悲願の東京市乗り入れの分岐だった上屋敷駅。

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 武蔵野鉄道の上屋敷駅について、池袋駅にあまりにも近すぎたという理由で廃止になったと、西武線の初代・下落合駅の事例もまじえながら少し前の記事に書いた。だが、上屋敷駅にはもうひとつ、武蔵野鉄道の大きな事業戦略が存在していたことが判明した。
 当時、東京市の市電がいまだ到達していなかったターミナルの池袋駅だが、東京市街地へでるには山手線を利用して大まわりするか、新宿駅で中央線に乗り換える以外に方法がなかった。その不便さを解消するために、地元では盛んに市電誘致運動を行われたが、当時は東京市外だった同地域への新たな市電路線の敷設はありえなかった。東京市電は、郡部と市街の境界だった護国寺までしか開通していない。これは当然といえば当然で、東京市の予算(税金)をつかって市外の地域まで交通網を整備する理由もいわれもなかったからだ。
 このような状況の中、武蔵野鉄道はどうしても東京市街地への乗り入れを実現するため、軌道法による池袋駅が起点の特許(池袋~護国寺間)と、地方鉄道法による免許(雑司ヶ谷旭出~音羽間)の計画線を取得している。雑司ヶ谷旭出とは、もちろん1932年(昭和7)まで存在していた地名で、現在の目白3丁目・4丁目一帯のことだ。そして、その分岐の起点として想定されていたのが、1929年(昭和4)5月25日に池袋駅の近くに開業した旭出駅(のち上屋敷駅)だった。
 この路線が計画された当時、競合相手だった西武線では高田馬場駅を起点に戸山ヶ原の北側、諏訪通りの地下を掘削して早稲田地域(穴八幡社)までをつなぐ、「地下鉄・西武線」を計画中だったことも大きく影響しているのかもしれない。地下鉄は、1927年(昭和2)12月30日に東京地下鉄道の上野~浅草間が開業しており、建物が稠密な市街地に乗り入れるには、膨大な用地買収を必要としない地下鉄方式がリアルに感じられはじめていた。
 先述のように、早くも1914年(大正3)に武蔵野鉄道(現・西武池袋線)と東上鉄道(現・東武東上線)が乗り入れるようになったターミナルの池袋駅だが、東京市街へでるには山手線に乗り換える以外に方法がなかった。そこで、武蔵野鉄道では利用者の増加と便宜をはかるために、さまざまな路線を計画して許認可を受けようとしている。同鉄道は、大正末までに全線電化が実現し、1929年(昭和4)までには池袋~保谷間が複線化されて、蒸気鉄道から高速電気鉄道への脱皮を完了していた。同時に、豊島園や狭山公園への観光客誘致、および大泉学園自由学園(久留米村キャンパス)の開発などで、利用客も年々増加する傾向にあった。
 早期に計画されたのは、池袋駅前から護国寺にいたる延長1.77kmの「護国寺線」だ。出願された軌道(レール)の幅は1,372mmで、護国寺の東京市電と連結する計画だったと想定でき、既存の武蔵野鉄道とは連絡していない。だが、軌道法の特許を受けたこの路線は計画が進展せず、つづいて1928年(昭和3)に地方鉄道法による市街地乗り入れ計画に着手している。この計画では、武蔵野鉄道をそのまま東へ延長するもので、ターミナルの池袋駅の手前、高田町エリアの雑司ヶ谷旭出に新たな「旭出停車場」(のち上屋敷駅)を設置し、同駅を分岐点として音羽へと延長する「音羽延長線」計画だった。運行距離は2.092kmで、軌道幅は武蔵野鉄道と同じ1,067mmだった。後年、軌道法による池袋駅~護国寺間の「護国寺線」は起業しないと自ら計画を廃棄している。
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 さらに、武蔵野鉄道は音羽から先への延長線の申請も行っており、護国寺へ通じる音羽の谷間(現・音羽通り)を通過する693mのみ高架による地上線で、残りの4.537kmの区間はすべて地下鉄方式の計画だった。停車場は6駅が予定されており、旭出駅(のち上屋敷駅)→護国寺前駅→高師(高等師範学校)前駅→伝通院前駅→春日町駅→湯島駅→秋葉原駅の順だった。この6駅の中で、地上駅は旭出(上屋敷)駅と護国寺前駅のみで、他の4駅はすべて地下駅の計画だった。運行する車両は、電働客車6両、付随客車6両が予定されている。
 けれども、この延長路線計画は1928年(昭和3)に申請したものの、東京市や鉄道省からの免許が下りないまま時間ばかりがすぎていった。また、沿線となる地元自治体の反応もいまひとつで計画に拍車がかからず、また予測される建設予定費1,280万円を捻出するのも、武蔵野鉄道の経営状態では困難になりつつあった。特に、工事の大半が地下鉄で建設しなければならず、地上線に比べ工事コストがかさむ点が大きな課題となっていった。しばらくすると、軌道法による池袋~護国寺間(市電仕様)と、地方鉄道法による旭出(上屋敷)~音羽間(武蔵野鉄道仕様)のみの免許が下り、のちに計画を廃棄する「護国寺線」に関しては、水久保地域の盧生予定地の買収をはじめるなど、わずかずつだが工事をスタートしはじめている。
 経営状況の悪化を打開するため、武蔵野鉄道は東長崎駅を起点に落合地域と戸塚地域、大久保地域を縦断して、新宿駅西口へと到達する路線を新たに計画している。停車場としては、東長崎駅→南長崎駅→上落合駅→百人町駅→新宿駅と、新たに4駅が計画線に予定されている。この新線(4.7km)なら建設予定費が230万円ほどですみ、上掲の旭出駅(上屋敷駅)→秋葉原駅よりは現実的だった。だが、この計画は似たようなルートで大東京鉄道がすでに免許を取得していたため、申請は鉄道省に却下されている。また、「護国寺線」は高田町が武蔵野鉄道へ建設を働きかけたが、同鉄道にはすでに同線を敷設する財力がなく、高田町は鉄道をあきらめ新道路の開拓運動に力点を移している。こうして建設されたのが、池袋駅前から根津山をへて護国寺前とを結ぶ補助線第101号、現在の通称グリーン大通りだった。
 また、「音羽延長線」のほうは1929年(昭和4)に上屋敷駅(元・旭出駅)が早々に開業するが、その先の分岐する用地買収も軌道工事も、まったく進捗しないままだった。当時の様子を、1993年(平成5)に土木計画学研究委員会から刊行の「土木計画学研究・講演集」第6号に収録された、小野田滋の論文『武蔵野鉄道による東京都心接続計画とその挫折』から少し長いが引用してみよう。
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 地方鉄道法による音羽延長線<上屋敷~音羽間>も、1929(昭和4)年5月25日に分岐駅となる上り屋敷駅(計画時の旭出停車場)を開業させたのみで工事は一向に進展しなかった。また、地元の高田町会からは、護国寺線の敷設を遅らせるものとして逆に免許取消が求められるような状況であった。/こうした情勢の中で、豊島区議会では1937(昭和12)年1月8日に市電延長委員会を設け、翌年5月には町会連合会幹部とともに市電延長期成同盟を組織し、隣接区会の協賛を得て東京市に陳情を行った。その結果1938(昭和13)年7月29日、東京市と武蔵野鉄道は連名で鉄道省および内務省に対して池袋<~>護国寺間の敷設権を東京市に譲渡する申請を行うに至り、「本件ハ帝都交通ニ多大ノ便益ヲ供シ且ツ地元市民ノ多年ノ要望ニ添フ所以テ之ガ実現ヲ期セントス」という理由により同年10月14日付、監第8085号で認可された。また、付帯条件として未成線である音羽延長線は起業廃止の申請をするとし、同日付の監第8128号で認可され、翌年3月7日付で免許状は返納された。(中略) 東京市では引続き同年11月29日に市電の敷設工事を起工し、翌年4月1日には念願であった池袋~護国寺間が開業した。(< >内引用者註)
  
 こうして、池袋駅に近すぎる分岐のカナメとなるはずだった上屋敷駅は、1938年(昭和13)7月現在で、武蔵野鉄道にとっては役目を終えた無用の駅となってしまった。それまでも、乗降客が少ないにもかかわらず駅としての管理維持費がかさむため、音羽延長線の敷設計画が消えた時点で廃駅にしたかっただろう。だが、皮肉なことに目白駅へ歩いて出られる利便性から人気が高く、存続を望む声が利用者からあがっていたとみられる。同駅は、音羽延長線の敷設計画が消滅してから7年後、1945年(昭和20)2月3日にようやく営業を停止している。
 1935年(昭和10)ごろの武蔵野鉄道は、吾野延長線の建設工事に巨額な投資を行い、1924年(昭和4)からつづく慢性的な赤字経営から脱却することができず、ついには電気料金未払いのために電力会社から一部の送電を停められるなど、電気鉄道にとっては致命的なダメージを受けている。このような経営状態では、新路線の敷設計画など実現できるはずがなかった。そして、1934年(昭和9)にはついに経営が破綻し、裁判所による管財人が会社の財産を管理・処分する事態にまで立ちいたった。経営陣も、筆頭株主だった浅野セメントの役員が退き、株を買い集めていた箱根土地堤康次郎へ実権が移りつつあるような状況だった。武蔵野鉄道の経営再建のめどが立ち、債権者との和解が成立するのは、4年後の1938年(昭和13)9月になってからのことだ。
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 さて、上屋敷駅から分岐し音羽(護国寺)から小石川、湯島、秋葉原へと市街地へ出られる「地下鉄・武蔵野鉄道」が開通していたら、当時の利用者は確かに便利だったろう。それぞれの駅には東京市電の電停も近く、東京市街を縦横に走っていた市電を使えば、すぐに目的の場所へたどり着けたはずだ。でも、地下鉄網が発達している今日では、あまり魅力のある路線とはいえない。むしろ、2000年(平成12)に地下鉄・大江戸線の全線が開通するまでは、東長崎駅から分岐し南長崎駅→上落合駅→百人町駅→新宿駅(西口)へとたどる計画線のほうがやや魅力的に映るだろうか。

◆写真上:昭和初期に撮影された、長崎町あたりを走行する武蔵野鉄道。
◆写真中上は、1939年(昭和14)に“中間駅”の上屋敷駅に停車するモハ1321。は、1934年(昭和9)撮影の武蔵野鉄道貨物列車。は、上屋敷駅跡の現状。
◆写真中下は、1983年(昭和58)に撮影された池袋駅南の山手線踏み切り(廃止)つづきのガード上を通過する西武池袋線の451系車両(赤電)。このガードは、佐伯祐三が隣家の納三治の経営する曙工場でも訪ねたのか、めずらしく下落合ではない風景の『踏切』に描いている。は、椎名町駅に停車する西武池袋線。は、現在の見なれた車両の西武池袋線。
◆写真下は、1935年(昭和10)前後に計画された武蔵野鉄道の計画線。(小野田滋『武蔵野鉄道による東京都心接続計画とその挫折』図版より) は、武蔵野鉄道沿いは空襲の被害が相対的に少なく戦前の家屋が残る。は、1939年(昭和14)4月1日撮影の東京市電の池袋線開通の様子。
おまけ
 近くの森に落ちていたシイの実で、知り合いによればフライパンで炒った中身は子どものオヤツになったそうだ。えぐ味やしぶ味がなく、どこかカシューナッツに似た風味がめずらしい。
シイの実.jpg

この記事へのコメント

  • てんてん

    子供の頃のシイの実鉄砲を思い出しました♪
    2025年10月20日 19:58
  • 落合道人

    てんてんさん、コメントをありがとうございます。
    シイの実鉄砲はやったことありませんが、初めて中身を炒って食べました。
    ドングリとはちがい、けっこう美味しいんですね。
    2025年10月20日 20:24
  • 早稲田のひまつぶし

    初めまして。最近始まったNHKの朝ドラ「ばけばけ」のことを調べていたらこちらに辿り着きました。小泉八雲が大久保辺りに住んでいたのは知っていましたが、その生涯についてはあまり存じ上げませんでした。奥さんの手記に「落合橋から新井薬師まで散歩していた」とあるそうですが、以前自分もその近辺に住んでいたので親近感が湧きました
    2025年10月22日 06:32
  • 落合道人

    ふるたによしひささん、コメントをありがとうございます。
    新車を買われたとのこと、その後のチューニングが楽しみですね。
    2025年10月22日 09:54
  • 落合道人

    早稲田のひまつぶしさん、コメントをありがとうございます。
    小泉八雲は、新井薬師へ参詣するために、大久保から戸山ヶ原へ入り、上落合の
    南端を通る街道(現・早稲田通り)を歩いて新井薬師に向かっていますね。
    夏目漱石も、同じようなコースで新井薬師に向かっていますが、小泉八雲がおそ
    らく同じ道を引き返して迷わず大久保の自宅に帰り着いていますが、漱石(三四郎)
    は帰路を変えたため途中で道に迷い、下落合を通る山手線の線路土手にぶつ
    かっているようです。
    当時は、田畑のなかに農家が散在するような風景で、遠くまで見通せていた
    はずなのに、夏目漱石は方向音痴だったものでしょうか。w
    https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2017-08-08.html
    https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2011-10-22.html
    2025年10月22日 10:08

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