下落合側からバッケが原を描いた画家・野村千春。

野村千春「上高田風景」1941.jpg
 以前、上高田の秋の風情を見て「♪かきねの かきねの まがりかど~」と、童謡『たきび』を作詩した巽聖歌について書いている。その夫人である野村千春は、春陽会と戦後は女流画家協会に属する洋画家だった。野村千春というと、ときにアブストラクトへ寄り気味な画面のイメージがあったせいか、また下落合(現・中落合/中井含む)の西隣りに位置する街のせいか、周辺の具象的な風景画は残していないとの先入観から、これまでまともに調べてはこなかった。
 だが、戦前には多くの「上高田風景」を描いており、中には下落合側から上高田の風景をとらえている画面があることに気づいた。野村千春というと、美術評論家の田近憲三が評したように、「名誉心へのかかずり合いがない」孤高の存在で、生涯にわたり春陽会と女流画家協会(戦後)のみにしか属さず、画商から個展の誘いがあっても「出品作がない」と断わるような、かなり頑固さの見える女性だったようだ。例外は、敗戦後に夫の郷里の疎開先だった岩手県盛岡で個展を開くが、これは世話になった地縁での例外的な開催だったのだろう。
 やや余談ぎみになるが、野村千春が巽聖歌と出会い結婚したのは、中村彝の弟子だった宮芳平が友人の巽聖歌を紹介したことがはじまりだった。また、野村千春の画才を見抜いて画家になるよう強く勧めたのは、長野の平野高等女学校で美術教師をしていた、これまた中村彝の弟子筋にあたる清水多嘉示だ。おそらく、宮芳平と清水多嘉示は連絡を取りあっていて、画家をめざす妙齢な女性の存在を心にとめ、宮芳平が巽聖歌と引き合わせたものだろう。ふたりは、1932年(昭和7)に結婚して、野方町上高田285番地に住みはじめた。この住所は萬昌院(功運寺)のすぐ西側、食品スーパー「まいばすけっと」の店舗があるあたりの番地だ。
 1981年(昭和56)に中央企画から出版された『野村千春画集』で、春陽会の中川一政は次のように書いている。同画集に収録の、『野村千春さんという人』から引用してみよう。
  
 野村千春は女流画家である。しかし、女流の繊細とか優美とかに全く背中を向けている。/彼女は女流の中にいないでも、男性作家の中で充分太刀打ちのできる腕力を持っている。女性画家というハンディキャップは彼女に対してはいらない。研究所時代、デッサンをかかせても抜群であった。/彼女は信州に生まれたが、やはり色彩も寒国の色をもっている。質実・素朴である。いぶし銀の下から輝いてでてくる色彩は、彼女の魅力である。彼女は磨かない璞(あらたま)であって、光を外に発せず、裡に蔵している。そういう画家である。
  ▲
 「研究所」とは、中川一政も講師をつとめていた春陽会研究所のことだ。
 先述のように、野村千春の連作ともいうべき戦前の「上高田風景」作品は数多い。中でも、下落合4丁目(現・中井2丁目)の西端、バッケ坂が通う中井御霊社の丘麓あたりに架かる御霊橋の東詰めから、南南西を向いて描いているのが1941年(昭和16)に制作された野村千春の『上高田風景』だ。(冒頭写真) 画面奥に描かれている、3本の密集した煙突を見て、すぐにも描画場所を特定することができた。野村千春は、上高田側のバッケが原から妙正寺川に架かる御霊橋をわたり、下落合の丘に通うバッケ坂の方角を背にして南南西を向いている。
 右側から左奥へと流れている川が、浚渫ののち護岸・整流化工事を終えて間もない妙正寺川であり、手前のカーブした流れに架かる石橋が御霊橋だ。左手に描かれた流れは画面奥へと直線状になり、ひとつ下流に架かる葛橋と、妙正寺川に架かる西武線鉄橋をとらえている。鉄橋の向こう側に見える緑の高台は、萬昌院(功雲寺)や宝泉寺のある寺町の丘だ。そして丘のすぐ右手、中央右寄りに描かれている高い3本の煙突を備えた大きな工場が、1923年(大正12)に創立された東洋ファイバー株式会社(本社:日本橋室町)の、上高田2丁目330番地に建っていた工場だ。
巽聖歌と野村千春(上野公園春陽会展).jpg
上高田風景1944.jpg
野村千春「雪景」1935.jpg
 モノクロ画面なのでハッキリとはわからないけれど、工場の右手に描かれている濃い色は樹林が繁る緑色をしていたのではないか。ちょうどこのあたりには桜ヶ池と不動堂の杜があり、さらにその右手(西側)は崖地になっていて、丘上には上高田氷川社が鎮座している。
 東洋ファイバー工場は、野村千春にとってはかっこうのモチーフだったらしく、1936年(昭和11)にはすでに『ファイバー工場』を描いており、また1938年(昭和13)には『窓』という作品で、台所の窓から見える3本煙突の同工場を描いている。野村千春は、工場の建屋を描くことが好きだったらしく、風景画の中心に大規模な工場をすえて描くことが多かった。特に戦後になると、「日立ジーゼル」や「富士電機」など固有の企業名をタイトルに入れた、東京郊外(南多摩郡日野町地域あたり)の工場を好んで描き、いくつかの作品を残している。
 ひとつ不可解なのは、1938年(昭和13)に制作された『窓』だ。炊事場の窓から見える、上高田の東洋ファイバー工場を描いているけれど、同工場がこのような角度で窓外に見える家に、野村千春は一度も住んだことがないと思われる。戦前における、彼女と夫(巽聖歌)の転居について順を追って見ていくと、結婚当初の1932年(昭和7)4月からは、先述のように野方町(現・中野区)上高田285番地に住んでいる。そこには半年間しかおらず、1932年(昭和7)9月からは野方町上高田114番地に転居している。東洋ファイバー工場などまったく見えない、現在の上高田二丁目公園のあたりだ。同工場から自宅まで、直線距離で約500mも離れている。
 つづいて、1933年(昭和8)5月からは中野区新井506番地に転居している。この住所は新井薬師の近くであり、工場からはさらに遠く離れた位置にあたる。次いで、1935年(昭和10)の春から転居したのは、中野区上高田1丁目208番地だった。同番地は、新井薬師前駅の南170mほどのところに位置し、東洋ファイバー工場からは約600mも離れている。このあと、1944年(昭和19)に岩手県への疎開をはさみ、1948年(昭和23)まで同住所に住んでいたとみられる。上高田1丁目208番地の住居は、二度にわたる山手大空襲から延焼をまぬがれていた。そして、1948年(昭和23)になると、南多摩郡日野町7055番地(現・日野市旭が丘)へと転居している。
野村千春「ファイバー工場」1936.jpg
野村千春「窓」1938.jpg
ファイバー工場1947.jpg
野村千春(孤高の画家).jpg
 さて、東洋ファイバー工場が目の前に見える台所の『窓』は、1938年(昭和13)に制作されているので、野村千春・巽聖歌夫妻が上高田に住んだ最後の住居、新井薬師前駅の南側にあたる上高田1丁目208番地の家で描かれたことになる。けれども、当然ながら同住宅の台所の窓からは、緑深い閑静な住宅街が拡がっていたはずで、画面のような工場風景はありえない。『窓』が実景だとして、無理やり描画ポイントを特定するとすれば、桜ヶ池不動堂の境内にある桜ヶ池あたり、すなわち上高田氷川社のバッケ(崖)下にあたる、上高田2丁目321番地あたりから南東を向いて東洋ファイバー工場を描くと、このような建屋の角度になるだろうか。
 すなわち、『窓』の画面は“構成”の気配が濃厚なのだ。『ファイバー工場』(1936年)の画面と同じく、バッケが原の西端(桜ヶ池不動堂あたり)で東洋ファイバー工場を写生したあと、自邸の台所風景を別にスケッチし、それを合成させて仕上げたのが『窓』に描かれた画面ではなかろうか。そう考えると、野村千春がいかに東洋ファイバー工場のスケッチにこだわったか、それを画面に入れて描きたかったのかがうかがえる、興味深い作品ということになる。
 これと設定が近似した絵を、戦後すぐのころに制作された下落合の画面で観たことがある。1948年(昭和23)に開かれた、結成まもない女流画家協会の第2回展に出品された、佐伯米子『エリカの花』だ。もっとも、画家としての腕前からすれば、プロとアマチュアほどの質的な差があると思われるのだが、佐伯米子は野村千春の過去の作品を観ているうちにインスパイアを受け、同じような発想で『エリカの花』を描いているのではないか。ふたりとも女流画家協会の会員であり、野村千春の作品は空襲に遭わずに焼けておらず、自宅のアトリエに保存されていたはずだ。あるいは、佐伯米子は戦前から春陽会展を通じて、野村千春の画面には注目しており、その優れたデッサン力や筆致へのオマージュとして描いたものだろうか。
 ただし、野村千春は生活感のただよう炊事場を質感たっぷりに力強いタッチで描き、窓からのぞく関東ロームの赤土の敷地、耕地整理を終えたバッケが原南端の位置に建つ、殺伐とした工場の建屋群を描いているのに対し、佐伯米子は窓辺の花瓶に活けたエリカの花束ごしに、国際聖母病院のシャレた鐘楼がのぞく本館を描いている点で、ふたりの本質的な絵画に対する向きあい方、モチーフへ注ぐ眼差しの相違が表れているように思う。確かに、野村千春の『窓』を含む作品群は中川一政がいうように、男の画家が「腕力」で描いたといってもあまり不自然さは感じないし、“構成”とみられる窓外に見えている景色も、バルールは正確でおよそ狂ってはいない。
野村千春「猫を抱く少女」1949.jpg
野村千春「冬のたんぼ」1952.jpg
野村千春(アトリエ).jpg
 美術評論家の田近憲三は、野村千春のことを「難しい事を口にしない。人と議論を好まない。語れば、この人こそ一徹な自説があるはずだが、自分を放れ者と考えていて、黙ってわが道を歩いている」(『野村千春画集』中央企画/1981年)と評した。野村千春という画家は、そういう女性だ。

◆写真上:1941年(昭和16)に御霊橋をわたり、下落合側から描かれた野村千春『上高田風景』。
◆写真中上は、1936年(昭和11)ごろ春陽会展を開催中の上野公園で撮影された野村千春(右端)の家族で、左端が夫の巽聖歌と生まれてまもない息子。は、1944年(昭和19)撮影の空中写真にみる『上高田風景』の描画ポイント。は、1935年(昭和10)に春陽会展へ出品された上高田の住宅街を描いたとみられる野村千春『雪景』。
◆写真中下は、1936年(昭和11)にバッケが原南端の東洋ファイバー工場を描いた野村千春『ファイバー工場』。中上は、1938年(昭和13)に制作された“構成”画面とみられる野村千春『窓』。中下は、1947年(昭和22)に米軍の偵察機F13によって撮影された東洋ファイバー工場。は、「孤高の画家」と呼ばれ自身でも「放れ者」と位置づけていた野村千春。
◆写真下は、1949年(昭和24)に制作された野村千春『猫を抱く少女』。は、1952年(昭和27)に制作された野村千春『冬のたんぼ』。は、日野のアトリエで制作する晩年の野村千春。
おまけ
 戦後、野村千春はある時期を境に「土」にこだわるようになる。風景の中に見えている土面ではなく、「土」そのものの質感に惹かれていったようだ。それにともない、彼女の風景画は徐々にムダなものを省いて簡素化され、「土」を中心に抽象化を強めていった感がある。上から下へ、野村千春『黒土の丘』(1954年)、同『湖』(1969年)、同『早春』(1972年)
野村千春「黒土の丘」1954.jpg
野村千春「湖」1969.jpg
野村千春「早春」1972.jpg

この記事へのコメント

  • てんてん

    (# ̄  ̄)σ・・・Nice‼です♪
    2025年09月20日 22:09
  • 落合道人

    てんてんさん、コメントをありがとうございます。
    夏は放っておくと、雑草があとからあとから生えてきますね。
    2025年09月21日 09:51

この記事へのトラックバック