講談師で思想家で著述家で政治家の伊藤痴遊。

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 薬王院墓地(旧墓地)の南側に、おもしろい人物が住んでいた。もともとは横浜出身で、板垣退助の自由党員だったが、薩長政府が自由党を弾圧したため講談師となって、自由民権思想を巧みに広めようとした。本名は伊藤仁太郎、高座の芸名は伊藤痴遊または双木舎痴遊と名のり、明治末から戦前まで政治分野を中心に活動をつづけている。
 伊藤痴遊は、政治にまつわるさまざまな講談や説話、落語などのほか、同時に政治史に関する多彩な著述(特に人物評伝)や随筆も多く、多分野の記事を載せる総合雑誌「痴遊雑誌」の編集者としても知られていた。明治期から東京府や衆議院の議員をつとめ、下落合2丁目819番地(現・下落合4丁目)に住んでいた当時は、衆議院議員に連続当選していたころだ。
 「講釈師見てきたような嘘を云ひ」とはよくいわれるが、実際に政治活動の渦中にいた伊藤痴遊が語る政治の「裏面史」は当時、かなり信憑性の高いものとして受けとられていたようだ。下落合時代は、1929年(昭和4)からスタートした『伊藤痴遊全集』第1巻~第30巻(平凡社)が刊行されつつあるころで、その膨大な印税を資金に下落合で痴遊雑誌編輯所を起ちあげ、同誌を刊行しはじめていたのだろう。戦前は、人気が高かったらしい伊藤痴遊の著作類や雑誌だが、中野重治豊多摩刑務所(中野刑務所)に服役中、村山籌子が差し入れをしてくれた痴遊作品を読んでいるのを、連れ合いの原泉(原泉子)へ手紙で報告している。
 横浜出身の伊藤仁太郎(伊藤痴遊)について、1934年(昭和9)に人事興信所から出版された『人事興信録-昭和九年版-』より、その経歴を引用してみよう。
  
 伊藤仁太郎(痴遊)/衆議院議員(東京府選出)、東京市会議員、講演及著述業、東京府在籍
 君は福井県人井上八之助の長男にして慶応三年二月を以て生れ先代伊助の養子となり明治二十六年家督を相続す 夙に板垣退助の率ゐたる自由党志士として知られ特に幕末維新以来の幾多国士の経歴に精しく其講演家として知られ号を痴遊と称す 国政刷新の志早く講演及著述を業とし其著書に痴遊全集三十巻あり 昭和三年以来推されて衆議院議員に当選する事二回 現に其職にあり且つ東京市会議員を兼ね襄に東京府会議たり 嘗て欧州を一巡し北米を観察せる外屡々支那満洲に旅行せし事あり(中略) 東京、淀橋、下落合二ノ八一〇 電大塚三五五〇)
  
 伊藤痴遊が、いつごろから下落合に転居してきたのか厳密には規定できないが、1931年(昭和6)に出版された「帝国議会衆議院議員名簿」には、すでに下落合768番地の住所が記載されている。それ以前の住所は、上野桜木町29番地となっているので、伊藤痴遊が下落合にやってきたのは1930年(昭和5)ごろと推定できる。下落合768番地は、現在でいうとちょうど「野鳥の森公園」のすぐ上あたり、オバケ坂(バッケ坂)沿いの番地だ。1932年(昭和7)に出版された『落合町誌』(落合町誌刊行会)に伊藤痴遊は収録されておらず、衆議院議員で高名な講談師にもかかわらず載っていないということは、痴遊自身が掲載を断ったものだろう。
 伊藤痴遊は、数年のうちに下落合内を転居しており、次の住所が下落合810番地、すなわち久七坂を上りきった左手にあたる番地に住むようになる。1935年(昭和10)に発行がはじまる、「痴遊雑誌」創刊号(5月号)の奥付は、この住所が記され下落合2丁目810番地ということになっている。ちょうど、佐伯祐三が描く「下落合風景」シリーズのうち、1926年(大正15)9月20日に制作された『散歩道』と名づけられた画面にとらえられている、パースのきいた道路の左手奥の敷地だ。
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 ところが、下落合810番地の家にも短期間しかおらず、次いで下落合2丁目819番地、すなわち薬王院墓地の南側に屋敷をかまえている。ひょっとすると、下落合810番地は屋敷が竣工するまでの仮住まいだったのかもしれない。けれども、自邸が完成し下落合2丁目819番地へ転居したあとも、しばらくは「痴遊雑誌」の奥付を下落合2丁目810番地のままにしている。これには、なにか発行所の番地を変更できない理由があったのだろうか。新邸の下落合2丁目819番地は、佐伯祐三が1926年(大正15)9月22日に制作した『墓のある風景』の画面で、墓地の卒塔婆に隠れがちな塀の奥の左端に見えている邸が、その住所の敷地にあたる。
 また、新邸への転居とともに近くの下落合2丁目811番地、薬王院墓地の西側に接する区画に痴遊雑誌編輯所を移転し、同時に下落合2丁目819番地の自邸内には「話術倶楽部」というサークルを開設している。おそらく、親しい友人知人や仕事の関係者などを招いて、「茶話会」(本人の表現)や談話室、研究会、ないしは親睦組織のようなサークル活動をしていたのだろうが、「痴遊雑誌」の発行は話術倶楽部出版部が実施している体裁となっていた。
 わたしは講談にも、また明治期の司馬遼太郎風な「偉人伝」にもまったく興味はないが、「痴遊雑誌」には分野を問わず、多種多様な世間の話題が掲載されていておもしろい。当時の世相を知るには、願ってもない資料といえるだろう。中でも、講談師・悟道軒圓玉が語る“怪談師”たちの失敗談には、思わず笑ってしまった。「鍋島猫騒動」の演目で、「化け猫」に扮して宙吊りするチン(犬)にショールをかけたまま外し忘れ、また着ぐるみ姿の弟子(燕平)が、化けてでる出番直前に賃金交渉をはじめてしまう桃川如燕の失敗談は、ことに笑えた。
 1936年(昭和11)に発行された「痴遊雑誌」11月号収録の、「怪談の失敗(二)」から引用しよう。
  
 最初は高座へ燕平の猫が出て、それがパツと消えると猫に見せる狆の宙乗となる、例の如く如燕先生は精々凄味を付けて御夜話を演じ、サツと高座を暗くしたが猫が現はれぬ、さア如燕先生ヂレこんで扇で高座をトコトコと叩き/「燕平出ろよ」と言つたが燕平は縫ぐるみを来て(ママ:着て)高座の下に居たが、催促されると「師匠、少し給金を増して下さい、十銭では安い、もう五銭増して下さい」 猫が掛合つて居る、如燕先生は是を聞いて/「そんな事を言はずに十銭で出ろ」/「十銭では出られません、五銭増しておくんなさい」/「人の悪い奴だ、では三銭増してやらう」/茲で妥協成立して燕平の猫が現れた、軈てこれがパツと消ると如燕先生は亦々青い光線を客席の天井に投げた、ソレツと楽屋で糸を曳くと、サテも不思議銅線を伝うてシヨールが天井を匍ひ渡る、
  
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 ほかにも、甲府の「競花亭」という寄席で、怪談師が高座をほの暗くして怪談を語っている間に、弟子がおどろおどろしい太鼓をたたき、師の妻が髪ふり乱した幽霊に化けて端から出てくるというしかけだったのが、いつまで待っても太鼓も鳴らなければ、妻の幽霊も姿を見せない。適当に怪談を切りあげて楽屋にもどってみると、妻と弟子もろともカネや荷物がすべて消えていた“怪談”など、ついニヤニヤ笑ってしまうエピソードが盛りだくさんの「痴遊雑誌」だ。
 だが、こんなユーモラスな記事ばかりかというと、当時は貧富の差が開く一方の世相を批判した記事や、軍部の横暴あるいは官僚の圧力、政党議員の不甲斐なさを叱咤激励する文章なども掲載されている。議会制民主主義者で自由主義者の伊藤痴遊らしく、特に軍閥の政治介入は絶対に許せなかったらしく、何度か鋭い批判を展開している。
 1936年(昭和11)11月は、ちょうど帝国議会議事堂(現・国会議事堂)が竣工した時期で、衆議院議員だった伊藤痴遊も内部の見学会に参加している。そして、同年の「痴遊雑誌」には参観の様子を記録している。彼の思想が、色濃く反映された文章なので、少し長いが引用してみよう。
  
 新議事堂を参観して/痴遊老人
 何の必要があつて、斯く迄に、豪壮にして、華美を尽せる、建物をつくつたのであるか、我等は、その理由を、解し得ない。建物に贅を尽さなければ、憲政実施の記念にならぬのであらうか。そこに疑問が生ずる。十六年もかゝつて、二千七百万円を費し、議事堂が竣工した時、軍部や、官僚の圧迫をうけて、政党が、委縮してゐるなどは、頗る皮肉な対象(ママ:対称)である。徒らに器のみ立派にして、盛込むべき物が、お麁末(粗末)を極めたのでは、啻(ただ)に憲政の歴史を汚すばかりでなく、却て、一般の人心に、悪い影響を来すであらう事を、深く憂へざるを得ない。那の豪奢な殿堂を観て、狂激な思想を有つ、若い失業者が、どんな考を抱くであらうか。又、国家の恵みを受けずして、生活に喘ぐ、下層の人民が、之を見せつけられて果して怨声を放たず、随喜の涙を流すであらうか。更に又、代議士なる一群れの中に、それらしからぬ者が多く居るのを見て深刻な軽蔑と反感を有たざれば幸ひである。要之(これをようするに)、新議事堂は、建築技師が、道楽の現はれに過ぎずして、その他には何等の意義なきものといふべし。(カッコ内引用者註)
  
 まるで、“憲政の神様”といわれた尾崎咢堂を思わせる文章だが、はたして帝国議会議事堂を設計した吉武東里大熊喜邦は、この文章を読んだらどのような感想を抱いただろうか? また、当時が現代の世相によく似た状況だったと感じるのは、はたしてわたしだけだろうか。
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 伊藤痴遊は、1938年(昭和13)9月に自邸で死去するが、「痴遊雑誌」は同年の11月号まで刊行をつづけている。終刊号は、伊藤痴遊の生涯をたどる特集と追悼文集になっており、さながら政党政治と自由主義を追悼するような皮肉な内容となっている。大日本帝国は全体主義(ファシズム)軍国主義の時代を招来し、国家が滅亡する「亡国」状況を迎えるまで、あとわずか7年しかなかった。

◆写真上:左手が薬王院墓地の塀、正面がバッケ(崖)階段で右手が伊藤痴遊邸跡。
◆写真中上は、1899年(明治22)2月開催の薩長政府に弾圧された「国会開設・自由民権」活動家たちの「出獄慰労会」記念写真。中上は、1938年(昭和13)に作成された「火保図」にみる伊藤痴遊邸。中下は、1914年(大正3)に撮影された伊藤痴遊。は、痴遊雑誌編輯所から刊行された1936年(昭和11)の「痴遊雑誌」9月号(左)と11月号(右)。
◆写真中下は、1936年(昭和11)に刊行された「痴遊雑誌」11月号の奥付。中上は、1936年(昭和11)の「痴遊雑誌」12月号に掲載された「話術倶楽部」3周年記念会の案内。中下は、晩年の伊藤痴遊(左)と講談師・悟道軒圓玉(右)。は、定期的にラジオにも出演して講演を行っていた伊藤痴遊で、写真はJOAK(現・NHK)ラジオのスタジオにて。
◆写真下は、大森眠歩が描く伊藤痴遊の臨終スケッチ。中上は、1938年(昭和13)9月26日に下落合の自邸で行われた伊藤痴遊の葬儀祭壇。中下は、外交官として伊藤痴遊の評価が高かった陸奥宗光の大磯別荘(聴漁荘)。は、ついでに大磯別荘街の西隣りにある大隈重信の別邸。

この記事へのコメント

  • てんてん

    (# ̄  ̄)σ・・・Nice‼です♪
    2025年09月14日 21:50
  • 落合道人

    てんてんさん、コメントをありがとうございます。
    長毛のネコのお世話は、いろいろとたいへんですね。
    2025年09月14日 23:19
  • pinkich

    papaさん いつも楽しみに拝見しております。以前よりブログの環境が格段に改善しましたね。以前のブログ環境では、いかがわしい広告がチョイチョイ出てきたりして、げんなりさせられることが多かったのですが、最近のブログ環境はそのようなこともなく、ストレスフリーです。最近、神田伯山さんが講談界を盛り上げているようです。昔は、落合地域周辺にも講談専用の寄席のようなものがあったのでしょうか。
    2025年09月19日 20:54
  • 落合道人

    pinkichさん、こちらにもコメントをありがとうございます。
    以前のSoーnet/ssブログでも、今度のSeesaaブログでも広告はすべてOFF設定
    にしていたのですが、それでも非登録者には広告が表示されていたんですね。
    設定や操作なども、慣れてきますと以前のブログシステムに比べて使いやすい
    ように思います。
    講談を演る寄席は、落合地域では聞いたことがありませんが、目白通りをはさみ
    長崎地域には、戦後すぐのころに「目白亭」という寄席があって、落語や講談、
    寸劇などを出していたようですね。
    https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2012-01-03.html?1758287181
    あとは、目白文化協会には講談師も参加していましたので、目白の徳川邸の講堂
    でも、講談会が開かれていたかもしれません。
    2025年09月19日 22:10

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