続・『女を忘れろ』にとらえられた近衛町1958年。

下落合三丁目駐在所1980年代.jpg
 少し前、関東大震災直後の1924年(大正13)に目白文化村で撮影された『街(ちまた)の子』(東京シネマ商会)をご紹介していたが、戦後の1959年1月に公開された『女を忘れろ』(日活)も、戦災をまぬがれた近衛町(このえまち)と周辺の住宅街を記録していて貴重だ。
 もし、戦前に近衛町で撮影された映画やドキュメンタリー映像があったとすれば、目白文化村と同様におよそ日本の街角には見えない、西洋館群が建ち並んだ大正モダニズムのハイカラな街並みが映っているだろう。むしろ、目白文化村よりも1軒あたりの敷地面積が広大な屋敷街が、近衛町には形成されていたはずだ。『女を忘れろ』は、空襲からもかろうじて焼け残った家々も映してはいるが、戦前の面影が少しずつ薄れはじめている街並みだろう。下落合(現・中落合/中井含む)の中・西部で、工事中や造成中の風景を数多く描いた佐伯祐三が、『下落合風景』シリーズのモチーフには決して選びそうもない情景や街並みが拡がっていた。
 今回も、『女を忘れろ』の中に登場している、近衛町とその周辺に隣接して建てられていた建築群を、前回ご紹介しきれなかった住宅も含めてさらに細かく見ていこう。まず、林泉園の谷戸つづきの渓谷が、1954年(昭和29)ごろから地下鉄・丸ノ内線工事の土砂で埋め立てられ、古河電工の社宅やテニスコートが建設されはじめたころ、1958年(昭和33)の晩秋から冬にかけて同作品は撮影されている。は、埋め立てられた林泉園つづきの谷戸をとらえた風景だ。ダラダラと下る坂道の下、コンクリートとトタンの塀が設置された部分が、谷底を湧水が流れ下流の弁天池へと注ぐ深い谷間のあったあたりだ。この渓谷は、ほぼ絶壁のように切り立って深く、近衛町と御留山に建っていた相馬孟胤の大きな屋敷との境界になっていた。
 の奥に見えているのは、松永安左衛門邸と東邦電力の役員邸跡に建つNHK目白寮だ。右手の大谷石が築かれた邸がY.W.Shriro邸、奥の生け垣や屋敷林の繁っているのがSeal邸で、2軒とも大きな西洋館だった。(ただし、Y.W.Shriro邸の母家は西洋館だが小さな離れは和館だったようだ) Seal邸の西側の路地を右折すると、林泉園沿いに現在の中村彝アトリエ(当時は鈴木誠アトリエ)の前に出ることができる。また、坂道の左手に見えている階段付きの盛りあがった敷地は、戦災から焼け残り前回もご紹介している大きな西洋館が建っていた田村邸だ。現在は敷地の盛り土がすべて取り払われ、車庫付きの住宅群が建っている。
 つづいては、同じ道をやや東へ移動した情景で、小林旭の背後には「Y.W.Shriro」の表札が見えており、同邸の南東側に建っていた離れの和館がとらえられている。茶室でもあったのか、小さな日本庭園には燈籠も見える。Y.W.Shriro邸の向こう側(西隣り)がSeal邸で、背後のビルはNHK目白寮だ。は、同じ道筋であるの対面(南側)が映っており、左手前の竹垣が堀江邸、南へと左折する道路をはさんだ生垣が瀬戸邸、さらにその向こう側(西隣り)のクルマの屋根上に見えている屋敷林が、先述の盛りあがった敷地の田村邸という並びだ。画面の右手奥には、やはりNHK目白寮が見えているが、左側の電柱が建つ道を左折すると、藤田邸安井曾太郎アトリエなどがある一画へと出られる。藤田様や酒井様の邸へお邪魔をした際、わたしには馴染みの界隈だ。
林泉園谷戸埋立地①.jpg
林泉園谷戸埋立地現状.jpg
Shriro邸+NHK目白寮②.jpg
瀬戸邸+堀江邸③.jpg
 は、建設工事中の大比良邸(映画ではアパート「楓荘」)から、南西を向いて撮影されたシーンだ。小林旭の背後には、先ほどの瀬戸邸の母家と、左側(南隣り)の三洋海事KKが入る西洋館の急傾斜の三角屋根が見えている。つづいては、同じ家並みを映したもので、ハーフティンバーの切妻をもつ屋根が三洋海事KK(のち佐々木邸)で、その左側(南隣り)が1923年(大正12)に建設された藤田孝様の和洋折衷館の屋根だ。藤田邸は、近衛篤麿邸のちょうど寝室あたりに建っており、同邸の奥(西隣り)が安井曾太郎アトリエという位置関係になる。
 材木による足場が組まれ、映画では工事中の設定だった大比良邸(アパート「楓荘」)がのシーンだ。当時の住宅明細図では、建物全体が大比良邸と採取されているけれど、一部の部屋ではアパート経営もしていたのだろうか。大比良邸は、ほとんど完成しているように見えるが、あえて建設中の雰囲気を出すためか、安部徹の背後に見えている窓には「硝子」「ガラス」の文字が大きく入れられている。ちなみに同作での安部徹は、気の毒なことに悪徳不動産屋という、またまた悪役をふられていた。アパートの奥(西隣り)、大谷石の築垣が見えているのは南邸(のち増田邸)で、そのさらに奥(西隣り)の築垣がY.W.Shriro邸(のちIrwin邸)という位置関係だ。
 次には、同じ道を反対の東側に向いて撮影している。右手前の竹垣は堀江邸、奥のコンクリート塀が岡田邸、正面を左右(南北)に近衛町通りが走っている。その通りの向こう側に見えている、右へカーブする坂道が山手線の線路際まで下りられる近衛町1号敷地の道筋だ。タクシーの背後には、近衛町交番(1923年ごろの設置で当初は丸山派出所→1932年より下落合一丁目駐在所→1971年より下落合三丁目駐在所)が隠れている。道路の左手は、生垣の家が二宮邸(一時期は木村邸?)、奥のコンクリート塀が松岡邸で、左手前の下に建設工事の機材が見えているが、映画では建設工事中の設定となっているアパート「楓荘」(大比良邸)だ。
 二宮邸と大比良邸の間の路地を左折すると、夏目利政アトリエがあった丁字路にぶつかり、それを右折すると近衛町通りへ出ることができる。また、丁字路を左折すると林泉園沿いの北側一帯の住宅街や下落合東公園のほうへと抜けられ、GHQによる占領下では皇太子(のち平成天皇)の家庭教師だったエリザベス・ヴァイニング夫人邸(三木邸)へとたどり着く。その三木邸をとらえたのが、のシーンだ。病院として設定されたNHK目白寮の屋上から、北北東を向いて撮影されており、南田洋子の背後に白いコンクリート造りで2階建ての西洋館・三木邸(旧・桂井邸で1951年まではGHQに接収されE.ヴァイニング邸)が見えている。わたしは学生時代、近衛町から同邸の前を何度となく歩いては下宿にもどっていたけれど、ちょっと怖い屋敷だったので強く印象に残っている。
瀬戸邸+三洋海事KK④.jpg
三洋海事KK+藤田邸⑤.jpg
大比良邸⑥.jpg
木村邸+堀江・岡田邸⑦.jpg
三木邸(旧ヴァイニング夫人邸)⑧.jpg
ヴァイニング夫人と皇太子.jpg
 は、1958年(昭和33)現在では近衛町通りの下落合一丁目駐在所(旧・丸山巡査派出所でのちに下落合三丁目駐在所)を南側から映したシーンで、映画ロケを見物する巡査の顔までがとらえられている。この駐在所は、ちょうど下落合で近衛町が開発されていた時期、地元の住民たちが1923年(大正12)ごろに豊多摩郡の淀橋警察署へ依頼して勧請した、丸山巡査派出所がのちの戦後まで継承されてきたものだ。その経緯を、1987年(昭和62)に新宿区教育委員会から出版された『地図で見る新宿区の移り変わり/索引編』に収録の、二宮義郎『「下落合三丁目駐在所」(旧下落合一丁目派出所)由来』から引用してみよう。筆者は近衛町の開発前、1920年(大正9)の暮れか1921年(大正10)の早い時期に、青山地域から下落合(1丁目)422番地(上記の生け垣がある邸)へ転居してきている。
  
 私が満1歳前後、住所も東京府豊多摩郡落合村大字下落合の頃である。私の家の南側は草ぼうぼうの原っぱで、狸が居るとか、古井戸があるから行ってはいけないと言われた事を憶えている。その草原の辺り一帯は近衛公爵の御所有であったのを分譲された頃で、通称近衛町と呼ばれ、郵便物の住所も近衛町入口と書いたのが配達され、時には入口を八〇と読まれるので番地の如く近衛町80で来た事もあった。当時はこの辺に何軒位御家があったのか1歳の子供では知る由もない。そうしたある時有志の方々が淀橋警察署(現在の戸塚署)に交番を置いて欲しいと御願いしたが「あの辺は泥棒なんか入りません」と断られ、仕方なくその方々が笹間さんから土地を頒けて頂き建物も建て、再度淀橋署に懇請、やっと「お巡りさん」が来てくれたと子供の頃聞かされた。斯くして「淀橋警察署戸塚分室丸山巡査派出所」が誕生した。恐らく関東大震災前後の事である。
  
 「草ぼうぼう」の空き地は近衛篤麿邸の跡地で、東京土地住宅三宅勘一が同窓生だった近衛文麿とともに、近衛町の開発に乗りだしていたころの風景だ。三間道路をはさんだ二宮邸の南側は、ちょうど近衛篤麿邸の母家が建っていた場所に当たり、転居したころは自邸前の原っぱと、それを取り囲む森林に覆われているような風情だったろう。また、住所が「落合村大字下落合」とあるが、その下には小字で「丸山」とふられていた。丸山派出所のネームは、この字名に由来している。ちなみに、いまでも下落合に「狸が居る」のは変わらない。
 その下落合一丁目駐在所の、山手線の線路際へと下る坂道をはさんだ南隣りには、のような住宅が建っていた。樹木の枝が刈りこまれた屋敷林をもつこの邸が、馬ばかり造って有名になった彫刻家・三井高義アトリエ(旧・島津良蔵アトリエ)の戦後再建の母家だ。奥に見えている建設中のビルのような鉄骨組みは、目白ゴルフガーデンの打ちっぱなしのゴルフ練習場。カメラマンの背後には、近衛篤麿邸の馬車廻し跡である双子のケヤキ(二本エノキ)があるのは前回の記事のとおりだ。
下落合一丁目駐在所⑨.jpg
丸山派出所1923頃.jpg
下落合三丁目駐在所.jpg
目白ゴルフガーデン+三井高義アトリエ⑩.jpg
三井高義アトリエ跡.jpg
 このように、近衛町の邸宅群を細かく観察していくと、二度にわたる山手大空襲で全焼した邸と、かろうじて焼け残った邸とがかなり入り組んで存在していた様子が見てとれる。そして、延焼・類焼するしないの境界線はなにかといえば、焼夷弾の直撃を受けた家は別としても、家々を囲む屋敷林(緑)の濃さにあったことが、戦後の1947年(昭和22)に米軍空中写真部隊本部(新宿伊勢丹)偵察機F13が爆撃効果測定用に撮影した写真からも、およそ読みとれるように感じるのだ。『女を忘れろ』に映る近衛町とその周辺の住宅街は、わたしが学生時代の登下校時に急坂を上り下りしながら観察していた同町の風景を思いださせてくれる、バブル経済以前の雰囲気が横溢している。

◆写真上:1980年代撮影の、下落合三丁目駐在所(旧・丸山派出所/下落合一丁目駐在所)。
◆写真中上は『女を忘れろ』の各シーンで、の下のカラー写真は同じ道筋の現状。
◆写真中下は同映画の各シーンで、の下は学習院のE.ヴァイニング夫人と皇太子。
◆写真下は同映画の各シーンで、の下は1923年(大正12)ごろに撮影された設置当初の丸山巡査派出所と下落合三丁目駐在所の現状。の下は、三井高義アトリエ跡の現状。
おまけ1
 1947年(昭和22)に、米軍が爆撃効果測定用に撮影した近衛町の全景。戦後まで焼け残っていた個々の住宅については、前回および上記の記事を参照されたい。
近衛町全景1947.jpg
おまけ2
 1990年代に米国公文書館で公開された、米軍の原爆関連資料をもとに制作された米国ドキュメンタリー番組のワンシーン。1945年(昭和20)の夏、原爆投下計画の予定都市は新潟、京都、広島、小倉、長崎の5都市に絞られ、通常の空襲が行われず「温存」されていた。たまたま爆撃当日の天候や、作戦上の偶然が重なり新潟、京都、小倉ではなく広島と長崎へ投下されている。特に小倉では、街がたまたま霧か煙に覆われており、原爆を積んだB29は弾倉を開けたまま投下予定コースを三度も往復したが、投下目標(小倉陸軍造兵廠)を視認することができず長崎へと向かっている。
原爆投下予定地194508.jpg

この記事へのコメント

  • てんてん

    (# ̄  ̄)σ・・・Nice‼です♪
    2025年08月24日 22:53
  • 落合道人

    てんてんさん、コメントをありがとうございます。
    アップルパンは食べたことがありますが、パインパンというのは
    めずらしいですね。食べてみたいです。
    2025年08月25日 09:56
  • ツジハラ

    はじめまして。
    大変興味深い内容で,いろいろと勉強させて頂きました(頂いております)。記事の内容の一部を使わせて頂きたく,連絡を差し上げたいのですが,コメント欄以外に連絡の方法を見つけることができませんでした。よくわからず,大変申し訳ございません。
    もし,可能でしたら,私のメールアドレス宛てにご連絡を頂戴できますと幸いでございます。お手数をお掛け致しますが,どうかよろしくお願い致します,
    2025年08月26日 09:53
  • 落合道人

    ツジハラさん、コメントをありがとうございます。
    記事の内容は、ブログ名とURLの出典元さえどこかに記載していただければ、
    ご自由に引用していただいてかまいません。よろしくお願いいたします。
    2025年08月26日 10:30
  • ツジハラ

    ご教示をありがとうございます。
    ブログ名とURLの出典元を書かせて頂きます。
    今後ともどうかよろしくお願い致します。
    2025年08月26日 11:39
  • 落合道人

    ツジハラさん、ごていねいにコメントをありがとうございます。
    相変わらずの拙記事ですが、ご笑覧ください。今後とも、よろしく
    お願いいたします。
    2025年08月26日 11:51

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