アビラ村(芸術村)の西端にあるアトリエ集合地。

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 下落合(現・中落合/中井含む)の美術分野について調べていると、ときどき画家たちが好んで集まる一画を見つけることができる。下落合の東部でいえば、下落合800番地台のエリアがそれで、おそらく夏目利政がプロデュースしたとみられるアトリエ群が建っていた。
 下落合の中部でいうと、古くから金山平三アトリエを中心に蘭塔坂(二ノ坂)から四ノ坂にかけ、画家のアトリエが集中していた。これは、東京土地住宅三宅勘一によるアビラ村(芸術村)の開発計画と、1925年(大正14)以降に、そのコンセプトを引き継いだとみられる島津家事業のせいだろう。そして、画家たちが集まっていた場所が、アビラ村(芸術村)の西端、中井御霊社の南側にも小規模ながらあることに気がついた。
 以前にご紹介していた、佐伯祐三が描く『洗濯物のある風景』の描画ポイントの周辺には、和洋を問わず画家たちのアトリエがあり、しかも洋画家のアトリエのほうはバッケが原から井上哲学堂方面へ散歩に出かける、画家たちの拠点のような場所になっていたようだ。洋画家のアトリエとは、下落合4丁目2162番地の林明善アトリエであり、その留守をあずかった仲嶺康輝アトリエ、そして日本画家のアトリエは帝展の臼井剛夫アトリエだ。
 そして、1955年(昭和30)に新宿区が刊行した『落合/新宿区落合遺跡調査報告』に収録の、バッケが原から東を向いて撮影された写真には、林明善・仲嶺康輝アトリエ跡の屋根と臼井剛夫アトリエの一部が見えているようだ。もう一度、拡大写真を振り返ってみよう。画面の右側、変圧器を載せた電柱と重なって見えるアトリエ建築とみられる建物は、戦前は東京帝大の生理学教授だった井上清恒邸だが、おそらく戦後に建て替えられ写真が撮影された当時は小梶邸になっていた。だが、この位置に住んだ小梶という画家をわたしは知らない。
 左寄りにある、屋根の主軸を南北に向けた白く光る屋根が、寺尾元彦邸の敷地内に建っていた林明善アトリエ、のち仲嶺康輝アトリエの跡だろう。戦災をまぬがれたエリアなので、“跡”ではなく同一の建物かもしれない。寺尾元彦は早大の法学部長をつとめていたが、自邸内には2棟の借家を建てている。そして、西側の家には林明善(仲嶺康輝)が、寺尾家の母家をはさんで真ん中の家には、声楽家で東京音楽学校(現・東京藝大音楽部)の教授だった渡辺光子(月村光子)が住んでいた。月村邸および寺尾邸の母家は、アトリエの屋根に隠れて見えていない。
 アトリエ建築と仲嶺康輝アトリエ跡の間に、白く光って見えているのは佐久間邸だが、その向こう側に突きでている2階部の建物が、日本画家の臼井剛夫アトリエだとみられる。臼井剛夫は、1943年(昭和18)に病没しているが、戦後もそのまま遺族が住みつづけており、写真が撮影された1955年(昭和30)の時点でも臼井邸は建て替えられず、そのままだった可能性が高い。この一帯に建つ住宅の住所は、すべて下落合4丁目2162番地(現・中井2丁目)であり、拙ブログでは林明善と仲嶺康輝、月村光子、そして佐伯祐三の『洗濯物のある風景』で頻出している番地だ。洋画家たちについては、これまで何度も書いてきているので、今回は長野県出身の日本画家で女子学習院の美術教授だった、臼井剛夫にスポットを当ててみよう。
 1989年(昭和64)に郷土出版社から刊行された、『長野県歴史人物大事典』から引用してみよう。
  
 臼井剛夫 うすい・たけお/日本画家。一八九〇年(明治二三)~一九四三年(昭和一八)。
 下水内郡豊井村(現豊田村)で一六人兄妹の三男に生まれる。旧制飯山中学を出て、高田連隊に一年志願兵として入営後、上京して絵を学ぶ。東京美術学校(現東京芸術大学)を卒業し、女子学習院の助教授から教授となる。(中略) 松岡映丘に師事してその影響を受けたが、一方では結城素明の助言を受けた。第七回帝展に『春はゆく』が初入選、第八回『山かげ』、第一一回『御とづれ』などが続けて入選する。新宿区下落合(現中井二丁目)にアトリエを構え、官展系日本画家として知られた。日本橋の高島屋で個展を開いた。(以下略)
  
 下落合にアトリエをかまえる前は、同じ豊多摩郡の下渋谷に住んでおり、東京35区制が施行される以前、豊多摩郡落合町下落合2162番地の時代にアトリエを建設している。
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 『長野県歴史人物大事典』では、おもに戦前の帝展入選作品が紹介されているけれど、夏目漱石がお好きな方なら臼井剛夫というネームを見たら、まずは『草枕』を想起するのではないだろうか。戦後も、岩波文庫の漱石『草枕』とともに『草枕絵巻』については出版各社から、何度か美術本や絵巻の解説本が刊行されている。岩波書店でいえば、1987年(昭和62)に出版された川口久雄『漱石世界と草枕絵』が代表的な書籍だろう。
 漱石ファンなら、改めて解説する必要などないと思うが、『草枕』は1906年(明治39)の7月26日から8月9日にかけ、当時、漱石が住んでいた千駄木の自宅で執筆され、文芸誌「新小説」9月号に掲載された作品だ。この『草枕』に描かれた小説の情景を、日本画家たちが絵巻物にしてみようと企画したのが、1926年(大正15)から制作が開始される『草枕絵巻』だ。企画したのは松岡映丘で、門下生だった山口逢春や岩田正巳、山本丘人、臼井剛夫など映丘が主宰する新興大和絵会に加入していた27人の日本画家が協力している。ちょっと余談だが、松岡映丘が下落合の中村彝アトリエの路地をはさんだ西隣りに、アトリエを建てて転居してくるというウワサが、下落合で一時まことしやかに流れたことがあり、中村彝もそれを耳にしている。
 『草枕絵巻』は、1926年(大正15)7月11・12日の2日間、築地本願寺で「草枕絵巻展」として公開され、かなりの人気を呼んだようだ。そして、臼井剛夫が描いたのは、洋画家である『草枕』の主人公が「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい」などと想いながら山路を逍遥し、雨でズブ濡れになりながらたどり着いた、印象的な峠の茶屋のシーンだった。『草枕絵巻』に添えられた茶屋の一節を、『草枕』より引用してみよう。
  
 「おい」と声を掛けたが返事がない。/軒下から奥を覗くと煤けた障子が立て切つてある。向う側は見えない。五六足の草鞋が淋しさうに庇から吊されて、屈託気にふらりふらりと揺れる。下に駄菓子の箱が三つ許り並んで、そばに五厘銭と文久銭が散らばつて居る。/「おい」と又声をかける。土間の隅に片寄せてある臼の上に、ふくれてゐた鶏が、驚ろいて眼をさます。クゝゝ、クゝゝと騒ぎ出す。敷居の外に土竃が、今しがたの雨に濡れて、半分程色が変つてる上に、真黒な茶釜がかけてあるが、土の茶釜か、銀の茶釜かわからない。幸ひ下は焚きつけてある。
  
夏目漱石「草枕」岩波文庫1987.jpg 川口久雄「漱石世界と草枕絵」.jpg
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 『草枕』から、この部分を抜き出して絵にするのが臼井剛夫に与えられた仕事だった。小説では、このあと峠茶屋の「婆さん」が出てきて、濡れネズミになった主人公を火のそばへいざない、彼は画家の眼で周辺の景色や風物を眺める……というような展開になっている。臼井剛夫は、この一節の情景を忠実に再現して描いているのがわかる。(冒頭写真)
 ここでちょっとだけ再度の余談だが、主人公の画家は茶屋に着いて呼びかける際に「おい」と声をかけている。夏目漱石旧・乃手育ちなので、「おい」という言葉が性に合っていたのだろうが、町場で育った主人公(を想定する)なら、「もし」あるいは「もうし」と呼びかけただろう。この育ちのちがいは、いつか「もしもし」と「おいおい」の記事で書いた憶えがある。現代のシーンにたとえれば、訪ねて誰もいない場合によくつかわれる呼びかけ言葉は、「すみませ~ん!」(山手言葉)と「すいませ~ん」(町言葉)に通じる相違と同じような感覚だろうか。
 さて、以前から登場している洋画家・林明善だが、仲嶺康輝ほどには詳述してこなかったので、ご紹介しておきたい。1899年(明治32)に名古屋で生まれた彼は、智山大学を卒業後、川端画学校や同舟舎へ通いながら洋画を学び、下落合734番地にアトリエをかまえた片多徳郎へ師事している。第一美術協会に所属し、帝展・新文展に作品を出展しつづけ入選を繰り返していた。林明善は、実家が寺だったせいか僧籍を継承するために名古屋へもどり、空いた下落合4丁目2162番地のアトリエを仲嶺康輝に貸していたという経緯だ。
 仏教が身近にある環境で育ったせいか、佐伯祐三の“美意識”=「無有好醜」と同じような眼差しをもっていたのがわかる。1919年(大正8)の「智山学報」6号に、林明善は「表紙画の説明にかへて」(1919年6月7日執筆)という文章を残している。少しだけ引用してみよう。
  
 自分は太陽を賛美する時にも、土の塊を見つめる時にも、塵箱の一隅をのぞく時にも、少くとも無限の美と無限の変化とを思はせられずには居られない。
  
 あらゆるもの、それはキタナイものにでも無限の“美”は認められ、流転や変化をつづけると書く林明善の眼は、どこかで佐伯祐三の眼差しと重なるところが多分にありそうで面白い。
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 林明善は、洋画家であると同時に僧を生業としたせいか仏教彫刻に惹かれ、後年、創作版画の分野で仏像をモチーフにした作品を数多く残している。また、廃寺などで処分される予定だった仏像を引きとったりもしていたようだ。1938年(昭和13)に、わずか40歳の若さで死去している。

◆写真上:1926年(大正15)に制作された、『草枕絵巻』に収録の臼井剛夫「峠の茶屋」(部分)。
◆写真中上は、『落合/新宿区落合遺跡調査報告』(1955年)に収録の写真拡大。(AI着色) 中上は、1938年(昭和13)作成の「火保図」にみる下落合4丁目2162番地界隈。中下は、1947年(昭和22)の空中写真にみる各邸。は、臼井剛夫アトリエ跡の現状(左手)。
◆写真中下は、岩波書店から出版された夏目漱石『草枕』(岩波文庫版/)と、同じく川口久雄『漱石世界と草枕絵』(1987年/)。中上は、1926年(大正15)制作の臼井剛夫『春はゆく』。中下は、1929年(昭和4)制作の同『山荘のはつなつ(初夏)』。は、制作年不詳の同『水無月の旅』で「おくのほそ道」に出立したばかりの松尾芭蕉と河合曾良を描いたようだ。
◆写真下は、1927年(昭和2)制作の林明善『盛果之図』。中上は、1928年(昭和3)制作の同『無題』。中下は、寺尾邸と臼井アトリエが並んで建っていた(右手)八ノ坂。は、寺尾元彦邸跡で手前から寺尾家母家、渡辺光子(月村光子)邸、林明善・仲嶺康輝アトリエ跡の現状(左手)。

この記事へのコメント

  • てんてん

    (# ̄  ̄)σ・・・Nice‼です♪
    2025年11月19日 20:32
  • 落合道人

    てんてんさん、コメントをありがとうございます。
    晩秋の夕日はつるべ落としとはよく言ったもので、5時を少しすぎると
    すぐに黄昏どきを迎えます。
    2025年11月19日 21:23

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