下落合と湯河原を往復しながら描いた表紙画。

194709読書.jpg
 下落合1丁目404番地(の4)にアトリエを構えていた安井曾太郎は、戦後、神奈川県湯河原町にあった2棟のアトリエですごしている。最初は、1949年(昭和24)に湯河原町宮上の天野屋別荘(旧・竹内栖鳳別荘)を借りて、下落合と湯河原町との間を往復している。
 それから5年後、1954年(昭和29)に湯河原町宮上586番地に別邸兼アトリエを新築して移り住んだが、翌1955年(昭和30)に突然の心臓麻痺で死去している。この間の生活は、東京に所用ができると東海道線(湘南電車)で下落合の自邸に帰るか、あるいは東京駅近くのホテル(八重洲のホテルが多かったようだ)を予約して宿泊していた。このころになると、タブローの制作は下落合ではなく、画道具一式を運びこんだ湯河原のアトリエがメインだった。
 そのような生活環境で、安井曾太郎は文藝春秋社より月刊雑誌「文藝春秋」の表紙画を依頼されている。戦後も早くから、たとえば1947年(昭和22)の「文藝春秋」9月号や、翌1948年(昭和23)の同誌3月号の表紙画を描いているが、月ごとに毎号の表紙画を定期的に描くようになったのは、1950年(昭和25)の同誌1月号から以降だった。
 安井曾太郎が表紙画を手がけたのは、これが初めてではない。1931年(昭和6)に、当時のアトリエ(高田町1673番地)の近くにあった婦人之友社から、「婦人之友」の表紙画を依頼されている。このときは、「婦人之友」の1月号から12月号までの1年間だったが、戦後の「文藝春秋」の表紙画は死去する直前まで描きつづけた。「婦人之友」の表紙画に、つい女性の裸体を描いてしまったエピソードが残っている。1954年(昭和29)に文藝春秋新社から刊行された『安井曾太郎表紙画集/第1集』収録の、美術評論家・福島繁太郎「安井先生の表紙絵」から引用してみよう。
  
 この様な奇抜な構図(文春時代)は二十年前の婦人の友(ママ)の表紙には見られない。初めて婦人の友に表紙を描かれた時は、先生も大分面喰はれたらしい。裸体を描いて雑誌社に渡されたところ、どうも之は困りますと云つてつき返されたさうである。当時の社会情勢としてはさもありなんと思ふのだが、先生はこの時、表紙絵は純粋作品とは違ふものだと思はれたと云ふ。だから婦人の友時代は先生は表紙絵に慣れて居られず、幾分の手心を加へられたものの、未だ表紙絵としての特別の配慮は少ない様に思ふ。だから表紙絵も当時の純粋作品の手法とあまり違はない。これに比べると、この頃は表紙絵としての本質を心得て居られると思ふ。(カッコ内引用者註)
  
 「文藝春秋」の仕事は、最初から表紙画として描かれており、自由な構図で奇抜な表現や抽象度も高めだが、戦前の「婦人之友」の仕事はいつものキャンバスに向かうのと、ほとんど変わらない姿勢で描いていたのがわかる。裏返せば、文春時代の表紙画はタブローに描くような形式や気がまえにこだわらず、むしろふだんの“表現ワク”がとり払われ、自由でくだけた美的センスが光る画面が多いということになる。あるいは、ふだんのタブローでは決して描かないような表現や、新たな手法へ試験的かつポジティブに取り組んだ可能性もあるだろうか。
 画材も油絵の具ばかりでなく、クレヨンやグァッシュ、色鉛筆、コラージュ(切絵・貼絵)などバラエティに富んでいておもしろい。表紙画を描いたキャンバスも、表紙のサイズとほぼ同一で製版の際に縮小化はされていないという。サイズの大きな画面に描くと、細部が気になってつい描きこむことになり、それを縮小して印刷すると描きこんだ部分がゴチャゴチャしてしまうからだ。そのような制作手法は、過去に引きうけた表紙画の印刷効果による経験則からきているのだろう。
195006街(数寄屋橋).jpg
194803馬.jpg
194810腰かけた女.jpg
安井曾太郎(下落合)1936.jpg
 また、表紙画の制作にあたって、安井曾太郎はたびたび書店に出かけマーケティングを実施している。雑誌コーナーで全体を観察しながら、どのような表紙画がインパクトがあるのか、読者にアピールし購買欲をそそるのかを研究しつづけたようだ。その様子を、同画集より引用してみよう。
  
 店頭効果も十分に考慮されてゐる。雑誌が店頭に並んだ場合、唯変つてゐるばかりでなく、購買力をそそる様な感じの良さを与へなければならない。先生は時々雑誌屋の店頭に立つて、どういふのがいいかと眺めて考へて居られる事が屡々で、これが先生のことだからなかなか手間がかかる。お連れの夫人など待ちくたびれて閉口なさるさうである。
  
 たびたび繰り返された店頭マーケティングの結果、表紙画は写実性や具象性の高いものは目立たず、注目されやすいのは抽象度が高めな表現だという結論になった。
 わたしが、最初に「おや?」と目をとめたのは、1947年(昭和22)に刊行された「文藝春秋」9月号の『読書』と題された表紙画だった。(冒頭写真) まだ、同誌の表紙を毎号制作する3年前の作品だが、一見して安井曾太郎の作品とは思わなかった。下落合のアトリエで制作されたもので、質の異なる用紙を貼りあわせ、その中に読書をする女性を描いて貼りつけ、右ワクの白い紙に赤いクレヨンで植木のようなフォルムを添えている。敗戦から間もない時期なので、当時の低品質なカラー印刷を考慮したのかもしれないが、色数を抑えた不思議な画面だ。安井曾太郎は、必ずモチーフを観て描く画家なので、誰か下落合にモデルがいるのだろう。
 もうひとつ惹かれた画面は、1950年(昭和25)に刊行された「文藝春秋」6月号の表紙画で、東京の街並みを描いた『街』だ。おそらく、湯河原の天野屋別荘から所用で東京にもどり、八重洲のホテルに連泊していた際に描いたのだろう。当時の風景からして、数寄屋橋界隈の風景をモチーフにしているとみられるが、黄色いキャンバスに赤の絵の具が非常に印象的だ。実景を前に、画家がその昔(戦前)見ていた風景なのか、あるいはリアルタイムに風景を写したものかは不明だが、どこか夢の中でみるモノトーンで懐かしく、逆光でまぶしい東京風景のように感じる。
195109浴後.jpg
195205劇場にて.jpg
195302湘南電車にて.jpg
195404ピアノ.jpg
 口数が少なく、人との交際が苦手だった安井曾太郎は、美術を離れた友人は少なかったようだが、1914年(大正3)の早くから知りあっていた友人に、下落合4丁目1665番地の第二文化村に住んでいた安倍能成がいる。安倍能成は、戦争末期の1944年(昭和19)の冬から初夏にかけ、近衛町の安井アトリエへ100回も通って2点、さらに戦後の天野屋別荘では3点、安井曾太郎に繰り返し肖像画を描いてもらっており、モデルとしてもっとも多く安井と接した友人のひとりだった。特に戦後の1949年(昭和24)、天野屋別荘で3回も肖像画を描いてもらったころが、ちょうど「文藝春秋」の表紙画を毎月制作していた時期と重なる。
 だが、湯河原の安井曾太郎はすでに体力が衰えており、本格的なタブローを仕上げるよりは、小品ながら表紙画をローテーションでこなすほうが楽しかったのではないだろうか。心臓を病んでいた様子を、安倍能成は書きとめている。1956年(昭和31)に文藝春秋新社から出版された『安井曾太郎表紙画集/第2集』収録の、安倍能成『安井曾太郎君の追懐』から引用してみよう。
  
 私のとまつたのは筋向こうの樂山荘で、これも石段が二百に近かつたらうか。君のモデルになる人々もしくは友人は、大抵この宿に泊つたから、君は毎日のやうに、段の途中で幾度か休んでは息を整へつつ、この宿へ上つていつた。石段を上つては下り、家へ帰ると又長い段を上下してアトリエを往復した君は、最後の住家では、又山坂を三十分以上もゆつくりゆつくり上つてゆかねばならなかつた。人よりも甚しく小さい心臓の持主であり、又肺活量が極めて少なかつたといふ君に、その晩年、殊に最後の生涯に、この木段、石段、急な山道を上り下りさせたことは、今から考へると痛ましい感じがする。しかしそれよりも一層痛ましかつたのは、昭和二十二三年の頃の眼病であつた。うつむきがちに痛みを怺へつつ眼をパチクリさせて居た君の顔は、実に正視に堪へなかつた。この病が快方に向つたのは、君にとつても日本の画壇にとつても有難いことであつた。
  
 死去するまで、宿痾の心臓は変わらなかったが、毎月の「文藝春秋」の表紙画を引きうけるころには、怖れていた眼病をようやく克服していた様子がわかる。眼疾が癒えたからこそ、従来の画風にはあまりとらわれず、のびのびと楽し気で奔放な表現ができたともいえそうだ。
195403犬.jpg
195412新築アトリエ(湯河原町宮上586).jpg
安井曾太郎(書斎と茶室).jpg
婦人之友193102.jpg 文藝春秋195304.jpg
 そんな晩年を、湯河原ですごしていた安井曾太郎だが、下落合の自宅兼アトリエにもちょくちょく帰ってきている。作品には、東京と湯河原とを往復する湘南電車(東海道線)の車内を描いた、1953年(昭和28)5月25日制作の『湘南電車にて』という画面も残されている。拙記事では、下落合で制作された表紙画を中心に、1947~1954年(昭和22~29)の作品を10点ほどご紹介したい。

◆写真上:1947年(昭和22)の「文藝春秋」9月号に、単発で描いたコラージュ表紙画『読書』。
◆写真中上は、1950年(昭和25)の同誌6月号の数寄屋橋界隈を描いたとみられる『街』。中上は、1948年(昭和23)の3月号の『馬』。中下は、1948年(昭和23)の10月号の『腰かけた女』。は、1936年(昭和11)に下落合のアトリエで制作する安井曾太郎。
◆写真中下は、1951年(昭和26)の「文藝春秋」9月号に掲載された下落合でのスケッチをもとにした『浴後』。中上は、1952年(昭和27)の5月号で照明が落ちた歌舞伎座の観客席を描いた『劇場にて』。中下は、1953年(昭和28)の2月号に湯河原へ向かう『湘南電車にて』。は、1954年(昭和29)の4月号に下落合の自邸で演奏する孫娘を描いた『ピアノ』。
◆写真下は、1954年(昭和29)の「文藝春秋」3月号で下落合で飼っている愛犬を描いた『犬』。中上は、1954年(昭和29)の12月号で湯河原町宮上586番地に新築した自邸兼アトリエからの眺めを描いた『海の見える風景』。中下は、新築の自邸書斎から窓外を眺める最晩年の安井曾太郎で窓外の建物は茶室。下左は、初めて1年間の表紙画を手がけた1931年(昭和6)の「婦人之友」2月号。下右は、1953年(昭和28)の「文藝春秋」4月号で表紙画のタイトルは『窓外春光』。
おまけ
 1935年(昭和10)ごろ撮影の、近衛町(下落合)のアトリエに置かれた安井曾太郎のモチーフ類。
モチーフいろいろ1935年頃.jpg

この記事へのコメント

  • てんてん

    (# ̄  ̄)σ・・・Nice‼です♪
    2025年10月23日 18:50
  • 落合道人

    てんてんさん、コメントをありがとうございます。
    わたしも外出のときは、慢性的なドライアイに悩まされていますので、
    乾燥しがちな季節は風よけにサングラスをかけています。怪しいことこの
    上ないですね。w
    2025年10月23日 21:07

この記事へのトラックバック