
学生時代に通っていた、銭湯の壁面に描かれた風景画を思いだせない。わたしが住んでいた学生アパートから、椎名町教会の並びにあった銭湯「久の湯」(旧・仲ノ湯/閉業)へは、アパート1階のドアを閉めてから早足に徒歩30秒で、70mほどしか離れていなかった。
三保の松原を海上から描き、背景に小さめな富士山をあしらった構図だったか、それとも全面に大きな富士山が裾野の樹海まで描かれていたのか、ほぼ毎日見ていたはずなのになぜか思いだせない。気温が下がる冬場は、湯気がモウモウとしていて壁画が見づらかっただろうが、夏場はハッキリと視認できていたはずだ。うろ憶えだが、全体がブルーがかった画面だったのはまちがいないと思うけれど、海も山もブルーに塗られるのがふつうだ。それよりも、大きな風呂へ入るのが楽しみで、いろいろな情景にまぎれて忘れてしまったものだろうか?
わたしが銭湯に通ったのは、親元から独立した大学時代の後半と、社会に出てから2年ぐらいまでだから、わずか4年ほどにすぎない。汚いけれど安かった学生アパートの次は、安月給をやりくりして、ようやく念願だった下落合のマンションへ引っ越すことができたので、銭湯へはいかなくなってしまった。生まれてから、ずっと家庭用の小さな風呂で育ったので、銭湯の大きな湯船につかるのが、わたしには楽しみだったのだ。当時の銭湯代は、確か200円前後だったと思うので、毎日欠かさず通っても月6,000円程度だった。それでも、夜遅く帰った日や真冬などは面倒になって入らなかったので、月平均5,000円ほどの出費だったろう。
銭湯には、いっせい休業日というのがなかったので、久の湯が休みのときは小野田製油所の横を入り、目白文化村の入口にあった「人生浴場」(旧・伊乃湯/萩ノ湯)へ出かけた。この銭湯は、そもそも店名からして失念しており、拙ブログをはじめてから読者の方にご教示いただいている。人生浴場という名称だから、「♪や~ると思えばどこま~でやるさ~」と、湯船につかりながら気持ちよさそうに唄う爺ちゃんがいたかというと、そんな記憶はない。たまに入ることになった銭湯のせいか、壁画もなにが描かれていたのかまったく記憶にない。
あれからもう1店、友人といっしょに椎名町駅の北側にある「妙法湯」にも一二度入ったのを思いだしたが、そこの壁画もまったく憶えていない。いまから思えば、わたしのアパートからは妙法湯よりも、椎名町駅の南東側にある四角い煙突の「五色湯」のほうが、少しだけ近かった。当時は街を歩いていると、銭湯の煙突が目印のようにあちこちに見えており、直近の久の湯が休みでも散歩がてら、煙突をめざして歩いていけば必ず銭湯にめぐり合えた。また、どんな銭湯にめぐり合えるのか、ワクワクするのも楽しかった。ただし、江戸東京方言で湯屋(ゆうや/関西では「ゆや」)のどこにも、すでに番頭さん(俗称:三助さん)はいなかったように思う。
いちばん近かった久の湯は、確か午後3時から開いていたように思うが、当時は東京浴場組合に加盟しているどこの銭湯でも、開業時間は午後3時と決められていたのではないだろうか。いわゆる“朝湯”に入った記憶はないが、ひょっとすると浴場組合には加入していない銭湯では、午前中から営業していたところがあったのかもしれない。深夜勤務でアパート暮らしの警備員や作業員、水商売で朝帰りが多い人たちには、朝風呂に入れるのはありがたかっただろう。あるいは、正月恒例の“朝湯”は、江戸の昔からつづいていたものだろうか。
アルバイトがない日、午後3時の開業時にいくと近所のご隠居さんらしき年寄りや、学校帰りで下宿住まいの学生たちなどはいたが、午後7時以降の混雑に比べればガラガラだった。下足箱や脱衣場のロッカーも、まだほとんどのカギがついていて、広い浴場へ貸し切りで入ったような気分を味わえた。たまに早く入浴すると、必ず出会う顔なじみのご隠居さんらしい老人がいて、何度か話した憶えがある。その方は、自宅に風呂はあるのだけれど、銭湯の一番湯=新湯(あらゆ)へ入りに毎日通ってきていると話していた。近所でアパート経営をしているともいっていた。
三保の松原を海上から描き、背景に小さめな富士山をあしらった構図だったか、それとも全面に大きな富士山が裾野の樹海まで描かれていたのか、ほぼ毎日見ていたはずなのになぜか思いだせない。気温が下がる冬場は、湯気がモウモウとしていて壁画が見づらかっただろうが、夏場はハッキリと視認できていたはずだ。うろ憶えだが、全体がブルーがかった画面だったのはまちがいないと思うけれど、海も山もブルーに塗られるのがふつうだ。それよりも、大きな風呂へ入るのが楽しみで、いろいろな情景にまぎれて忘れてしまったものだろうか?
わたしが銭湯に通ったのは、親元から独立した大学時代の後半と、社会に出てから2年ぐらいまでだから、わずか4年ほどにすぎない。汚いけれど安かった学生アパートの次は、安月給をやりくりして、ようやく念願だった下落合のマンションへ引っ越すことができたので、銭湯へはいかなくなってしまった。生まれてから、ずっと家庭用の小さな風呂で育ったので、銭湯の大きな湯船につかるのが、わたしには楽しみだったのだ。当時の銭湯代は、確か200円前後だったと思うので、毎日欠かさず通っても月6,000円程度だった。それでも、夜遅く帰った日や真冬などは面倒になって入らなかったので、月平均5,000円ほどの出費だったろう。
銭湯には、いっせい休業日というのがなかったので、久の湯が休みのときは小野田製油所の横を入り、目白文化村の入口にあった「人生浴場」(旧・伊乃湯/萩ノ湯)へ出かけた。この銭湯は、そもそも店名からして失念しており、拙ブログをはじめてから読者の方にご教示いただいている。人生浴場という名称だから、「♪や~ると思えばどこま~でやるさ~」と、湯船につかりながら気持ちよさそうに唄う爺ちゃんがいたかというと、そんな記憶はない。たまに入ることになった銭湯のせいか、壁画もなにが描かれていたのかまったく記憶にない。
あれからもう1店、友人といっしょに椎名町駅の北側にある「妙法湯」にも一二度入ったのを思いだしたが、そこの壁画もまったく憶えていない。いまから思えば、わたしのアパートからは妙法湯よりも、椎名町駅の南東側にある四角い煙突の「五色湯」のほうが、少しだけ近かった。当時は街を歩いていると、銭湯の煙突が目印のようにあちこちに見えており、直近の久の湯が休みでも散歩がてら、煙突をめざして歩いていけば必ず銭湯にめぐり合えた。また、どんな銭湯にめぐり合えるのか、ワクワクするのも楽しかった。ただし、江戸東京方言で湯屋(ゆうや/関西では「ゆや」)のどこにも、すでに番頭さん(俗称:三助さん)はいなかったように思う。
いちばん近かった久の湯は、確か午後3時から開いていたように思うが、当時は東京浴場組合に加盟しているどこの銭湯でも、開業時間は午後3時と決められていたのではないだろうか。いわゆる“朝湯”に入った記憶はないが、ひょっとすると浴場組合には加入していない銭湯では、午前中から営業していたところがあったのかもしれない。深夜勤務でアパート暮らしの警備員や作業員、水商売で朝帰りが多い人たちには、朝風呂に入れるのはありがたかっただろう。あるいは、正月恒例の“朝湯”は、江戸の昔からつづいていたものだろうか。
アルバイトがない日、午後3時の開業時にいくと近所のご隠居さんらしき年寄りや、学校帰りで下宿住まいの学生たちなどはいたが、午後7時以降の混雑に比べればガラガラだった。下足箱や脱衣場のロッカーも、まだほとんどのカギがついていて、広い浴場へ貸し切りで入ったような気分を味わえた。たまに早く入浴すると、必ず出会う顔なじみのご隠居さんらしい老人がいて、何度か話した憶えがある。その方は、自宅に風呂はあるのだけれど、銭湯の一番湯=新湯(あらゆ)へ入りに毎日通ってきていると話していた。近所でアパート経営をしているともいっていた。



ちょっと余談だが、連れ合いの父親は新湯がキライで、自宅の風呂でも娘たちが入ったあとに入浴するのを好んだ。新湯は、「湯が硬くて柔らかくない」ので、誰かが(女性たちが)入浴したあとに入ると「湯がこなれて」ちょうどいいそうだ。風呂へいちばん先に入る(のが当然だと思っている)、乃手の威張ったおっかない父親が聞いたら唖然とするだろうが、義父は麻布の出身だ。女子たちを優先したところをみると、(城)下町の気質を備えていたのだろう。
新湯(あらゆ)とは反対に、バイトや飲み会で帰るのが仕舞い湯(閉業時間)に近いころになると、とんでもない混み方だったのを憶えている。洗い場でカランから熱めな湯を使う人が多いせいか、広い浴場にはことさら湯気が立ちこめ、湯船は「すいません」と声をかけなければ入りにくいほどで、芋の子を洗うという表現がピッタリな情景だった。湯船には次々と洗い終えた人が入るので、みんな遠慮して数分しかつからずに風呂から上がっていた。
昭和初期ぐらいまで、(城)下町の銭湯では仕舞い湯の時間になると、男女どちらかの湯船(女湯が多かったらしい)の栓を抜いて掃除をはじめてしまうため、必然的に女性たちが男湯へ移動してきて混浴になったという。また、その時間帯をめざしてやってくる男たちもいたらしいが、もちろんわたしはそんな銭湯の情景は(残念ながら)知らない。ついでに親父からの受け売りの話をすると、戦前の銭湯には隣接して映画館や演芸場、食堂、居酒屋などが併設されており、銭湯(ゆうや)でサッパリしたあと立ち寄ってはひと息入れられるような仕組みになっていた。往年の「船橋ヘルスセンター」のミニ版だが、江戸の昔から銭湯と娯楽は付きものだったらしい。そういえば東京郊外の温泉浴場からスタートした目黒雅叙園も、舞台や宴会場を備えていた。
よく昔の思い出話などで、ひとっ風呂(ぷろ)浴びたあと脱衣場で冷たいコーヒー牛乳を飲むのが楽しかったとか、肩たたきチェア(マッサージチェアではない)で身体をほぐすのが楽しみだったとかいう証言を聞くのだが、わたしは一度も試したことはない。親元から意地を張って独立したため、生活費や学費の一部をバイトで稼がなければならない貧乏学生だったので、風呂上がりのそれらは贅沢品だった。また、余分なおカネがあるのなら少しでもレコードや本に費やしたかった。
新湯(あらゆ)とは反対に、バイトや飲み会で帰るのが仕舞い湯(閉業時間)に近いころになると、とんでもない混み方だったのを憶えている。洗い場でカランから熱めな湯を使う人が多いせいか、広い浴場にはことさら湯気が立ちこめ、湯船は「すいません」と声をかけなければ入りにくいほどで、芋の子を洗うという表現がピッタリな情景だった。湯船には次々と洗い終えた人が入るので、みんな遠慮して数分しかつからずに風呂から上がっていた。
昭和初期ぐらいまで、(城)下町の銭湯では仕舞い湯の時間になると、男女どちらかの湯船(女湯が多かったらしい)の栓を抜いて掃除をはじめてしまうため、必然的に女性たちが男湯へ移動してきて混浴になったという。また、その時間帯をめざしてやってくる男たちもいたらしいが、もちろんわたしはそんな銭湯の情景は(残念ながら)知らない。ついでに親父からの受け売りの話をすると、戦前の銭湯には隣接して映画館や演芸場、食堂、居酒屋などが併設されており、銭湯(ゆうや)でサッパリしたあと立ち寄ってはひと息入れられるような仕組みになっていた。往年の「船橋ヘルスセンター」のミニ版だが、江戸の昔から銭湯と娯楽は付きものだったらしい。そういえば東京郊外の温泉浴場からスタートした目黒雅叙園も、舞台や宴会場を備えていた。
よく昔の思い出話などで、ひとっ風呂(ぷろ)浴びたあと脱衣場で冷たいコーヒー牛乳を飲むのが楽しかったとか、肩たたきチェア(マッサージチェアではない)で身体をほぐすのが楽しみだったとかいう証言を聞くのだが、わたしは一度も試したことはない。親元から意地を張って独立したため、生活費や学費の一部をバイトで稼がなければならない貧乏学生だったので、風呂上がりのそれらは贅沢品だった。また、余分なおカネがあるのなら少しでもレコードや本に費やしたかった。



さて、いまさら気になる銭湯の壁画だが、これは東京(関東)ならではの銭湯の情景で、関西の銭湯にはもともと存在しなかったようだ。銭湯の湯船の造りが、関東と関西では根本的に異なっていたからで、湯船が洗い場の突きあたりにあるのが関東で、湯船が洗い場の中央にあるのが関西の銭湯だった。したがって、湯船の上に大きな壁面の空間が拡がる関東では、明治末以降に日本画とも西洋画ともつかない風景画をペンキで描くのが、東京を中心に流行しはじめている。銭湯の壁画は、当時の関西には存在しなかったが、昭和期になると関東風の構造で建設した銭湯には、関西地方でも壁面にペンキ画が描かれていたらしい。
その風景画だが、幕末から明治期にかけ日本画用の岩絵の具を使う没骨(もっこつ)描法で有名になった、江戸出身の洋画家・五姓田芳柳の風景画や人物画をマネたのだという。五姓田芳柳は、医師の松本順(松本良順)の知己を得ており、解剖図の制作などでも活躍していた。銭湯の壁画を描く専門絵師は、彼の描法を模倣しながらおもに風景画を描いている。当時の様子を、1980年(昭和55)に講談社から出版された、加太こうじ『東京の原像』から引用してみよう。
▼
(描法は)五姓田芳柳などがそれだが、その亜流がペンキで掛額用の素人向きの風景画を描いた。それは露天などで売られていた。そのペンキの風景画の描法で、銭湯の休日に、男湯、女湯の二枚を描きあげてしまうのが、東京の銭湯の風景画である。早い者は助手を使って午前中だけで男湯、女湯の二枚を描いた。昭和初期にはそのペンキ画家たちの組合があって、東京中の銭湯の風景画を一手に引きうけていたが、今はどうなったのか私は知らない。(カッコ内引用者註)
▲
もともと夜店で売られるような、粗末なペンキ画を制作していた画家たちが、銭湯の広い壁面に目をつけて営業をかけたのだろう。またたく間に銭湯の壁画は拡がり、関東各地にまで出張して描くようになった。これはどこか、関東大震災の直後にバラック建ての商店へ、看板やイラストを描いてまわった洋画家たちの仕事に似ている。銭湯の風景画家たちの中には、洋画家をめざして果たせなかった「芸術家」も、ずいぶんいたのではないだろうか。
少し寄り道をするが、下落合が舞台のドラマ『さよなら・今日は』(NTV/1973~74年)には、刑務所を出所して間もない銭湯絵師の高橋清(緒形拳)が登場する。彼は大阪出身という設定だったけれど、戦後は関西でも銭湯の壁画描きで飯が食えたのだろうか? また、絵のモチーフや構図をめぐり、銭湯の主人とケンカをして仕事がふいになったというエピソードが登場している。彼が喫茶店「鉄の馬」の窓に描いた富士山は、さながら片岡球子が描く画面のようで、とても通常の“銭湯の富士山”のようではなかったから、主人が怒ってケンカになったのだろう。
1970年代なので、いまだ東京には銭湯画家たちの組合はあったと思われるが、大阪出身の銭湯絵師でも仕事が見つかるほど、絵師自体の数が減っていたのかもしれない。
その風景画だが、幕末から明治期にかけ日本画用の岩絵の具を使う没骨(もっこつ)描法で有名になった、江戸出身の洋画家・五姓田芳柳の風景画や人物画をマネたのだという。五姓田芳柳は、医師の松本順(松本良順)の知己を得ており、解剖図の制作などでも活躍していた。銭湯の壁画を描く専門絵師は、彼の描法を模倣しながらおもに風景画を描いている。当時の様子を、1980年(昭和55)に講談社から出版された、加太こうじ『東京の原像』から引用してみよう。
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(描法は)五姓田芳柳などがそれだが、その亜流がペンキで掛額用の素人向きの風景画を描いた。それは露天などで売られていた。そのペンキの風景画の描法で、銭湯の休日に、男湯、女湯の二枚を描きあげてしまうのが、東京の銭湯の風景画である。早い者は助手を使って午前中だけで男湯、女湯の二枚を描いた。昭和初期にはそのペンキ画家たちの組合があって、東京中の銭湯の風景画を一手に引きうけていたが、今はどうなったのか私は知らない。(カッコ内引用者註)
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もともと夜店で売られるような、粗末なペンキ画を制作していた画家たちが、銭湯の広い壁面に目をつけて営業をかけたのだろう。またたく間に銭湯の壁画は拡がり、関東各地にまで出張して描くようになった。これはどこか、関東大震災の直後にバラック建ての商店へ、看板やイラストを描いてまわった洋画家たちの仕事に似ている。銭湯の風景画家たちの中には、洋画家をめざして果たせなかった「芸術家」も、ずいぶんいたのではないだろうか。
少し寄り道をするが、下落合が舞台のドラマ『さよなら・今日は』(NTV/1973~74年)には、刑務所を出所して間もない銭湯絵師の高橋清(緒形拳)が登場する。彼は大阪出身という設定だったけれど、戦後は関西でも銭湯の壁画描きで飯が食えたのだろうか? また、絵のモチーフや構図をめぐり、銭湯の主人とケンカをして仕事がふいになったというエピソードが登場している。彼が喫茶店「鉄の馬」の窓に描いた富士山は、さながら片岡球子が描く画面のようで、とても通常の“銭湯の富士山”のようではなかったから、主人が怒ってケンカになったのだろう。
1970年代なので、いまだ東京には銭湯画家たちの組合はあったと思われるが、大阪出身の銭湯絵師でも仕事が見つかるほど、絵師自体の数が減っていたのかもしれない。



いまでも憶えているのは、5月5日に銭湯へいくと湯船に大きな菖蒲(しょうぶ)の葉が束ねて入れられていたのと、12月20日ごろの冬至の日にいくと、やはりこれでもかというほど大量の黄色い柚子(ゆず)が湯船に浮かんでいたことだ。最近は、ヨーロッパで薬効があると知られているらしいラベンダー湯というのが、「銭湯の日」とされる10月10日にあるそうだが、わたしは知らない。
◆写真上:関東の銭湯(ゆうや)では定番だった、銭湯絵師が描く白砂青松と富士山。
◆写真中上:上は、目白通り沿いで健在な下落合の「福の湯」。中は、佐伯祐三が諏訪谷ごしに描いた福の湯の煙突。下は、数回通ったことがある椎名町の「妙法湯」。
◆写真中下:上は、四角い煙突の目白の「五色湯」。中は、中井駅近くにある「ゆ~ザ・中井」(旧・草津温泉)。下は、佐伯祐三が中井駅前の開発途上に描いた草津温泉の煙突。
◆写真下:上は、閉業した下落合駅近くの「竜の湯」。中は、下落合の南を流れる神田川沿いにある「世界湯」。下は、佐伯祐三が連作「下落合風景」で第三文化村から描いた「菊ノ湯」の煙突。
★おまけ
13年前に西荻界隈を散策していて見つけた、昔ながらの店がまえをしている「天徳湯」。ここ数年の新型コロナ感染症禍をはさみ、すでに閉業してしまっているようだ。
◆写真中上:上は、目白通り沿いで健在な下落合の「福の湯」。中は、佐伯祐三が諏訪谷ごしに描いた福の湯の煙突。下は、数回通ったことがある椎名町の「妙法湯」。
◆写真中下:上は、四角い煙突の目白の「五色湯」。中は、中井駅近くにある「ゆ~ザ・中井」(旧・草津温泉)。下は、佐伯祐三が中井駅前の開発途上に描いた草津温泉の煙突。
◆写真下:上は、閉業した下落合駅近くの「竜の湯」。中は、下落合の南を流れる神田川沿いにある「世界湯」。下は、佐伯祐三が連作「下落合風景」で第三文化村から描いた「菊ノ湯」の煙突。
★おまけ
13年前に西荻界隈を散策していて見つけた、昔ながらの店がまえをしている「天徳湯」。ここ数年の新型コロナ感染症禍をはさみ、すでに閉業してしまっているようだ。
この記事へのコメント
てんてん
落合道人
ネコのフィギュア、あまりにリアルですね。いまにも鳴きだしそうです。
pinkich
落合道人
わたしの学生時代に比べると、およそ6~7割がたが閉業してしまいました。
上落合の「梅の湯」も魅力ですが、上戸塚(高田馬場3丁目)の神田川沿いに
大昔からある、小さな石鹸がカタカタ鳴りそうな「世界湯」に入ってみたい
です。w
pinkich
落合道人
すでに「世界湯」へは行かれていたのですね。やはり混んでいるのは、
このあたりでは人気の銭湯だからでしょうか。
「松の湯」は、地下鉄・落合駅の近くにある銭湯でしょうか。早稲田
にも、少し前まで同じ店名の銭湯がありましたけれど、「松の湯」と
いうと、向田邦子の『時間ですよ!』を思い出してしまいます。