
前回の記事では、箱根土地が第四文化村の販売を準備しつつ、健康で文化的な趣味生活が送れる郊外住宅地という事業スローガンはどこへやら、「土地成金になろう!」などというような、露骨な媒体広告を制作している様子をご紹介した。
広告のコピーには、関東大震災のことを「昨の大震災」と表現しているので、翌年の1924年(大正13)に制作されたとみられる、「▽東京近郊の整然たる住宅地――大泉学園都市/国分寺大学都市/東村山分譲地・案内 ▽投資物として絶好の土地――」というキャッチフレーズの広告には、あたかも格言のようなふたつのお題目が掲示されている。すなわち、「今日富豪の多くは殆ど土地成金」の見出しのもと、「◇土地の面積に限りあり、人口の増殖に限りなし」、および「◇大都市集中は世界の大勢にして、郊外発展は必然の趨勢なり」がそれだ。
わずか2年ほどの間に、東京近郊で健康的かつ文化的な趣味生活を送ろう!……というような、箱根土地の存在理由とでもいうべきコンセプト色の強いスローガンから、一転して東京郊外でいまこそ安い土地に投資をして、値上がりを待ち「土地成金」になろう!……などというスローガンに豹変してしまったのは、いったいなぜだろうか? いや、そもそも同社のビジネスの本質が後者のスローガンそのものであり、前者の口あたりのいい表現をした企業理念が、お飾りで「きれいごと」の営業アプローチにすぎないと考えるほうが妥当なのだろう。
分譲地は、売り抜けしてしまえばこっち(箱根土地)のもので、目白文化村のケースを見ると分譲絵はがきに書かれた、「水道・瓦斯・電熱設備・下水道」の生活インフラが整備されているはずなのだが、都市ガスはついに箱根土地本社が国立へ移転する最後まで引かれることはなかった。したがって、厨房では電気レンジで調理をする家庭が多く、当時は高価な輸入家電だったので、電熱設備と電気代の出費がたいへんだったという証言が残っている。
さて、同広告では3ヶ所の分譲地、すなわち大泉学園都市と国分寺大学都市、東村山分譲地について、どのようなコピーで販売しようとしていたのだろうか。まず、1924年(大正13)の時点でもっとも注力していたのが、堤康次郎の妻の実家である下落合で協業していた大地主のつながりで、その姻戚筋が住んでいた北豊島郡大泉村東大泉(大泉学園)の開発だった。結果的に見れば、大泉学園にはどこの学校も移転してくることなく誘致に失敗し、分譲地計画(総面積50万坪余)の50%ほどを開発したのみで計画が中止されている。広告で省線電車と武蔵野鉄道をあわせ、東京駅まで約1時間と詠う大泉学園都市を、ではどのようにアピールしていたのだろうか?
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(前略) 赤松林の一帯に、坦々たる道路や公園が開かれ新設の東大泉電車停車場からの大道路には自動車が通じて新築の住宅が次第に殖えてゆきます。大泉公園は少納言久保の松林に囲まれベースボール、テニス、弓術場、馬術練習場、児童遊戯等があり幽邃なる東京郊外の新公園として知られて居ります。大泉の水は、最近水質検査の為め内務省衛生局で分析試験を致しましたる処 水道以上によい水として推奨せられました。大泉学園都市は天恵の風致あり電車停車場、道路電燈、日用品マーケツト、乗合自動車、乗馬練習場、公園等の設備があり電車一時間で丸の内に行ける交通機関が有りますから投資物としては元より直ちに居住して市内へ通勤し得る好適の地であります。/◇坪数一区画三百坪より/◇単価一坪七円弐拾銭より
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広告のコピーには、関東大震災のことを「昨の大震災」と表現しているので、翌年の1924年(大正13)に制作されたとみられる、「▽東京近郊の整然たる住宅地――大泉学園都市/国分寺大学都市/東村山分譲地・案内 ▽投資物として絶好の土地――」というキャッチフレーズの広告には、あたかも格言のようなふたつのお題目が掲示されている。すなわち、「今日富豪の多くは殆ど土地成金」の見出しのもと、「◇土地の面積に限りあり、人口の増殖に限りなし」、および「◇大都市集中は世界の大勢にして、郊外発展は必然の趨勢なり」がそれだ。
わずか2年ほどの間に、東京近郊で健康的かつ文化的な趣味生活を送ろう!……というような、箱根土地の存在理由とでもいうべきコンセプト色の強いスローガンから、一転して東京郊外でいまこそ安い土地に投資をして、値上がりを待ち「土地成金」になろう!……などというスローガンに豹変してしまったのは、いったいなぜだろうか? いや、そもそも同社のビジネスの本質が後者のスローガンそのものであり、前者の口あたりのいい表現をした企業理念が、お飾りで「きれいごと」の営業アプローチにすぎないと考えるほうが妥当なのだろう。
分譲地は、売り抜けしてしまえばこっち(箱根土地)のもので、目白文化村のケースを見ると分譲絵はがきに書かれた、「水道・瓦斯・電熱設備・下水道」の生活インフラが整備されているはずなのだが、都市ガスはついに箱根土地本社が国立へ移転する最後まで引かれることはなかった。したがって、厨房では電気レンジで調理をする家庭が多く、当時は高価な輸入家電だったので、電熱設備と電気代の出費がたいへんだったという証言が残っている。
さて、同広告では3ヶ所の分譲地、すなわち大泉学園都市と国分寺大学都市、東村山分譲地について、どのようなコピーで販売しようとしていたのだろうか。まず、1924年(大正13)の時点でもっとも注力していたのが、堤康次郎の妻の実家である下落合で協業していた大地主のつながりで、その姻戚筋が住んでいた北豊島郡大泉村東大泉(大泉学園)の開発だった。結果的に見れば、大泉学園にはどこの学校も移転してくることなく誘致に失敗し、分譲地計画(総面積50万坪余)の50%ほどを開発したのみで計画が中止されている。広告で省線電車と武蔵野鉄道をあわせ、東京駅まで約1時間と詠う大泉学園都市を、ではどのようにアピールしていたのだろうか?
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(前略) 赤松林の一帯に、坦々たる道路や公園が開かれ新設の東大泉電車停車場からの大道路には自動車が通じて新築の住宅が次第に殖えてゆきます。大泉公園は少納言久保の松林に囲まれベースボール、テニス、弓術場、馬術練習場、児童遊戯等があり幽邃なる東京郊外の新公園として知られて居ります。大泉の水は、最近水質検査の為め内務省衛生局で分析試験を致しましたる処 水道以上によい水として推奨せられました。大泉学園都市は天恵の風致あり電車停車場、道路電燈、日用品マーケツト、乗合自動車、乗馬練習場、公園等の設備があり電車一時間で丸の内に行ける交通機関が有りますから投資物としては元より直ちに居住して市内へ通勤し得る好適の地であります。/◇坪数一区画三百坪より/◇単価一坪七円弐拾銭より
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東大泉は、良質な湧き水(地下水)に恵まれていたのだろう。水道水より水質が優れているのは、目白文化村がある下落合も同様で、地下水をポンプで汲みあげた“自家水道”は、戦後の1960年代まで活用されており、おそらく大泉学園でも同じ環境だったろう。当時、武蔵野鉄道の駅名は「東大泉駅」であり、大泉学園駅になるのは1933年(昭和8)からだ。
住民のために設置される(予定の)、さまざまな施設が紹介されているが、広告が出稿された1924年(大正13)の時点で完成していたのは、掲載写真の遊動円木が写った児童遊戯場のみだったようだ。また、施設の中には住民たちが趣味のサークルなどで集う「倶楽部」がなく、代わりに広大な分譲地を背景に野球場や馬場、テニスコートなどスポーツ施設の多いのが目立つ。だが、これら住民のための施設は最初の宣伝時だけか、建設されたとしてものちに廃止され追加分譲地として販売される経緯をたどったのではなかろうか。箱根土地は、この種の広告には必ずモデルハウスを掲載するはずだが、いまだ完成してなかったのだろう。
次に、国分寺大学都市の広告を見てみよう。北多摩郡小平村に計画されていた同大学都市は、総面積70万坪と大泉学園よりもかなり広大だ。コピーでは、東京駅から国分寺駅まで約1時間、そこから最新式の電車に乗り3~4分で同大学都市(現・鷹の台駅)に到着と書かれている。特に中央線の便のよさを強調し、「省線電車は一日に六十一往復朝夕特別に五十一往復の通勤電車」が発着すると書かれている。では、国分寺大学都市のコピーをそのまま引用してみよう。
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国分寺大学都市には明治大学が移転する契約が出来ました 明治大学には約八千の学生と一万五千の校友とそれに伴ふ多くの商店がありますからスグ繁華な都市になります。女子英学塾もこの隣地に移転すべく既に二万坪の敷地を買収しました。大学都市の道路(幹線八間)はすでに完成し電燈電熱設備、日用品市場、模範小学校、公園運動場、娯楽場、乗合自動車等を設置します。/◇坪数一区画三百坪より/◇単価一坪九円八拾銭より
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この文章を読んで、おかしいと思った方も多いはずだ。学生が8,000人いても、その全員が小平村の大学周辺に住むとは限らないし、卒業生が主体の15,000人の交友は、なにか特別な催しでもない限り、移転した母校のある小平村に用はないはずだし、商店にいたってはいくら大震災で被害を受けたとしても、周辺に他の大学や学校が林立している神田駿河台や神保町界隈を離れ、わざわざ小平村へと移転してくるメリットが見あたらない。結局、2年後の1926年(大正15)に明治大学の移転は学内の猛反対で撤回され、女子英学塾(現・津田塾大学)のみが移転している。
住民のために設置される(予定の)、さまざまな施設が紹介されているが、広告が出稿された1924年(大正13)の時点で完成していたのは、掲載写真の遊動円木が写った児童遊戯場のみだったようだ。また、施設の中には住民たちが趣味のサークルなどで集う「倶楽部」がなく、代わりに広大な分譲地を背景に野球場や馬場、テニスコートなどスポーツ施設の多いのが目立つ。だが、これら住民のための施設は最初の宣伝時だけか、建設されたとしてものちに廃止され追加分譲地として販売される経緯をたどったのではなかろうか。箱根土地は、この種の広告には必ずモデルハウスを掲載するはずだが、いまだ完成してなかったのだろう。
次に、国分寺大学都市の広告を見てみよう。北多摩郡小平村に計画されていた同大学都市は、総面積70万坪と大泉学園よりもかなり広大だ。コピーでは、東京駅から国分寺駅まで約1時間、そこから最新式の電車に乗り3~4分で同大学都市(現・鷹の台駅)に到着と書かれている。特に中央線の便のよさを強調し、「省線電車は一日に六十一往復朝夕特別に五十一往復の通勤電車」が発着すると書かれている。では、国分寺大学都市のコピーをそのまま引用してみよう。
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国分寺大学都市には明治大学が移転する契約が出来ました 明治大学には約八千の学生と一万五千の校友とそれに伴ふ多くの商店がありますからスグ繁華な都市になります。女子英学塾もこの隣地に移転すべく既に二万坪の敷地を買収しました。大学都市の道路(幹線八間)はすでに完成し電燈電熱設備、日用品市場、模範小学校、公園運動場、娯楽場、乗合自動車等を設置します。/◇坪数一区画三百坪より/◇単価一坪九円八拾銭より
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この文章を読んで、おかしいと思った方も多いはずだ。学生が8,000人いても、その全員が小平村の大学周辺に住むとは限らないし、卒業生が主体の15,000人の交友は、なにか特別な催しでもない限り、移転した母校のある小平村に用はないはずだし、商店にいたってはいくら大震災で被害を受けたとしても、周辺に他の大学や学校が林立している神田駿河台や神保町界隈を離れ、わざわざ小平村へと移転してくるメリットが見あたらない。結局、2年後の1926年(大正15)に明治大学の移転は学内の猛反対で撤回され、女子英学塾(現・津田塾大学)のみが移転している。



学校はきたけれど、当初から転居してくるのは学校の関係者や、いくらかの箱根土地社員ばかりで、現地は田畑や原っぱが一面に拡がる風景のままだった。それが解消され、本格的な住宅街が形成されるのは戦後もかなりたってからのことだ。国分寺大学都市の分譲地が、大泉学園都市に比べると東京市街地から遠いにもかかわらず、土地の坪あたりの単価が9円80銭と強気なのは、やはり新宿駅や東京駅へ通う中央線沿線だからだろう。
最後に、北多摩郡東村山村に開発を予定していた、東村山分譲地のコピーを見てみよう。同分譲地は全体面積も曖昧で、当時は箱根土地の構想・計画レベルの段階だったと思われ、村山貯水池(多摩湖)を大きくフューチャーした「景勝地」であることをことさら強調している。また、「西武電鉄は市内電車早稲田終点及新宿を発し東村山村を縦断して貯水池に到る高速度線の敷設」に着手したと、いまだ影もかたちもない西武鉄道の電車をアピールし、途中で中止になった早稲田への「地下鉄・西武線」や、戦後の1952年(昭和27)になってようやく実現する新宿駅(近くの北側)への延長計画まで、すべて構想・計画レベルを前提にしたうえで分譲地をアピールしている。
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東京市が十数年の歳月と五千余万円の巨費を投じた東村山の大貯水池は恐らく東洋一の偉観であると同時に帝都二百万市民の貴重なる源泉地であります。/四面の翠巒を宿し永遠に静寂な碧水は漣波も立てず森林湖沼公園として大東京の恵まれたる清遊地であります。/この環境地に当社は以前より百万坪経営の大計画を立て愈々第一回分譲地拾万坪を発表致しました。/◇坪数一区画三百坪より/◇単価一坪七円弐拾銭より
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まるで、村山貯水池(多摩湖)への観光案内のようなコピーだが、掲載されている写真は未開発な森林を通る川沿いとみられる街道筋と、村山貯水池(多摩湖)の堤防風景、それに開発予定の東村山分譲地と国分寺大学都市を描いた地図のみとなっている。他の分譲地のように、具体的な造成地の写真がないところを見ると、当時は手つかずで未開発のままだったのではないだろうか。
最後に、北多摩郡東村山村に開発を予定していた、東村山分譲地のコピーを見てみよう。同分譲地は全体面積も曖昧で、当時は箱根土地の構想・計画レベルの段階だったと思われ、村山貯水池(多摩湖)を大きくフューチャーした「景勝地」であることをことさら強調している。また、「西武電鉄は市内電車早稲田終点及新宿を発し東村山村を縦断して貯水池に到る高速度線の敷設」に着手したと、いまだ影もかたちもない西武鉄道の電車をアピールし、途中で中止になった早稲田への「地下鉄・西武線」や、戦後の1952年(昭和27)になってようやく実現する新宿駅(近くの北側)への延長計画まで、すべて構想・計画レベルを前提にしたうえで分譲地をアピールしている。
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東京市が十数年の歳月と五千余万円の巨費を投じた東村山の大貯水池は恐らく東洋一の偉観であると同時に帝都二百万市民の貴重なる源泉地であります。/四面の翠巒を宿し永遠に静寂な碧水は漣波も立てず森林湖沼公園として大東京の恵まれたる清遊地であります。/この環境地に当社は以前より百万坪経営の大計画を立て愈々第一回分譲地拾万坪を発表致しました。/◇坪数一区画三百坪より/◇単価一坪七円弐拾銭より
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まるで、村山貯水池(多摩湖)への観光案内のようなコピーだが、掲載されている写真は未開発な森林を通る川沿いとみられる街道筋と、村山貯水池(多摩湖)の堤防風景、それに開発予定の東村山分譲地と国分寺大学都市を描いた地図のみとなっている。他の分譲地のように、具体的な造成地の写真がないところを見ると、当時は手つかずで未開発のままだったのではないだろうか。



3つの分譲地のなかで、最適な「投資物」として奨励しているのは大泉学園都市のみとなっているが、前ページの見開きではすべてのコピーが「土地投機」「土地成金」のすすめだったので、さすがに分譲地の現地紹介のリアルな文面では表現を抑えたものだろう。特に東村山分譲地に関しては、戦後になっても一面に田畑が拡がる風景のままで、本格的な住宅街が形成されるのは1960年代前後から、いわゆる大規模な「郊外団地」がいくつも建設されてからのことだ。
<了>
◆写真上:国分寺大学都市と東村山分譲地を記載した、1924年(大正13)制作の広告地図。
◆写真中上:上・中は、広告掲載の大泉学園都市の現地写真。下は、同分譲地の現状。
◆写真中下:上・中は、国分寺大学都市の現地写真。下は、津田塾大学周辺の住宅地。
◆写真下:上・中は、広告に掲載された東村山分譲地の現地写真。下は、同分譲地の現状。
◆写真中上:上・中は、広告掲載の大泉学園都市の現地写真。下は、同分譲地の現状。
◆写真中下:上・中は、国分寺大学都市の現地写真。下は、津田塾大学周辺の住宅地。
◆写真下:上・中は、広告に掲載された東村山分譲地の現地写真。下は、同分譲地の現状。
この記事へのコメント
てんてん
落合道人
気温が低くなると空気が澄むせいか、花火が鮮やかに見えますね。