特高に捕まりながら警察官役が多かった松本克平。

松本克平193609「どん底」男爵.jpg
 松本克平は、舞台では警察官の役が多くてクサっていた。1929年(昭和4)に「日本プロレタリヤ劇場同盟(プロット)」と「左翼劇場」の合同主催で、夏期講習会に参加したのが、俳優になるきっかけとなった。講習会は、上落合186番地にあった村山知義「三角アトリエ」で行われ、30人ほどが参加して10日間ほどつづいた。当時、松本克平は早大の学生だった。
 関東大震災後、1924年(大正13)の早大の様子を、1982年(昭和57)に信濃毎日新聞社から出版された『来し方の記』第4巻に収録の、松本克平『新劇に打ち込んで50年』から引用してみよう。
  
 私が早稲田の第一高等学院に入学した直後の五月、早大軍事研究団事件が勃発した。(中略) さらに右派は大山郁夫、佐野学、猪俣津南雄らの進歩的助教授の追放を策したが、これは成功しなかった。そこへ追い討ちをかけるように、東京地方裁判所検事局がこれら助教授連の研究室の強制捜査を執行(中略) 十数台の自動車に分乗した検事らが、警察の私服に守られて恩賜館の研究室に乗り込む殺気立った光景を、私は偶然に目撃したのである。これは早大の反軍国主義的攻勢に対する政府の報復であった。信州からポッと出の私には何が何だか分からなかったが、それが早稲田の校歌に歌われている「学の独立」を踏みにじるものであることぐらいは分かった。
  
 松本克平は、もともと劇作家志望で文学部をめざす予定だったが、マルクス主義の「マ」の字も知らないうちに上記の夏期講習会に参加し、つづいて左翼劇場の研究生となって俳優もこなすようになった。初めての役は、トレチャコフ原作の『吼えろ支那』に登場する水兵役だった。松本中学時代に肺結核になり、「青白いインテリ」風の虚弱な容貌をしてたことから、警察官や貴族、ブルジョアなど「体制」側の役が多くあてがわれていた。初めてのまともな役は、佐野碩の演出による『西部戦線異状なし』(1931年)の学徒兵ミレイル役だった。このとき、佐野碩から劇作家などよして性格俳優になれと奨められたのが、役者人生のはじまりだった。
 こうして、いつか散歩の途中で出会った北林谷栄とともに、「生きる演劇史」と呼ばれそうな俳優・松本克平(かっぺい)が誕生した。いや、その後の著作活動を考慮すれば、俳優というよりも新劇史家、あるいは新劇史の学者と呼んだほうがふさわしいのかもしれない。『西部戦線異状なし』の前年には、村山知義の『全線(暴力団記)』や小林多喜二の『不在地主』にも出演しているが、セリフのあるまともな役はミレイル役が最初だった。だが、左翼劇場の研究生でありながら、本人の言葉でいえば「マルクス主義は僕はだめだったんですよ」。
 1931年(昭和6)になると、演劇界に対する特高の弾圧が強まり、幹部や主要な俳優が次々と検挙されるようになった。左翼劇場の研究生で、どちらかといえば芸術派の芝居に共感をおぼえていた松本克平も、幹部たちが逮捕されていなくなったので、末端の役者だったはずの彼が、イヤでも中心的な役割へと押しあげられるようになっていく。彼にも、「プロット東京支部組織部長」などという肩書がつき、執行委員になってしまった。また、当時は左翼的な舞台には観客がよく集まり、先述の『暴力団記』や初の水兵役で出演したトレチャコフの『吼えろ支那』、徳永直『太陽のない街』杉本良吉の『風の街』など、上演される芝居が次々とヒットを記録していた。
 1931年(昭和6)の大晦日から翌1932年(昭和7)の1月にかけ、左翼劇場は築地小劇場での長期公演を行っている。久保栄をはじめ、村山知義伊藤信吉、島公靖、山田一などが演出を担当したが、全18景のうち5景が特高の検閲で上演禁止となり、最終的には13景が上演されている。このころから、左翼劇場の俳優や劇団員が頻繁に繰り返し逮捕されるようになっていく。同年の4月、特高に囲まれた築地小劇場から、『志村夏江』を演出していた杉本良吉はかろうじて逃亡しているが、同月に村山知義は検挙され、翌1933年(昭和8)の12月にようやく保釈された。この間、潜行していた小林多喜二特高に捕まり築地警察署で虐殺されている。
松本克平「吼えろ支那」水兵192909.jpg
吼えろ支那公演プログラム1929.jpg 吼えろ支那パンフ.jpg
西部戦線異状なし193103市村座.jpg
脚本検閲願書式「全線」1929(暴力団記).jpg
 1934年(昭和9)になると、村山知義は「新潮」5月号に『新劇の危機』を発表し、つづいて「改造」9月号には『新劇団の大同団結の提唱』を発表した。つまり、芸術派の劇団や左翼劇場などの新劇系統を問わず、「切符を売って興行的に成立する経営」をめざし、「社会の進歩につれて進む発展的リアリズム」の表現を掲げた芝居を志向する、新たな劇団の結成を呼びかけた。これをもとに結成されたのが新協劇団であり、第1回公演では脚色・村役知義/演出・久保栄で、島崎藤村の『夜明け前』(主演・滝沢修/赤木蘭子)が上演された。
 1940年(昭和15)に新協劇団が解散するまで、松本克平は特高に目をつけられ何度も検挙されている。ここは、1975年(昭和50)に番町書房から出版された三国一朗・編『昭和史探訪2(日中戦争)』より、松本克平自身の証言から引用してみよう。
  
 ぼくは、大森署です。管轄が大森で、それで、いつも大森署です。一年間はいっちゃった。大森から駒込署に回され、起訴されて、千田是也と巣鴨プリズンに送られました。ぼくは大森署とは縁が深いんです。昭和七年の大森の「銀行ギャング事件」、あれにも関係がありますし――。
  
 「銀行ギャング事件」とは、1932年(昭和7)10月に川崎第百銀行大森支店に武装して押し入った強盗事件(赤色ギャング事件)だが、このとき松本克平はプロット東京支部から派遣されて、「素人劇団の団員」というふれこみの人物たち(実は共産党の資金局活動家)に舞台のメイキャップ、すなわちヒゲのつけ方や顔のシワの描き方などを講師として教えていた。その「変装」に関する教授がスパイの密告で特高に知られ、強盗幇助罪で起訴すると脅されたのち、2ヶ月後には釈放されている。新聞の見出しには、「赤色ギャングの/変装係は俳優/左翼劇場の松本嘉治平検挙」などと大々的に書かれ、以降、特高からは「ヒゲの克平」と呼ばれるようになった。
松本克平「日本新劇史」1966筑摩書房.jpg 松本克平「八月に乾杯・松本克平新劇自伝」1986弘隆社.jpg
山川浦路イプセン「ヘッダ」帝劇.jpg
島村抱月告別式19181107.jpg
滝沢修「自画像」1920頃.jpg
 このころには早大も中退してしまい、結婚して大森に家をかまえ子どももいたが、1937年(昭和12)の新協劇団時代には特高の嫌がらせから、「挙動不審・住所不定」を理由に逮捕され、1年間の留置生活(連日が起訴留保なので拘置所での拘留ではなく、留置場での取り調べ=代用監獄)を送っている。つまり、「挙動不審・住所不定」なら24時間の検束・取り調べしかできないが、24時間後に釈放されたそばから、大森警察署内で「挙動不審・住所不定」を理由に逮捕されるというのを、365日にわたり繰り返された。留置場の看守が、「おまえ、家持って子どもがいる」のになんで「住所不定」で留置されるのかと、首を傾げて不思議な顔をしていたという。
 新協劇団が解散する1940年(昭和15)の弾圧では、上記のように千田是也とともに東京拘置所(巣鴨刑務所)で1年間拘束されている。太平洋戦争がはじまった1941年(昭和16)12月に保釈されたが、このとき宿痾の結核が悪化して重篤な状態だった。巣鴨刑務所に送られた時点で、技芸者証(東京府による俳優鑑札)は没収されたが、敗戦直前には健康もほぼ回復して、保護観察所から生産現場への「慰問劇」なら出演してもいいという許可が下り、新派の井上正夫を中心に結成された「井上演劇道場」とともに、茨城県の日立製作所へ慰問公演に出かけている。
 もともと、新派の俳優たちは新劇の俳優には好感を抱いておらず、井上道場でもいろいろな軋轢があったようだ。松本克平と三島雅夫が、「日本が負けるのもそう遠いことではない」と話していたのを聞きつけた新派の俳優たちから、強い反感をかったようだ。派遣先の日立製作所の工場は、すでに1945年(昭和20)6月10日にB29の大編隊による空襲を受け、635名の死者を出していた。井上道場が到着した同年7月17日夜半から翌18日の未明まで、今度は同工場が米英合同艦隊による艦砲射撃の標的になり、彼は九死に一生を得る経験をしている。
 敗戦後、松本克平はさまざまな舞台や映画、TVドラマなどで活躍しているが、膨大な資料を収集・参照して書いた新劇史に関する著作類などを通じて、俳優としてよりも研究者・学者としての側面が強まった感がある。特に『日本新劇史』(1966年)や『日本社会主義演劇史』(1975年)、『八月に乾杯/松本克平新劇自伝』(1986年)の3著は、明治から昭和にかけての新劇の歴史を学ぶには欠かせない、教科書的な存在といえるだろう。これらの書籍には、松本克平が劇団や演劇・俳優仲間から広く収集した、貴重な写真類や図版類が数多く掲載されているのも見逃せない。
松本勝平「警視庁物語」1956-64.jpg
松本克平砂の器1974.jpg
松本克平書斎1975.jpg
二人芝居「八月に乾杯!」村瀬幸子1981.jpg 
 戦後、なぜか松本克平には警察官の役が数多くまわってきている。たとえば、1956~1964年(昭和31~39)の9年間もつづいた東宝制作の『警視庁物語』シリーズでは捜査一課長を、また1974年(昭和49)の松竹が制作した『砂の器』では亀嵩警察署長を演じるなど、ことさら刑事や巡査の役が多かった。戦前の苦い経験がある松本克平は、映画やTVでも警察官の役が多くてクサっていた。

◆写真上:1936年(昭和11)9月に撮影された、ゴーリキー『どん底』の「男爵」役の松本克平。
◆写真中上は、1929年(昭和4)9月に水兵役で初舞台に立つ『吼えろ支那』の松本克平(印)。中上は、『吼えろ支那』と『阿片戦争』の劇場パンフレット。中下は、1931年(昭和6)3月に市村座で上演された『西部戦線異状なし』の記念写真。は、1929年(昭和4)に提出された『全線』の「脚本検閲願」書式の再現。すべての表現には特高による事前検閲が課されていたが、このときも『全線』というタイトルを『暴力団記』に変更させられている。
◆写真中下は、1966年(昭和41)に出版された松本克平『日本新劇史』(筑摩書房/)と、1986年(昭和61)に出版された同『八月に乾杯・松本克平新劇自伝』(弘隆社/)。特に、『日本新劇史』には貴重な写真や図版が多く掲載されている。中上は、帝劇でイプセンの『ヘッダ・ガーブレル』を演じる山川浦路中下は、島村抱月の棺に最後の別れを告げる自裁2ヶ月前の松井須磨子は、1920年(大正9)ごろに描かれた滝沢修『自画像』。
◆写真下は、1956~1964年(昭和31~39)の『警視庁物語』(東宝)では捜査一課長だった。中上は、1974年(昭和49)の『砂の器』(松竹)では亀嵩警察署の署長だった。中下は、1975年(昭和50)に撮影された書斎の松本克平。俳優というよりも、作家か学者・研究者の書斎のような風情だ。は、1981年(昭和56)撮影の村瀬幸子と取り組んだふたり芝居『八月に乾杯!』のスチール。
おまけ
 上の写真は、1939年(昭和14)に公開された尾崎士郎・原作の映画『空想部落』(南旺映画)のスチールで、左から殿山泰司、小沢栄太郎、松本克平、千田是也、信欣三、薄田研二。ほかに赤木蘭子、原泉、沢村貞子、三島雅夫らが出演していた。下の写真は、1966年(昭和41)に筑摩書房から刊行された『日本新劇史』の出版記念会。戦前からの新劇仲間や知己が多く集った会場写真で、左から中野重治、松本克平、中学時代の同級生・臼井吉見、村山知義。
南旺映画「空想部落」1939.jpg
「日本新劇史」出版記念パーティ1966.jpg

この記事へのコメント

  • てんてん

    (# ̄  ̄)σ・・・Nice‼です♪
    2025年08月27日 18:42
  • 落合道人

    てんてんさん、コメントをありがとうございます。
    「焼き飯」はチャーハンとはちがって、醤油の風味だったりするのが美味いんですよね。
    2025年08月27日 19:05
  • pinkich

    papaさん あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いします。年始早々、トランプ大統領がやってくれましたね。世界は破滅に向かっているようです。アメリカにとって台湾有事など極東の無関心、無関係でかかわりたくない問題なのでしょう。日本は敗戦から何を学んだのか、衆愚政治の行き着く先は何か、問われる一年になりそうです。
    2026年01月08日 21:37
  • 落合道人

    Pinkichさん、コメントをありがとうございます。こちらこそ、今年もよろしくお願いいたします。
    政治思想や政治理念などなく、米国が有利に儲かればいい、富が恒常的に米国株式会社へ還流すればいいとしか考えていない、政治家ではなく商売人でしかない大統領は、米国にあまりメリットのないアジアの動向など「圏外」だと思います。むしろ、中国とどのようにマーケットを分割すれば、あるいはSCMを再構築し最適化すれば米国が得をするかが、彼の頭の中では大きなテーマなのであって、そのためにはウクライナ戦争のケースと同様、太平洋側の「同盟国」を無視して、頭越しに中国との間で交渉をしかねません。
    米国のベネズエラやコロンビアの武力をともなう圧力は、明らかに南北アメリカ大陸ブロックの「宗主国」として君臨する米国の意思表示であり、グリーンランドやカナダ併合もそのスケジュールの一環ですね。ヨーロッパ・アフリカブロックはEUないしはロシアに、アジアブロックは中国にという、少し前に新自由主義とともに政治学・経済学で取りあげられていた、NWO(新世界秩序)による世界再編・再分割を、いちばん「儲かりそう」な手段で実践しているように見えます。中国にとっては、台湾併合の絶好のチャンスが訪れたことになりますね。
    2026年01月09日 10:40

この記事へのトラックバック