いまどきの学生たちがこだわる立て看とは。

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 わたしの学生時代には、大学のキャンパス内にはさまざまな立て看が設置されていた。新左翼のセクトによる政治的・思想的なプロパガンダから、サークル活動や同好会への勧誘、学外から特別講師を招いての講演会、著名な音楽家によるコンサート、各種の演劇サークルや団体などによる新劇上演の告知など多種多様だった。
 その中でもっとも多く、また規模が大きかったのは新左翼のセクトによる集会へのオルグと、政治思想のプロパガンダを書きつけた立て看だった。ところが、多くの大学からセクトが追いだされたあと、しばらくはサークル活動や同好会への勧誘立て看ばかりになったが、今世紀に入ってしばらくすると、再び政治課題や社会問題を提起する立て看が、ゲリラ的にポツポツと目立ちはじめた。そして、学生による立て看設置の自由を大学当局へ正面から公然と突きつけたのが、2018年の東京大学京都大学における「立て看同好会」の結成だった。
 しばらくすると、新型コロナ禍が沈静化しつつあった2023年には、早稲田大学明治大学慶應義塾大学の3大学でも同様のサークルが誕生し、少し遅れて国際基督教大学(ICU)でも立て看同好会が結成されている。この中では、京都大学の立て看専門サークルの「シン・ゴリラ」が結成されたのは2018年だが、もっと以前から京大キャンパスの学内では社会へ向けた立て看づくりはつづいていた。また、慶應大ではサークル名を「立て看&張り紙同好会」として、表現メディアを立て看に限定せず、ビラ張りも同様のメディアとして位置づけている。
 これら立て看のサークルが、セクトによるプロパガンダや集会オルグがメインだった立て看と大きく異なるのは、学生全般(思想性はバラバラ)の自由な表現メディアとして、立て看(やビラ)を位置づけていることだろうか。キャンパスに設置することで、やはり多くの学生の目にとまりやすく、政治課題や社会問題に少しでも関心をもつ学生と、あるいは同じような思想や趣味の学生とつながりやすいこと、そしてミーハー(死語か)的な観点からいえば、管理がゆきとどいた高校生活とは異なり、自身が責任をもてば自由に表現できる大学キャンパスらしい雰囲気・景観づくりに、立て看(やビラ)は不可欠なメディアであると感じること……などだろうか。
 特に、大学のキャンパスや学生の活動から次々と自由が奪われていった中国(最近では香港ケース)や、ウクライナ侵略後のロシア、ガザを侵略しつづけるイスラエルなどにおける大学事情を目のあたりにした世代には、キャンパスから言論や表現、集会の自由が奪われたら最後、国としても国際社会で孤立し「マジオワタ草」(ほんとうにおしまい<笑>)的な状況が招来するという、危機意識を抱いているからにちがいない。これは日本が過去にイヤというほどたどった道程で、学生たちの危機感は正鵠を射ており、大学へのあからさまな介入・弾圧がはじまったのは関東大震災直後のドサクサにまぎれて行われた、早大の学者や学生たちへの検察局による公然とした初の弾圧事件であり、つづく治安維持法の起案・施行だった。そして、それからわずか20年ほどで、大日本帝国は「亡国」状況を招来し、「マジオワタ草」の敗戦を迎えている。
 これら過去の歴史を見すえた東大や早大、慶大、明大、京大、ICUの学生たちが抱く危機感は、そもそも安倍政権下で起きた政府の学術会議への人事介入とも関連し、政府に都合の悪い学問を排除・抑圧をすること、すなわち大正期以来の“学の独立”や学の自由への挑戦として、当然、学生のみならず大学の当局自体も抱かなければならない危機意識でもあると思うのだが、立て看同好会の活動に対する当局の対応は、大学ごとにバラバラで一定していない。
 いや、学問への政治介入のみならず、あからさまに軍事研究を優先させようとする意図も(しかも資金さえ提供してもらい、研究成果を米国へ捧げようなどと売国奴的な姿勢も露わに)、安倍政権以降は透けて見えている。先ごろの、「プーチン・習近平・金正恩」が並んだ“独裁三国同盟”写真を見て、どこかで見たような構図だと感じた学生がいたとすれば、「ネタニヤフ・トランプ・日本の首相」が決して並ばないようにと希求するのは、民主社会としてごくあたりまえの感覚だろう。
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 2024年に情況出版社から刊行された「情況」Winter号には、各大学の立て看同好会による座談会『すべての大学に立て看板を―表現、言論の自由を獲得するために―』という、興味深い記事が掲載されている。日本の報道・表現の自由ランキング(RSF)では、2010年の世界11位を最高に、2024年にはハンガリー・カリブ諸国・コンゴに次いで、日本が70位にまで下落している状況を当然踏まえてのことだろう。参加している学生は、立て看同好会に属する慶應義塾大、ICU、東京大、明治大、京都大、早稲田大の6校の学生たちだ。
 この座談会では、それぞれの大学で政治あるいは社会の問題をアピールする立て看に対し、各大学当局の対応が紹介されている。特に、立て看がいまも頻繁に設置されつづけている京都大学の学生は、キャンパスにおける学生の表現の自由について、結局は大学当局と学生たちとの間の「パワーバランス」によって決定されると指摘している。多くの学生が賛同して集まれば、立て看や集会も当局は処分できないという見解だ。以下、京大学生の発言から引用してみよう。
  
 京大では二〇一〇年代後半まで、キャンパスに面した百万遍交差点、正門の歩道沿いの石垣にさまざまな立て看が並んでいました。サークルの告知、政治的社会的メッセージ、大学への要望などです。しかし、二〇一八年、一方的に立看板規定を作り、立て看設置が大幅に制限されます。①大学による指定箇所以外は設置禁止、②立て看の大きさはベニヤ板一枚ないし二枚、③大学公認団体のみで名前、大学、連絡先を明記などです。(中略) こうした流れで、同年、立て看サークル「シン・ゴリラ」が結成され、立て看づくりの意義、いわば技術指導を行いました。
  
 「シン・ゴリラ」というネームは、ゴリラ研究が専門だった総長の独裁的な姿勢を、上陸したら止められないゴジラにたとえているのだろうが、これは京大という学内だけの問題に限らないだろう。学生たちはもちろん、社会からの批判や抵抗が弱まれば弱まるほど、ときの当局(政府)の独裁的な支配や“暴走”を止められないというのは、中国やロシア、イスラエルなどで日々リアルタイムに目撃している現実であり、また大正の震災直後の混乱から戦前・戦中にかけ、日本でもイヤというほど経験してきた「この道はいつかきた道」だったはずだ。
 そこには、「おかしい」と気づき声を上げる人間が社会から疎外され、政府・軍部・警察・共同体から「非国民」化されて、日常生活においてもさまざまな抑圧を受けつづける中国やロシア、イスラエルの現実があり、また日本の「いつかきた道」に直結する危機感をおぼえるのは、別に上掲の6大学における学生に限らない。以下、各大学の2024年冬の状況をざっと紹介していこう。
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★明治大学
 上掲6大学ではもっとも厳しい規制があり、政治的・社会的な立て看は全面禁止。立て看を設置すると学部長から呼びだしがあり、厳重注意のうえ反省文の提出を求められる。事前に検閲制度を設けており、「権利自由・独立自治」の建学精神がまったく守られていないとこぼしている。
★国際基督教大学(ICU)
 ロシアのウクライナ侵攻に大学は反対声明をだしたが、イスラエルのガザ侵攻には無声明のまま。学内デモは認められており、ガザにおける虐殺反対のデモが行われ、デモのプラカードなどへの規制はない。立て看の設置は、民主主義における自由を確認する作業として位置づけている。
★慶應義塾大学
 事前検閲の掲示板があるだけで、個人による掲示物さえ認められていない。ましてや立て看に許可が下りるなど考えられず、事務局へ相談にいくだけで個人を特定され、その後の活動に制限がかかる。SFC(湘南藤沢キャンパス)には学生自治会があるが、満足に機能しているとは思えない。
★東京大学
 2022年の「安倍国葬阻止」の立て看設置の際、大学当局が即座に撤去すると通告してきたが、学生たちが集まって1週間座りこみを行い撤去を物理的に阻止した。東大の教員や東大周辺の住民からも支援を受け、正門前の立て看設置を大学当局が認めざるをえない状況を現出させた。
★京都大学
 立て看をめぐる、大学当局と学生たちとの攻防は、学生を処分するという“世論”を形成させないところで成功している。いろいろな思想や問題意識をもつ学生が立て看づくりに参加しており、立て看にからめた学内集会はダメといわれながらも、表現の自由への取り組みは今後も止めない。
★早稲田大学
 大隈銅像下は立て看禁止で、設置するとすぐに大学当局から撤去される。(取りにいくと返してくれる) 立て看の安全性とサイズ、設置場所に規制があるものの、当局側は弾圧や規制の意図はなく、むしろ「応援」したいなどと発言しているので、当面は「協調」路線で設置をつづける。
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 この中で、学生の自主独立や表現の自由が曲がりなりにも認められていると感じるのは、国際基督教大学(ICU)と早稲田大学だろうか。早稲田大学の寛容さは、もちろん大正デモクラシーの中で起きた学術分野への端緒となる弾圧事件と、その後に招来した「亡国」の近代史を踏まえての、当局側の「応援」なのだろう。次いで、公然と許可はしないものの、煩わしくうるさいと感じながらもどこかで黙認しているのが京都大学、次いで東京大学だろうか。明治大学と慶應義塾大学は、昔日のドキュメンタリー映画『圧殺の森』(監督・小川伸介/1967年)をふと思い浮かべてしまうほどの状況で、ちょっといただけない。大日本帝国や中国の大学ではないのだから、学生の自主独立や表現の自由ぐらい認めてもいいだろうに。それとも大学当局は、自校の学生たちがそれほど信用できないのだろうか? 江戸東京の昔から、子弟教育のいい古された格言に、「手もとの糸車をしっかり握ってさえいれば、糸をゆるめるほどに凧(たこ)は空高く舞いあがる」というのがある。

◆写真上:わたしの学生時代には、あたりまえのようにキャンパス随所で見かけた立て看。その多くは、セクトによる立て看で一般学生のものは少数だった。
◆写真中上は、明治大学の立て看。厳重注意のうえに反省文を書かせる手法は、特高が転向作文を書かせるのをマネした? は、京都大学の立て看。
◆写真中下:東京大学キャンパスにおける立て看風景だが、「独裁国賊」習近平の罷免を掲げる中国人留学生たちのアピールがめずらしい。そういえば、中国革命の多様な局面では、戦前に日本へ留学していた知識層が帝政・封建主義打倒の変革の担い手だったのを想起させる。
◆写真下は、即座に撤去される慶應義塾大学の抗議ポスター。は、早稲田大学の立て看風景。大隈銅像下は禁止だが、撤去されても引きとりにいけば返却されるので、イタチごっこは当分つづきそうだけれど、その過程で「大隈銅像下禁止」の意味を問いつづけていくのだろう。

この記事へのコメント

  • てんてん

    (# ̄  ̄)σ・・・Nice‼です♪
    2025年10月05日 19:32
  • 落合道人

    てんてんさん、コメントをありがとうございます。
    わたしもきょうは念入りに掃除しましたが、やはり塵埃よりもなによりも、
    冬に備えたネコの抜け毛がいちばん多かったですね。
    2025年10月05日 20:10

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