検挙から投獄まで挿画入りで記録した松本克平。

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 拙サイトでは、落合地域に関連した人々の思想や表現を抑圧する、多種多様な弾圧事件をご紹介してきた。中には、画家が直面した弾圧を描いた、久保一雄『3・15』(1933年)という作品も記事にしている。特高憲兵隊による弾圧は、当初は共産主義者や社会主義者、アナキストたちに向けられていたが、のちには軍国主義やファシズムに反対、または反戦を口にする民主主義者や自由主義者に対しても、容赦のない弾圧が加えられるようになっていく。
 その端緒となったのは、学術分野で政府の意に沿わない研究をつづける学者たちの排除や、政府あるいは軍部の意向に沿った報道をしないマスコミや出版社に圧力が加えられはじめる。関東大震災の直後、早大へ検事局の強制捜査が入り、政府の意向に沿わない教授陣の研究室が軒並み家宅捜索のうえ検挙されるのを見て、松本克平が早大校歌にある「学の独立(学問の自由)」とは、正反対のことが起きていると感じはじめたのは、この時期からのことだ。
 ちょうど現在、安倍政権以来の学術会議への政治介入がはじまり、政府・行政側が学問・研究の強制や人事権の掌握を目的とする、「日本学術会議解体法案」が国会に提出されようとしているが、早大や東大を中心に全国の学府で反対の声が高まっているのは、それが戦前のファシズムによる学問統制、ひいては学者の思想統制の焼き直しに見えるからだ。
 学術分野につづいて、公立の各種団体や民間団体を問わず、政府の方針や意向から外れた活動をしている組織(宗教団体含む)の摘発や弾圧、文学・絵画・彫刻・芸能などの芸術表現へのあからさまな介入、そして資本主義政治思想である民主主義や自由主義の“雰囲気”をまとう人物への攻撃、さらには市民が世間話で反戦・厭戦を口にしただけで、特高に検挙され起訴される日常を迎える。特に、一般個人への密告・弾圧・恫喝のケースは、相互監視組織である町会や「隣組」が果たした役割は大きく、決して忘れてはならない事蹟だろう。
 特高に検挙されると、どのような目に遭いどのような経緯をへて起訴され、投獄されることになるのか、どちらかといえば自由主義的な思想の持ち主の俳優・松本克平が、その様子を記憶画とともに詳細に書き残している。彼は劇作家になりたくて、たまたま劇場の入りや評判がよかった「日本プロレタリヤ劇場同盟(プロット)」と「左翼劇場」の合同主催による、1929年(昭和4)の夏期講習会に参加したのが、築地小劇場をはじめ新劇運動の真っただ中へ飛びこんでしまうきっかけとなった。したがって、運動の中心近くにいながら、その観察眼はどこか冷めていたものか、周囲の様子を比較的クールかつ客観的に眺めていたのがわかる。
 裏返せば、彼は「共産主義の闘士」ではなかったので、思想強固な共産党員から見れば単なる「シンパ」程度で、およそ「日和見主義者」のように扱われていたことは想像に難くない。1986年(昭和61)に弘隆社から出版された松本克平『八月に乾杯-松本克平新劇自伝-』では、マルクス主義を信奉する新劇仲間たちから、よく皮肉をいわれていた様子がうかがえる。だが、そんな共産主義者ではない自由主義的な演劇人でも、米英との対立が深まり太平洋戦争の直前になると、特高は罪状をデッチ上げて彼を容赦なく検挙・起訴し投獄している。
 松本克平が大森署に逮捕されたのは、1940年(昭和15)の暮れだった。警視庁の特高による検閲を受けた脚本で、同じく客席から特高によるゲネプロ(総稽古)の検閲を受けた合法芝居を上演していたにもかかわらず、「治安維持法違反」で突然逮捕されている。同時に捕まった新協劇団の仲間には村山知義をはじめ、久保栄滝沢修秋田雨雀久板栄二郎小沢栄太郎三島雅夫信欣三宇野重吉原泉、細川ちか子、赤木蘭子たちがいた。明らかにありもしない罪状を無理やりデッチ上げた逮捕であり、恫喝を含んだ見せしめ的な検挙だった。松本克平は、大森署から早稲田署、本郷駒込署へと検事の取り調べがしやすいようタライまわしにされている。
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 駒込署の留置所には、京大教授の河上肇の「ファン」だという会津出身の看守がいて、松本克平に河上の色紙を見せながら、いちばん南の陽当たりのいい監房へと移してくれた。松本克平は、ここから千田是也とともに東京地方裁判所検事局へと連れていかれ、東京拘置所(巣鴨刑務所)への移送が決定した。そして、拘置所への収監が決まると、その帰り道で連行する特高ふたりは「暫く娑婆ともお別れだな」と、虎ノ門の中華料理屋に入って松本と千田に料理をたかっている。東京拘置所の様子を、松本克平の『八月に乾杯-松本克平新劇自伝-』より引用してみよう。
  
 拘置所で最初に連れ込まれたのは更衣室であった。着てきた衣類は全部剝ぎ取られて宅下げの袋に入れて青い獄衣に着替えさせられた。面白いことに褌まで青いので青鬼の褌を連想して千田と二人で笑った。(中略) 履き物はチビた藁草履であった。こうしていかにも罪人らしい惨めな姿にされて独房へ抛りこまれた。(中略) 私の襟番号は七一三番であった。
  
 特高の取り調べでもそうだが、この間、なにかというと看守から殴打されている。手錠をかけるタイミングが遅いといっては「大手錠室」で殴られ、動作が遅いといっては小突かれている。今日では考えられないことだが、罪状が決定していない被疑者にもかかわらず、特高の取り調べから拘置まで常に暴力が行使され、その過程で殺された人物は少なくない。
 大手錠室というのは、裁判所へ向かう際に被疑者へ毎日手錠をはめる専用室のことで、約100mもある壁には数千個の手錠がぶらさがっていた。この部屋で、検事局の取り調べへと向かう収監者約2,000人に、30~40分で手錠をかけなければならないので看守たちも殺気立っていた。
  
 掛ける専門の係りの看守は、一挙動で被告の手首にパチンと手際よく手錠をかける。かけられる我々の方は、その看守の一挙動の動作に呼吸を合わせて両手首を揃えてうまく掛けられてやらないと、テンポが乱れるので手錠で編笠の上からゴツンと頭をなぐられる。
  
 東京拘置所(巣鴨刑務所)には、常時2,000人ほどの収監者がいたというが、当時は刑事犯ばかりでなく「思想犯」の数もかなり多かったのではないかとみられる。
 独房は3畳敷きの広さで、奥の1畳は板敷きでドアに近い手前が2畳の畳敷きだった。畳の上には、かけ布団と敷き蒲団が三つ折りで用意されていたが、膝から下が丸出しになってしまう短い布団だった。もちろん、拘置所には冷暖房などないので、真冬でもこの布団で寝なければならない。
  
 窓を右手に壁に向かって腰掛けと机が固定されていた。机板を揚げると洗面台があり、水道をひねると洗顔が出来た。腰掛けの板の下は水洗トイレであった。三畳の天井の中央から薄暗い裸電球がブラ下がっていた。窓枠は頑丈な鉄で、厚い窓ガラスには鉄網が入っていて、三センチ位窓はあくが空気が流通するだけで、外界を眺めることはできない。
  
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 風呂は、5日に一度で「蒸気風呂」だった。ひとりに割り当てられる入浴時間は、わずか約1~2分で、浴槽は熱くて入れなかった。松本克平は、浴槽につかったことは一度もなかったと書いているが、1~2分では身体と頭さえ満足に洗えず、すぐに入浴終了だったろう。湯を熱湯にして浴槽に入れなくしたのは、入浴時間の短縮化と思想犯への嫌がらせを兼ねていたのではないか。
  
 一人用の蒸気風呂が十室以上並んでいたが、いつも熱湯で入れたものではなかった。水をうめて桶で二、三杯かぶり石鹸を塗って手でこすろうとすると、もう看守は「早く出ろ」と扉を叩いた。この間僅か一、二分。まるで入浴競争であった。
  
 看守は、700~800人の未決囚を2時間で入浴させるよう指示されていたので、ひとりの入浴時間が極端に短かった。松本克平の独房近くに、宮本顕治と西沢隆二が収監されていて、入浴に関して看守部長に抗議をしていたようだが、改善されることはなかった。
 拘置所にいると情報が遮断され、社会情勢がわからなくなるので、所内では禁止されていない経済雑誌を取りよせて読むのが“常識”だったらしい。松本克平もこれにならい、『エコノミスト』と『東洋経済』2冊の差し入れを依頼している。もちろん、『東洋経済』(東洋経済新報社)は自由主義者の石橋湛山が主幹をつとめる経済誌であり、拘置所では検閲を怠るというミスを犯している。
  
 おかしかったのは禁止の日独伊軍事同盟締結の状況が掲載されている『東洋経済』が間違って入った時である。(同誌では同盟を三幕芝居になぞらえて揶揄した)/だが、ファッショ二国と軍事同盟を、共産主義のソ連と同時に不可侵条約を結び、それを日本外交の大勝利だと宣伝している日本外交の主体性のなさを読んで、私はいよいよ戦争だなと思った。(カッコ内引用者註)
  
 『東洋経済』差し入れの翌日、拘置所側はあわてて同誌を回収している。そのほか、松本克平はトルストイの著作がすべて禁止されていたのが印象に残っている。
 ある日、連れ合いが赤ん坊を背負って面会にきた。面会時間はわずか10分間と限定されていたが、いつもとちがう周囲の様子に、彼が「今防空演習をやっているのか」と訊くと、「何を言っているのよ。あんた戦争が始まっているのよ」といわれて驚いた。裁判所の予審は、1941年(昭和16)12月中旬までつづき、彼は日米戦がはじまったのを1週間も知らなかったのだ。
 結局、松本克平は起訴されて懲役2年(執行猶予5年)の判決を受けている。保釈金50円を払い拘置所から出た12月26日、すでに逮捕から1年の月日が流れていた。彼を迎えにきたのは妻とともに、自分を逮捕して中華料理をたかったあの執拗な特高刑事だった。松本克平は、保釈ともに「廃業届」を強制的に提出させられ、舞台ばかりでなく映画出演の道も閉ざされてしまった。検挙の恫喝を繰り返しながら、新協劇団の「解散届」を無理やり出させた、以前のやり口とまったく同様だった。したがって、役所には「自主的」に解散・廃業した記録しか残らないことになる。
松本克平「八月に乾杯」1986弘隆社.jpg 松本克平「新劇の山脈」1991朝日書林.jpg
久保一雄「3・15」1933.jpg
 1978年(昭和53)に、豊島区西巣鴨1丁目(現・東池袋3丁目)の東京拘置所(巣鴨刑務所)跡地にサンシャイン劇場がオープンすると、皮肉なことに松本克平は俳優座の芝居で頻繁に出演することになった。「サンシャイン劇場へ行く度に私はうたた荒涼たる感じを禁じ得ない」と書いている。

◆写真上:新協劇団グループの裁判の様子で、被告席は右から左へ染谷格(雑誌「テアトロ」編集長)、松本克平、松尾哲次、中村栄二、滝沢修、久板栄二郎、久保栄、村山知義。
◆写真中上は、青い獄衣に着がえさせられ氏名ではなく番号をふられる更衣室。は、拘置所にいる約2,000名の未決囚に30~40分で手錠をかける大手錠室。
◆写真中下は、三角の編み笠をかぶり手錠をロープでつながれて予審に向かう東京拘置所の被告たち。は、10分間しか話せない面会に妻子が逢いにきたときの様子。
◆写真下上左は、1986年(昭和61)に出版された松本克平『八月に乾杯-松本克平新劇自伝-』(弘隆社)。上右は、自伝につづき死去する4年前の1991年(平成3)に出版された松本克平『新劇の山脈』(朝日書林)。は、1933年(昭和8)に奈良刑務所の囚人運動場を描いた久保一雄『3・15』。
おまけ
 ともに戦前の新劇の舞台出身で、戦後まもない映画作品ではなぜか刑事役が多かった加藤嘉(右)と松本克平(左)。1959年(昭和34)5月に公開された『漂流死体』(監督・関川秀雄/東映)より。下の写真も、同作の松本克平(右)と花沢徳衛(左)。
加藤嘉+松本克平.jpg
花沢徳衛+松本克平.jpg

この記事へのコメント

  • てんてん

    (# ̄  ̄)σ・・・Nice‼です♪
    2025年09月29日 20:13
  • 落合道人

    てんてんさん、コメントをありがとうございます。
    わたしも昨日は寺へ出かけたのですが、めあては境内にある
    ニホンオオカミの三峰社でした。
    2025年09月29日 21:11
  • pinkich

    papaさん いつも楽しみに拝見しております。新首相は幼年期に教育勅語を両親から叩きこまれたとか。戦前の日本を美化するのは危険ですね。ヤフオクで鈴木良三のおそらく落合風景の油彩画が出品されています。水道塔が印象的です。落合地域にまだ田園風景が
    広がっていた時代ですね。
    2025年10月29日 20:31
  • 落合道人

    pinkichさん、こちらにもコメントをありがとうございます。
    タカイチ氏は、時代錯誤もはなはだしい。顔を見るのもイヤですね。
    ヤフオクの鈴木良三「風景」、1936年(昭和11)制作ということですので、
    野方配水塔の向きからいいますと、現在の西落合4丁目あたりから西を
    向いて描いてますね。鈴木良三は、確か江古田に住んだこともあったか
    と思いますので、東長崎駅で下り西落合まで写生にやってきたもので
    しょうか。1936年というと、ちょうど鈴木良三の発表舞台である一水会
    が結成された年でもありますね。
    2025年10月29日 21:41

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