人文地理学にみる東京市街と郊外の境界。

長崎村大和田(大正初期).jpg
 冒頭の写真は、清戸道(現・目白通り)の北側にあたる長崎村へと入り、小学校の隣りにある長崎村役場(長崎町西向2883番地)へと向かう道筋を改修中の様子を、大正初期(1918年以前)に撮影したものだ。撮影したのは、付近を研究観察する人文地理学者の小田内通敏だった。
 写真は、田畑のなかを通う道筋に多摩川の砂利をまいて人力で固めているところだが、画面の中央を右から左へ横切っているのは、荷役用だった軽便鉄道時代の武蔵野鉄道(現・西武池袋線)で、線路向こうの右手に見える大きめな建物は、大正初期の長崎尋常小学校(のち長崎第一尋常小学校)の校舎だと思われる。武蔵野鉄道をわたり、カーブがつづく道をそのまま北東へ向かうと、左手に長崎尋常小と長崎村役場が建っている。当時は耕地整理の前なので、江戸期からつづく街道筋や農道がほぼそのまま残っていた時代だ。
 撮影されている道路は、耕地整理後に碁盤の目のような道筋へと変えられているので、現在では消滅して存在しない。当時の住所や番地でいうなら、長崎村大和田2108~2117番地(現・南長崎2丁目)界隈ということになる。あと数年もすれば、このあたりに足立慶造が安達牧場を開業し、牛込区と小石川区などの住宅街を中心にキングミルクを供給しはじめている。
 明治末から大正初期のころ、学術分野では人文地理学というのが隆興していた。それは、全国各地に都市が形成され、人口の増加とともに都市が郊外へと拡大しはじめていた時期とシンクロしている。人文地理学のなかでも、街の拡がりや物流・流通、新たなコミュニティの形成など、都市地理学や経済地理学、社会地理学の分野が脚光を浴びていたようだ。特に経済地理学などでは、交通・物流などのテーマが色濃くなるので、陸軍との結びつきも生じている。
 長崎村の冒頭写真は、1918年(大正7)に大倉研究所から出版された小田内通敏『帝都と近郊』に収録の1葉だが、ほかにも大正初期に撮影されたとみられる写真やスケッチが数多く掲載されている。当時、人文地理学者である小田内通敏は、牛込区喜久井町36番地(現在も地名・番地変更なし)に住み、カメラ片手に東京の西郊各地を歩きまわって撮影していた。これまで、東京西郊にみられた明治末から大正初期にかけての風景は、織田一磨三宅克己などの画面を通じてご紹介してきたが、当時の写真はめずらしくて貴重だ。以前、東京郊外ばかりを写した『武蔵野風物写真集』をご紹介したが、同写真集は昭和初期のものだ。
 小田内通敏が、自宅付近(牛込区+戸塚村)を観察した著作に、1914年(大正3)に地人学舎から出版された共著『都市と村落』がある。同書の論文『郊外戸塚村の変遷』のなかで、彼は自身の研究する人文地理学のメインテーマについて書いているので、少しだけ引用してみよう。
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 是(これ)年々かゝる郊外の町村に移住する東京人が、移住すると共に其処を東京化するばかりか地主や屋主(ママ:家主)も其処を東京化して移住者を吸集(ママ:吸収)するやうにするからで、郊外の農村はかくして漸次都会化するのである。郊外の都会化の研究は都市対村落の経済問題としても重要な題目であるのみならず、人文地理学の新思潮と称せらるゝ聚落研究の方面からしても最も肝要な問題である。(カッコ内引用者註)
  
 いわゆる伝統的な町と農村の境界は、従来はハッキリと区分けされていたにもかかわらず、都市化が進んだ町と村落の場合は境界が曖昧化し、しかもそれが徐々に郊外へと拡がりつづけていくところで、従来の町と村落との関係概念が通用しなくなっていくというのが小田内の研究におけるメインテーマだった。それは地理的な要因なのか、経済的な理由からか、それとも政治的あるいは文化的な要因なのかを探るのが人文地理学の課題ということになる。
 小田内通敏は、のちの1927年(昭和2)に大久保町西大久保459番地(現・新宿区歌舞伎町2丁目)へと転居しているが、大久保町も市街地(四谷区・牛込区)と郊外の境界線上にある地域なので、先の戸塚村と同様に自身の研究観察や、調査取材にはもってこいの場所だったのだろう。
1万分の1地形図1918.jpg
下落合斜面スケッチ1918.jpg
小田内通敏「帝都と近郊」1918.jpg 小田内通敏.jpeg
 では、豊富な写真入りの小田内通敏『帝都と近郊』より、落合地域に関する記述について順次見ていこう。旧・神田上水(1966年より神田川)に沿った村落を扱うなかでは、やはり明治期から華族の別荘地として拓けていた落合村下落合(現・中落合/中井含む)が取りあげられている。著者は、水源地(井ノ頭池)近くの上流から下流へとたどりながら、周辺の地形や村落を観察している。旧・神田上水の北側に連なる、急峻な目白崖線の地形に触れたうえで、次のように記述している。
  
 野方村より落合村に入るに従ひ両岸大地の高度及傾斜著しく増し、殊に南面せる左岸落合村大字下落合に於ては、水田より高さ十米(m)内外を示し、且其位置南面するを以て近年好住宅地区となり、近衛公・相馬伯(ママ:子)・大島大将(子)等の邸宅を見るに至る。(カッコ内引用者註)
  
 また、下落合村では畔隙(畦畔と同意)が残る田畑について詳細に観察している。畔隙とは、住宅の屋敷林や森林と田畑の境目、あるいは道路沿いの並木と田畑の境目などに設けられた土手や隙間地のことだ。屋敷林や森の場合は、田畑がその日陰になってしまうため、耕作しても収穫率が低いのであえて余地(畔隙)を残しておく。また、道路における並木と田畑の境目は、並木の根が田畑へ張りだしたり日陰になったりしないように設けられていた。
 だが、郊外の宅地化が進み森林が伐採されたり、幅員の拡張で道路沿いの並木が伐られたりすると、田畑と森林や道路を隔てる畔隙の意味がなくなり、従来は耕作しなかった畔隙の位置まで、田畑を隅々に拡げる事例が多かったようだ。同書より、つづけて引用してみよう。
  
 下落合村の椎名町より長崎村役場に赴く途中、東側の農家の屋敷林の樹影が西側の畑地にまで及ぼし、為に畔隙を耕地に変じても何等の效なき所に於ては、今日なほ其遺物を見るを得れども、然らざる所にては殆んど道路沿の並木を伐採して畔隙を耕地に変ぜし所多し。
  
 大正初期の清戸道(およそ現・目白通り)沿いの街は、南側は「下落合の椎名町」と呼ばれ、北側は「長崎の椎名町」と江戸期から変わらない呼称が用いられていた様子がうかがえる。このとき、旧・神田上水沿いをたどってきた小田内通敏は、急傾斜の西坂あたりから崖線を上り、徳川義恕邸を右手に見ながら、長崎尋常小学校の東隣りにある長崎村役場をめざしたものだろうか。
低地水田斜面畑地.jpg
旧神田上水流域.jpg
中野駅周辺耕地整理.jpg
 その昔、拙サイトで興信所が調べた地価の記事を載せたことがあったけれど、やはり時代ごとの地価動向は都市と郊外の境目を反映する、象徴的な数値として同書でも取りあげられている。
  
 試に落合村の三大字各所(上落合・下落合・葛ヶ谷の3地域)に就きて詳に土地の価格を見るに、下落合の院電山手線目白駅附近は地価最も高く、村内の西端に位する葛ヶ谷に至れば最も低し。左表(略)中注目すべきは、畑地と山林との価格の差少なきのみならず、畑地の価格が宅地と同格の所少なからざる事にて、是住宅地区として価格を示すものなり。(カッコ内引用者註)
  
 近衛町目白文化村アビラ村(芸術村)もいまだ影もかたちもない、華族の邸宅や別荘、農家、商店などが建ち並んでいた落合村だが、すでに山手線の目白駅周辺の地価が山林や農地、宅地など地目の種類を問わず、ほとんど同じような価格だったことがわかる。すなわち、小田内通敏のいう「都市化」「東京化」の波が、大正初期にはすでに落合地域へと押し寄せてきており、宅地化を前提に土地の価格が決定されていた様子が見てとれる。
 また、都市化=新たな住宅地化に関連し、地層・地質との関連にも触れている。川沿いというと、一見、湿地や水田、溜池などが多く宅地には適さないように思われるが、現場の地質によっては水はけがよいため、かえって水田よりも畑地へ、畑地から住宅地への転換が容易な土地があるという。小田内通敏は、妙正寺川沿いの地質を例に、宅地への転換が容易なことにも触れている。
  
 野方村の東部より落合村にかけての妙正寺川沿の如く、底に砂利層が近く横はれる関係上、排水宜しく 為に麦・馬鈴薯等の二毛作をなすに適し、従つて(水田を)干して畑となし、更に住宅地となすにも容易なり。中野町桐ケ谷附近の田畑も底に砂利層が近く横はれるが故に排水宜しく、為に其処の畑に栽培せる梨は風味宜しといへり。(カッコ内引用者註)
  
 文中の「中野町桐ケ谷附近」とは、妙正寺川ではなく旧・神田上水沿いの流域で、現在の中央線・東中野駅の南側、神田川沿いにあたる中野区東中野1丁目あたりの地域を指している。
代々幡町中西邸(あめりか屋).jpg
高田馬場駅東側1914.jpg
神高橋1936.jpg
 人文地理学の経済や社会の分野ばかりでなく、別の角度からも観察することができる。たとえば、上記の住宅に適した土地については、人文地理学のなかでも歴史地理学でおもしろい傾向が表面化しそうだ。たとえば、古代の遺跡が多く発見された地域や、埋蔵文化財包蔵地に指定されている土地は、現在でも「住宅地となすにも容易」で「好住宅地区」である可能性が高い。地理学や地質学など存在しなかった古代~近世以前の人々は、経験則とその伝承によって住まいや集落(中世以降は「本村」と呼ばれた字名の土地)など、暮らしの好適地を見きわめていたにちがいない。

◆写真上:大正初期に撮影された、多摩川の砂利で道路を改修する長崎村大和田の風景。
◆写真中上は、1918年(大正7)作成の1/10,000地形図にみる撮影場所。は、小田内通敏がスケッチした『帝都と近郊』収録の下落合風景。どこの情景かは特定できないが、南向きの斜面は野菜畑で、谷底の湿地帯には植木園が拡がっている。は、1918年(大正7)に出版された小田内通敏『帝都と近郊』(1974年の有峰書店版/)と著者()。
◆写真中下は、同書収録の斜面が畑地で低地が水田の典型風景。は、旧・神田上水沿いの湿地帯風景。は、中野駅南側で耕地整理が終わった造成地。
◆写真下は、同書収録の代々幡町にあめりか屋が建設した西洋館・中西邸。は、1914年(大正3)発表の小田内通敏の論文『郊外戸塚村の変遷』に掲載された高田馬場駅周辺の戸塚村風景。手前に1両編成の山手線が見え、東向きに撮影しているので戸塚村諏訪あたりの景色だろうか。は、著作とは関係ない1936年(昭和11)に撮影された高田馬場駅の北側に架かる神高橋。旧・神田上水をわたる手前の鉄橋が西武線で、その向こうに見えるガードが山手線。
おまけ1
 昭和初期(1931年以前)に陸軍航空隊によって撮影された大磯。1931年(昭和6)出版の小田内通敏『日本・風土と生活形態』(鉄塔書院)に「保養別荘地」の典型例として掲載されたもので、左端に大磯駅の跨線橋が見えている。大磯港はいまだ建設されておらず、眼下には千畳敷山(のちに湘南平)へと向かう山道までが精細にとらえられ、現存する明治・大正・昭和初期の建築群がいくつも確認できる。「故郷以外に住みたい街は?」と訊かれたら、わたしはまちがいなくもの心つくころから馴染みのこの街だ。東海道では日本橋から8つめの宿場町で、明治以降は松本順がスポットを当てたのだが、下落合と同様に旧石器時代から現代まで、途切れることなく人が住みつづけた、特に古墳だらけで鎌倉期の遺構も多い落ち着きのある街並みはいまも変わらない。
保養別荘地大磯1931陸軍航空隊.jpg
おまけ2
 陸軍参謀本部は、大正時代から日本各地の空中写真を撮影しており、その成果をまとめた資料類もいくつか刊行されている。写真は、1940年(昭和15)ごろに撮影された、空中写真用カメラを搭載した九九式軍偵察機と、より大型の偵察機から空中写真を撮影する搭乗員。
九九式軍偵察機.jpg
陸軍空中写真カメラ1942.jpg

この記事へのコメント

  • てんてん

    (# ̄  ̄)σ・・・Nice‼です♪
    2025年10月17日 19:27
  • 落合道人

    てんてんさん、コメントをありがとうございます。
    きょうは久しぶりに快晴で、秋めいたやや暖かく気持ちのいい1日でした。
    そろそろ、ニャンコは完成でしょうか。
    2025年10月17日 21:45

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