
下落合の目白文化村にあった箱根土地本社が、国立へと移転する前年の1924年(大正13)に、東京郊外を開発するディベロッパーの本音を、あからさまに表現した媒体広告を制作している。箱根土地(いまだ本社が下落合時代)が制作した、「東京近郊の整然たる住宅地――大泉学園都市/国分寺大学都市/東村山分譲地・案内」の見開き4P広告だ。
だが、このタイトルにはもうひとつ、「投資物として絶好の土地――」というキャッチフレーズが付随している。目白文化村の販売時には、「住居の改善は人生を至幸至福のものたらしめる」というウィルソンの言葉を引用し、東京市街地の喧騒や空気汚濁を逃れ、健康と趣味生活を基調とした理想的な郊外住宅地の実現が目的と詠い、「倦み疲れた心身に常に新鮮な生気を与え子女の健やかなる発育を遂げる為に」と、東京市民の健康と自然環境、教育環境を憂慮したため、箱根土地は「三万五千坪」の分譲地を提供する……と宣伝していたはずだ。
目白文化村の分譲絵はがきからわずか2年後、今度は社の理念とする住環境の理想や健康的な生活の建前はどこかへうっちゃり、利殖のための投資物として郊外住宅地は格好の対象だと、土地を購入しても家を建てない“不在地主”を当てこんで推奨する、むき出し媒体広告を制作している。これには、目白文化村の経験が大きな影響を与えているのだろう。
目白文化村では、第一文化村および第二文化村までは、土地を購入した人物がそのまま家を建て、市街地から転居してくるケースが多かったが(関東大震災の影響も大きかったとみられる)、やや目白駅寄りの第三文化村の販売あたりから、分譲地は早々に契約が進み完売したにもかかわらず、すぐに住宅の建設をスタートする人物が急激に減ったからだ。すなわち、投機目的で第三文化村の分譲地を入手し転売を前提とした市街地に住む“不在地主”が増え、事実、第三文化村は昭和10年代になっても、40%ほどの敷地がいまだ空き地のままだった。
以前、興信所が調査した下落合の地価(1921年現在)について記事にしているが、関東大震災の直後から山手線西側に近接する住宅地は、非常な勢いで地価が高騰していくことになる。特に目白文化村のある落合地域では、わずか数年のうちに5倍~10倍はあたりまえで、投機目的の“不在地主”にとっては格好の投資対象となっていった。また、落合地域の地主たちもサッサと田畑を耕地整理し、住宅地へと転換しはじめている。箱根土地は、それと同じ現象を東大泉(大泉学園)や国分寺大学都市、そして東村山分譲地でも起こそうと考えていた
箱根土地本社ビル(冒頭写真)が、いまだ下落合1340番地に建っていた時代であり、また国分寺大学都市には明治大学が移転予定となっているので、おそらく1924年(大正13)の後半期にでも制作された広告なのだろう。冒頭部分のコピーを、少し長めだが引用してみよう。
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どういふ土地が投資物として最も適するか……
およそ土地位安全確実な投資物はありますまい。如何なる災禍盗難にも土地そのものゝ失はれることはありません。/ことに東京市内外の土地は帝都である関係上、全日本的の刺戟と影響をうけて居ますから地方に比して地価の騰貴率は実に予想外で、驚くべき高率を示して居ります。しかし同じ東京の土地でも市内<東京15区>および之に隣接した、既に地価の高くなつて居る土地は騰貴率から見て左程ではありませんが少し離れた近郊の土地、即ちまだ人気によつて地価が押し上げられて居ない土地(坪十円内外)で現在居住に適し尚近き将来必ず騰貴する諸種の原因を持つた土地が投資物として最も有望であります。(中略) 過去十年間<1924年時点より>の統計表によりますと東京市内外の地価の騰貴率は平均年三割七分の利廻りになつて居ります(市外だけなら更にモツトよい利廻りになります)が郵便貯金は五分三厘、一般銀行の定期預金、国庫債券は六分、公債は七分五厘、社債は九分の割合で投資物として土地の有利なることは他の何物も比較になりません。実に土地は子々孫々に伝ふべき万代の宝であります。/本社が特別面積に限つて目下原価以下で売出して居る大泉学園都市、国分寺大学都市、東村山分譲地は投資物としてお買ひになるにこの位よい機会はまたとないことを確信致します。(< >内引用者註)
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だが、このタイトルにはもうひとつ、「投資物として絶好の土地――」というキャッチフレーズが付随している。目白文化村の販売時には、「住居の改善は人生を至幸至福のものたらしめる」というウィルソンの言葉を引用し、東京市街地の喧騒や空気汚濁を逃れ、健康と趣味生活を基調とした理想的な郊外住宅地の実現が目的と詠い、「倦み疲れた心身に常に新鮮な生気を与え子女の健やかなる発育を遂げる為に」と、東京市民の健康と自然環境、教育環境を憂慮したため、箱根土地は「三万五千坪」の分譲地を提供する……と宣伝していたはずだ。
目白文化村の分譲絵はがきからわずか2年後、今度は社の理念とする住環境の理想や健康的な生活の建前はどこかへうっちゃり、利殖のための投資物として郊外住宅地は格好の対象だと、土地を購入しても家を建てない“不在地主”を当てこんで推奨する、むき出し媒体広告を制作している。これには、目白文化村の経験が大きな影響を与えているのだろう。
目白文化村では、第一文化村および第二文化村までは、土地を購入した人物がそのまま家を建て、市街地から転居してくるケースが多かったが(関東大震災の影響も大きかったとみられる)、やや目白駅寄りの第三文化村の販売あたりから、分譲地は早々に契約が進み完売したにもかかわらず、すぐに住宅の建設をスタートする人物が急激に減ったからだ。すなわち、投機目的で第三文化村の分譲地を入手し転売を前提とした市街地に住む“不在地主”が増え、事実、第三文化村は昭和10年代になっても、40%ほどの敷地がいまだ空き地のままだった。
以前、興信所が調査した下落合の地価(1921年現在)について記事にしているが、関東大震災の直後から山手線西側に近接する住宅地は、非常な勢いで地価が高騰していくことになる。特に目白文化村のある落合地域では、わずか数年のうちに5倍~10倍はあたりまえで、投機目的の“不在地主”にとっては格好の投資対象となっていった。また、落合地域の地主たちもサッサと田畑を耕地整理し、住宅地へと転換しはじめている。箱根土地は、それと同じ現象を東大泉(大泉学園)や国分寺大学都市、そして東村山分譲地でも起こそうと考えていた
箱根土地本社ビル(冒頭写真)が、いまだ下落合1340番地に建っていた時代であり、また国分寺大学都市には明治大学が移転予定となっているので、おそらく1924年(大正13)の後半期にでも制作された広告なのだろう。冒頭部分のコピーを、少し長めだが引用してみよう。
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どういふ土地が投資物として最も適するか……
およそ土地位安全確実な投資物はありますまい。如何なる災禍盗難にも土地そのものゝ失はれることはありません。/ことに東京市内外の土地は帝都である関係上、全日本的の刺戟と影響をうけて居ますから地方に比して地価の騰貴率は実に予想外で、驚くべき高率を示して居ります。しかし同じ東京の土地でも市内<東京15区>および之に隣接した、既に地価の高くなつて居る土地は騰貴率から見て左程ではありませんが少し離れた近郊の土地、即ちまだ人気によつて地価が押し上げられて居ない土地(坪十円内外)で現在居住に適し尚近き将来必ず騰貴する諸種の原因を持つた土地が投資物として最も有望であります。(中略) 過去十年間<1924年時点より>の統計表によりますと東京市内外の地価の騰貴率は平均年三割七分の利廻りになつて居ります(市外だけなら更にモツトよい利廻りになります)が郵便貯金は五分三厘、一般銀行の定期預金、国庫債券は六分、公債は七分五厘、社債は九分の割合で投資物として土地の有利なることは他の何物も比較になりません。実に土地は子々孫々に伝ふべき万代の宝であります。/本社が特別面積に限つて目下原価以下で売出して居る大泉学園都市、国分寺大学都市、東村山分譲地は投資物としてお買ひになるにこの位よい機会はまたとないことを確信致します。(< >内引用者註)
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この広告では、東京市の近郊は土地が高騰しがちだが、いまだ東大泉(大泉学園)や国分寺、東村山の各地域ではそれほどでもないので購入するにはいまがチャンスと、明らかに東京以外も含めた“不在地主”筋をターゲットに、臆面もなく短期販売・短期利益をねらった広告づくりをしている。そこには、郊外住宅地に住む理想的な生活環境はどこか隅に押しやられ、とにかく土地投機が「成金」になるには最短の道筋的な、あられもないコピーが踊っている。
そして、関東大震災でも郊外の目白文化村は、「流石にこゝは何の被害もありませんでした」と、東京市の震災被害と近郊を差別化し、郊外がいかに安全なのかのアピールを忘れない。確かに落合地域では、江戸期に建設されたとみられる農家の納屋が、2楝倒壊したのみで死者はでていない。そして、コピーの中では特に「今日富豪の多くは殆ど土地成金」というリードのもと、「驚くべき土地騰貴の実例」をいくつか挙げている。その中には、堤康次郎が下落合の目白文化村で行った土地取引の数字まで示して、自身の経験を開示している。
つづけて、同広告より「目白文化村の土地が十年前は僅かに坪弐円参拾銭」から引用しよう。
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本社の堤専務が大正四年に将来坪五円になるだらうといふことを予想して府下豊島郡(ママ:豊多摩郡)落合村の土地を僅かに二円三十銭で数万坪買ひ込んだ。ところが三年後には二十円になり七年後には五十円になり十年後の今日では八十円になつて四万坪の土地が飛ぶやうに売り切れて仕舞ひました。即ち僅に十年位で約二十倍に近い騰貴を見ました。その頃野兎の出没した荒漠たる畑が今では東京郊外の模範的住宅地として誰知らぬものない目白文化村となつて仕舞ひました。/目白文化村に程近く東京海上保険株式会社の大運動場があります。此の運動場は俗に海上グラウンドといつて居ますが運動好きな同社の重役が今から七八年前坪当り八円で社員の為に買入れたものです。(中略) 今日では地価が騰貴して坪八十円でも売らないといふ儲かり方です。海上保険会社では意外なことで知らぬ間に莫大な利益を獲得したわけです。(中略) 今日富豪といはれる程の人の大部分が殆ど土地によつてその富を殖やしたものであることは多くの実例がこれを示して居ます。(カッコ内引用者註)
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東京海上保険の「海上グラウンド」は、長崎村4174番地にあった野球場を含む大きな運動場のことで、現在の豊島区が運営する南長崎スポーツ公園のことだ。
そして、関東大震災でも郊外の目白文化村は、「流石にこゝは何の被害もありませんでした」と、東京市の震災被害と近郊を差別化し、郊外がいかに安全なのかのアピールを忘れない。確かに落合地域では、江戸期に建設されたとみられる農家の納屋が、2楝倒壊したのみで死者はでていない。そして、コピーの中では特に「今日富豪の多くは殆ど土地成金」というリードのもと、「驚くべき土地騰貴の実例」をいくつか挙げている。その中には、堤康次郎が下落合の目白文化村で行った土地取引の数字まで示して、自身の経験を開示している。
つづけて、同広告より「目白文化村の土地が十年前は僅かに坪弐円参拾銭」から引用しよう。
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本社の堤専務が大正四年に将来坪五円になるだらうといふことを予想して府下豊島郡(ママ:豊多摩郡)落合村の土地を僅かに二円三十銭で数万坪買ひ込んだ。ところが三年後には二十円になり七年後には五十円になり十年後の今日では八十円になつて四万坪の土地が飛ぶやうに売り切れて仕舞ひました。即ち僅に十年位で約二十倍に近い騰貴を見ました。その頃野兎の出没した荒漠たる畑が今では東京郊外の模範的住宅地として誰知らぬものない目白文化村となつて仕舞ひました。/目白文化村に程近く東京海上保険株式会社の大運動場があります。此の運動場は俗に海上グラウンドといつて居ますが運動好きな同社の重役が今から七八年前坪当り八円で社員の為に買入れたものです。(中略) 今日では地価が騰貴して坪八十円でも売らないといふ儲かり方です。海上保険会社では意外なことで知らぬ間に莫大な利益を獲得したわけです。(中略) 今日富豪といはれる程の人の大部分が殆ど土地によつてその富を殖やしたものであることは多くの実例がこれを示して居ます。(カッコ内引用者註)
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東京海上保険の「海上グラウンド」は、長崎村4174番地にあった野球場を含む大きな運動場のことで、現在の豊島区が運営する南長崎スポーツ公園のことだ。



箱根土地による目白文化村の土地取得と地価高騰には、もちろん裏のカラクリがあって、下落合にあった堤康次郎の妻の実家(大地主)を巻きこんだ文化村住宅地の開発だったからこそ、土地をかなり安く購入できたのだし、おそらく美味しいことをいわれた周辺の田畑を所有する地主たちもまた、耕作地をかなり廉価で箱根土地に譲ったのだろう。
はたして、目白文化村の販売で安く土地を手離した地主の中には、坪単価がみるみるうちに値上がりするのを見て、「だまされた!」と感じる人々も少なからずいたにちがいない。第一文化村の土地を多く所有していた、鎌倉時代からつづくとみられる宇田川様のお宅では、「生涯にわたり西武線と西武百貨店は利用しない」を、まるで家訓のように伝承されてきたように、サギまがいでその場限りの調子のいい営業トークや、その後の箱根土地へ売却しない敷地に対する、さまざまな同社の嫌がらせなど、旧家を取材すればさらに多くの逸話が見つかるだろう。
2見開き4ページにわたる媒体広告は、このあと大泉学園都市と国分寺大学都市、そして東村山分譲地を紹介する見開きページとなるけれど、ほとんどの分譲地が道路を敷設し終えたばかりの状態で、住宅敷地はあまり整備されていない。大泉学園都市では、アカマツ林と草地がほとんどそのままの原野だし、大急ぎで設置したものか丸太を用いた子どもの遊具(遊動円木)が、ポツンとアリバイ的に撮影されているのみだ。
また、国分寺大学都市では、明治大学のキャンパスが移転してくることを大々的に宣伝しており、分譲地にはモデルハウスとみられる西洋風住宅がすでに数棟建設されている。でも、1926年(大正15)になると明治大学は小平村への移転を白紙撤回しているので、結局、箱根土地の誘致は失敗している。分譲地には、「明治大学建設敷地」の看板が大々的に立てられ、東隣りの小金井で有名な桜堤の名所まで紹介されているが、分譲地は田畑や原っぱが拡がっているだけの情景だった。事実、住宅街と呼べる密な街並みが建設されるのは、戦後の1960年(昭和35)ごろからのことだ。
はたして、目白文化村の販売で安く土地を手離した地主の中には、坪単価がみるみるうちに値上がりするのを見て、「だまされた!」と感じる人々も少なからずいたにちがいない。第一文化村の土地を多く所有していた、鎌倉時代からつづくとみられる宇田川様のお宅では、「生涯にわたり西武線と西武百貨店は利用しない」を、まるで家訓のように伝承されてきたように、サギまがいでその場限りの調子のいい営業トークや、その後の箱根土地へ売却しない敷地に対する、さまざまな同社の嫌がらせなど、旧家を取材すればさらに多くの逸話が見つかるだろう。
2見開き4ページにわたる媒体広告は、このあと大泉学園都市と国分寺大学都市、そして東村山分譲地を紹介する見開きページとなるけれど、ほとんどの分譲地が道路を敷設し終えたばかりの状態で、住宅敷地はあまり整備されていない。大泉学園都市では、アカマツ林と草地がほとんどそのままの原野だし、大急ぎで設置したものか丸太を用いた子どもの遊具(遊動円木)が、ポツンとアリバイ的に撮影されているのみだ。
また、国分寺大学都市では、明治大学のキャンパスが移転してくることを大々的に宣伝しており、分譲地にはモデルハウスとみられる西洋風住宅がすでに数棟建設されている。でも、1926年(大正15)になると明治大学は小平村への移転を白紙撤回しているので、結局、箱根土地の誘致は失敗している。分譲地には、「明治大学建設敷地」の看板が大々的に立てられ、東隣りの小金井で有名な桜堤の名所まで紹介されているが、分譲地は田畑や原っぱが拡がっているだけの情景だった。事実、住宅街と呼べる密な街並みが建設されるのは、戦後の1960年(昭和35)ごろからのことだ。


東村山分譲地にいたっては、森林沿いの街道筋の写真が掲載されているだけで、ほとんどなにも開発していないのがわかる。代わりに、村山貯水池(多摩湖)の写真を大きくフューチャーし、「大東京の恵まれたる清遊地」と詠っている。でも、あまりに市街地から離れすぎているのと、交通の便がいまだ整備されていなかったせいで、販売実績はかんばしくなかった。もちろん、人の口には戸を立てられないので、箱根土地の“やり口”を知った地主たちも警戒していたにちがいない。次回の記事では、1924年(大正13)時点での、3ヶ所の分譲地のコピーについてもご紹介したい。
<つづく>
◆写真中上:上・中は、関東大震災の翌年1924年(大正13)の制作とみられる箱根土地の「東京近郊の整然たる住宅地――大泉学園都市/国分寺大学都市/東村山分譲地・案内」媒体広告。下は、3分譲地広告の露骨な「土地成金」おすすめキャッチフレーズ。
◆写真中下:上・中は、同広告のイメージイラスト。どこの街角なのか不明だが、少なくとも目白文化村ではない。下は、1924年(大正13)時点での箱根土地の事業所展開。
◆写真下:上は、「明治大学建設敷地」の看板が目立つ国分寺大学都市の分譲地でモデルハウスがいくつか見えている。下は、同広告でも掲載された河野伝設計による第一文化村の神谷邸。
★おまけ
上の写真は、1922年(大正11)の竣工直後とみられる箱根土地本社を北側の落合町役場あたりからとらえたもの。下は、1933年(昭和8)ごろに清水多嘉示が西側の第一文化村の二間道路から撮影した中央生命保険倶楽部時代の同ビル。中央生命が保養施設化のため、湯殿や暖炉などを新設しているせいか煙突が増築されているのがわかる。同社が、1933年(昭和8)に経営不振で吸収合併される直前に撮影されたため、庭や樹木などの手入れがなされておらず、かなり荒廃しているようだ。
◆写真中下:上・中は、同広告のイメージイラスト。どこの街角なのか不明だが、少なくとも目白文化村ではない。下は、1924年(大正13)時点での箱根土地の事業所展開。
◆写真下:上は、「明治大学建設敷地」の看板が目立つ国分寺大学都市の分譲地でモデルハウスがいくつか見えている。下は、同広告でも掲載された河野伝設計による第一文化村の神谷邸。
★おまけ
上の写真は、1922年(大正11)の竣工直後とみられる箱根土地本社を北側の落合町役場あたりからとらえたもの。下は、1933年(昭和8)ごろに清水多嘉示が西側の第一文化村の二間道路から撮影した中央生命保険倶楽部時代の同ビル。中央生命が保養施設化のため、湯殿や暖炉などを新設しているせいか煙突が増築されているのがわかる。同社が、1933年(昭和8)に経営不振で吸収合併される直前に撮影されたため、庭や樹木などの手入れがなされておらず、かなり荒廃しているようだ。


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