下落合の平凡社・下中彌三郎が記録する関東大震災。

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 出版社の老舗、平凡社の創業者で社主の下中彌三郎が下落合へ引っ越してきたのは、1923年(大正12)5月だった。それまでは、大久保町西大久保519番地に住んでいたが、ちょうど奥むめおが「職業婦人社」を設立するので、下中彌三郎はその支援をしていたころだ。
 下中彌三郎が引っ越してきたのは、東京府住宅協会が建設した落合府営住宅の第二府営住宅10号にある純和風な屋敷だった。拙サイトの記事でいえば、『街(ちまた)の子』(1924年)にとらえられている大江邸・上林邸・須崎邸(落合第二府営住宅3号・4号・5号)の真裏(西側)で、須藤邸の西隣りにある敷地が10号住宅の下中邸だった。番地でいえば下落合1515番地(現・中落合3丁目)で、落合第一府営住宅の土屋文明邸(3号)から道路を2本隔てた西側の区画、同じく落合第一府営住宅の沖野岩三郎邸(8号)からも3区画ほど、100m弱しか離れていない。また、目白文化村の造成を観察していた目白中学校に通う4年生の松原公平が住んでいた、松原邸(第二府営住宅24号)は斜めに3軒ほど西隣りということになる。
 下中彌三郎は、関東大震災をはさんで下落合では2年ほど暮らし、1925年(大正14)の春には雑司ヶ谷1119番地へと転居している。したがって、1926年(大正15)に作成された「下落合事情明細図」では、落合第二府営住宅10号の下中邸はすでに早川邸へと入れ替わっている。だが、下中彌三郎にとって、この2年間は非常に重要な時期だった。平凡社が、本格的な出版社として出発する契機となる株式会社化を実現し、また関東大震災により神田神保町の社屋が全焼してしまい、社業の復興・再起をはかる決定的な時間だったからだ。
 下中彌三郎が、埼玉県師範学校の教諭を辞任して、下谷区谷中三崎町22番地に平凡社を設立したのは1914年(大正3)4月のことだった。関東大震災が起きるまでの間、印刷会社を設立したり、学術助成・支援団体である農本主義の啓明会を創立して機関誌「啓明」(のち「文化運動」)を発行したり、1920年(大正9)に日本初のメーデーに参加して労働組合同盟会を結成して「労働週報」を発行したり、「教師も労働者である」と教育擁護同盟を結成して、政府の教育費削減や国定教科書に反対したりと、教育界を中心に精力的な活動を展開している。
 1922年(大正11)ごろから、平凡社の株式会社化への準備を進め、1923年(大正12)6月には資本金の準備ができて、下中彌三郎は代表取締役社長に就任している。西大久保にあった平凡社の本社屋を、ようやく神田神保町へと移転し終えた刹那、関東大震災が発生した。その様子を、1974年(昭和49)に平凡社から刊行された、尾崎秀樹『平凡社六十年』から引用してみよう。
  
 下中は西大久保から下落合の府営住宅に住居を移した。株式会社に改まる直前のことだ。内外ともに出版社としての体制をかためるためだったかもしれない。資本金の総額は五万円、下中は代表取締役となり、高橋守平、高橋村吉が取締役、監査役には土師支直一、大西平太郎が名を連ねた。/株式組織になるについては、啓明会の幹事である高橋守平の経済的な援助を得ている。高橋は下中の埼玉師範時代の教え子の一人であり、啓明会の発足当時から下中に協力してきた人物だ。(中略) 平凡社は株式会社になると、社屋を神田表神保町十へ移した。(中略) 社員の月給も五十円にひき上げられ、あらたな企画も進行し、いよいよ出版活動が積極化するという矢先、関東大震災がおこったのである。
  
 神田表神保町10番地は、現在の神保町1丁目界隈のことだ。当時は、新旧の出版社が集合していたエリアだが、神田区の神保町界隈は1923年(大正12)9月1日の大震災でほぼ全滅している。むしろ、西大久保から動かなければ被害はほとんどなかっただろうが、当時の出版社としては神保町界隈へ進出することが、出版事業の意気ごみを示す決意であり“夢”だったのだろう。
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 表神保町の社屋で被災した様子を、そして下落合の自邸の様子を、下中彌三郎は記録している。1923年(大正12)に啓明会から刊行された、「文化運動」10月号(140号)より引用してみよう。
  
 「もうこれで死ぬんかな、人間の生死も簡単なものだナ」 さう思つて私はほほゑみながら、みなのものと手をつないで表神保町の裏通りの広くもない通りでよろめきながら、足ぶみしてゐた。両方の三階建が今にも崩れて来さうなんだ。少し静まつたので、屋内に入つて二階に上つた。清藤君、大川君、須藤君、木内君などは、まだ、大テーブルの下に、うづくまつてゐた。私達は事務所を出やうとした。壁土は畳をうづめ、積上げた書籍は倒れ電燈のカサは柱に当つて割れ、乱次なき様になつて、しかも震動は止んでゐない。外に出ると、煉瓦塀も鉄門も倒れ、瓦、壁土の落ちるのがまだ止まない。それは第一次の強震後間もない九月一日午後十二時五分であつた。神保町の狭い通りはもう両方から崩壊した家でふさがつてゐた。
  
 平凡社の社屋は、最初の強震ではなんとか倒壊しなかったが、その後に神保町を総なめにした延焼で焼失している。このあと、家族や自邸が心配になった下中彌三郎は、乗り物が機能していないので歩いて下落合へ向かった。おそらく、江戸川橋をすぎるあたりから、震災の被害があまり目立たなくなるのを感じて、少しはホッと安堵したかもしれない。
 神保町から最短距離で、落合府営住宅に向かったとすれば、水道橋あたりから外濠に出て、飯田橋から舩河原橋の架かる江戸川(1966年より神田川)沿いにさかのぼり、江戸川橋から目白坂を上って、目白通りをそのまま西進するのが最短のコースだったろう。高田大通り(目白通り)沿いは被害がそれほど目立たず、雑司ヶ谷あたりで半壊家屋を見かけ、学習院では化学薬品を置いていた理科の特別教室の焼煙を見たかもしれない。
 目白橋を越えて下落合に入ると、瓦が落ちた商店や塀が崩れた住宅は見かけたが、全壊している家屋は見かけなかった。また、火災も発生しておらず、住民たちは建物の倒壊を怖れて外に出ていたが、市街地に比べれば比較的落ち着いた様子だった。のちに判明するが、このとき落合地域(下落合・上落合・葛ヶ谷=のち西落合)で倒壊した家屋は、江戸期に建てられたとみられる農家の納屋が2軒で、負傷者はいたが死者はひとりも出なかった。
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 下中彌三郎が市街地の混乱を抜けだして、ようやく落合第二府営住宅10号にたどりついた様子を、上掲の「文化運動」10月号よりつづけて引用してみよう。
  
 下落合の自宅に帰つたのが午後三時半、家族は広ツパ(広っぱ=空き地)にござを敷いて小さくふるへてゐた。恐ろしい煙が東京の空にウヅ巻いてゐる。ものすごい音が聞える。夜になる。時折強震がある。隣近所の人々と共に、広ツパで提灯つけて夜をあかした。翌る日、藤井君がのがれてやつてくるまで神保町が焼けるとは思つてゐなかつた。しかし、それは単なるヨクメ(欲目)に過ぎなかつた。死んでゐないかしら、どうだらうかと思つた平凡社十余人の社員、啓明会の本部員みな無事だつたと知つて「まあよかつた」と思つたのは三日の朝であつた。(カッコ内引用者註)
  
 家族が避難していた「広ツパ」=原っぱとは、どこのことだろうか? 1923年(大正12)9月の当時、落合府営住宅内や目白通りに近い位置には、すでに住宅が稠密に建てこんでいたが、府営住宅の東側にあった菊ノ湯の南に、のちに「下落合遊園地(公園)」となる広い空き地があった。また、落合第二府営住宅の南側には、同年6月に前谷戸を埋め立てたばかりの広い空き地が、箱根土地本社の西隣りの第一文化村エリアに拡がっていただろう。
 下中彌三郎は、翌1924年(大正13)1月に表神保町10番地へ本社を再建するとともに、大阪の南区大宝寺町仲ノ町23番地に平凡社大阪出張所を開設するなど、震災前と変わらず精力的な仕事をつづけている。大正末から昭和期に入ると、『現代大衆文学全集』(1927年)や『世界美術全集』(1928年)と次々に全集本をヒットさせ、同時に社会運動へも注力しつづけた。1928年(昭和3)には、雑誌「平凡」を創刊(ただし、このときは5号で休刊)している。
 平凡社というと、わたしは百科事典のイメージが強いが、「大百科事典」の構想は早くも1931年(昭和6)からスタートしている。だが、この壮大な出版計画は太平洋戦争で頓挫し、1955年(昭和30)3月になってようやく『世界大百科事典』第1巻が刊行されている。平凡社は戦後、『社会科事典』全10巻や『理科事典』全19巻、『児童百科事典』全24巻、『世界地名事典』全6巻、『世界歴史事典』全21巻と、次々に大規模な事典類を出版していたが、『世界大百科事典』はその総仕上げ的な念願の出版事業だった。「私はほとんど学校教育を受け得ないで育ったために、書物にばっかり頼って学問しました」と、高等教育を受けられなかった子ども時代を語る下中彌三郎は、独学でも高度な知識の得られる「百科事典」に、30年4ヶ月もの間こだわりつづけていたのだろう。
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 けれども、わたしが1984年(昭和59)に購入したのは『世界大百科事典』ではなく、『平凡社大百科事典』のほうだった。1970年代の前者はすでに記述が古く、新編集で最新情報を載せた『平凡社大百科事典』のほうが魅力的だったからだ。同百科事典は、2000年(平成12)すぎまで使っていただろうか。およそ20年しか使わなかったと思うが、それほど早く掲載されている情報が短期間で古びていったからだ。特に自然・社会・人文科学の記述が、それまでの20年間とは比較にならないほど早く時代遅れになっていった。ICTの普及で、学問の諸分野の進歩が加速していったからだろうが、リアルタイムに更新できない“紙”の百科事典は、以来、手にすることがなくなってしまった。

◆写真上:1924年(大正13)に、下落合1515番地(落合第二府営住宅10号)の自邸で撮影された下中彌三郎一家。左端がみどり夫人で、子どもが男女6人もいた。
◆写真中上は、1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」にみる落合第二府営住宅10号で、すでに早川邸に入れ替わっている。は、中落合社宅を入って奥の右手あたりが落合第二府営住宅10号跡。は、大正期に撮影された下中彌三郎一家。
◆写真中下は、1927年(昭和2)3月29日の東京朝日新聞に掲載された『現代大衆文学全集』の媒体広告。は、関東大震災で壊滅した神田神保町界隈。
◆写真下上左は、晩年の下中彌三郎。上右は、2007年(平成19)に刊行された最後の“紙”による『世界大百科事典』全34巻。は、1951年(昭和26)に麹町番町へ移転した平凡社の本社ビル。は、1984年(昭和59)に刊行された当時は最新の情報を網羅した『平凡社大百科事典』全20巻。

この記事へのコメント

  • てんてん

    (# ̄  ̄)σ・・・Nice‼です♪
    2025年08月30日 21:50
  • 落合道人

    てんてんさん、コメントをありがとうございます。
    ゴーヤは苦手ですが、ピーマンやシイタケのひき肉詰めはときどき作ります。
    2025年08月30日 22:14
  • pinkich

    papaさん あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いします。年始早々、トランプ大統領がやってくれましたね。世界は破滅に向かっているようです。アメリカにとって台湾有事など極東の無関心、無関係でかかわりたくない問題なのでしょう。日本は敗戦から何を学んだのか、衆愚政治の行き着く先は何か、問われる一年になりそうです。
    2026年01月08日 21:40

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