建築界の吉武東里と洋画との近しい関係。

吉武東里「聖徳記念絵画館葬場殿趾記念建造物競技設計図案」1918.jpg
 絵画と建築の各分野は、ときどき遠いようで近い、近いようで遠い関係といわれるようなのだが、吉武東里ほど洋画を積極的に描いた建築畑の人物はいなかったのではないだろうか。もちろん、洋画の大手団体やメジャーグループに属していたわけではないが、昭和期に入ると盛んにキャンパスへ向かっていた様子が見えてくる。これは、島津一郎アトリエを設計するなど、彼が住んでいた上落合(1丁目)470番地という地域性とも深く関連するテーマなのかもしれない。
 すなわち、明治末から現代まで短期の居住者や一時的な寄宿者も含めると、おそらく1,000人を超える和洋の画家や彫刻家、工芸家、図案家(グラフィックデザイナー)などの美術関係者たちが住んでいた、落合地域という特性と無関係ではないように思える。そのような環境で暮らしていた吉武東里は、親しかった島津源吉一家や子息の洋画家・島津一郎、長女の連れ合いである刑部人一家の邸宅兼アトリエを設計し(島津源吉邸大熊喜邦とのコラボ設計)、さらに刑部人を通じて金山平三とも接していた可能性も想定できるのだ。
 そんな角度から、吉武東里の周辺を調べていくと、いくつかの画会の存在が浮かびあがってくる。おそらく、洋画(油彩画)は設計の仕事のかたわら大正時代から手がけていたと思われるが、こちらでも制作年が不詳の作品画面を、1点だけだがご紹介している。その後、吉武東里は帝国議会議事堂(現・国会議事堂)の意匠設計や監督業務がひと段落した時期に、「七艸社」という画会を創立している。七艸社は、プロの画家や別に職業をもちながら制作しているセミプロの画家たち7人が集まって、1932年(昭和7)7月に結成された。
 1932年(昭和7)発行の「美術新論」8月号(美術新論社)より、同会の紹介記事を引用してみよう。
  
 七艸社/「七艸社」なる新洋画団体が組織された。【会員】丹羽秀雄、吉武東里、谷間一郎、藤原幹也、下重龍雄、鈴木壽雄、鈴木義男。(事務所)東京世田谷代田東大原一一四五 藤原守方。
  
 丹羽秀雄は、1923年(大正12)に1930年協会の母体ともいえる円鳥会が目白で結成された際、創立メンバーとして参加していた洋画家のひとりだ。鈴木壽雄は同じく洋画家だが、のちに絵本や書籍などの挿画・装丁家としても活躍する人物で、同じ姓の鈴木義男も洋画家だった。谷間一郎(谷僴一郎)の仕事は医師だが、美術雑誌などへ名前が頻繁に掲載されるほどの作品を描いていたようだ。官吏とみられる藤原幹也も、美術誌などに登場している。
 下重龍雄は、陸軍の主計局へつとめる軍人だったようだが、洋画を描くのが好きでもともとは美術学校を志望していたのではないか。住所が目白町2丁目1528番地と、雑司ヶ谷鬼子母神の南側で、博勇社牧場のすぐ東側に自宅があったことがわかる。「鬼子母神森の会」など画家たちの多い環境で、早い時期から洋画に興味をもっていたのではないだろうか。そして、当時は大蔵省の営繕管財局技師だった吉武東里が加わって、計7人で七艸社は構成されていた。七艸社がいつまで存続していたかは不明だが、おそらく日米戦がはじまる直前、多くの中小画会がそうであったように、1941年(昭和16)ごろには解散していたかもしれない。
 つづいて、吉武東里は出身校の同窓会的な画会へ参画し、作品を出展しているので、制作は戦時中も絶えることなくつづけられていた様子がうかがえる。1942年(昭和17)の秋に結成されたとみられる、「京光会」が制作活動のベースとなっていた。吉武東里の母校である、京都高等工芸学校(現・京都工芸繊維大学)の同窓生で、本格的な洋画制作をしているOBたちを集めて結成されたのが京光会だった。以下、銀座のギャラリーで開催された京光会の第1回展について、1942年(昭和17)に発行された「美術新報」11月号(日本美術新報社)から引用してみよう。
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 京光会一回展 京都高工出身の力作 /京都高工出の同窓生に依つて構成されてゐる「京光会」の第一回展が、十一月十七日から十九日迄銀座の菊屋ギヤラリーに於て開催される。同人中には時局下の北南支に活躍したり或は欧米に活動せし者もあり、頗る多彩である。同人の氏名は左の十一氏。/間部時雄、吉武東里、山六郎、千北研一、稲見晃、中谷善三郎、福田卯之吉、田中忠雄、松本為一郎、高橋健司郎、星一
  
 この展覧会については、翌月の「美術新報」12月号に展評が掲載されている。展評によれば、吉武東里が『夏』というタイトルの風景画を出品していたことがわかる。以下、同号の展評から。
  
 京光会展 /中谷善三郎氏の作品では『子供の風景』二点中(2)にやはらかい雰囲気が見られる。田中忠雄氏(水彩)の『寺塔秋色』に巧みさはあるが静かな落書きを見せてゐる。『高原の流れ』を推す。吉武東里氏の『夏』は重苦しい。蝉の声を感じさせる雰囲気がほしい。稲井晃氏の『秋の仙石原』は未だ生硬さが抜けないではゐるが空の色調に変化を見せてゐる。房州風景も面白いが漁村風景がよい。(以下略)
  
 上記の文章を見ると、画家の多くが東京(関東地方)に暮らしているようで、出品作には風景画が多かった様子がうかがえる。吉武東里が制作した『夏』も、「蝉の声を感じさせる雰囲気がほしい」と評されているので、まちがいなく風景作品なのだろう。しかも、描かれている風景モチーフは、戦時中なので自宅近くの落合地域だった可能性がある。
 さて、なぜ吉武東里が画業に邁進したのかといえば、先の落合地域における周囲の環境も挙げられるが、もうひとつ、京都高等工芸学校における図案科の教授だった、武田五一の教育方針や指導の影響も少なからずありそうだ。同校図案科には、武田のほか浅井忠や牧野克次、都鳥英喜ら教授陣もいたが、学校が京都にありながら日本の伝統的な意匠(建築分野を含む)からは切り離されたデザインを、あえて学生たちに教えていた影響が強いように感じる。吉武東里がデッサン、ひいては洋画に興味をもつようになったのは、武田の教授内容からではなかったか。
吉武東里「議事堂屋上から東京市街を望む」1936頃.jpg
吉武東里「議事堂屋上から東京市街を望む」1936頃(左).jpg
吉武東里「議事堂屋上から東京市街を望む」1936頃(右).jpg
帝国議会議事堂中央塔大広間1930頃.jpg
国会議事堂中央塔大広間.jpg
 武田五一は、ヨーロッパへの留学から帰国した直後に、京都高等工芸学校の図案科教授に就任している。したがって、建築内の装飾やインテリアなどの設計を中心に、その形状から細部の装飾にいたるまでアーツ&クラフツやマッキントッシュ、ウィーン分離派などの影響を色濃く受けた教示・指導をしている。武田のヨーロッパ留学の成果は、当時の教え子たちによって忠実に踏襲され、吉武東里にもダイレクトな影響を与えただろう。もちろん、武田は留学中に美術学校で学び、多くの美術館も訪れており、ロンドンを中心に当時のヨーロッパに横溢していた美術に関する最先端の潮流を、それほど時間をおかず学生たちに伝えていたことになる。
 武田五一がいた当時の様子を、1997年(平成9)に美術館連絡協議会から刊行された『美術館連絡協議会紀要3』収録の論文、土田真紀『武田五一と京都高等工芸学校』より引用してみよう。
  
 ところで、これらはあくまでも紙の上の図案であるが、果たしてそれらは紙の上から実現に移されることがあったのだろうか。吉武東里ほか、ごく一部の卒業生が建築界で活躍したことは知られているが、図案科の卒業生全般に関して彼らが関連した職業に就いたのかどうかについては未調査である。ただ一ついえることは、武田五一による図案教育は、京都の伝統的な工芸との関連をほとんど持っていないように見えるという点である。図案科以外に設置された染色科と機織科に関わる染織はじめ、陶磁器、漆工、金工など、高等工芸設立以前に想定されていた伝統的な分野とは異質なものが課題となっている。
  
 吉武東里は建築界に進んだけれど、他の学生はどうだったのかという点で、武田五一からの影響などから、画家の道へ踏みこんだ学生も少なからずいたのではないだろうか。すなわち、京都高等工芸学校のOBで結成した京光会に連なるネームを見れば、インテリアやプロダクツなどの図案家(デザイナー)で生涯を終えず、洋画家の道をめざした人物もいたことがわかる。少なくとも、間部時雄と田中忠雄のふたりは、ショルダーに洋画家とつけても不自然ではない存在だろう。
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 それは、フランスのリヨン国立美術大学(ナショナール・エコール・デボザール)の図案科を首席で卒業し、宮内省に属する服飾図案家(ファッション・デザイナー)として仕事をしていた笠原吉太郎が、途中から大きく方向転換をして下落合で洋画家になり、佐伯祐三の知己をえて1930年協会作品を出品するようになっていったのと、どこか共通する軌跡を感じる。吉武東里は、建築界から完全に離れてしまうことはなかったようだが、洋画作品をコンスタントに制作し発表していた経緯を見ると、どこかで笠原吉太郎と同じような生き方をしてみたかったのではないかと思えてくるのだ。吉武東里と笠原吉太郎は、関東大震災の前後に上落合と下落合で暮らしはじめている。

◆写真上:1918年(大正7)に描いた、「聖徳記念絵画館葬場殿趾記念建造物競技設計図案」(現・聖徳記念絵画館)。吉武東里が、いまだ麻布区龍土町67番地に住んでいたころコンペに応募したもので、結果は4等4席(賞金1,000円)だった。
◆写真中上は、1932年(昭和7)に「七艸社」の結成を伝える「美術新論」8月号。は、1942年(昭和17)に「京光会」の第1回展を伝える「美術新報」11月号。は、上落合(1丁目)470番地に転居してきてから描かれた吉武東里『落合風景(仮)』。
◆写真中下は、1936年(昭和11)ごろに描かれた吉武東里『議事堂屋上から東京市街を望む』。中上は、同画の左半面と右半面の拡大。中下は、昭和初期に吉武東里が描いた帝国議会議事堂の中央塔大広間のデザイン。は、実際の中央塔大広間の現状。
◆写真下は、1922年(大正11)に竣工した吉武東里と大熊喜邦のコラボ設計による下落合2095番地(現・中井2丁目)の島津源吉邸。は、1935年(昭和10)に中野区野方町2丁目1165番地に竣工した吉武東里の設計による松平親義邸。なお、松平親義は下落合1丁目505番地から野方町へ転居している。は、1931年(昭和6)に竣工した吉武設計による下落合2096番地の刑部人邸+アトリエ。

この記事へのコメント

  • てんてん

    (# ̄  ̄)σ・・・Nice‼です♪
    2025年09月05日 23:12
  • 落合道人

    てんてんさん、コメントをありがとうございます。
    オオシロカラカサタケは、わたしもこの夏に海の近くで見かけました。
    2025年09月05日 23:30

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