
上落合に一時住んでいた大熊喜邦というと、帝国議会議事堂(現・国会議事堂)や帝国劇場をはじめ、建築家としての印象が強いだろう。また、後年には江戸期の建築や街道、触書(ふれがき)などの研究家としても知られている。だが以前から、刀剣関連の書籍でもしばしば彼の名前を見かけることに気づいていた。もとは旗本の家柄なので、家伝刀剣類に興味をおぼえていたのだろうか。どちらかといえば、刀剣よりも刀装具の美に関する著書が多い。
旧・旗本の大熊家に伝わった刀剣類は、かなりの数量におよぶ。他人ごとながら、さぞ手入れがたいへんだったろうと思うのだが、刀剣のためにメンテナンス専門の家令を雇用していたのかもしれない。家伝の刀剣は、もちろん江戸期から伝わっているもので、刀身(白鞘で休ませている刀身)のほか、柄(つか)や柄巻、目貫(めぬき)、柄頭(つかがしら)、鐺(こじり)、鐔(鍔:つば)、小柄(こづか)、笄(こうがい)、鞘(さや)、そして下緒(したお)にいたるまで、刀装具すべての保守・管理をしなければならなかったとみられるので、膨大な手間ひまがかかっただろう。
大熊家の刀剣は、判明しているだけで刀(打ち刀=大刀のこと)が25振り、脇指が24振り、短刀が5振りで、刀と脇指がほぼ同数なのは江戸期には“二本指し”が、勤めのある武家一般の装いだったからだ。これらには、すべて刀装具が付属しており、それらもすべて含めた手入れは、やはり専門職に頼らざるをえなかっただろう。時代は新刀(慶長~安永期=江戸前期)の作品が多く、ことに大熊家の先祖には小糠肌を焼く肥前刀好きと、中世以降に相州伝の影響が色濃い美濃の関鍛冶のファンがおり、好んで作品を購入していたようだ。
また、旗本らしく幕府の抱え鍛冶で茎(なかご)に葵紋を切るのが許された、“南蛮鉄”の使用が目立つ「越前康継」、同じく越前鍛冶の「伯耆守汎隆」、大坂新刀の流れをくんだ濤乱刃の「越中入道紀充」など、日本海側出身の作品が目立つ。古刀(平安~室町期)では、めずらしいところで室町初期の平安城派(後三条派)と呼ばれる「三条吉則」、織田信長の抱え鍛冶だった美濃鍛冶「若狭守氏房」などだろうか。先祖が江戸後期に入手したのだろう、新々刀(安永~明治初期)では松平白河藩の抱え鍛冶だった「固山宗次」や、湯島天神の傍で鍛刀していた「南海太郎朝尊」の作品も見える。もっとも、大熊家の刀剣目録は寛政期までのをめやすにしており、幕末に手に入れた新々刀がもう何振りが伝わっていたのかもしれない。
ここで、ざっと幕臣だった大熊家について概観しておこう。大熊喜邦の曽祖父にあたる大熊喜住は、佐渡奉行から幕府評定所(寺社奉行+町奉行+勘定奉行による共同裁定組織)の留役をつとめ、禄高は400俵(約160石)の旗本だった。だが、「天保年間仙石道之助家来吟味」(通称:仙石騒動)の探索で功績があり、給与倍増の800俵(約320石)取りになっている。さらに、200俵加増されて1,000俵、晩年には長年勤務の役料としてプラス1,500俵と、加えて100人扶持が支給されるようになり、併せて2,500俵(約1,000石)と100人扶持の支給となっている。
大熊喜邦によれば、大熊家の先祖には特別に熱心な刀剣趣味の人物は見あたらず、刀に対する好き嫌いぐらいはあっただろうが、おそらく先祖は禄高に見あった刀剣を、時代ごとに気の向くまま所有したまでだろうと語っている。(「刀剣資料」25/南人社) 確かに、これまで拙サイトでご紹介してきた大名家の収蔵刀に比べれば、かなり地味でしぶい収蔵作品ばかりだが、1,000石100人扶持の旗本としてはこれぐらいの作品所有が妥当だったのだろう。けれども、戦災をくぐり抜けた現代から見れば、いずれも日刀保から特別保存刀剣や重要刀剣に指定されそうな作品ばかりが並んでおり、当時はほぼ“現代刀”だったそれらの価値は飛躍的に高まっている。
さて、50振り以上の刀剣(鎗や薙刀は含まず)を所有していた大熊家だが、大熊喜邦が惹かれたのは刀身の美よりも、おもに美しい意匠がほどこされた刀装具のほうだった。特に鍔(鐔:つば)の研究では、本を何冊も出版するほどの入れこみようで、いまでも刀剣書籍(刀装具)のなかでは重要な資料の位置を占めている。ご存じのように、江戸期に入ると戦闘がほとんどなくなり、また銃砲の役割りが大きくなるにつれ、武器としての刀剣の比重は徐々に低下する一方となった。すると、武家社会では刀剣を武士の象徴とし、美しく装飾して誇示する趣味が流行するようになる。
旧・旗本の大熊家に伝わった刀剣類は、かなりの数量におよぶ。他人ごとながら、さぞ手入れがたいへんだったろうと思うのだが、刀剣のためにメンテナンス専門の家令を雇用していたのかもしれない。家伝の刀剣は、もちろん江戸期から伝わっているもので、刀身(白鞘で休ませている刀身)のほか、柄(つか)や柄巻、目貫(めぬき)、柄頭(つかがしら)、鐺(こじり)、鐔(鍔:つば)、小柄(こづか)、笄(こうがい)、鞘(さや)、そして下緒(したお)にいたるまで、刀装具すべての保守・管理をしなければならなかったとみられるので、膨大な手間ひまがかかっただろう。
大熊家の刀剣は、判明しているだけで刀(打ち刀=大刀のこと)が25振り、脇指が24振り、短刀が5振りで、刀と脇指がほぼ同数なのは江戸期には“二本指し”が、勤めのある武家一般の装いだったからだ。これらには、すべて刀装具が付属しており、それらもすべて含めた手入れは、やはり専門職に頼らざるをえなかっただろう。時代は新刀(慶長~安永期=江戸前期)の作品が多く、ことに大熊家の先祖には小糠肌を焼く肥前刀好きと、中世以降に相州伝の影響が色濃い美濃の関鍛冶のファンがおり、好んで作品を購入していたようだ。
また、旗本らしく幕府の抱え鍛冶で茎(なかご)に葵紋を切るのが許された、“南蛮鉄”の使用が目立つ「越前康継」、同じく越前鍛冶の「伯耆守汎隆」、大坂新刀の流れをくんだ濤乱刃の「越中入道紀充」など、日本海側出身の作品が目立つ。古刀(平安~室町期)では、めずらしいところで室町初期の平安城派(後三条派)と呼ばれる「三条吉則」、織田信長の抱え鍛冶だった美濃鍛冶「若狭守氏房」などだろうか。先祖が江戸後期に入手したのだろう、新々刀(安永~明治初期)では松平白河藩の抱え鍛冶だった「固山宗次」や、湯島天神の傍で鍛刀していた「南海太郎朝尊」の作品も見える。もっとも、大熊家の刀剣目録は寛政期までのをめやすにしており、幕末に手に入れた新々刀がもう何振りが伝わっていたのかもしれない。
ここで、ざっと幕臣だった大熊家について概観しておこう。大熊喜邦の曽祖父にあたる大熊喜住は、佐渡奉行から幕府評定所(寺社奉行+町奉行+勘定奉行による共同裁定組織)の留役をつとめ、禄高は400俵(約160石)の旗本だった。だが、「天保年間仙石道之助家来吟味」(通称:仙石騒動)の探索で功績があり、給与倍増の800俵(約320石)取りになっている。さらに、200俵加増されて1,000俵、晩年には長年勤務の役料としてプラス1,500俵と、加えて100人扶持が支給されるようになり、併せて2,500俵(約1,000石)と100人扶持の支給となっている。
大熊喜邦によれば、大熊家の先祖には特別に熱心な刀剣趣味の人物は見あたらず、刀に対する好き嫌いぐらいはあっただろうが、おそらく先祖は禄高に見あった刀剣を、時代ごとに気の向くまま所有したまでだろうと語っている。(「刀剣資料」25/南人社) 確かに、これまで拙サイトでご紹介してきた大名家の収蔵刀に比べれば、かなり地味でしぶい収蔵作品ばかりだが、1,000石100人扶持の旗本としてはこれぐらいの作品所有が妥当だったのだろう。けれども、戦災をくぐり抜けた現代から見れば、いずれも日刀保から特別保存刀剣や重要刀剣に指定されそうな作品ばかりが並んでおり、当時はほぼ“現代刀”だったそれらの価値は飛躍的に高まっている。
さて、50振り以上の刀剣(鎗や薙刀は含まず)を所有していた大熊家だが、大熊喜邦が惹かれたのは刀身の美よりも、おもに美しい意匠がほどこされた刀装具のほうだった。特に鍔(鐔:つば)の研究では、本を何冊も出版するほどの入れこみようで、いまでも刀剣書籍(刀装具)のなかでは重要な資料の位置を占めている。ご存じのように、江戸期に入ると戦闘がほとんどなくなり、また銃砲の役割りが大きくなるにつれ、武器としての刀剣の比重は徐々に低下する一方となった。すると、武家社会では刀剣を武士の象徴とし、美しく装飾して誇示する趣味が流行するようになる。



その様子を、1922年(大正11)に鈴木書店から出版された、大熊喜邦『鐔百姿』から引用しよう。
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昔武家生活の時代には刀は武士の生命とするところで、中身(刀身)は勿論、太刀(たち)の造りや刀剣の拵(こしらえ)には柄(つか)の頭(かしら)から鐺(こじり)の先迄心血を注で意匠を凝らした。時には数年は愚か十数年を費して一組を纏めた事さへもあると聞いてゐる。かやうな理で一枚の鐔一組の目貫(めぬき)にも持つ人の趣味や好尚は窺はれるので、それがたとへ仕入れものでも選択に個性の現れはある。また其の時代には體に着ける装身具的のものとして人前に誇るものは印籠(いんろう)と刀剣で、殊に目に触れ易い刀剣の装飾には身分不相当な金をかけ、一つ一つにさへ目に見へぬ苦心をし、己れが好みの全体をそれに傾けた程のものである。かゝる有様であるから、彫工でも鐔工でも小柄(こづか)の柄一本、鐔の一枚に力作を試み其の手法も意匠にも彫心鏤骨(ちょうしんるこつ)の痕を見せぬものはないのである。(カッコ内引用者註)
▲
文中で「太刀」と書いているのは、腰に指す打ち刀の大刀のことで、たとえば鎌倉武士が腰に佩く(下げる)、打ち刀とは表裏が逆な太刀(たち)のことではない、
大熊喜邦が、刀身ばかりでなくその拵(こしら)えに、いかに注目していたかを感じさせる文章だ。平和な江戸期には、武士たちは刀装具のデザインにカネをかけて凝りに凝った。それらは、室町期以前とは比較にならないほど、芸術的で豪華な工芸作品を産みだしていく。
幕府は繰り返し、大刀と脇指の長さ(刃長)に基準を設け、奢侈な刀剣拵えを規制しようとするが、そもそも江戸幕府の規制は「触書政治」(触書の内容は基本的に自治組織へ一任されており、取り締まる機関も員数が少なく手配がとどかない)が基本で守らない武家や市民も数多く、拵えに凝る武家の趣味は幕末まで変わらなかった。幕府の意向に沿う地味な刀は、役向きの勤務時のみに指してでるが、趣味や好みを存分に反映した刀は役向き以外の外出時、あるいは自宅に何振り所有してても勝手で咎められなかった。また、幕府の規制に一見適合しているように見えても、刀装具を細見すると贅沢な素材や彫刻、金銀細工、蒔絵などが施されていることも少なくなかった。武家の指している刀を見れば、およそ石高や台所事情、懐具合を推し量ることができただろう。
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昔武家生活の時代には刀は武士の生命とするところで、中身(刀身)は勿論、太刀(たち)の造りや刀剣の拵(こしらえ)には柄(つか)の頭(かしら)から鐺(こじり)の先迄心血を注で意匠を凝らした。時には数年は愚か十数年を費して一組を纏めた事さへもあると聞いてゐる。かやうな理で一枚の鐔一組の目貫(めぬき)にも持つ人の趣味や好尚は窺はれるので、それがたとへ仕入れものでも選択に個性の現れはある。また其の時代には體に着ける装身具的のものとして人前に誇るものは印籠(いんろう)と刀剣で、殊に目に触れ易い刀剣の装飾には身分不相当な金をかけ、一つ一つにさへ目に見へぬ苦心をし、己れが好みの全体をそれに傾けた程のものである。かゝる有様であるから、彫工でも鐔工でも小柄(こづか)の柄一本、鐔の一枚に力作を試み其の手法も意匠にも彫心鏤骨(ちょうしんるこつ)の痕を見せぬものはないのである。(カッコ内引用者註)
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文中で「太刀」と書いているのは、腰に指す打ち刀の大刀のことで、たとえば鎌倉武士が腰に佩く(下げる)、打ち刀とは表裏が逆な太刀(たち)のことではない、
大熊喜邦が、刀身ばかりでなくその拵(こしら)えに、いかに注目していたかを感じさせる文章だ。平和な江戸期には、武士たちは刀装具のデザインにカネをかけて凝りに凝った。それらは、室町期以前とは比較にならないほど、芸術的で豪華な工芸作品を産みだしていく。
幕府は繰り返し、大刀と脇指の長さ(刃長)に基準を設け、奢侈な刀剣拵えを規制しようとするが、そもそも江戸幕府の規制は「触書政治」(触書の内容は基本的に自治組織へ一任されており、取り締まる機関も員数が少なく手配がとどかない)が基本で守らない武家や市民も数多く、拵えに凝る武家の趣味は幕末まで変わらなかった。幕府の意向に沿う地味な刀は、役向きの勤務時のみに指してでるが、趣味や好みを存分に反映した刀は役向き以外の外出時、あるいは自宅に何振り所有してても勝手で咎められなかった。また、幕府の規制に一見適合しているように見えても、刀装具を細見すると贅沢な素材や彫刻、金銀細工、蒔絵などが施されていることも少なくなかった。武家の指している刀を見れば、およそ石高や台所事情、懐具合を推し量ることができただろう。



刀装具のなかで、大熊喜邦が注目したのは鍔(鐔:つば)だった。刀(大刀)の鍔は径が広いため、さまざまなテーマによる絵画やデザインが可能で、小柄・笄とともに金工師や彫師による腕の見せどころとなった。大熊喜邦が、初めて鍔(鐔)に興味をおぼえたのは1910年(明治43)ごろのことで、当時は刀剣に付属する鍔(鐔)の細工美に目を向ける人物などほとんどいなかった。ましてや刀剣ではなく、鍔(鐔)を収集して観賞しようなどというような趣味も存在しなかった。1930年(昭和5)に洪洋社から出版された、大熊喜邦『古鐔図録・続』の「はしがき」から少し引用してみよう。
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私が鐔といふ小さな作品に案外大きな芸術の潜んでゐるのを見て驚かされたのは今から約二十年も前であつた。それから鐔に趣味をもち愛玩する様になつたが、それも鉄の透鐔(すかしつば)と真鍮象嵌鐔(ぞうがんつば)といふ極く限られた範囲のものであつた。それはこの二つの種類のものに私が最も印象づけられたからで、この範囲は今も変りはない。時に鉄鐔の精巧なる作品に手を触れてはゐるが、それは鉄といふ地鉄に痕づけられた作者の繊細な而して麗はしい彫法に共鳴をもつからである。(中略) どちらにしても鐔は見れば見るほど面白いもので好愛者の少ないのを不思議に思ふほどであるが、研究すればするほどむづかしいものであると思はない時はない。
▲
いまでこそ、鍔(鐔)を収集する愛好家は数多く存在し、根付(ねつけ)の蒐集家とほぼ同じぐらいいるのではないかと想像するが、当時は刀剣の付属品ほどの意味しかもたず、鍔自体の美や面白味を観賞する人が少なかったのだろう。現代では鍔はもちろん、小柄穂(こづかほ)や縁頭(ふちがしら)、鐺(こじり)、目貫(めぬき)が専門の愛好家さえ数多くいる。
ただし、この趣味も数が増えてくると手入れが大変で、真鍮鍔は鹿皮で定期的にぬぐうぐらいでいいのだろうが、鉄鍔は刀剣と同様に丁子油を使って磨かなければならないし、金銀象嵌や七宝などで細工されている場合は、削ったり摺り減らしたりしないよう細心の注意が必要となるだろう。
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私が鐔といふ小さな作品に案外大きな芸術の潜んでゐるのを見て驚かされたのは今から約二十年も前であつた。それから鐔に趣味をもち愛玩する様になつたが、それも鉄の透鐔(すかしつば)と真鍮象嵌鐔(ぞうがんつば)といふ極く限られた範囲のものであつた。それはこの二つの種類のものに私が最も印象づけられたからで、この範囲は今も変りはない。時に鉄鐔の精巧なる作品に手を触れてはゐるが、それは鉄といふ地鉄に痕づけられた作者の繊細な而して麗はしい彫法に共鳴をもつからである。(中略) どちらにしても鐔は見れば見るほど面白いもので好愛者の少ないのを不思議に思ふほどであるが、研究すればするほどむづかしいものであると思はない時はない。
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いまでこそ、鍔(鐔)を収集する愛好家は数多く存在し、根付(ねつけ)の蒐集家とほぼ同じぐらいいるのではないかと想像するが、当時は刀剣の付属品ほどの意味しかもたず、鍔自体の美や面白味を観賞する人が少なかったのだろう。現代では鍔はもちろん、小柄穂(こづかほ)や縁頭(ふちがしら)、鐺(こじり)、目貫(めぬき)が専門の愛好家さえ数多くいる。
ただし、この趣味も数が増えてくると手入れが大変で、真鍮鍔は鹿皮で定期的にぬぐうぐらいでいいのだろうが、鉄鍔は刀剣と同様に丁子油を使って磨かなければならないし、金銀象嵌や七宝などで細工されている場合は、削ったり摺り減らしたりしないよう細心の注意が必要となるだろう。



収蔵品のほとんどが刀剣という、佐野美術館を設計したのが大熊喜邦の子息である大熊喜英というのも、大熊家と刀剣との深いつながりを感じさせる仕事だ。はたして、大熊喜邦が収集した鍔(鐔)や、大熊家の刀剣類は戦災をくぐり抜け、はたして戦後まで何振りが保存できただろうか。
◆写真上:ともに鉄鍔で、三国志図象嵌鍔(左)と波小鼓透鍔(右)。
◆写真中上:上は、竹梅彫刻は新刀の祖・埋忠明寿写しだろうか幕府抱え鍛冶の初代・越前康継押形。中は、白河松平藩の抱え鍛冶だった固山宗次押形。下は、1925年(大正14)出版の大熊喜邦『古鐔図録』(洪洋社/左)と1933年(昭和8)出版の『古鐔図録・続』(右)。
◆写真中下:上は、1922年(大正11)に出版された大熊喜邦『工芸図案/鐔百姿』(鈴木書店/左)と著者(右)。中は、打ち刀拵えの名称。下は、大熊喜邦『古鐔図録・続』の見開き。
◆写真下:上は、大熊喜邦『古鐔図録・続』の解説。中は、柄の上下に用いる月下秋虫図の縁頭(ふちがしら)。下は、刀剣の収蔵品がメインの静岡県三島市にある佐野美術館(設計:大熊喜英)。
◆写真中上:上は、竹梅彫刻は新刀の祖・埋忠明寿写しだろうか幕府抱え鍛冶の初代・越前康継押形。中は、白河松平藩の抱え鍛冶だった固山宗次押形。下は、1925年(大正14)出版の大熊喜邦『古鐔図録』(洪洋社/左)と1933年(昭和8)出版の『古鐔図録・続』(右)。
◆写真中下:上は、1922年(大正11)に出版された大熊喜邦『工芸図案/鐔百姿』(鈴木書店/左)と著者(右)。中は、打ち刀拵えの名称。下は、大熊喜邦『古鐔図録・続』の見開き。
◆写真下:上は、大熊喜邦『古鐔図録・続』の解説。中は、柄の上下に用いる月下秋虫図の縁頭(ふちがしら)。下は、刀剣の収蔵品がメインの静岡県三島市にある佐野美術館(設計:大熊喜英)。
★おまけ
先日、鞴(ふいご)祭りと紀文についての記事を書いたが、ある方から紀州の柑橘系フルーツをまとめていただいた。写真の左上がユズで右上がライム、そして中央が紀州ミカンだ。農家で栽培されたものではなく、自然におかれた樹木からそのまま収穫されたもので、特にミカンは甘味に強めな酸味が立つ昔ながらの風味で、人工栽培とは異なり非常に香りが強い。たまに種のある房が混じるが、品種改良が進む以前の「昔のほうがもっと美味しかった」と感じるフルーツのひとつ。
★コメント(三島通良)関連地図資料



この記事へのコメント
てんてん
落合道人
ときどき、無性にカップ麺が食べたくなることがありますね。
大原弘明
初めて連絡をさせていただきます。埼玉県川越市に在住している大原弘明と申します。
日本の学校保健の礎を築いた三島通良という人物について調べています。三島通良は1908(明治41)に全国美人写真審査(時事新報社主催)の審査員になったこともあり、こちらのHPでも取り上げられたことがあると思います。
三島通良は1914(大正3)年に下落合に転居しています。住所は下落合436です。この住所は近衛邸の住所と同じでしょうか。
もし、三島通良についてわかることがあれば、お教えいただきたいと思います。よろしくお願いいたします。
なお、三島通良は1925(大正14)年に死去し、下落合の三島家は婿養子の三島徳七が継いでいます。
大原弘明
落合道人
三島通良は、大正初期に下落合436番地へ転居してきているのは、著作の奥付などから確認できますね。この番地は近衛篤麿・文麿邸(のち近衛町)の北側、舟橋了助が近衛家から購入した土地の一画です。したがって、三島通良は舟橋家の借地の上に邸を建設して住んでいた可能性が高いようです。
ただし、三島通良が死去したのち、三島家は下落合から転居しているか、あるいは近くに仮住まいをして、下落合の新たな邸の竣工を待っていた可能性があります。1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」には、すでに下落合436番地には三島家が存在していませんが、1938年(昭和13)作成の「火保図」には、436番地の西側120mほどの敷地、目白中学校の跡地である下落合456番地に、三島徳七邸が確認できます。
この様子から、三島通良が死去したのち、養子の三島徳七はどこかへ転居または近くに仮住まいをして、目白中学校の練馬移転で売りに出された近衛家の下落合456番地の土地を取得し、昭和初期に新邸が完成すると同時に同番地へ転居してきている……と解釈できますね。
記事末に、関連する地図を掲載しました。ご参照ください。