
東京郊外の風景を描くのが、画家たちの間で何度かブームになったことがある。そのようなブームとは無関係に、明治末から武蔵野の面影を追いつづけて描いていたのは織田一麿であり、父親と住んでいた下落合の周辺をスケッチしていたのが小島善太郎だった。独自の視点あるいは美意識で郊外がテーマというよりは、工事中・造成中など雑然とした開発地のキタナイ情景ばかりを選んで描いたのが、佐伯祐三の「下落合風景」シリーズだ。
大正期には、岸田劉生は東京市街地から静養のために代々木へと転居し、自宅付近の郊外風景を盛んに制作しはじめている。同様に草土社、のちには合流した春陽会の画家たちも、劉生にならって郊外風景に取り組みはじめている。雑司ヶ谷から長崎村荒井1801番地(現・目白5丁目)に住んだ河野通勢や、下落合2118番地(現・中井2丁目)に住んだ椿貞雄については、すでに作品とともにご紹介している。また、大正期には別荘地だった我孫子へ出かける画家も多く、春陽会では下落合の松下春雄や上戸塚の三岸好太郎についても記事にしていた。
また、大正期には大久保地域に画家が住むようになり、やはり「大久保風景」や「戸山ヶ原風景」などが数多く描かれている。これらの作品は、特になんらかの特別な思い入れや画家独自の強い思想を反映したものではなく、アトリエ周辺に拡がる郊外の自然豊かな美しい風景(武蔵野)を写していったもののように見える。古くは三宅克己や中村彝、小島善太郎らが大久保周辺や戸山ヶ原周辺などを繰り返し描いている。
昭和期に入って郊外風景が激増するのは、おそらく1930年協会の影響が強いからだろう。下落合661番地(現・中落合2丁目)の佐伯祐三はもちろんだが、上落合716番地(現・上落合2丁目)から長崎4095番地(現・南長崎2丁目)へ転居している林武などの影響も見逃せない。1927年(昭和2)から1930年(昭和5)にかけ、1930年協会展の入選作を参照すると、数多くの郊外風景を見いだすことができる。落選した応募作も含めれば、その数は膨大なものになるのだろう。大正期の流行とは、ケタちがいの郊外風景ブームだった様子がうかがえる。
さて、関東大震災が起きる2年ほど前、1920年(大正9)2月15日に制作された河野通勢の作品に『雑司ヶ谷風景』というのがある。(冒頭写真) 大震災の直後、1923年(大正12)には、長崎村新井1801番地へ転居しているけれど、それ以前の雑司ヶ谷の住所はいろいろ調べてみたが判然としない。ただし、『雑司ヶ谷風景』の画面表には添え書きとして、「東京雑司ヶ谷に住む河野通勢/彼が郷里長野市鍋屋田小学校職員諸氏との交誼の記念として 一九二〇、二月十五日」とあるので、母校の教職員たちが、雑司ヶ谷の自宅へわざわざ訪ねてきたのを記念して描いたものだろう。自身を客観視したちょっと奇妙な文章だが、母校から美術教師へ就任するようリクルートにでもきたものだろうか、訪問客がよほどうれしかったようだ。
河野通勢の雑司ヶ谷アトリエについて、その場所や風情はまったくわからないが、巣鴨(大塚)辻町から歩いて訪問している岸田劉生の文章が残されている。1978年(昭和53)に龍星閣から出版された『劉生絵日記』第1巻収録の、1922年(大正11)5月29日(晴)より引用してみよう。
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先日からの約束で河野のところへ行くことになり、辻町から歩いて河野のところへ行つたが、途中以前の野村君の家の近くに出たりした、河野の家に行くといつも余の代々木一一七時代の生活を思ひ出し、河野たち二人の心に愛を感じなつかしく思ふ。光子さんが、限られたお金の中でせつせつといろいろ心を用ひて客である余にもてなしてくれるのが、蓁がよく武者(小路実篤)や長與(善郎)たちをもてなした時代のことを思ひ出す。なつかしき時代よ。二人の上に幸福と平和を永遠に祈る。余が好きだといふのでおさしみと天ぷらを出してお酒を出してくれ大いにもてなしてくれるので、随分飲む、それでももつとのめのめと云つてとうとう三合近くのまされた(後略)
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雑司ヶ谷の風情を見て、岸田劉生は代々木時代の近辺の風景を思いだしたのだろう。「光子さん」とは、結婚していた河野通勢の連れ合いのことで、ふたりがかなりの貧乏暮らしにもかかわらず、劉生は遠慮会釈なく飲み食いしたあげく、「まるで酔つてしまつてゐてだめ」になり、結局、最後には酔いつぶれて雑司ヶ谷に泊めてもらっている。
『雑司ヶ谷風景』の画面を観察すると、かなり強めな陽光は画家の左手背後から射しており、左手が南または南東の方角だろう。2月の冬枯れ風景なので、この強い陽光は午前中からら昼ごろの情景だろうか。家々の建てられ方から見ても、画家の左手が南側と解釈しても不自然ではない。とすれば、2月のやや遅めに昇った太陽が南東側から射しこむ路地を描いたものだろうか。手前左下には、住宅街の間に残る畑地の畝らしい地面がとらえられており、正面に見える路地の奥はバッケ(崖地)状に切り立った高台が見えている。
その崖地の手前には、電柱の配置や境界柵の様子から丁字路、すなわち画面を左右に横切る道路が通っていそうだ。崖地の上には、枯れた樹木が並んで生えており、自然の雑木林か、あるいは建物を囲む屋敷林の可能性もありそうだ。雑司ヶ谷は起伏に富んだ地形をしており、谷間を流れる弦巻川(金川)の両岸には、なだらかな丘陵から崖地までが随所に見られる。
わたしは、下落合から歩いて雑司ヶ谷界隈の散策も好きだが、このような地形や風景で思いあたる箇所が何ヶ所かある。法明寺附近の斜面や崖地、雑司ヶ谷の稲荷社のある崖地、雑司ヶ谷墓地の周辺(特に南側)にある傾斜地、日本女子大の寮棟が建ち並ぶ丘上周辺の崖地などだ。この中で、わたしなりに雰囲気や地形的にもっともピッタリだと感じるのは、現在、日本女子大の寮棟が建ち並んでいる丘の、東側に接した道路沿いの崖地風景だ。
現在は、石材で擁壁が築かれているけれど、大学寮の東側にある路地から西を向き、やがて寮棟が建ち並ぶ丘上を眺めたら、このような風景になると思われる。また、正面に見えているバッケ(崖地)は、自然地形として形成されたものではなく、手前の道路を南北に通す際、切り崩されて崖状になったものかもしれない。モノクロ画面ではわからないが、正面の崖地は赤土が露出したままの状態であり、手前に柵が設けられ生垣が飢えられているところをみると、赤土の流出を防止し、また危険なので立入禁止にしていたものだろうか。
『雑司ヶ谷風景』の画面を観察すると、かなり強めな陽光は画家の左手背後から射しており、左手が南または南東の方角だろう。2月の冬枯れ風景なので、この強い陽光は午前中からら昼ごろの情景だろうか。家々の建てられ方から見ても、画家の左手が南側と解釈しても不自然ではない。とすれば、2月のやや遅めに昇った太陽が南東側から射しこむ路地を描いたものだろうか。手前左下には、住宅街の間に残る畑地の畝らしい地面がとらえられており、正面に見える路地の奥はバッケ(崖地)状に切り立った高台が見えている。
その崖地の手前には、電柱の配置や境界柵の様子から丁字路、すなわち画面を左右に横切る道路が通っていそうだ。崖地の上には、枯れた樹木が並んで生えており、自然の雑木林か、あるいは建物を囲む屋敷林の可能性もありそうだ。雑司ヶ谷は起伏に富んだ地形をしており、谷間を流れる弦巻川(金川)の両岸には、なだらかな丘陵から崖地までが随所に見られる。
わたしは、下落合から歩いて雑司ヶ谷界隈の散策も好きだが、このような地形や風景で思いあたる箇所が何ヶ所かある。法明寺附近の斜面や崖地、雑司ヶ谷の稲荷社のある崖地、雑司ヶ谷墓地の周辺(特に南側)にある傾斜地、日本女子大の寮棟が建ち並ぶ丘上周辺の崖地などだ。この中で、わたしなりに雰囲気や地形的にもっともピッタリだと感じるのは、現在、日本女子大の寮棟が建ち並んでいる丘の、東側に接した道路沿いの崖地風景だ。
現在は、石材で擁壁が築かれているけれど、大学寮の東側にある路地から西を向き、やがて寮棟が建ち並ぶ丘上を眺めたら、このような風景になると思われる。また、正面に見えているバッケ(崖地)は、自然地形として形成されたものではなく、手前の道路を南北に通す際、切り崩されて崖状になったものかもしれない。モノクロ画面ではわからないが、正面の崖地は赤土が露出したままの状態であり、手前に柵が設けられ生垣が飢えられているところをみると、赤土の流出を防止し、また危険なので立入禁止にしていたものだろうか。




ちなみに、正面の崖地がのちに日本女子大の寮棟敷地となる丘の一部だと仮定すれば、当時の丘上は武蔵野の典型的な雑木林のままで、今日のような寮棟はいまだ建設されていない。この雑木林の南側崖地(画面では左手)上には、現在は遷座先が曖昧なままとなっている、鉄滓(てっさい)=金糞・鐵液(かなぐそ:スラグ)が出土した金山稲荷社があったはずで、また江戸期には小鍛冶(刀鍛冶)の石堂一派が住みついた丘陵でもある。
『雑司ヶ谷風景』の上部には、「雑司ヶ谷に住む河野通勢」とあるので、彼の自宅を含めて描かれている可能性が高そうだ。画面には3軒の家がとらえられているが、画面の中でいちばん多くの面積を占めている左手の住宅だろうか。このあと、河野通勢は雑司ヶ谷から山手線をはさんで西側の、長崎村荒井(現・目白5丁目)へと転居している。そこへも岸田劉生は転居先の京都からわざわざ訪ねているが、河野通勢は近くの洛西館でたまたま映画を観ていて不在だったため、腹を立てた劉生は俥(じんりき)を飛ばしながら目白駅まで引き返している。
河野通勢が草土社を知り、岸田劉生の作品に出あったころの様子を、1980年(昭和55)に平凡社から出版された『名作挿画全集』第5巻収録の、足立巻一『本然の物語画家』より引用しよう。
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通勢はそういう時期(草土社結成の直後)の劉生に出会い、たちまち心服してその家をたずね、劉生に傾倒していた椿貞雄らを知る。そして翌五年(1916年)の第三回草土社展に素描数点を特別出品したのち描かれたのが、文展入選の『自画像』であった。/従って、『自画像』にはデューラーと劉生との影響が濃厚である。その細密描写だけでなく、画面にこもる宗教的な心情も妥協のない激しい性情も劉生と共通している。しかし、通勢には劉生の絵と明らかにちがうものがある。この山野に自生するブナ科の落葉高木の葉は日常目にふれる親愛なもので(中略) その葉の形状は変化があり、画面を引きしめる装飾的な役割を果たしている。そういうカシワを自画像に配したところ、後年に挿画画家として大成する資質がひそんでいないとはいえまい。(カッコ内引用者註)
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河野通勢の『自画像』は、1917年(大正6)に開催された第11回文展に入選している。
『雑司ヶ谷風景』の上部には、「雑司ヶ谷に住む河野通勢」とあるので、彼の自宅を含めて描かれている可能性が高そうだ。画面には3軒の家がとらえられているが、画面の中でいちばん多くの面積を占めている左手の住宅だろうか。このあと、河野通勢は雑司ヶ谷から山手線をはさんで西側の、長崎村荒井(現・目白5丁目)へと転居している。そこへも岸田劉生は転居先の京都からわざわざ訪ねているが、河野通勢は近くの洛西館でたまたま映画を観ていて不在だったため、腹を立てた劉生は俥(じんりき)を飛ばしながら目白駅まで引き返している。
河野通勢が草土社を知り、岸田劉生の作品に出あったころの様子を、1980年(昭和55)に平凡社から出版された『名作挿画全集』第5巻収録の、足立巻一『本然の物語画家』より引用しよう。
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通勢はそういう時期(草土社結成の直後)の劉生に出会い、たちまち心服してその家をたずね、劉生に傾倒していた椿貞雄らを知る。そして翌五年(1916年)の第三回草土社展に素描数点を特別出品したのち描かれたのが、文展入選の『自画像』であった。/従って、『自画像』にはデューラーと劉生との影響が濃厚である。その細密描写だけでなく、画面にこもる宗教的な心情も妥協のない激しい性情も劉生と共通している。しかし、通勢には劉生の絵と明らかにちがうものがある。この山野に自生するブナ科の落葉高木の葉は日常目にふれる親愛なもので(中略) その葉の形状は変化があり、画面を引きしめる装飾的な役割を果たしている。そういうカシワを自画像に配したところ、後年に挿画画家として大成する資質がひそんでいないとはいえまい。(カッコ内引用者註)
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河野通勢の『自画像』は、1917年(大正6)に開催された第11回文展に入選している。




岸田劉生を中心とした草土社つながりでいえば、河野通勢は関東大震災のあと下落合のすぐ北側、目白通りをはさんだ長崎村に転居してきたが、椿貞雄は下落合の丘陵西部の下落合2118番地に引っ越してきている。そこで描かれていたのは、やはり東京郊外の鄙びた風景だった。
◆写真上:雑司ヶ谷時代に制作された、1920年(大正9)の河野通勢『雑司ヶ谷風景』。
◆写真中上:上は、1914年(大正3)に制作された河野通勢『河柳の下で』。中上は、1918年(大正7)制作の同『自画像』。中下は、1919年(大正8)に制作された同『崖』。下は、『雑司ヶ谷風景』に似ている風景のひとつで正面が日本女子大の寮棟が建つ丘。
◆写真中下:上は、長崎時代の1924年(大正13)ごろ制作された『長崎村の風景』。いろいろな画家たちが描いた東京近郊の風景作品で、中上は、1917年(大正6)に制作された織田一磨『目白台からみた久世山』。中下は、1918年(大正7)に制作された硲伊之助『久世山』。久世山は音羽の谷間(護国寺通り)に落ちこむ手前、目白崖線つづきの小日向地域の西端にある崖状の山。下は、1917年(大正6)制作の横堀角次郎『切り開かれつつある地』。
◆写真下:上は、1915年(大正4)に制作された椿貞雄『赤土の山』。中上は、1916年(大正5)制作の椿貞雄『冬枯れの道』。2点ともに、岸田劉生が住んでいた代々木近くの風景だろう。中下は、1917年(大正6)に制作された河野通勢『自画像』。わずか1年後の『自画像』(1918年/上掲)とは、かなり雰囲気が異なっているのがわかる。下は、1941年(昭和16)に撮影された河野通勢。
◆写真中上:上は、1914年(大正3)に制作された河野通勢『河柳の下で』。中上は、1918年(大正7)制作の同『自画像』。中下は、1919年(大正8)に制作された同『崖』。下は、『雑司ヶ谷風景』に似ている風景のひとつで正面が日本女子大の寮棟が建つ丘。
◆写真中下:上は、長崎時代の1924年(大正13)ごろ制作された『長崎村の風景』。いろいろな画家たちが描いた東京近郊の風景作品で、中上は、1917年(大正6)に制作された織田一磨『目白台からみた久世山』。中下は、1918年(大正7)に制作された硲伊之助『久世山』。久世山は音羽の谷間(護国寺通り)に落ちこむ手前、目白崖線つづきの小日向地域の西端にある崖状の山。下は、1917年(大正6)制作の横堀角次郎『切り開かれつつある地』。
◆写真下:上は、1915年(大正4)に制作された椿貞雄『赤土の山』。中上は、1916年(大正5)制作の椿貞雄『冬枯れの道』。2点ともに、岸田劉生が住んでいた代々木近くの風景だろう。中下は、1917年(大正6)に制作された河野通勢『自画像』。わずか1年後の『自画像』(1918年/上掲)とは、かなり雰囲気が異なっているのがわかる。下は、1941年(昭和16)に撮影された河野通勢。
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