落合地域の高名な日本画家アトリエ1940年。

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 戦前、おそらく画商や骨董商向けに出版されていたとみられる、美術倶楽部出版部が刊行していた清水澄・編『現代畫家番附/標準價格付(ママ)』というのがある。この冊子は、ある程度の価格以上で売れる、つまり利益が上がって商売になる現役の日本画家を中心とした名簿なのだが、おおよその市場取引価格(おもに軸画が中心)まで掲載されている。また、基本的に自身の邸宅+アトリエをかまえている中堅以上の日本画家、ある程度名前が知られて受賞実績の多い人物や、院展・帝展などの常連画家のみが掲載されているようだ。
 そこで、面白いことを思いついた。同書を使えば、たとえば1940年(昭和15)の時点で、落合地域には高名な日本画家、すなわち画商がその作品価格から進んで扱いたがる日本画家が何人住んでいたのかを、定点で規定することができるのだ。ただし、駆けだしの日本画家や受賞歴の少ない画家、借家住まいで自身のアトリエをもたない画家などは含まれず、また住みこみや周囲に住んでいたとみられる弟子筋も掲載されていない。あくまでも、大手美術展の常連で入選を繰り返すような画家が、どれぐらいの密度で住んでいたかを知ることができる。
 わたしは、明治末から現代にいたるまで、落合地域には1,000人を超える美術関係者が住んでいたと想定している。この中には、友人の家に寄宿・居候しつづけた画家たち(彫刻家や工芸家たちを含む)や、ほんの短い期間だけ住み、ほどなく引っ越していった画家たち、あるいは師と仰ぐ画家のアトリエ近くに住み、その死去後あるいは転居後に落合地域を離れた画家たちなど、すべてを含めた落合地域における美術関係者たちの想定人数だ。
 裏返せば、そのような一時滞在や短期滞在、当時はそれほど高名ではなかった画家たちを除き、1940年(昭和15)の時点でどのような日本画家たちが落合地域にアトリエをかまえていたのか、これまではさんざん洋画家にスポットをあててご紹介してきたので、今回は日本画家のみに絞って、そのアトリエとともにご紹介してみたい。参照するのは、1940年(昭和15)に刊行された『現代畫家番附/標準價格付』で、当時の高名な日本画家が全国レベルで網羅されている。
 同書をめくると、まずは当時から有名な日本画家の落款や、軸画などに記される署名が数多く掲載されており、画商や骨董商が贋作を見分けやすいような工夫がなされている。以下、1940年(昭和15)の時点で下落合に住み、アトリエをかまえていた有名な日本画家の密度を見てみよう。
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 この中で、浅田知定邸跡の一画にアトリエをかまえた上原桃畝や、目白文化村のアトリエをご紹介していた渡辺玉花、下落合のあちこちに画家たちのアトリエを設計していたとみられる夏目利政(寸土)、その多彩な仕事をご紹介している岡不崩岡不崩とともに狩野芳崖四天王のひとり本多天城のアトリエなどは、すでに拙サイトでも記事にしている。
 まず、1932年(昭和7)に出版された『落合町誌』(落合町誌刊行会)に収録の、下落合1丁目404番地(近衛町41号)に大正期からアトリエを建てていた高木保之助について引用してみよう。
  
 邦画家 高木保之助  下落合四〇四
 東京府人高木利八氏の二男にして明治二十四年七月本郷区に於て生る 大正八年東京美術学校を卒業し常夏荘に入り新興大和絵画を興す 傍ら東臺邦画会々員として今日に至る 帝展入選の主なるものに(伊豆の春)(奔端) 特選に(はまなすの浜)等あり。夫人田鶴子は熊本県人石橋正人氏の長女にして双葉高女の出身。
  
 「常夏荘」とは、松岡映丘が自邸で主宰していた“新大和絵”をめざす日本画塾のことだ。なお、下落合では中村彝アトリエの西隣りに、松岡映丘がアトリエを建てて転居してくるというウワサが立っていたことを、曾宮一念のスケッチにからめてご紹介している。
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 日本画家たちがかまえていたアトリエの住所を見ると、下落合4丁目(現・中落合3丁目/中井2丁目)が多いことに気づかれるだろう。中には、目白文化村の大澤恒躬や渡辺玉花、落合府営住宅や隣接地に住んだ小林三季や川原洽たちもいるが、多くはさらにその西側、当初は東京土地住宅の常務取締役・三宅勘一が企画し、のちに島津源吉らが開発を引き継いだとみられるアビラ村(芸術村)のエリアに、数多く日本画家たちが住んでいた様子が見てとれる。特に、五ノ坂の西は日本画家のアトリエ村のような雰囲気で、下落合2130番地に住んだ五ノ坂の中ほど大泉黒石邸の北西側に近接し、下落合4丁目2133番地に住んだ林芙美子・手塚緑敏邸の北側に位置していた、山田義雄という日本画家の存在が目をひく。
 六ノ坂から八ノ坂沿いにも、日本画家たちはアトリエをかまえているが、槙野比佐緒の「下落合2524番地」は明らかにおかしい。下落合の番地は2300番台が最大で、この番地は自性院の西側にあった下落合の飛び地にふられていた。おそらく番地の誤記だと思われるが、「2524番地」を「2丁目524番地」と読み替えても、このような住所は存在しない。下落合524番地は、下落合1丁目に相当する番地だ。また、槙野呉喬と槙野比佐緒は夫婦ないしは肉親だろうか? ふたりとも住所を明かせない、なんらかの事情があったのかもしれない。
 1940年(昭和15)の時点のみに限ると、下落合には21人の日本画家が住んでいたことになる。ただし、これらは名の知られた画商が積極的に扱いたい画家たちであって、日本画家をめざしている駆けだしの画家たちや、画家の家に寄宿していたとみられる弟子たち、画家歴は長いがあまり知られていない画家たちは、当然ながらリストには含まれていない。『現代畫家番附/標準價格付』は、あくまでも画商が喜んで市場に持ちこめる日本画家が中心であり、下落合に住んでいた日本画家の実数(1940年時点)は、おそらく21人よりは多いだろう。
 つづいて、1940年(昭和15)現在で上落合に住んでいた、高名な日本画家を列挙してみよう。
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 この中で、卓越した写生で現代でも通用する『鳥類写生図譜』を描きつづけてきた、小泉勝爾と土岡春郊はすでに拙サイトでご紹介している。
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 気になるのは、400番地台の住所が多いことだ。上落合の光徳寺を中心に、その周辺へ日本画家たちが集まっていた様子が見てとれる。上記の小泉勝爾と土岡春郊は親しく、同一の目的で仕事をしていたので近所同士なのは当然としても、ほかのふたり、蓮尾辰雄や佐藤光堂とも親しかったか、あるいはなんらかの交流があったのではないか。また、片岡京二と古川北華の600番地台は、南側を早稲田通りが貫通する上落合の西端区画で、松井医院やアパート静風園の西側に近接した位置なので、こちらもなんらかのつながりを感じる。
 下落合に展開した日本画家のアトリエは、1丁目から4丁目まで比較的まんべんなく散在していたのに対し、上落合のアトリエは400番地台と600番地台に限られて集中しており、画家仲間が寄り集まって、または寄り添って住んでいたような印象を受ける。1940年(昭和15)の時点で、上落合に住み制作していた当時の有名画家は6人だった。
 東京美術学校や画家の団体・グループなどで、同級生や先輩・後輩が住んでいる地域へ画家たちが集合しがちになるのは、日本画も洋画も問わず共通して起きる現象だ。しかも、日本画家の場合は洋画界とは異なり、師弟関係という江戸期からつづく厳然とした“身分”関係が存在しており、そのような現象が起きやすかったのかもしれない。換言すれば、これら名の知られた日本画家の周囲には、弟子筋や後輩たちが集合して住んでいた可能性もありそうだ。
 つづいて、同年現在で西落合(旧・葛ヶ谷)に住んでいた高名な日本画家たちを列挙してみよう。
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 この中で面白いのは、小林観爾と山口勝弘(現代美術の前衛作家とは別人)が同一の住所に住んでいたという点だ。西落合1丁目129番地という敷地は、旧・葛ヶ谷の妙見山と呼ばれていた南側の急斜面の中途にあたり、その南隣りには夫から結婚前に「東京からきたって顔は絶対しないで」といわれてしまった、乃手(山手)の麹町区三番町が出身の貫井冨美子(西落合1丁目132番地)が住む貫井邸(新邸で米国帰りの夫が建てたおそらく西洋館)が建っていた。
 1938年(昭和13)に作成された「火保図」を参照すると、採取されている家主名、つまり門の表札は「小林」となっているので、小林観爾のアトリエに山口勝弘がいっしょに住んで制作していたか、あるいは「火保図」には住民名が記載されていない、隣接する129番地のいずれかの住宅をアトリエにしていたかのどちらかなのだろう。
 いずれにしても、同じ番地に住む日本画家同士ということで、出身校が同じで同窓生か先輩・後輩、あるいは帝展仲間の親しい友人だった可能性がある。ちなみに、小林観爾は京都市立美術工芸学校の絵画科出身だった。1940年(昭和15)の時点で、西落合で仕事をしていた画商が注目する市場価値の高い日本画家は、計4人ということになるのだろう。
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小林観爾アトリエ1938.jpg
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 こうして見てくると、1940年(昭和15)の時点でのみ調べてみても、世間に名の知られた日本画家で、落合地域にアトリエをかまえていた人物は合計31人ということになる。ただし、明治末から戦後にいたるまで『現代畫家番附/標準價格付』には掲載されない画家たち、すなわち同年の時点では市場価値がそれほど高くない画家や、すでに物故して市場における価格が流動せず固定化している画家を含めると、相当数の日本画家が落合地域で制作していた可能性を推測できる。それは、落合地域に住んでいた洋画家たちの、かつての密度や動向を見ても自明のことだろう。

◆写真上:下落合1丁目404号(近衛町41号)にあった、高木保之助のアトリエ跡。
◆写真中上は、1926年(大正15)に作成された「下落合事情明細図」にみる高木保之助アトリエ。中左は、1940年(昭和15)に刊行された清水澄・編『現代畫家番附/標準價格付』(美術倶楽部出版部)。中右は、日本画家の落款や篆刻、署名などを載せた同書グラビア。は、下落合4丁目1605番地(第一文化村)の渡辺玉花アトリエ。
◆写真中下は、1938年(昭和13)に作成された「火保図」にみる下落合3丁目1321番地(第一文化村)の大澤恒躬アトリエ。中上は、大澤恒躬邸アトリエ跡の現状(道路左手)。中下は、1938年(昭和13)の「火保図」にみる下落合4丁目1233番地(アビラ村)の山田義雄アトリエ。は、路地の突きあたりの敷地に建っていた山田義雄アトリエ跡(正面奥)。
◆写真下は、1938年(昭和13)作成の「火保図」にみる上落合1丁目481番地の佐藤光堂アトリエ。中上は、佐藤光堂アトリエ跡の現状(道路右手)。中下は、1938年(昭和13)の「火保図」にみる西落合1丁目129番地の小林観爾アトリエ。は、小林観爾アトリエ跡の現状(道路左手)。

この記事へのコメント

  • てんてん

    (# ̄  ̄)σ・・・Nice‼です♪
    2025年10月08日 21:58
  • 落合道人

    てんてんさん、コメントをありがとうございます。
    家はほぼすべての照明がLEDですが、読書用のスタンドだけ蛍光灯を残っています。
    なんとなく、あの青白い照明だと読書に合うような気がする、気分の問題ですね。
    2025年10月08日 22:15

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