森鴎外の次女である小堀杏奴は、拙記事につごう三度ほど登場している。中でも、ヴァイオリニストの林龍作や川瀬もと子とパリでいっしょだった佐伯祐三と佐伯米子について、のちに結婚するふたりからさまざまなエピソードを聞かされている。
佐伯祐三の作品にも数多く接していたようで、彼のことを日本でもっとも好きな画家だと書いている。また、夫人の佐伯米子については、容赦のない辛辣な批判を何度か文章にしている。けれども、小堀杏奴は佐伯祐三・米子夫妻には一度も会ったことがなく、すべては林龍作や川瀬もと子からの伝聞をもとに記述しており、特に佐伯米子についての嫌悪感を漂わせた批判は、きちんと本人に会って“ウラ取り”の確認をしたほうがいいのでは?……と危惧するほどだ。小堀杏奴の米子批判は、そもそも川瀬もと子の嫌悪感に影響されたものだろう。
パリでのそんな様子を、少しだけ書いたのが以前の拙記事だが、1980年(昭和55)に求龍堂から出版された小堀杏奴『追憶から追憶へ』より、佐伯祐三についてもう少し引用してみよう。
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変な例かも知れないが、亡くなつた佐伯祐三氏などは天才と呼ばれるタイプの一人で、伝統とかかはりなく、それこそ湯川(秀樹)氏式表現を用ふれば、パッと己証してしまつたやうなところがある。かうした型の人は殆んどの場合若くして死ぬが、少くとも巴里を描かせたら佐伯祐三の前に佐伯祐三無く、佐伯祐三の後に佐伯祐三無しの感があり、やはり私の大好きな画家の一人である。かうした種類の問題になると、私たち夫婦は夢中になり、楽しい議論をはじめ、二人共留まるところを知らないのである。(カッコ内引用者註)
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ご存じの方は多いだろうが、小堀杏奴の夫は洋画家の小堀四郎だ。
『追憶から追憶へ』では、もう佐伯祐三に対する最上級の誉め言葉が並んでいる。彼女が好きな天才的芸術家は、音楽家では林龍作、小説家では太宰治、そして洋画家では佐伯祐三の3人だと断言してはばからない。もっともパリ風景はともかく、わたしは落合地域の風景をタブローに仕上げた画家たちは、過去にあまた存在し少しずつ紹介してきているけれど、よりによって開発中・工事中のキタナイ場所ばかりを選んで描いた連作「下落合風景」については、「佐伯祐三の前に佐伯祐三無く、佐伯祐三の後に佐伯祐三無しの感」を強くしている。
小堀杏奴がつかう「天才」という言葉の定義は、たとえば芸術分野でいうと、いくら幼いころからカネをふんだんに注ぎこんで勉強やレッスンに通わせても、才能がなければそこそこのレベルで止まってしまい、“努力の人”とは呼べるだろうが天才ではない。物質(カネ)がいくら豊かでも、天才は人工的・後天的につくることができない人間であり能力のことだ……ということになる。この定義は、若い人たち向けに書いた彼女のエッセイ『才能と物質』に登場している。ちなみに、クラシックの作曲家ではモーツァルトとシューベルト、それにショパンが「天才」で、ベートーヴェンは「努力家」の匂いがするとして、彼女は「天才」には含めていない。
『才能と物質』をはじめ、小堀杏奴のエッセイが掲載されていたのは、1957年(昭和32)7月の創刊号から1969年(昭和44)12月まで刊行された若い広場社による月刊「若い広場」だ。「若い広場」といってもNHKの教育番組とはまったく関係なく、同誌を刊行した若い広場社は目白台にあった。1961年(昭和36)刊行の「若い広場」12月号より、小堀杏奴のエッセイから引用してみよう。
佐伯祐三の作品にも数多く接していたようで、彼のことを日本でもっとも好きな画家だと書いている。また、夫人の佐伯米子については、容赦のない辛辣な批判を何度か文章にしている。けれども、小堀杏奴は佐伯祐三・米子夫妻には一度も会ったことがなく、すべては林龍作や川瀬もと子からの伝聞をもとに記述しており、特に佐伯米子についての嫌悪感を漂わせた批判は、きちんと本人に会って“ウラ取り”の確認をしたほうがいいのでは?……と危惧するほどだ。小堀杏奴の米子批判は、そもそも川瀬もと子の嫌悪感に影響されたものだろう。
パリでのそんな様子を、少しだけ書いたのが以前の拙記事だが、1980年(昭和55)に求龍堂から出版された小堀杏奴『追憶から追憶へ』より、佐伯祐三についてもう少し引用してみよう。
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変な例かも知れないが、亡くなつた佐伯祐三氏などは天才と呼ばれるタイプの一人で、伝統とかかはりなく、それこそ湯川(秀樹)氏式表現を用ふれば、パッと己証してしまつたやうなところがある。かうした型の人は殆んどの場合若くして死ぬが、少くとも巴里を描かせたら佐伯祐三の前に佐伯祐三無く、佐伯祐三の後に佐伯祐三無しの感があり、やはり私の大好きな画家の一人である。かうした種類の問題になると、私たち夫婦は夢中になり、楽しい議論をはじめ、二人共留まるところを知らないのである。(カッコ内引用者註)
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ご存じの方は多いだろうが、小堀杏奴の夫は洋画家の小堀四郎だ。
『追憶から追憶へ』では、もう佐伯祐三に対する最上級の誉め言葉が並んでいる。彼女が好きな天才的芸術家は、音楽家では林龍作、小説家では太宰治、そして洋画家では佐伯祐三の3人だと断言してはばからない。もっともパリ風景はともかく、わたしは落合地域の風景をタブローに仕上げた画家たちは、過去にあまた存在し少しずつ紹介してきているけれど、よりによって開発中・工事中のキタナイ場所ばかりを選んで描いた連作「下落合風景」については、「佐伯祐三の前に佐伯祐三無く、佐伯祐三の後に佐伯祐三無しの感」を強くしている。
小堀杏奴がつかう「天才」という言葉の定義は、たとえば芸術分野でいうと、いくら幼いころからカネをふんだんに注ぎこんで勉強やレッスンに通わせても、才能がなければそこそこのレベルで止まってしまい、“努力の人”とは呼べるだろうが天才ではない。物質(カネ)がいくら豊かでも、天才は人工的・後天的につくることができない人間であり能力のことだ……ということになる。この定義は、若い人たち向けに書いた彼女のエッセイ『才能と物質』に登場している。ちなみに、クラシックの作曲家ではモーツァルトとシューベルト、それにショパンが「天才」で、ベートーヴェンは「努力家」の匂いがするとして、彼女は「天才」には含めていない。
『才能と物質』をはじめ、小堀杏奴のエッセイが掲載されていたのは、1957年(昭和32)7月の創刊号から1969年(昭和44)12月まで刊行された若い広場社による月刊「若い広場」だ。「若い広場」といってもNHKの教育番組とはまったく関係なく、同誌を刊行した若い広場社は目白台にあった。1961年(昭和36)刊行の「若い広場」12月号より、小堀杏奴のエッセイから引用してみよう。



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(天才とは)われわれのような平凡な人間と違い天賦の才能を誇らず、絶えざる忍耐とも勇気を以って永い年月勉強した後、やっとめざましい芸術の華を咲かせることができるのである。与えられた才能がなければ、人工的にどんなに力を尽しても及び難いというところに私はなんともいえぬおもしろみを感じるし、そうして多くの天才たちは、そのほとんどが世間から認められず、不遇のうちに世を去って行ったのだが、世間的な眼から見ると、恵まれず不幸にさえ見えるそれ等の人々もおそらく自分自身非常に幸せを感じていたに相違ない。なぜならば、彼等は、天から特別な恵みを受けていることをはっきり自覚していたからである。この自覚がなければ貧しさや、人々の侮蔑の眼を耐えることができなかったであろう。(カッコ内引用者註)
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ちょっと横道にそれるけれど、小堀杏奴が2ページほどの短めなエッセイを連載し、読者の若い子たちが応募してくる創作文の選定・評価をしていた「若い広場」という雑誌が、少なからずおもしろい。若い広場社の本社と編集部は、創刊時は音羽通りに面した文京区音羽7丁目(現・関口3丁目)にあったが、つづいて目白台3丁目5番地16号(現行住所)、ちょうど桂林寺境内の西側に接した住宅街のなかに移転している。
「若い広場」は、現代的な表現をすれば若い子たちの表現作品(文章・イラスト・写真など)の発表の場である同人誌的な存在であり、政治経済から芸術までを解説するジャーナル誌でもあり、コンサートや映画・芝居などのスケジュールを紹介する昔日の「ピア」のようなイベント情報誌であり、連載小説が掲載された文芸誌のようでもあり、悩みごとをぶつける人生相談誌であり、男女が知りあう出会い系雑誌(文通)のようでもあり、アルバイトやリクルートの情報誌でもあるという、若い子たちが興味を惹かれそうなテーマ満載の総合誌となっている。
また、「若い広場の唄」(作詞・丸山すみを/作曲・萩原哲晶)をつくって読者に唄わせていたようだ。その歌詞をはじめ誌面を読むと、1960年代の吉永小百合や和泉雅子の青春映画(わたしはリアルタイムでは知らない)をイメージするような内容で、「明るく伸びやかで健気でひたむき」な青春群像をイメージして編集方針が練られていたように感じる。だが、「若い広場」が刊行された1950年代末から60年代末にかけては、国会前や各大学の“広場”が抗議やシュプレヒコールをあげる、反戦・反安保の若者たちで埋めつくされた時代と重なり、「若い広場」は漸次発行部数を減らしていったのではないか。廃刊が1969年(昭和44)というのも、どこか象徴的なような気がするのだ。
(天才とは)われわれのような平凡な人間と違い天賦の才能を誇らず、絶えざる忍耐とも勇気を以って永い年月勉強した後、やっとめざましい芸術の華を咲かせることができるのである。与えられた才能がなければ、人工的にどんなに力を尽しても及び難いというところに私はなんともいえぬおもしろみを感じるし、そうして多くの天才たちは、そのほとんどが世間から認められず、不遇のうちに世を去って行ったのだが、世間的な眼から見ると、恵まれず不幸にさえ見えるそれ等の人々もおそらく自分自身非常に幸せを感じていたに相違ない。なぜならば、彼等は、天から特別な恵みを受けていることをはっきり自覚していたからである。この自覚がなければ貧しさや、人々の侮蔑の眼を耐えることができなかったであろう。(カッコ内引用者註)
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ちょっと横道にそれるけれど、小堀杏奴が2ページほどの短めなエッセイを連載し、読者の若い子たちが応募してくる創作文の選定・評価をしていた「若い広場」という雑誌が、少なからずおもしろい。若い広場社の本社と編集部は、創刊時は音羽通りに面した文京区音羽7丁目(現・関口3丁目)にあったが、つづいて目白台3丁目5番地16号(現行住所)、ちょうど桂林寺境内の西側に接した住宅街のなかに移転している。
「若い広場」は、現代的な表現をすれば若い子たちの表現作品(文章・イラスト・写真など)の発表の場である同人誌的な存在であり、政治経済から芸術までを解説するジャーナル誌でもあり、コンサートや映画・芝居などのスケジュールを紹介する昔日の「ピア」のようなイベント情報誌であり、連載小説が掲載された文芸誌のようでもあり、悩みごとをぶつける人生相談誌であり、男女が知りあう出会い系雑誌(文通)のようでもあり、アルバイトやリクルートの情報誌でもあるという、若い子たちが興味を惹かれそうなテーマ満載の総合誌となっている。
また、「若い広場の唄」(作詞・丸山すみを/作曲・萩原哲晶)をつくって読者に唄わせていたようだ。その歌詞をはじめ誌面を読むと、1960年代の吉永小百合や和泉雅子の青春映画(わたしはリアルタイムでは知らない)をイメージするような内容で、「明るく伸びやかで健気でひたむき」な青春群像をイメージして編集方針が練られていたように感じる。だが、「若い広場」が刊行された1950年代末から60年代末にかけては、国会前や各大学の“広場”が抗議やシュプレヒコールをあげる、反戦・反安保の若者たちで埋めつくされた時代と重なり、「若い広場」は漸次発行部数を減らしていったのではないか。廃刊が1969年(昭和44)というのも、どこか象徴的なような気がするのだ。


さて、小堀杏奴にもどろう。彼女はキリスト教のカトリック教徒だったが、「龍兄」と慕う林龍作といっしょに目白界隈で受洗している。小堀杏奴の代母は、もともとカトリック教徒だった林龍作の妻・川瀬もと子だった。ちなみに、ヴァイオリニストの林龍作は閉店してしまった池袋芳林堂や、高田馬場駅前などで営業をつづける芳林堂書店の息子だ。佐伯祐三や里見勝蔵、小泉清、西村叡らが結成した「池袋シンフォニー」は、池袋にあった里見の借家が練習場に使われたのだが、近くにはパリでいっしょになる林龍作も住んでいたことになる。
受洗の帰り道、小堀杏奴・小堀四郎夫妻は、林龍作・川瀬もと子夫妻と「夕暮の混雑を極めた目白駅」から山手線に乗るが、このあたりの記憶をたどっているうちに、下落合に住んでいた佐伯祐三を思いだしたようだ。エッセイ『追憶から追憶へ』より、つづけて引用してみよう。
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書き忘れたが下落合の佐伯の家は、何時の頃か新聞にも出てゐたやうだが、あの家は一回目の(滞仏からの)帰国の時、二科賞を得て金銭的にも恵まれた頃建てたもので、一番最初の頃の家は、佐伯自身手作りの家ださうである。さう言へば彼は器用貧乏などとも言ふが、カンヴァスなども手製のものと聞いたことがあるし、この最初の家は、(川瀬)もと子さんの記憶では、たしか下落合六百番地であつたと言ふ。/自分で壁塗りから、何から何迄やつたもので、庭と言つても、なんでもない原つぱみたいなものの真中に、池とも言へぬ水たまりがあるかと思ふと、竜舌蘭などが植わつてゐたり、なんとなく、異国的な風情があつた。(カッコ内引用者註)
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小堀杏奴は、一度も佐伯祐三アトリエを訪れたことがないはずで、やはりちゃんと“ウラ取り”取材や資料を参照し、確認してから書くべきだったろう。
佐伯アトリエは1921年(大正10)の夏以降、第1次渡仏前に建てられたもので、なんらかのつながりで知りあった大磯の大工が母家およびアトリエを建設し、佐伯は母家から廊下つづきの洋間のみを、自身で「手作り」している。この家は、「最初の家」ではなく下落合では仮住まいを除くと最後の家となり、住所も下落合600番地ではなく661番地(の2)だ。
佐伯祐三が、二度と下落合へもどることがなかった第2次渡仏時に、佐伯夫妻から留守番を依頼され、佐伯アトリエを一家で借りうけていた鈴木誠だが、1928年(昭和3)制作の作品に『初秋の庭』(『初夏の庭』とする資料もあり)というのがある。画面には、庭に植えられたリュウゼツランが2株ほど描かれている。ひょっとすると、手前が当時の佐伯アトリエの庭先で、庭師の手入れがゆきとどいた植木の見える奥の庭と建物が酒井億尋の家だろうか。いずれの敷地も、近接する農家だった山上喜太郎(下落合655番地)の所有地で、少し前まで地目は「畑地」だった。
受洗の帰り道、小堀杏奴・小堀四郎夫妻は、林龍作・川瀬もと子夫妻と「夕暮の混雑を極めた目白駅」から山手線に乗るが、このあたりの記憶をたどっているうちに、下落合に住んでいた佐伯祐三を思いだしたようだ。エッセイ『追憶から追憶へ』より、つづけて引用してみよう。
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書き忘れたが下落合の佐伯の家は、何時の頃か新聞にも出てゐたやうだが、あの家は一回目の(滞仏からの)帰国の時、二科賞を得て金銭的にも恵まれた頃建てたもので、一番最初の頃の家は、佐伯自身手作りの家ださうである。さう言へば彼は器用貧乏などとも言ふが、カンヴァスなども手製のものと聞いたことがあるし、この最初の家は、(川瀬)もと子さんの記憶では、たしか下落合六百番地であつたと言ふ。/自分で壁塗りから、何から何迄やつたもので、庭と言つても、なんでもない原つぱみたいなものの真中に、池とも言へぬ水たまりがあるかと思ふと、竜舌蘭などが植わつてゐたり、なんとなく、異国的な風情があつた。(カッコ内引用者註)
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小堀杏奴は、一度も佐伯祐三アトリエを訪れたことがないはずで、やはりちゃんと“ウラ取り”取材や資料を参照し、確認してから書くべきだったろう。
佐伯アトリエは1921年(大正10)の夏以降、第1次渡仏前に建てられたもので、なんらかのつながりで知りあった大磯の大工が母家およびアトリエを建設し、佐伯は母家から廊下つづきの洋間のみを、自身で「手作り」している。この家は、「最初の家」ではなく下落合では仮住まいを除くと最後の家となり、住所も下落合600番地ではなく661番地(の2)だ。
佐伯祐三が、二度と下落合へもどることがなかった第2次渡仏時に、佐伯夫妻から留守番を依頼され、佐伯アトリエを一家で借りうけていた鈴木誠だが、1928年(昭和3)制作の作品に『初秋の庭』(『初夏の庭』とする資料もあり)というのがある。画面には、庭に植えられたリュウゼツランが2株ほど描かれている。ひょっとすると、手前が当時の佐伯アトリエの庭先で、庭師の手入れがゆきとどいた植木の見える奥の庭と建物が酒井億尋の家だろうか。いずれの敷地も、近接する農家だった山上喜太郎(下落合655番地)の所有地で、少し前まで地目は「畑地」だった。



小堀杏奴よりも、わたしには森鴎外の長女・森茉莉のほうが、どこかトボケていて人間的におもしろい女性のように映る。東北帝大教授の佐藤彰と結婚して仙台に住むが、「ここには銀座や三越(日本橋)がない」からつまんないとこぼし、夫に「実家に帰って芝居でも観ておいで」といわれたので東京にもどったら、追いかけて離縁状がとどいたというような、どこか大ボケかましのような雰囲気が漂う女性だ。旧・山手の“お嬢様”を地でいっていたのが、森茉莉だったように思う。
◆写真上:佐伯アトリエの西側に付属する、佐伯祐三が「手作り」した洋間の窓。
◆写真中上:上は、若き日の小堀杏奴。中は、小堀杏奴が若者向けにエッセイを連載していた総合雑誌「若い広場」(若い広場社)で、1957年(昭和32)7月号(左)と1969年(昭和44)1月号(右)。下は、廃刊前年の1968年(昭和43)に刊行された「若い広場」7月号の目次。
◆写真中下:上野池之端に現存する、1890年(明治23)の『舞姫』が執筆された森鴎外邸。
◆写真下:上は、1949年(昭和24)制作の小堀四郎『妻の像』。中は、佐伯自身が漆喰塗りまでした洋間。下は、1928年(昭和3)に制作された佐伯アトリエで留守番中の鈴木誠『初秋の庭』。
★おまけ1
◆写真中上:上は、若き日の小堀杏奴。中は、小堀杏奴が若者向けにエッセイを連載していた総合雑誌「若い広場」(若い広場社)で、1957年(昭和32)7月号(左)と1969年(昭和44)1月号(右)。下は、廃刊前年の1968年(昭和43)に刊行された「若い広場」7月号の目次。
◆写真中下:上野池之端に現存する、1890年(明治23)の『舞姫』が執筆された森鴎外邸。
◆写真下:上は、1949年(昭和24)制作の小堀四郎『妻の像』。中は、佐伯自身が漆喰塗りまでした洋間。下は、1928年(昭和3)に制作された佐伯アトリエで留守番中の鈴木誠『初秋の庭』。
★おまけ1
1955年(昭和30)に大川(隅田川)の川開き、両国花火大会を描いた小堀四郎『花火』。画面を横切るのは両国橋で、消防署による尺玉規制がなかったせいか巨大な花火が開花している。

★おまけ2
根津権現に移築される前、池之端水月ホテルで保存されていた時代の鴎外荘。(コメント参照)
この記事へのコメント
かしわぎ
今は非公開のようなので見られるうちに見ておけばよかったです。
落合道人
水月ホテルが営業を停止したので、今後の鴎外邸について心配していたのですが、
解体されずに移築されたのですね。お知らせいただき、ありがとうございました。
落合道人
根津権現へ移築された鴎外邸は、まるで新築のように見えますね。^^;
記事末に、池之端時代に撮影したの鴎外荘写真を10点ほど掲載しました。ご参照ください。
てんてん
落合道人
ヘビ君がでましたね。白蛇は実物を見たことがあるのですが、
カラス蛇はいまだ一度も見たことがありません。