりますと、目白通りの
    南側については小澤材木店をはじめ店舗の収録はありませんが、目白駅直近の北側
    には、「高田病院」「繁友家」「目白書店」の記載があります。
    わたしも学生時代の後半、目白通りを歩きますとどこかで買い物をしていました。
    戦後の「目白市場」は、焼け跡のマーケット形式になっていたのでしょうが、ひとつ
    残念なのは戦前の東京府市場協会による、まるで古城のような目白市場を見てみた
    かったことです。いまだ画家の写生ばかりで、ヨーロッパの古城デザインをして
    いた、「目白市場」の写真が見つかりません。
    2025年10月27日 13:09
  • Fuji

     目白通りの街並み、お教えくださり、ありがとうございました。
     戦前の目白市場の写真見てみたいものです。落合さんが探せないのなら、ないような気もしますが、どこかで見つかると良いですね。絵が残っているのは何よりです。
    2025年10月28日 15:32
  • 落合道人

    Fujiさん、ごていねいにコメントをありがとうございます。
    目白市場の写真は、おそらく東京都のどこかの資料にまぎれて保存されている
    と思うのですが、いまだ見つかりません。これまで、その一部をとらえたと思わ
    れる写真は掲載しているのですが、やはり全体の姿を見てみたいですね。
    引きつづき、「指名手配」で探してみます。
    2025年10月28日 18:13

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