江戸東京の鞴(ふいご)祭りにミカンと紀文。

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 拙ブログをはじめたころ、いまではすっかり目立たなくなった江戸東京の鞴(ふいご)祭りについて書いたことがある。国家の基盤にかかわる、製鉄や鉄製品(武器や建設・農器具など)を製造する際に、大鍛冶・小鍛冶たちが常用する鞴(ふいご)だが、毎年11月8日(地方によっては2月7日または毎月8日)に行なわれる産鉄神あるいは鍛冶神を奉るのが鞴祭りだ。
 鞴祭りは、別にタタラの産鉄集団や刀鍛冶、刃物や農具、大工道具などの道具鍛冶(野鍛冶)に限らず、それらを使って仕事をする彫師や鋳物師、鑢(やすり)師、石工、金工、大工など職人の間でも行われている。これらの工房や製作所には、道具の修理や保守などメンテナンスのために、小型の火床(ほと)や鞴(ふいご)など簡易な鍛冶道具一式を備える鍛冶場が、どこにでも設置されれていたからだ。佐伯米子の実家である、尾張町から新橋へ移転した池田象牙店でも、象牙加工の鑿(のみ)や彫刻刀を用いるので、鞴祭りが行われていたかもしれない。
 これら鞴のある工房に奉られた神棚、鞴祭りで祈念した産鉄神あるいは鍛冶神としては、金山姫や金山彦、荒神(こうじん)、鋳成神(いなりしん)などがいる。これらの神々は、別に鍛冶職のみならず、金山神はカンナ流しやタタラ製鉄が行われていた場所などに金山社(神社)が建立されており、荒神の社(やしろ)は近世に「幸神」や「古神」など別の字があてはめられ、まったく異なる意味の社となっている場合が多い。また、鞴と火床の神のはずが、近世に料理場や台所にある竈(かまど)の神へと転化し、「三宝荒神」として奉られているケースも多々ある。
 また、古来からの鋳成神は、奈良期以降に朝鮮半島の新羅からもたらされたといわれる農業神の「稲荷」と習合し、全国各地の鋳成神の社が「稲荷」社へと転化した様子がうかがえる。田畑などない崖地や、山丘の斜面に建立されている稲荷社は、古来から日本で奉られていた鋳成社の存在を疑うと、その周辺の地下からはスラグ(鉱滓)=金糞・鐵液、すなわちタタラ製鉄で鉧(けら)を精製したあとの鉄クズなどが出土する事例が多い。また、鞴の羽口(はぐち)や溶炉の跡などが出土することもある。戦時で満足に調査されず、改正道路(山手通り)の工事でスラグ(鉄滓)が出土したまま破壊された、タタラ遺跡とみられる「中井遺跡」ではどうだったのだろう?
 武家や町人の別なく、鍛冶職の鞴(ふいご)祭りでは神前に並べられる供物として、江戸期になると燈明や注連縄のもとにミカン、餅、清酒、するめ、菓子などが供えられている。なぜミカンが供えられるのか、その由来は曖昧でハッキリしないが、目白(鋼)=鉄がもっとも忌避する「酸」味のある美味しい水菓子(フルーツ)を、この日だけは解禁して神々に美味しく食べてもらうためとか、熟したミカンの色合い(ふつうは熟柿色といわれる)が、灼熱の良質な目白(鋼)に色が似ているからだとか、多彩な説が存在するが近世につくられた付会臭がしないでもない。
 神前に供えられた、これらのミカンや餅、菓子類は近所の家々に配られ、また早朝から鍛冶屋の前に集まった子どもたちや近隣の人々へ、ちょうど節分の豆まきのようにバラ撒かれた。特に鞴祭りに備えられたミカンを食べると、1年間は風邪を引かない(病にかからない)という謂れがあったため、子どもたちばかりでなく大人たちも競ってミカンを手に入れようとした。これは、大名屋敷に設置された鍛冶場でも同様で、鞴祭りの供物は近隣の屋敷へ配られ、また屋敷の門前には多くの人々が参集してミカンや菓子類がまかれるのを待っていた。
 鞴祭りに集まった子どもたちが、鍛冶屋の店先や屋敷の門前で唱和する囃し言葉は、「♪鍛冶屋のビンボー、ビンボー鍛冶屋~」が定番だった。確かに戦(いくさ)などなくなってしまった、江戸期の刀鍛冶はかなりの貧乏暮らしをしており、名の知られた刀匠でない限りは生活が困窮していて、野鍛冶(道具鍛冶)へと転向する刀鍛冶も当時は少なくなかった。目白の金山稲荷社の付近で鍛刀していた江戸石堂の一派が消えてしまったのも、道具鍛冶へ転向したせいかもしれない。
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 また、多種多様な道具を製作する街中の鍛冶屋は生活が豊かだったが、「鍛冶屋のビンボー」は囃し言葉として定着し、町人や武家の別なく子どもたちは囃し立てている。鞴祭りの様子を、1969年(昭和44)に雄山閣から出版された、福永酔剣『刀鍛冶の生活』から少しだけ引用してみよう。
  
 江戸では八日の未明に、町内の子供たちが鍛冶屋の前に集まり、「鍛冶屋の貧乏、鍛冶屋の貧乏」、とはやし立てた。すると鍛冶は、「早朝からうるさいやつらだ」、とこぼしながら二階から蜜柑や餅をまくのが、習わしになっていた。「餅みかんフイゴまつりやつかみ取り」(下風)の句は、それを詠んだものである。つぎに鍛冶場では、フイゴに注連縄をはり、灯明・蜜柑・餅・神酒などのお供物をした。そして神官をよんで、おはらいをしてもらった。それがすむと、フイゴに供えた蜜柑は風邪の薬になる、というので、親類近辺の子供のいる家には配って回った。「兄弟子の長き羽織やフイゴ祭」(行々子)、という句があるとおり、その日は弟子たちも晴れ着をきていた。なお「古弟子をフイゴ祭に招きける」(秋渓)、とあるとおり、古弟子も招いて赤飯でお祝いをした。
  
 江戸の街中では、暖簾分けをして店をかまえている弟子の鍛冶屋や、武家では刀匠から独立して一本立ちした刀鍛冶まで招いて、鞴祭りが行われていた様子がうかがえる。
 もうお気づきだと思うが、今日でいえば正月の餅、バレンタインデーのチョコレート、土用の丑の日のウナギ、クリスマスイブのケーキと同様に、毎年11月8日の鞴祭りが近づくと、江戸では大量のミカンが消費されていたことがわかる。それまでも、ミカンは相模(現・神奈川県)の二宮(江戸期におけるミカン栽培の北限)から西、おもに伊豆から駿河(現・静岡県)にかけて収穫されたものは、江戸市中の水菓子屋(フルーツ専門店)の店頭に並んで出まわっていたが、一度に大量のミカンが食べられるのは、11月の鞴祭り前後と相場が決まっていた。
 そのため、10月末から11月の初めにかけ、いかにスムーズに江戸市中へミカンを流通させるかが、水菓子屋ひいては水菓子問屋の大きな課題だった。大都市化が進む江戸市中では、冬になるとミカンの消費量が増えつづけ、鞴祭りの前後にミカンの需要がピークを迎えると、年に一度のせっかくの商機をミカン不足で逃してしまうことになりかねない。現に、相模産や伊豆駿河産のミカンだけでは不足気味で、年々品薄の状態が起きており、価格の高騰も招いて商売自体が困難になりつつある状況だった。そこに目をつけたのが、紀国の紀伊国屋(きのくにや)文左衛門だったのだ。
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 ちょっと余談だが、紀国を紀伊国と記述するようになったのは江戸期からで、本来は紀国(きのくに)が正しい。江戸期の書物に、読みや母音の曖昧さを回避するため、おもに「イ」の母音を中心に漢字の「伊」がふられている。斐川(ひかわ=氷川)に「伊」を加えて、斐伊川・簸伊川などと表記されるようになったが、読みはいずれも「ひかわ」が正しい。同様に、江戸期から使われていた「半島」(オランダ訳語)という地形表現を意識すれば、現代では紀伊半島を「きいはんとう」と発音するけれど、江戸期も含め本来の読みは「きのはんとう」だろう。
 さて、紀伊国屋文左衛門がミカン船を江戸に回航して大もうけをしようと思ったのは、俗説によれば海が荒れて嵐が近づいため、他のミカン船が出航をためらうのを尻目に、生命を賭けて荒海に乗りだし、なんとか江戸に回航できて市場では稀少だったミカンをとどけたからだ……というのがある。でも、これでは紀文が死を賭して出航する理由としては弱すぎる。ミカンを安全かつ確実に江戸へとどけるには、海が少しでも凪ぐのを待ち船出をすればいいだけの話だ。
 今日ではほぼ忘れられているが、紀伊国屋文左衛門は積み荷のミカンを、是が非でも江戸の鞴祭りまでに間にあわせる必要があったのだ。紀文がマーケティングの支柱としていたのは、海が荒れてても嵐の中でも、とにかくミカンの大量消費が見こめる11月8日の鞴祭りの前に、なんとしてでもミカンを江戸市場へとどける必要があったのだ。これは、江戸の鞴(ふいご)がある街中の町人鍛冶屋はもちろん、武家の鍛冶屋(刀鍛冶や宮鍛冶、金工師など)、あるいは大名家の中に鍛冶場を設けている屋敷(中屋敷・下屋敷)、そして鍛冶屋が鍛えた刃物や道具を使うさまざまな職人の工房でも、ミカンが大量かつ一度期に消費されるからで、紀文は生命を危険にさらしてでも、荷のミカンが鞴祭りに間にあわなければ意味がないと考えたからだ。紀文の思惑は当たり、彼のミカンは高値で取引されて大もうけをしている。
 江戸後期になると、大江戸(おえど)では冬を代表する水菓子となったミカンは、鞴(ふいご)初めにも神棚へ供えられたかもしれない。鞴初めは、鍛冶屋ばかりでなく鞴を用いるすべての職人の仕事(細工)初めであり、正月の元旦ないしは2日が多かった。鞴初めは、本格的な仕事はせず、道具鍛冶の場合はミニチュアの小さな鉈(なた)・斧(おの)や包丁、刀鍛冶の場合は小さな玩具のような刀(刀子:とうす)や、槍・薙刀(なぎなた)などをつくり、神棚へ供えるのがしきたりだった。
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 その際、金山神や荒神、鋳成神へ正月の餅や神酒、菓子類などとともに、ミカンが添えられたとしてもおかしくないだろう。供物のミカンは弟子や職人たちが相伴したのだろうが、ビタミンCを多く摂取すると風邪を引きにくいというのは、江戸の人々も経験則で知っていたにちがいない。

◆写真上:現代の紀州ミカン(左)と、江戸期から改良されなかった300年来の小さなミカン(右)。
◆写真中上は、江戸期に鍛冶場で用いられていた手押し鞴(ふいご)で、穴の開いているところに火床(ほと)へ風を送る羽口(はぐち)が取りつけられる。は、現代の鞴祭りでもミカンやするめ、清酒は欠かせない供物だ。は、1935年(昭和10)撮影の目白坂中腹に建立されていた目白不動で、江戸市中の刀鍛冶や金工師の崇敬を集めていた。
◆写真中下は、長野県三宝寺の邪鬼を踏む荒神像。は、鳥羽市河内町に伝わる荒神像。江戸期から現代まで、荒神は住宅の火事除けや安産を祈願する神にもされてしまい超多忙になった。w は、1734年(享保19)に描かれた紀伊国屋文左衛門像。
◆写真下上左は、1969年(昭和44)出版の福永酔剣『刀鍛冶の生活』(雄山閣)。上右は、江戸期には竈のあるどこの料理場や台所にも貼られていた三宝荒神の護符。は、1688年(貞享6)編纂の『正月揃』に収録の「鞴初め」。は、鞴初めで奉納された武器や刃物のミニチュア作品。
おまけ
 刀匠と弟子の相槌(あいづち)打ちによる鍛刀風景で、火床の手前に見える大きな箱が手押し鞴。
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この記事へのコメント

  • てんてん

    (# ̄  ̄)σ・・・Nice‼です♪
    2025年11月16日 19:18
  • 落合道人

    てんてんさん、コメントをありがとうございます。
    わたしも冬は、足の脛のあたりが乾燥気味ですので、自分に合う
    オイルを探したほうがいいかもしれませんね。
    2025年11月16日 20:17

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