
子どものころ山やハイキング、キャンプに出かけると、親がときどき開いていたコンパクトな野草図鑑があった。1934~1935年(昭和9~10)にかけて三省堂から出版された、本田正次による『原色・春の野外植物』と『原色・夏の野外植物』の2冊だ。
春の図鑑は1939年(昭和14)の第11版と、夏の図鑑は1937年(昭和12)の第7版なので、おそらく親父は太平洋戦争がはじまる少し前、1940年(昭和15)ごろに買いそろえたものだろう。ちょうど府立中学生のころで、盛んに学校仲間と登山やハイキングを繰り返していたころと一致している。タテが9cmでヨコが15cmと、現代のスマホに近い大きさで荷物にならず、スマホよりも軽いポケットサイズの図鑑だ。戦前・戦中を通じて、関東の野山はかなり歩き(登り)つくしたのか、親父は戦後の学生時代になると北アルプスへ頻繁に出かけるようになった。
親たちが、この図鑑を手に子どものわたしを連れ歩いてくれたのは、神奈川県の海沿いの山々や武蔵野のハイキングに出かけるときだった。山道や田畑の畔などで野草の花を見かけると、精細なカラーイラストのページを開いては、わたしに見せてくれていたのを思いだす。わたしも、夏休みの子どもたちを山歩きに連れていくときなど、親をマネて『原色・夏の野外植物』をバッグに入れて歩いたが、子どもたちは山にいるヘビ(シマヘビ・ヤマカガシなど)や昆虫(トンボやセミ、バッタなど)に夢中で、ついぞ野の草花にはほとんど目が向かなかった。
武蔵野を歩いて、その植生を記録した洋画家に織田一磨がいる。織田一磨は、明治末の東京15区時代から、その外周域に拡がる武蔵野の風景や野草をスケッチしてまわっていたようで、1932年(昭和7)に東京35区時代を迎えると、さらに緑が豊富な区外をめぐり歩いては多くのスケッチを残している。彼が1917年(大正6)に描いた『落合風景』も、そんな「武蔵野風景」シリーズの1作だが、座右の図鑑として参照していたのが岡不崩の画集や著作類だった。織田一磨はそれにならい、1944年(昭和19)に洸林堂書房から出版された『武蔵野の記録』には、風景とともに武蔵野に自生していた草木についてのスケッチも残している。
1925年(大正14)に、蘭塔坂(二ノ坂)上の下落合1980番地に画室「楽只園」を建てて制作していた岡不崩(岡正壽)は、草木や風景を得意とする日本画家で、狩野芳崖の四天王といわれていたうちのひとりだ。岡不崩は、作品を描くかたわら明治後期から、植物に関する書籍を刊行しはじめている。アサガオ(牽牛花)の研究では、精細な写生入りで『牽牛花図譜』(1901年)や『あさかほ手引草』(共著/1902年)、『あさかほ錦之露』(共著/同年)、『朝顔図説と培養法』(1909年)など、ほとんど植物学者と見まごうほどの仕事を残している。
また、本草(薬草)に関する造詣も深く、1923年(大正12)には植物病理学者の白井幸太郎とともに「本草会」を設立し、翌年には団体の名称を「本草学会」と改め、当初は岡不崩の自宅を事務所に提供している。同学会には、牧野富太郎をはじめ多くの植物学者が参画しており、上落合467番地に住んでいた古代ハスの大賀一郎設立による「蓮の会」の発起人のひとりになるなど、より広範な植物学界の人々との交流が進んでいる。
ちょうど同時期には、関東大震災から復興をつづける東京各地の街並み風景をリアルタイムで記録した、今和次郎とともに「考現学」のさきがけともいえそうな、『帝都復興一覧』シリーズを連続で制作していたのは、かなり以前になるが記事にしている。



さて、昭和期に入ると岡不崩は、『万葉集』など古典文学に記載された植物について、それがどの樹木や草花に相当するのかを研究した著作を、次々に発表することになる。その経緯について、2017年(平成29)に求龍堂から出版された『狩野芳崖と四天王―近代日本画、もうひとつの水脈―』収録の、藏田愛子による論文『岡不崩による植物と個展の探求』から引用してみよう。
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「万葉集」に詠まれた植物は百数十種類と膨大で、しかも歌に詠まれた植物が現在の何という植物を指しているのかを特定するには「万葉集」やその他古典を渉猟し、語句の異同を注釈するなど、きわめて困難な作業が要求されたという。不崩は画業のかたわら三〇年余を費やして、時には家族の手伝いを得ながら、この万葉植物の研究に取り組んだ。『万葉集草木考』は「何百種類あるかはかり知れぬ集中の草木を、その代表歌により、或は古写本を以てその字句の異同を注し、あらゆる注釈を検討し更に本草学及詩経等に照し、文選、文集に引例し、殊にその実物に就いてはつぶさに培養を試み、最後に明快なる著者の意見を披露」したもので、充実した参考書目や索引を附した各巻七〇〇頁余に及ぶ大著となった。全一五巻にまとめるつもりであったようだが、不崩の逝去により四巻(全一八編)までの刊行となった。
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もはや日本画家というよりも、植物学者と呼ぶほうが近いような仕事をしているのがわかる。こうした研究の成果として刊行されたのが、建設社から出版された岡不崩『万葉集草木考』(1932~1937年)と、大岡山書店から出版された同『古典草木雑考』(1935年)だった。
上記の文中にもあるように、『万葉集草木考』は第1巻から第4巻までが刊行されたところで、第5巻を目前に岡不崩が死去してしまい、ついに全巻の刊行が果たせなかった。
織田一磨は、その無念な思いを『武蔵野の記録』(1944年)で吐露しているが、彼は岡不崩の仕事をまるで引き継ぐかのように、同書の中で「万葉集に詠まれた植物と武蔵野の雑草」という章を設け、『万葉集』(巻一~巻二十)や『古今和歌集』(正・続)などから50首近くの歌を選んで、それぞれの武蔵野における草木の写生とともに解説を加えている。
たとえば、織田一磨も著作に取りあげている、『万葉集』巻一の「紫草(むらさき)の匂ひる妹を悪くあらば人妻故に我恋ひめやも」について、織田の『武蔵野の記録』から引用してみよう。
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「万葉集」に詠まれた植物は百数十種類と膨大で、しかも歌に詠まれた植物が現在の何という植物を指しているのかを特定するには「万葉集」やその他古典を渉猟し、語句の異同を注釈するなど、きわめて困難な作業が要求されたという。不崩は画業のかたわら三〇年余を費やして、時には家族の手伝いを得ながら、この万葉植物の研究に取り組んだ。『万葉集草木考』は「何百種類あるかはかり知れぬ集中の草木を、その代表歌により、或は古写本を以てその字句の異同を注し、あらゆる注釈を検討し更に本草学及詩経等に照し、文選、文集に引例し、殊にその実物に就いてはつぶさに培養を試み、最後に明快なる著者の意見を披露」したもので、充実した参考書目や索引を附した各巻七〇〇頁余に及ぶ大著となった。全一五巻にまとめるつもりであったようだが、不崩の逝去により四巻(全一八編)までの刊行となった。
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もはや日本画家というよりも、植物学者と呼ぶほうが近いような仕事をしているのがわかる。こうした研究の成果として刊行されたのが、建設社から出版された岡不崩『万葉集草木考』(1932~1937年)と、大岡山書店から出版された同『古典草木雑考』(1935年)だった。
上記の文中にもあるように、『万葉集草木考』は第1巻から第4巻までが刊行されたところで、第5巻を目前に岡不崩が死去してしまい、ついに全巻の刊行が果たせなかった。
織田一磨は、その無念な思いを『武蔵野の記録』(1944年)で吐露しているが、彼は岡不崩の仕事をまるで引き継ぐかのように、同書の中で「万葉集に詠まれた植物と武蔵野の雑草」という章を設け、『万葉集』(巻一~巻二十)や『古今和歌集』(正・続)などから50首近くの歌を選んで、それぞれの武蔵野における草木の写生とともに解説を加えている。
たとえば、織田一磨も著作に取りあげている、『万葉集』巻一の「紫草(むらさき)の匂ひる妹を悪くあらば人妻故に我恋ひめやも」について、織田の『武蔵野の記録』から引用してみよう。



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武蔵野の専売の如く自他ともに許してゐたムラサキ草は、万葉集には武蔵野でなく他の地名が挙げられてゐる。さうして武蔵野の紫を詠んだ歌は一首も出てゐない。これは意外とするところであるが、どうも、万葉時代には未だ武蔵野の紫草は、それほど有名になつてゐなかつたので、有名になつたのは其後の話らしいと思ふ。<古今集 雑歌> 紫のひともとゆゑに武蔵野の草はみながらあはれとぞ見る/<後選集 雑歌> むさし野は袖ひづばかりわけしかど若紫はたづね侘びにき/<続古今集 雑歌> むさし野に生ふとしきけば紫の其色ならぬ草もむつまじ
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織田一磨は、武蔵野のムラサキは「それほど有名になってゐなかったのでは」としているが、『万葉集』はかなり古い時代の歌を集めたものであり、ヤマトが「倭国」と称していた時代(『新唐書』によれば天智天皇以前)の作品も多く含まれているので、ヤマト(倭国)が「日本国」と呼び東の「異種」と規定したエリア(『旧唐書』)に属する武蔵野が登場しないのは、むしろ“外国”なので当然ではなかったか。しかも、東の「日本国」からは陰に日に、さまざまな騒乱(「武蔵国造の乱」など)が聞こえてきており、“まつろわぬ”感が強く漂っていたのだろう。
岡不崩は、上古にみられる生活環境の草木が、現在のどの植物に相当するのかを調べるうちに、人々が定住する環境ばかりでなく、標高の高いところに植生する高山植物への興味も高めていく。毎夏に訪れていた、甲信越地方の山岳地帯に自生する高山植物を、次々と写生し記録していった。『八品考』とタイトルされたスケッチ帖は、全26巻(首巻・序・巻之1~23・補遺)にわたるという膨大なものになった。関東大震災の1923年(大正12)ごろからスタートし、1930年(昭和5)ごろまで精細に描かれた高山植物は、約200点ほどを数えている。
明治末から戦前にかけ、東京の郊外ハイキングやキャンプ、関東とその周辺域の山岳を登攀する人々が増えるにつれ、そこに自生する野草や棲息する昆虫・動物などに興味が深まるのは自然の流れだった。洋画の分野でも、吉田博をはじめ山岳風景を写生する画家が登場してくる。
武蔵野の専売の如く自他ともに許してゐたムラサキ草は、万葉集には武蔵野でなく他の地名が挙げられてゐる。さうして武蔵野の紫を詠んだ歌は一首も出てゐない。これは意外とするところであるが、どうも、万葉時代には未だ武蔵野の紫草は、それほど有名になつてゐなかつたので、有名になつたのは其後の話らしいと思ふ。<古今集 雑歌> 紫のひともとゆゑに武蔵野の草はみながらあはれとぞ見る/<後選集 雑歌> むさし野は袖ひづばかりわけしかど若紫はたづね侘びにき/<続古今集 雑歌> むさし野に生ふとしきけば紫の其色ならぬ草もむつまじ
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織田一磨は、武蔵野のムラサキは「それほど有名になってゐなかったのでは」としているが、『万葉集』はかなり古い時代の歌を集めたものであり、ヤマトが「倭国」と称していた時代(『新唐書』によれば天智天皇以前)の作品も多く含まれているので、ヤマト(倭国)が「日本国」と呼び東の「異種」と規定したエリア(『旧唐書』)に属する武蔵野が登場しないのは、むしろ“外国”なので当然ではなかったか。しかも、東の「日本国」からは陰に日に、さまざまな騒乱(「武蔵国造の乱」など)が聞こえてきており、“まつろわぬ”感が強く漂っていたのだろう。
岡不崩は、上古にみられる生活環境の草木が、現在のどの植物に相当するのかを調べるうちに、人々が定住する環境ばかりでなく、標高の高いところに植生する高山植物への興味も高めていく。毎夏に訪れていた、甲信越地方の山岳地帯に自生する高山植物を、次々と写生し記録していった。『八品考』とタイトルされたスケッチ帖は、全26巻(首巻・序・巻之1~23・補遺)にわたるという膨大なものになった。関東大震災の1923年(大正12)ごろからスタートし、1930年(昭和5)ごろまで精細に描かれた高山植物は、約200点ほどを数えている。
明治末から戦前にかけ、東京の郊外ハイキングやキャンプ、関東とその周辺域の山岳を登攀する人々が増えるにつれ、そこに自生する野草や棲息する昆虫・動物などに興味が深まるのは自然の流れだった。洋画の分野でも、吉田博をはじめ山岳風景を写生する画家が登場してくる。



織田一磨も、郊外散策を繰り返した画家のひとりだが、東京郊外の風景や野山の植物を写生するだけにとどまらず、そこに棲息する昆虫類にまで手をのばしている。『武蔵野の記録』では、「現代の武蔵野と昆虫の採集」および「武蔵野に於ける昆虫採集の追憶」と、明治から昭和初期までの同地域に棲息していた昆虫類の写生と、その採集方法まで詳しく解説する熱の入れようだった。
◆写真上:1932年(昭和7)7月13日に撮影された、蘭塔坂上の画室で制作する岡不崩。
◆写真中上:上は、『万葉集草木考』に収録されたムラサキ(紫草)。中は、同書に収録のササユリ。下は、下落合4丁目1980番地(現・中井2丁目)の岡不崩邸。
◆写真中下:上は、『万葉集草木考』へ作品を寄稿した近所の下落合4丁目1995番地(現・中井2丁目)に住む本多天城が描くミズネギ。中は、多種多様な野草が育てられていた1932年(昭和7)6月15日に撮影された岡不崩邸の庭。下は、岡不崩邸跡の現状(右手)。
◆写真下:上は、1932年(昭和7)に出版された岡不崩『万葉集草木考』(建設社)の第1巻(左)と著者の原稿(右)。中左は、1923年(大正12)ごろから制作がスタートした岡不崩『八品考』の序巻。中右は、同書収録のコケモモ(ハックルベリー)。下は、高山植物の写生で踏破した山々を描いたもの。
◆写真中上:上は、『万葉集草木考』に収録されたムラサキ(紫草)。中は、同書に収録のササユリ。下は、下落合4丁目1980番地(現・中井2丁目)の岡不崩邸。
◆写真中下:上は、『万葉集草木考』へ作品を寄稿した近所の下落合4丁目1995番地(現・中井2丁目)に住む本多天城が描くミズネギ。中は、多種多様な野草が育てられていた1932年(昭和7)6月15日に撮影された岡不崩邸の庭。下は、岡不崩邸跡の現状(右手)。
◆写真下:上は、1932年(昭和7)に出版された岡不崩『万葉集草木考』(建設社)の第1巻(左)と著者の原稿(右)。中左は、1923年(大正12)ごろから制作がスタートした岡不崩『八品考』の序巻。中右は、同書収録のコケモモ(ハックルベリー)。下は、高山植物の写生で踏破した山々を描いたもの。
この記事へのコメント
てんてん
落合道人
きょうはネコを獣医に連れていったらしく、撫でようとすると
ちょっとビクビクしています。